朱しゅ秉蓮(1901年ねん—1940年ねん),字じ愛あい周しゅう,生なま於江蘇ちぁんすー省しょう海うみ州しゅう直ちょく隸州贛榆縣けん朱しゅ莊しょう村むら(今いま江蘇ちぁんすー省しょう連れん雲くも港みなと市し贛榆區く),中華民國ちゅうかみんこく政治せいじ人物じんぶつ,中國ちゅうごく國民黨こくみんとう籍せき,曾任贛榆縣けん保安ほあん局長きょくちょう,升しょう任にん贛榆縣けん縣けん長ちょう。在ざい抗日こうにち戰爭せんそう中身なかみ亡ほろび,入にゅう祠ほこら中華民國ちゅうかみんこく忠ちゅう烈れつ祠ほこら[1]。
1918年ねん,錄ろく取と江蘇ちぁんすー省しょう第だい十じゅう一いち中學ちゅうがく,1922年ねん,考かんがえ取ど北平きたひら高等こうとう警官けいかん學校がっこう。畢業後ご,以警官かん身み份,任にん職しょく江蘇ちぁんすー省しょう贛榆縣けん公安こうあん局長きょくちょう,升しょう任にん縣けん長ちょう備大隊たい長與ながよ縣けん政府せいふ秘書ひしょ。1936年ねん,任にん江蘇ちぁんすー省しょう第だい三水さんずい警區區長くちょう。1938年ねん,國民こくみん政府せいふ任命にんめい其為贛榆縣けん縣けん長ちょう,他た在ざい當地とうち組織そしき江蘇ちぁんすー省しょう警備けいび旅たび,加入かにゅう國民こくみん革命かくめい軍ぐん第だい八はち十じゅう九きゅう軍ぐん,在ざい顧祝同こしゅくどう與あずか韓かん德いさお勤つとむ指揮しき下か,與あずか日にち軍ぐん作戰さくせん。1939年ねん,日にち軍ぐん攻おさむ下か贛榆縣けん縣けん城じょう,朱しゅ秉蓮率りつ眾退守山もりやま區く,協同きょうどう中共ちゅうきょう新しん四よん軍ぐん,進行しんこう游ゆう擊げき戰せん。1940年ねん,在ざい作戰さくせん中身なかみ亡ほろび。
朱しゅ秉蓮過か世よ後ご,發生はっせい新しん四よん軍ぐん事件じけん,其子其璠、其亮率りつ警備けいび旅たび殘部ざんぶ,編入へんにゅう林はやし彪ぴょう麾下きか八はち路ろ軍ぐん一いち一いち五ご師し,為ため陳ひね士し榘直屬ちょくぞく部隊ぶたい。在ざい對たい日にち抗戰こうせん結束けっそく後ご,國共こっきょう內戰爆發ばくはつ,江蘇こうそ警備けいび旅たび在ざい山東さんとう日照ひでり的てき殘部ざんぶ,隨ずい梁りょう興きょう初はつ進入しんにゅう東北とうほく,編入へんにゅう第だい四よん野戰やせん軍ぐん第だい三さん十じゅう八はち軍ぐん,1950年ねん曾參與さんよ韓かん戰せん。留とめ在ざい江蘇ちぁんすー的てき部隊ぶたい,則のり編入へんにゅう第だい三さん野戰やせん軍ぐん第だい三さん十じゅう一軍いちぐん,與あずか國民黨こくみんとう軍隊ぐんたい作戰さくせん。1946年ねん,其子朱しゅ其塘、朱しゅ其均因いん為ため協きょう助じょ中共ちゅうきょう人民じんみん解放かいほう軍ぐん後ご勤つとむ工作こうさく,被ひ國民こくみん政府せいふ處決しょけつ。隨ずい國民こくみん政府せいふ敗退はいたい,第だい三さん十じゅう一軍移防福建,參與さんよ金きむ門もん戰役せんえき,以及之これ後ご的てき八はち二に三さん砲戰ほうせん,為ため對たい台灣たいわん作戰さくせん的てき主力しゅりょく部隊ぶたい。
1949年ねん,其子朱しゅ其璠與あずか其孫朱しゅ學まなぶ賓まろうど隨ずい中華民國ちゅうかみんこく政府せいふ撤退てったい至いたり台灣たいわん。朱しゅ秉蓮被ひ承認しょうにん為ため抗日こうにち烈士れっし,入にゅう祠ほこら台北たいぺい市し忠ただ烈れつ祠ほこら。其孫朱しゅ學まなぶ恆つね為ため台灣たいわん網もう路ろ紅べに人じん與あずか政論せいろん家か。
在ざい中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ後ご,留とめ在ざい中國ちゅうごく大陸たいりく的てき家族かぞく,被ひ劃為國民黨こくみんとう右派うは。朱しゅ秉蓮之の妹いもうと,在ざい反はん右みぎ運動うんどう至いたり文革ぶんかく期間きかん,曾被下放かほう勞ろう改あらため數すう十じゅう年ねん。其家族かぞく也因為ため被ひ列れつ為ため右派うは,長期ちょうき遭受監かん控ひかえ。1983年ねん,中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく江蘇ちぁんすー省しょう追認ついにん朱しゅ秉蓮的てき抗日こうにち烈士れっし身み份,重じゅう建けん他た在ざい文革ぶんかく期間きかん被ひ搗毀的てき墳墓ふんぼ。