朵颜卫,明朝みょうちょう兀良哈三さん卫之これ一いち。因よし朵颜山さん(索さく岳だけ尔济山さん)得とく名めい,明あかり中期ちゅうき以后,朵颜卫的势力最强さいきょう,在ざい汉籍中ちゅう常常つねづね将はた泰たい宁、福ぶく余あまり、朵颜三さん卫合称しょう作さく“兀良哈三さん卫”,意思いし是ぜ“兀良哈等三さん卫”。
洪ひろし武たけ二に十じゅう二に年ねん(1389年ねん)置おけ羁縻卫,牧まき地ち在ざい今いま内うち蒙こうむ古こ自治じち区く绰尔河かわ流域りゅういき。其首领是成吉せいきち思おもえ汗あせ部将ぶしょう者もの勒蔑的てき后きさき裔。终明一いち代だい,其与明あかり廷的关系一直是时服时叛,一度归降于瓦剌也先和わ土ど默だま特とく俺おれ答とう汗あせ。宣せん德とく、正せい统以后南みなみ迁至今いま内ない蒙こうむ古こ自治じち区く赤あか峰みね市し翁おう牛うし特とく旗はた以南いなん及河北かほく省しょう北部ほくぶ长城外がい。首くび领花はな当とう经常率りつ部ぶ寇边入いれ侵おかせ,但ただし也偶尔与明朝みょうちょう互市ごし。16世せい纪中叶かのう后きさき依よ附ふ于漠ばく南みなみ蒙こうむ古ふる喀喇嗔(喀喇沁)部ぶ。