梁りょう犊(?—?),十じゅう六ろく国こく时期后きさき赵士し兵へい起おこり义领袖そで。定てい阳(今いま陕西延のべ安やす东南)人にん。曾任高だか力りょく督とく。建たて武たけし十じゅう四よん年ねん(348年ねん),后きさき赵内乱ないらん扩大,太子たいし石いし宣せん被ひ杀,东宫卫士十じゅう余あまり万まん人にん谪戍凉州,他た于途中ちゅう率りつ众起义,自称じしょう晋すすむ征せい东大将たいしょう军,长驱东下,逼近长安,后きさき出で潼关,战于新しん安やす、洛らく阳,屡しばしば败官军,石いし虎とら惊慌失しつ措,忙せわし调姚弋仲なか、苻洪率りつ氐、羌骑兵增援ぞうえん。梁はり犊在荥阳东激战中被ひ杀。