耿純(?—37年ねん),字じ伯はく山やま,鉅鹿宋そう子こ(今いま石いし家か莊そう趙ちょう縣けん)人にん。
父ちち耿艾,王おう莽时任にん济平尹いん。耿纯的てき母はは亲是西にし汉真定てい王おう系けい的てき宗室そうしつ。耿纯早年そうねん在ざい長安ながやす學習がくしゅう,為ため納言なごん士し。後ご為ため劉りゅう玄げん騎き都と尉じょう,23年ねん,劉りゅう秀しげる至いたり河北かほく邯鄲かんたん,耿純率りつ宗族そうぞく賓客ひんきゃく二に千せん餘人よにん歸かえり劉りゅう秀しげる,任にん前ぜん將軍しょうぐん。26年ねん,誘さそえ殺ころせ真ま定じょう王おう劉りゅう楊,平定へいてい其叛亂はんらん。東ひがし漢かん建立こんりゅう,封ふう東光とうこう侯こう,任にん東ひがし郡ぐん太守たいしゅ,建たて武たけし十じゅう三さん年ねん(37年ねん)卒そつ於任所しょ。諡おくりな成なり侯こう,子し耿阜嗣侯。
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