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蕭諮 - 维基百科,自由的百科全书

しょうはか

重定しげさだこう萧咨

しょうはか(?—550ねん),きょうみなみらんりょうぐんらんりょう縣人けんじん南朝なんちょうはり鄱陽ちゅうれつおうしょう之子ゆきこ

武林たけばやしこう
南朝なんちょうはり宗室そうしつ
姓名せいめいしょうはか
きょう
ふう武林たけばやしけん開國かいこくこう
逝世550ねん
楊州楊郡たてやすしけん

生平おいだいら

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しょうはかはつ王子おうじれいふう武林たけばやしけん開國かいこくこうしょく邑五ひゃく[1]こう擔任たんにん交州刺史ししいん苛斂みんざい而失民心みんしん[2]大同だいどうななねん(541ねん[3],交州土豪どごう叛亂はんらんしょうはか驅逐くちく交州,逃往廣州こうしゅうりょうたけしみかど派遣はけん廣州こうしゅう南江なみえただしまもるゆうあずか高州たかす刺史ししまご征討せいとう賁。當時とうじ春草しゅんそうやめせい瘴癘しょうれいかたおこりゆう請求せいきゅう廣州こうしゅう刺史しししょうひとしいたあきたかしさい進行しんこう征討せいとういん聽從ちょうじゅうしょうはか催促さいそくただのう即刻そっこく出兵しゅっぺいゆうぎょういたり合浦がつぽぐん死者ししゃじゅうゆうろくなな眾潰,於是りつあまりへい退すさかえしょうはか此情がたむかいりょうたけしみかど告發こくはつゆうまご冏二人與李賁勾結,逗留とうりゅうすすむりょうたけしみかどとげ敕將にん廣州こうしゅうたまもの[4]

しょうはかのちかえきょう擔任たんにんまもるじょうきょうふときよしさんねん(549ねん),りょう簡文みかど即位そくいいんほうけい軟禁なんきん而不あずかそと人相見にんそうみただゆうしょうはかあずかおうかついんがい三人因文弱而被允許與皇帝相見。大寶たいほう元年がんねん(550ねんじゅうがつみなみ康嗣やすつぐおうしょうかいいんはかりごと誅侯けい而被殺害さつがいおうかついんがい二人因懼禍而不再朝覲皇帝,ただししょうはかいんにん而朝覲不ぜっほうけい特別とくべつ反感はんかんしょうはか,於是其仇じん刁戌ざいこう莫門はた刺殺しさつ[5][6]

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參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ みなみ·まきじゅういち·列傳れつでんだいよんじゅういち》:“諸侯しょこうれいふうひゃくせいたてあらためふうじつ土建どけんやすけんこうしょく邑一せん。”
  2. ^ ひねしょ·まきいち·本紀ほんぎだいいち》:“さき武林たけばやしこうしょうはかため交州刺史しし,以裒こくしつ眾心,土人どじん連結れんけつすうしゅう豪傑ごうけつ同時どうじはん
  3. ^ はりしょ·まきさん·本紀ほんぎだいさん》:“これさい,交州土民どみん賁攻刺史しししょうはかはか輸賂,とくかえこししゅう。”
  4. ^ ひねしょ·まきはち·列傳れつでんだい》:“及交しゅう土豪どごう賁反,逐刺しょうはかはか奔廣しゅうだいゆうあずか高州たかす刺史ししまご冏討賁。時春ときはるくさやめせい瘴癘しょうれいかたおこりゆう請待あき討之,廣州こうしゅう刺史しししん渝侯しょううつ聽,しょうはかまた促之,ゆうとうとくやめ遂行すいこういたり合浦がつぽ死者ししゃじゅうろくなな,眾並はばかやくつぶせきん不可ふか,乃引其餘へい退すさかえしょうはか啟子けいこ及冏與ぞく交通こうつう逗留とうりゅうすすむりょうたけしみかど敕於廣州こうしゅうたまもの。”
  5. ^ みなみ·まきじゅう·列傳れつでんだいよんじゅう》:“まもるじょうきょうふう武林たけばやしこう。簡文即位そくいこれけいしゅうまもるてんげん外人がいじん莫得ただはか及王かついんがいなみ以文じゃくとく出入でいり內,晨昏左右さゆう天子てんしあずかこれこうろん六藝りくげい輟於。及南やすしおうかい理事りじはいかつがい懼禍乃自疏,はかにんはなれみかどあさ覲無ぜっぞくあくれい其仇じん刁戌刺殺しさつはか於廣莫門がい。”
  6. ^ はりしょ·まきじゅうろく·列傳れつでんだいじゅう》:“じゅうがつとうころせ武林たけばやしこうはか於廣莫門。はかつね出入でいりふとそう內,けいとう能平のっぺいがい。”