移うつり剌窝斡(?—1162年ねん),《大金たいきん国こく志こころざし》作さく耶律斡罕[1],契ちぎり丹に人ひと,曾一いち度ど抗こう金きん稱しょう帝みかど,後ご被かむ處しょ死し。
金かね国こく正隆まさたか五ご年ねん(1160年ねん),金かね国こく國こく君くん海うみ陵りょう王おう完かん颜亮在ざい辽国故こ地ち西北せいほく路ろ(今いま内うち蒙こうむ古ふる正せい蓝旗)徵兵ちょうへい,討伐とうばつ宋朝そうちょう。契ちぎり丹に聚众反はん金かね,首しゅ领撒八自称じしょう节度使し。
正隆まさたか六ろく年ねん(1161年ねん),撒八被ひ击败,欲よく投とう奔西にし辽,部下ぶか窝斡将はた其杀死し。自称じしょう都と元もと帅,领军东还,攻おさむ下か辽国故こ都と临潢府ふ。十二月じゅうにがつ,窝斡自称じしょう后きさき辽皇帝こうてい,年ねん号ごう天正てんしょう。
次つぎ年ねん,完かん颜亮南みなみ征せい失しつ败被杀,刚即位そくい的てき金きむ世よ宗むね全力ぜんりょく进攻窝斡。窝斡寡不敌众,出いずる大同だいどう西にし奔西にし夏なつ,途中とちゅう被ひ部將ぶしょう所しょ劫こう持じ,降くだ金きむ,被ひ磔刑たっけい處しょ死し。
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