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趙煥 - 维基百科,自由的百科全书

ちょう

重定しげさだこう赵焕

ちょう(1542ねん—1619ねん),原名げんめいちょう[1]文光ぶんこうごうよしちん山東さんとうわきけんひと明朝みんちょう政治せいじ人物じんぶつまんれき年間ねんかん吏部尚書しょうしょ

ちょう
大明だいめい吏部尚書しょうしょ
せきぬき山東さんとう敘州わきけん
原名げんめいちょう
出生しゅっしょうよしみやすしじゅういちねんみずのえとら正月しょうがつじゅうにち
逝世まん历四じゅうななねんじゅういちがつはつにち
配偶はいぐうはい钱氏,るい赠夫じん;继配あまねほうるいふう夫人ふじん
おやぞくちょうゆうあきら;(まごちょうよし
出身しゅっしん
  • よしみやすしよんじゅうさんねん甲子きのえね舉人
  • よしみやすし四十四年乙丑科同進士出身

生平おいだいら

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明世あきよむねよしみやすし四十三年甲子科山东乡试五十二名,よんじゅうよんねん(1565ねんおつうしかいろくじゅうさんめい,廷试さんかぶときゅうじゅういちめい進士しんし兵部ひょうぶ观政,本年ほんねんにんがらすほどけんけんりゅうけいねん(1568ねんますこう主事しゅじねんあらためにん河南かなんどう,六年差巡按陕西茶马。まん历元ねん(1573ねん)养病。三年復除江西道御史,じゅん按河みなみねんかい道管どうかんごとじゅう二月巡视京营,ななねん京畿けいきどうすりまき,监試顺天乡试,ねん监殿试,はちねんよんがつますにんじゅんてんすすむ,十年十二月升大理寺左少卿,じゅう一年二月升南京右佥都御史、提督ていとくみさおじゅう三年四月改任都察院左佥都御史、协理いんごとじゅうよんねんがつしょてのひらいん篆,同年どうねんますこうみぎさむらいろうじゅう五年三月改吏部右侍郎,じゅうろくねん十月升本部左侍郎,じゅうななねんなながつ以疾乞归,かいせき调理。

まんじゅういちねん(1593ねん)五月起为南京都察院右都御史,九月称亲老乞休,以兄じゅん抚辽东右佥都ちょうかい乡奉おや[2]十一月じゅういちがつます刑部おさかべしょう书。じゅうさんねんよんがつ以疾乞休,じゅん驰驿かいせき

まんじゅうろくねん(1598ねん)八月起为南京都察院右都御史,じゅうななねん五月改任南京吏部尚書,赍捧かいせき十二月じゅうにがつ以疾乞休,まこと

まんさんじゅうさんねん(1605ねんじゅう二月起为工部尚書,以亲ろう在籍ざいせきさむらい养,许之。

こう家居かきょじゅうろくねんまんさんじゅうきゅうねん(1611ねん)四月再次召拜為刑部おさかべ尚書しょうしょよんじゅうねんがつしょてのひら吏部尚書しょうしょしるししんじ,八月改任吏部尚書。とき明神みょうじんむねだる政事せいじ,曹署そら,「ろくきょうとめいち煥在」。ちょう煥多じょう要求ようきゅう增補ぞうほ官員かんいんかみはじめみなとめちゅうほう”。ちょう煥請もとめしょくかえさとかみはじめまたゆうみことのりなで慰挽とめ九月くがつちょう煥請もとめしょくかえさとかみはじめ仍下みことのり挽留。きゅうごとちゅうしげるめい劾趙煥「黨同伐異とうどうばつい」,ちょう煥於たたえやまし不出ふしゅつ。逾月おわり於請成功せいこう[3]

