王おう鍔つば(730年ねん—815年ねん),字じ昆こん吾われ。自稱じしょう太ふとし原はら人ひと。唐から朝あさ官かん员。
生なま於開ひらき元もと十じゅう八はち年ねん(730年ねん),早年そうねん投とう靠もたれ太ぶと原人げんじん王おう栩為ため從したがえ子こ,成なり為ため湖南こなん團だん練ねり府ふ(今いま湖南こなん长沙)的てき裨將。代だい宗むね大だい历十じゅう二に年ねん(777年ねん),楊炎貶道どう州しゅう(今いま湖南こなん道みち县)司馬しば,與あずか鍔つば交談,二人ふたり甚为投とう机つくえ。杨炎拜はい相しょう後ご,推荐嗣曹王おう李り皋为湖南みなみ观察使し,王おう锷受重用じゅうよう,又また因いん诱降王国おうこく良りょう之これ功こう升ます任にん邵州(今いま湖南こなん邵阳)刺史しし。建けん中ちゅう三さん年ねん(782年ねん),调守浔阳(今いま江西えにし九きゅう江え),以三さん千せん精兵せいびょう渡わたり长江,袭夺蕲州(今いま湖北こほく蕲春)。以功升ます江え州しゅう刺史しし,兼けん御ご史し大夫たいふ、充たかし都と虞おそれ候こう。王おう鍔つば隨ずい李り皋入京にゅうきょう覲見德とく宗むね,李り皋再次じ推薦すいせん王おう鍔つば,“奏そう鍔つば文ぶん用よう雖不足ふそく,而它可か試ためし”,官かん至いたり鸿胪少しょう卿きょう。提ひさげ拔为容よう管かん经略使し(治ち今いま广西容よう县),八はち年ねん之の間あいだ,(奚谷)洞ほら蠻族ばんぞく十じゅう分ふん安定あんてい。
憲けん宗むね元和がんわ二に年ねん(807年ねん),升ます尚書しょうしょ左ひだり僕ぼく射しゃ、檢校けんぎょう司し徒と、河中かわなか節度せつど使し(今いま山西さんせい永えい濟わたる),元和がんわ三さん年ねん(808年ねん),王おう鍔つば入朝にゅうちょう,大だい肆行贿宦官かん,企圖きと求もとめ做宰相さいしょう。白しろ居きょ易えき上うえ疏極力りょく反對はんたい:“伏ふく以宰相者そうしゃ,人臣じんしん極きょく位い,天下てんか具ぐ瞻,非ひ有清ありきよ望もち大功たいこう,不ふ容よう輕けい授。鍔つば非ひ清せい望のぞむ,又また無む大功たいこう,深ふか為ため不可ふか。”[1]
元和がんわ五ご年ねん(810年ねん),兼けん太子たいし太ふとし傅でん,調しらべ任にん河東かわとう節度せつど使し(今山いまやま西にし太ふとし原はら)。元和がんわ九きゅう年ねん(814年ねん),升ます任にん检校司し空そら、同中どうちゅう书门下平しもだいら章あきら事ごと。王おう鍔つば大だい肆搜刮民財ざい,献上けんじょう钱2千せん万まん。李り绛弹劾他た:“锷虽有ゆう劳,然しか佥望不ふ属ぞく,恐おそれ天下でんか议以为宰相可おうか市し而取。”卒そつ於元和わ十じゅう年ねん(815年ねん)。追つい赠太ふとし尉じょう,谥魏。有子ゆうこ王おう稷きび。
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