论恐热(藏ぞう語ご:བློན་ཁྲོམ་བཞེར་,威い利り转写:bLon Khrom brZhe,[1]?—866年ねん),又また稱たたえ尚なお恐おそれ熱ねつ,为9世せい纪吐蕃末期まっき陇西大将たいしょう。本姓ほんせい末すえ,名めい农力,是ぜ孙波(苏毗)国王こくおう的てき后きさき裔。[2]藏ぞう学がく家か任にん乃强和わ刘立千せん认为,《西藏王にしざおう统记》中ちゅう的てき“穹霞”(藏ぞう語ご:ཁྱུང་ཞགས)可能かのう就是论恐热。[3]
842年ねん,吐蕃赞普朗ろう达玛被ひ佛教ぶっきょう僧そう人じん所しょ杀,朗ろう达玛妻つま綝氏(那な囊氏)拥立自己じこ的てき侄子云うん丹に为赞普ひろし,朗ろう达玛的てき儿子俄にわか松まつ在ざい山南さんなん地区ちく对立。时任洛らく门川(今いま渭州陇西县东南)讨击使し的てき论恐热,西にし征せい讨伐篡位的てき云うん丹に。宰相さいしょう尚なお思おもえ罗前ぜん往讨伐,被ひ其击败,逃往松まつ州しゅう。随ずい后きさき尚なお思おもえ罗联合あい吐谷浑、孙波、象ぞう雄ゆう等とう部ぶ,率りつ八万大军再次讨伐,被ひ论恐热大败杀死し。此后论恐热成为青あお藏ぞう高原こうげん上うえ最さい有ゆう实力的てき势力,自称じしょう宰相さいしょう。
843年ねん,他た以大军二に十じゅう万攻击不服自己的鄯州节度使し尚なお婢婢,却被尚なお婢婢的てき四よん万まん军队击败,几乎全ぜん军覆没ぼつ。之これ后きさき论恐热和尚なお婢婢会かい战二に十じゅう四よん年ねん,851年ねん,论恐热一いち度ど投なげ靠もたれ唐から朝あさ,求もとめ作さく河かわ渭节度ど使し,唐から宣せん宗むね不ふ许,再さい叛唐。
论恐热性格せいかく残ざん暴,其军队所过之处杀人じん累累るいるい,因いん此引起おこり了りょう很多人的じんてき憎にく恨。866年ねん十じゅう月がつ,论恐热被仇かたき人じん陷おちい害がい,为尚婢婢的てき部将ぶしょう拓つぶせ跋ばつ怀光俘虏,酷刑こっけい处死,首しゅ级被送おく往唐から朝あさ的まと都城みやこのじょう长安示しめせ众。