三さん秦はた,原はら指ゆび雍王章あきら邯、塞ふさが王おう司馬しば欣、翟王董ただし翳かげ三さん位い被かむ項羽こうう封ふう在ざい关中地区ちく为王的てき秦はた朝ちょう降くだ将はた,后きさき成なり为中国こく陕西省しょう的てき别称。
秦はた朝ちょう滅亡めつぼう之これ後ご,項羽こうう封ふう劉邦りゅうほう為ため漢かん王おう,統治とうち秦はた嶺みね以南いなん的てき漢かん中ちゅう,而另封ふう原はら秦はた朝あさ三位降將為王,統治とうち關せき中なか地區ちく,以遏制せい劉邦りゅうほう。其中封ふう章あきら邯為ため雍王,管轄かんかつ關せき中西部ちゅうせいぶ;封ふう司馬しば欣為ため塞ふさが王おう,管轄かんかつ關せき中ちゅう東部とうぶ;封ふう董ただし翳かげ为翟王おう,管轄かんかつ關せき中ちゅう北部ほくぶ。《史ふみ记》、《汉书》等とう书将此三位秦将称为三秦。如《史ふみ记》郦生陆贾列れつ:“起おこり蜀しょく汉之兵へい击三秦しん ,出で关而责义帝みかど之の处。”
汉高祖こうそ元年がんねん(前ぜん206年ねん),楚すわえ漢かん相しょう争そう已やめ達たち白熱はくねつ化か,劉邦りゅうほう趁项羽わ北上きたかみ攻おさむ齊ひとし之これ時じ,聽趙衍指出で一いち条じょう小道こみち,刘邦沿着这条小道こみち进入关中平定へいてい三さん秦はた,接せっ著ちょ滅めつ魏ぎ、韓かん、趙ちょう、代だい、燕つばめ、齊ひとし等とう國こく,最後さいご接せっ連れん在ざい陳ひね下之したの戰せん、垓下之の戰たたかえ擊げき敗はい項羽こうう,取得しゅとく決定けってい性せい的てき勝利しょうり。
后きさき来らい三秦成为地理名词,指ゆび关中地区ちく,见于“二に十じゅう四よん史し”中ちゅう的てき《晋すすむ书》、《北きた史し》等とう。
三秦日後成爲整個陝西せんせい的てき別稱べっしょう。也可以指陕西以地理ちり条件じょうけん差さ异由北きた至いたり南みなみ三さん分ふん为:陕北、关中和わ陕南。明あかり末まつ陝西せんせい原はら任つとむ通どおり政せい使し馬うま鳴な世よ即そく提ひっさげ到いた:“三秦為海內上游,延のべ安やす、慶けい陽ひ為ため關せき中ちゅう屏へい藩はん,榆林又また為ため延のべ慶けい屏へい藩はん,無む榆林必無延のべ慶けい,無む延のべ慶けい必無關せき中ちゅう矣。”[1]十じゅう餘よ年ねん後ご李り自じ成なり果然かぜん自じ三さん秦はた攻おさむ陷おちい北京ぺきん。