呂りょ震ふるえ(1365年ねん—1426年ねん),字じ克かつ聲ごえ,陕西行ぎょう省しょう奉たてまつ元もと路みち臨潼縣けん(今いま陝西せんせい省しょう臨潼縣けん)人にん,明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつ。
洪ひろし武ぶ十じゅう七なな年ねん(1384年ねん)甲子きのえね科か陝西せんせい鄉きょう試ためし第だい一いち名めい舉人。洪ひろし武ぶ十じゅう九きゅう年ねん(1386年ねん),入いれ太ふとし学がく。升ます山東さんとう按察司し試ためし僉事。入朝にゅうちょう担任たんにん户部主事しゅじ,升ます北平きたひら按察司し僉事。燕つばめ王おう朱しゅ棣起おこり兵へい靖やすし難なん,呂りょ震ふるえ降ぶ,受命じゅめい侍さむらい奉たてまつ世子せいし。
永えい乐初年ねん,升ます任にん真ま定府じょうふ知ち府ふ,三さん年ねん后きさき升ます刑部おさかべ尚しょう书,永えい乐六ろく年ねん(1408年ねん),改あらため礼れい部ぶ尚なお书。皇太子こうたいし监国期き间,其女婿じょせい主事しゅじ張ちょう鶴づる朝あさ參さん失しつ儀ぎ,太子たいし以震故こ宽恕。明成めいせい祖そ知道ともみち后きさき,命いのち呂りょ震ふるえ与あずか蹇あしなえ義よし下した錦にしき衣ころも衛まもる獄ごく,不ふ久ひさ均ひとし复职。
明仁あきひと宗むね即位そくい后きさき,命いのち兼任けんにん太子たいし少しょう师,晋すすむ太子たいし太ふとし保ほ兼けん礼れい部ぶ尚なお书,宣せん德とく元年がんねん(1426年ねん)卒そつ[1]。