王おう導しるべ(276年ねん—339年ねん9月7號ごう),字じ茂弘しげひろ,琅邪臨沂(今いま山東さんとう省しょう臨沂縣けん)人にん,係かかり東あずま晉すすむ初年しょねん權臣けんしん,歷へ仕つかまつ晉すすむ元もと帝みかど、晉すすむ明あきら帝みかど同どう晉すすむ成なり帝みかど祖そ孫まご三さん代だい。
佢同堂どう兄けい王おう敦あつし同どう埋うめ佢嘅家族かぞく跟住晉すすむ元もと帝みかど南みなみ渡わたる,重じゅう積極せっきょく聯れん結ゆい南方なんぽう士族しぞく以支持しじ晉すすむ室しつ,又また團結だんけつ北方ほっぽう僑姓氏族しぞく,畀晉すすむ元もと帝みかど得とく以响南方なんぽう立足たつあし,並なみ且响西にし晉すすむ亡ほろび後ご,建立こんりゅう東あずま晉すすむ。後尾こうび王おう敦あつし發起ほっき叛亂はんらん,史し稱しょう王おう敦あつし之の亂みだれ,但ただし王おう導しるべ仍然支持しじ晉すすむ室しつ,直ちょく到いた亂らん事ごと平定へいてい,後身こうしん居きょ高だか位い,續ぞく獲え晉すすむ明あきら帝みかど、晉すすむ成なり帝みかど同どう埋うめ朝あさ中ちゅう大臣だいじん倚重,死後しご諡號しごう文獻ぶんけん,世人せじん叫さけべ佢做王おう文獻ぶんけん。