(Translated by https://www.hiragana.jp/)
晁公武 - 维基百科,自由的百科全书

あきら公武こうぶ

あきら公武こうぶ(1101ねん—1180ねん),とめごう昭德あきのり先生せんせいみなみそう录学ぞう书家。宋朝そうちょう钜野(いまやまきょにん

生平おいだいら

编辑

出身しゅっしん家族かぞくななせいあきらかんいたりれいなお[1]さいしたがえちちあきら,从父あきらせつひとし为著めい学者がくしゃあきらおき之子ゆきこ。徽宗けんちゅう靖國やすくに元年がんねん1101ねん出生しゅっしょう[2]かねじん南侵なんしん,舉家避難ひなん四川しせんていきょよしみじょういま樂山らくざん),家藏かぞう书,ざい战乱ちゅう损失殆尽。紹興しょうこうねん(1132ねん),とう進士しんしだい[3]公武こうぶ後來こうらいなりため四川しせんてんうん使てき屬官ぞっかん紹興しょうこうじゅうななねんきょうしゅうこん重慶たーちん),またさかえしゅういまよんがわさかえけん)、ごうしゅうこん重慶たーちん合川あいかわ)、泸州(こん四川しせん泸州),りゅう兴初ねん(1163ねん),にゅう为吏ろうちゅう、监察りゅうねん(1164ねんけん枢密院すうみついん检详文字もじさむらい[4]いぬいどうよんねん(1168ねん),以敷ぶん阁待せい为四川安抚制置使。いぬいどうねん(1169ねん),ざい四川重建广惠仓,赈济饥民。[5]るいかんいたり吏部さむらいろう

あきら公武こうぶ曾大りょくきょうじょみなみうつししょこくしょこうしょこう藏書ぞうしょ,“れきじゅうねん所有しょゆう甚富”,晚年ばんねん以五十篋藏書贈送公武,れんどうあきらおおやけ家藏かぞう,“じょ其重复,とくまんよんせんひゃくかんゆう”,绍兴じゅういちねんまたざい荣州にんじょう利用りよう闲暇,“日夕にっせき躬以しゅ雠校ます误,终篇辄撮其大むね论之”,[6]完成かんせいこおりひとし讀書どくしょこころざし初稿しょこう晚年ばんねんていきょ四川嘉定府符文乡,たてゆうこおりひとし藏書ぞうしょしょ不斷ふだん進行しんこうおさむ订和补充。录学陈振孙しょう此書:“其所发明,ゆうあし观者。”[7]另著ゆうえき诂训传》18かん、《なお书诂训传》46かん、《もう诗诂训传》20かん、《中庸ちゅうようだい传》1かん、《春秋しゅんじゅう诂训传》30かん、《いし经考异》1かん、《稽古けいこきさき录》35かん、《つう鉴评》10かん、《老子ろうしどおりじゅつ》2かん、《昭德あきのりどう稿こう》60かん、《嵩高かさだかきこり唱》2かんとう

注釋ちゅうしゃく

编辑
  1. ^ ちょく斋书录解题まき1“昭德あきのりえき诂训传”じょう;《そうふみまき305《あきら迥传》。
  2. ^ りゅうひかり〈沁園はるさく於乾どうねんつつみ及“ことぶきあきらそちななじゅう”,可知かちあきら公武こうぶねんななじゅうさいよりどころ推知すいち其生於徽そうけんちゅう靖國やすくに元年がんねん(1101)。
  3. ^ あきらよしみやすしきよし丰县こころざしまきよん
  4. ^ そうかいよう辑稿》职官718、7775、7849
  5. ^ そうかいよう辑稿》しょく货6867、68
  6. ^ ぐん斋读书志》自序じじょ
  7. ^ ちょく斋书录解题》まき8“あきら读书こころざしじょう