甕う吉きち剌䚟(?—?),元朝がんちょう大臣だいじん,译名又また作さく瓮吉剌带,蒙こうむ古こ族ぞく八はち鲁剌思氏し。蒙こうむ古ふる第だい28位い开国功臣こうしん(千せん户)不ふ鲁罕的てき孙子。
甕う吉きち剌䚟初はつ為ため軍ぐん器き監かん官かん,從したがえ忽ゆるがせ必烈親おや征せい阿おもね里さと不ふ哥,以功受上賞しょう。奉たてまつ旨むね出で使し西域せいいき,籍せき地產ちさん,得とく其實。至いたり元もと十じゅう八はち年ねん(1281年ねん)正月しょうがつ,甕う吉きち剌䚟被ひ元もと世よ祖そ任命にんめい为中书右みぎ丞相じょうしょう。至いたり元もと十じゅう九きゅう年ねん(1282年ねん)三さん月がつ,降くだ职为上うえ都と留守るす,同どう佥枢密院すうみついん事こと,和かず礼あや霍孙继任丞相じょうしょう。至いたり元もと二に十じゅう二に年ねん(1285年ねん),甕う吉きち剌䚟接せっ替がえ耶律铸为中书左ひだり丞相じょうしょう,至いたり元もと二に十じゅう三さん年ねん(1286年ねん),罢相。忽ゆるがせ必烈方かた想おもえ要よう重用じゅうよう随ずい后きさき去さ世よ。其子忽ゆるがせ林りん失しつ。