旭あさひ迈杰(?—1326年ねん),译名又また作さく旭あさひ灭杰。元朝がんちょう大臣だいじん,元げん泰やすし定てい帝みかど时中书右みぎ丞相じょうしょう。
旭あさひ迈杰原げん为晋王おう也孙铁木儿藩はん府ふ旧きゅう僚。至いたり治ち三さん年ねん(1323年ねん)九きゅう月がつ,也孙铁木儿即位そくい为泰やすし定てい帝みかど,任命にんめい旭あさひ迈杰为宣政せい院いん使し,十じゅう月がつ,拜はい中ちゅう书右丞相じょうしょう,奉たてまつ命いのち至いたり大だい都と(今いま北京ぺきん)处死弑杀元もと英えい宗むね的てき御ご史し大夫たいふ铁失及其党とう羽わ。后きさき兼けん阿おもね速はや卫达鲁花はな赤あか。泰たい定じょう元年がんねん(1324年ねん),奏そう请采纳江浙省臣しん建けん议,兴工疏浚吴淞江こう。又また以国家こっか财用匮乏和わ饥荒,请求泰やすし定てい帝みかど减少厩うまや马、裁たっ撤卫士し,节制赏赐,停止ていし上うえ都と营建工程こうてい。泰やすし定てい帝みかど下か诏听从。泰たい定じょう二に年ねん(1325年ねん)八はち月がつ,罢相,不ふ久ひさ故こ去さ。
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