武たけ新しん宇(1909年ねん—1989年ねん),曾用名めい武たけ杰、武たけ汉三,男おとこ,山西さんせい阳高人ひと,中ちゅう华人民じんみん共和きょうわ国こく政治せいじ人物じんぶつ。
1923年ねん,武たけ新しん宇考入いれ北京ぺきん师范大学だいがく,随ずい后きさき担任たんにん中共ちゅうきょう北平きたひら市し西城にししろ区く委い委い员、师大党とう支部しぶ委い员。1927年ねん,在ざい开封一いち师、通とおり州しゅう女おんな师、太ふとし原はら成しげる成なり中学ちゅうがく等とう学校がっこう教きょう书,先さき后きさき任にん中共ちゅうきょう北平きたひら市し、太ふとし原市はらいち教育きょういく劳动者しゃ联盟书记,北平きたひら市文いちぶん总党团成员。1932年ねん,在ざい太ふとし原げん组织抗日こうにち反はん帝みかど同盟どうめい会かい。1934年ねん,被ひ阎锡山やま通つう缉被迫はさま流亡りゅうぼう日本にっぽん,随ずい后きさき在ざい北きた平民へいみん国こく大学だいがく教きょう书,任にん中共ちゅうきょう北平きたひら市し教きょう联书记、文ぶん总党团成员。抗日こうにち战争爆ばく发后,其担任たんにん山西さんせい战地总动委い分配ぶんぱい部ぶ副ふく部ぶ长、党とう团成员,晋すすむ察绥边区工作こうさく委い员会主任しゅにん、中共ちゅうきょう大だい青山あおやま特とく委い书记、绥远省しょう委い宣せん传部长。1939年ねん,抵达陕北延のべ安やす任にん毛げ泽东办公室しつ秘ひ书。1942年ねん,任にん晋すすむ绥任边区行ぎょう署しょ副ふく主任しゅにん、主任しゅにん,党とう组书记,中共ちゅうきょう晋すすむ绥分局きょく常つね委い。第だい二に次じ国共こっきょう内ない战期き间,担任たんにん晋すすむ南みなみ行ぎょう署しょ主任しゅにん、中共ちゅうきょう晋すすむ南みなみ工こう委い书记[1]。
中ちゅう华人民じんみん共和きょうわ国こく成立せいりつ后きさき,其任中ちゅう华人民じんみん共和きょうわ国内こくない务部副ふく部ぶ长、党とう组副书记。随ずい后きさき担任たんにん第だい二届全国人大常委会委员、副ふく秘ひ书长、机つくえ关党组副书记、书记,负责主持しゅうもち全国ぜんこく人じん大だい常つね委い会かい机つくえ关工作こうさく,并参与さんよ制定せいてい《全国ぜんこく人民じんみん代表だいひょう大会たいかい组织法ほう》、《地方ちほう各かく级人民じんみん代表だいひょう大会たいかい和わ地方ちほう各かく级人民じんみん委い员会组织法ほう》、《人民法院じんみんほういん组织法ほう》、《人民じんみん检察院いん组织法ほう》等ひとし法的ほうてき制定せいてい工作こうさく,并具体ぐたい主持しゅうもち起草きそう《中ちゅう华人民じんみん共和きょうわ国こく刑法けいほう》。此后担任たんにん法制ほうせい委い员会副ふく主任しゅにん兼けん秘ひ书长和わ法律ほうりつ室しつ主任しゅにん,全国ぜんこく人じん大だい常つね委い会かい机つくえ关党组书记,中央ちゅうおう政せい法ほう委い员会委ゆだね员,中国ちゅうごく法ほう学会がっかい第だい一任いちにん会かい长,第だい六届全国人大常委会委员长会议特邀顾问。1980年代ねんだい,担任たんにん中ちゅう顾委委ゆだね员。