まんれきよんじゅうろくねん(1618ねんろくがつおこり赵焕为吏なお书,铨印暂付さむらいろうふみ继偕しょてのひら十一月じゅういちがつ赴任ふにんよんじゅうななねん(1619ねんなながつ遼東りゃおとんことおこり薩爾滸之せん大敗たいはいよんまん餘人よにん開原かいはらてつみね淪陷,北京ぺきん震動しんどうちょう煥親りつ群臣ぐんしんいたりぶんはなもん,「きゅうきょうふく闕」,けん請神むねきゅうはつへい餉。ちょくいたはたばんかみはじめざいふとしかんつてむね:「退すさ。」しか軍機ぐんき要務ようむ仍廢おけ如故。

ちょう煥再じょう疏:「他日たじつあざみもん蹂躪,てきじん陛下へいかのう高枕たかまくらふかみやたたえやまししゃ卻之乎!」此語竟為しんむねしょあく。其部ぞく滿まんこうます遷,ちょう煥上疏請なぞらえかみはじめまた睬。十一月じゅういちがつはつにちちょう煥「うつうつそつ」,享年きょうねんななじゅうはち[4]あかり熹宗天啟てんけいはつ追贈ついぞう太子たいしふとし[5]

家族かぞく

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曾祖そうそちょうしげるちょうめぐみかんるい赠南吏部尚書しょうしょちちちょうはじめ(1507ねん-1603ねん),すすむしんごう西垣にしがき,洧川きょう谕、るいふうみなみ吏部尚書しょうしょ[6]ぜんはは张氏,おくきょうじんははまごるいふう夫人ふじんあにちょう(佥都、めぐ抚)、おとうとちょう燦(みずのととり举人)。

