肥こえ義よし(?—前まえ295年ねん),戰國せんごく時代じだい趙ちょう國こく大臣だいじん,歷へ仕つかまつ趙ちょう肅侯、趙ちょう武たけし靈れい王おう、趙ちょう惠めぐみ文ぶん王おう三さん代だい,沙すな丘おか之の亂みだれ時とき,為ため保護ほご趙ちょう惠めぐみ文ぶん王おう而殉難なん。
趙ちょう武たけし靈れい王おう推動“胡えびす服ふく騎射きしゃ”政策せいさく,受到保守ほしゅ勢力せいりょく反對はんたい,肥こえ義ぎ卻力挺てい趙ちょう王おう,被ひ武ぶ靈れい王おう封ふう為ため相國しょうこく。
趙ちょう武たけし靈れい王おう廢はい公子こうし章あきら,以公子こうし何なに為ため儲もうか君きみ,卻封公子こうし章あきら於代だい城しろ(今いま河北かわきた蔚縣),並なみ派遣はけん田た不ふ禮れい為ため其宰相さいしょう。將軍しょうぐん李り兑知道ともみち公子こうし章あきら不能ふのう忍受にんじゅ這樣的てき屈辱くつじょく,日にち後ご必然ひつぜん謀反むほん,並なみ勸すすむ諫肥義よし自じ保たもて,肥こえ義ぎ雖然知道ともみち結果けっか,但ただし仍然決心けっしん保護ほご公子こうし何なに。
前ぜん298年ねん,趙ちょう武たけし靈れい王おう禪讓ぜんじょう予よ公子こうし何なに,自稱じしょう主しゅ父ちち(君主くんしゅ之これ父ちち)。公子こうし何なに即位そくい,是ぜ為ため趙ちょう惠めぐみ文ぶん王おう。前ぜん295年ねん,公子こうし章あきら在ざい沙すな丘おか(今いま河北かわきた廣こう宗むね)發動はつどう兵へい變へん,史し稱しょう沙すな丘おか之の亂みだれ,肥こえ義よし為ため了りょう保護ほご趙ちょう惠めぐみ文ぶん王おう,遭到殺害さつがい。