かん
前任ぜんにん
とち
明朝みょうちょう乌程县知县
よしみやすしよんじゅうよんねん-りゅうけいねん
つぎにん
くさむらぶん

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ あかり》、《わきけんこころざしみなさく“煥”,《まんれきへん》及《あきらしん進士しんし題名だいめいろく索引さくいんさく“宦”。
  2. ^ 大明神だいみょうじんむね皇帝こうてい实录まきひゃくろくじゅうよん》:まんじゅういちねんきゅうがつ,吏部くつがえはらつとむ吏部ひだりさむらいろうこんおこりみなみ京都きょうと察院みぎ赵焕しょう亲老乞休,じゅん抚辽东右佥都赵耀またうん业蒙しゃくいちにんさむらい养之むねしんとうしんしゃく,耀身为长,且劳于封疆之ひさ矣,应暂じゅん归侍。焕新うけたまわ简命,且优ゆうたてまつ亲之やめひさし应督きょう职,てん其移孝之たかゆきちゅううえ从之。
  3. ^ 大明神だいみょうじんむね皇帝こうてい实录まきひゃくいちじゅうさん》:まん历四じゅういちねんじゅうがつ,吏部なお书赵焕以召命さい临,疏陈谢,并陈沿途こうむね以听 圣裁, うえとくまこと,仍给驿还。
  4. ^ 明神みょうじんむね皇帝こうてい实录まきひゃくはちじゅうはち》:まん历四じゅうななねんじゅういちがつからし,吏部なお书赵焕卒。焕字文光ぶんこうやま东掖县人。よしみやすしおつうし进士,授乌ほどれいじょこう主事しゅじあらため陕西どうじゅん按河みなみ,以忤こうりょう夺俸。寻掌河南かなんどう,值江りょう夺情议起,あずかすんですすむ顺天すすむだいしょうきょう,历左右さゆう佥都、こう吏部さむらいろう,擢刑なお书,执法こう疏不しょうこごめかいせきだいつかさ马封やまと议起,焕疏やまとじょうへい甚悉,きさきふうごとやぶ坏如焕言。几移やまし归,再起さいきしばしば迁吏なお书,铨政犁然,さい以八疏乞归。きさき复召还吏とう东师しつりつ中外ちゅうがいふるえ惊,挺身ていしんりつ僚,ちょく叩宫门,鹄俟竟日。 うえ为<娾嗨>しかいたり以勤瘁卒于京师。おおやけせい孝友たかとも,寡嗜よく,筮仕じゅうねんたてまつ异寒もととくねんななじゅうゆうはち
  5. ^ あかり·まきひゃくじゅう》:赵焕,文光ぶんこうわき县人。よしみやすしよんじゅうよんねん进士。授乌ほど县。にゅう为工主事しゅじあらためまんさんねんちゅうかん张宏请遣其党榷真てい材木ざいもく,焕及给事ちゅうこう于赵执奏,从。张居せい遭父丧,げんかん交章请留,焕独署名しょめい。擢顺てんすすむるい迁左佥都
    じゅうよんねんさんがつ,风霾もとめげん。焕请恢圣,纳忠言ちゅうげん,谨频笑,信政のぶまされい,时召大臣だいじんしょう榷治次第しだい举行实政,へいざいうちしゃ一切いっさい报罢,而饬戒督抚有务求みん瘼。みかどよしみ纳焉。寻迁こうみぎさむらいろうあらため吏部,进左。乞假おこり南京なんきんみぎ,以亲ろう。时焕けい辽东じゅん抚佥燿亦乞归养。吏部げん人情にんじょうどう,燿为长子,且任ふう疆久,听其归。乃趣焕就职。寻召为刑なお书。议日本にっぽん贡事,ちからげんさく男子だんし诸龙こう讦奏如松どおりやまと吏,并及其党陈仲とうかせあかちゅう满戍瘴乡。焕以盛暑せいしょ必毙,而にんざい不当ふとう,两疏りょくそう。忤旨,诘责。复以议浙じゅん按彭应参狱失みかどとげ引疾归。再起さいき南京なんきんみぎ,就改吏部なお书,みな赴。家居かきょじゅうろくねん。召拜刑部おさかべしょう书,寻兼しょ兵部ひょうぶ
    よんじゅうねんがつ,孙丕扬去,あらためしょ吏部。时神むねだる于于ごと,曹署そらうち阁惟かのう向高むこうたかもり门者やめさんがつろくきょうとめいち焕在,またけんしょ吏部,吏部无复堂上どうじょうかん兵部ひょうぶなお书李龙卒,召王ぞういぬいいたりまたじょさむらいろう。户、れいこう三部各止一侍郎而已。察院ゆたか纯罢去,はちねん无正かん故事こじ,给事ちゅうじゅうにんいちひゃくじゅうにんいたりみなじゅうにん。焕累疏乞じょ补。みかどみな报。其年はちがつとげよう焕为吏部なお书,诸部またじょさむらいろうよんにんすんで而考选命,补给ごとちゅうじゅうななにんじゅうにんげんしょうもり
    しか时朋とうやめなりちゅうちょう议论かくりつ。焕素有清ありきよもち,骤起田おきだ间,于朝臣あそんほん无所左右さゆう,顾雅不善ふぜん东林。诸攻东林しゃじょう间入ところ举措往往おうおう协清议,さききさき为御わかほし、给事ちゅう孙振もとしょ劾。みかどみな优诏慰留いりゅうやめ兵部ひょうぶ主事しゅじぼくくつきち为署ごと孙玮しょ论。焕以くつきちざい轻,拟夺俸さんがつ。给事ちゅう赵兴くに劾焕徇私。焕疏べんさい乞罢。こう高言こうげん: “こん国事こくじ艰难,人才じんさい寡。在野ざいやしゃすんで赐环无期,在朝ざいちょうしゃ复晨ぼし无几,乃大しょうしんこうにち寻水,甚非国家こっかぶく也。しんすなお自今じこんやめきさきども捐成しん,忧国事こくじ,议论听之げんかんしゅ张听当事とうじ使つかい大臣だいじんとくてんぬの而毋苦言くげんかん掣肘せいちゅうげんかんとく发舒而毋患当事とうじ摧残,天下てんかごとなお为也。”いん请谕焕起视事,焕乃
    明年みょうねんはる,以年れいもと及御おう时熙、うんちゅう于外。三人尝力攻汤宾尹、くま廷弼しゃまたうつり咨都察院,于是汤兆きょうまもる故事こじそう,且诋焕。焕屡疏讦辩,もり门不,诏慰おこり。兆京以争不得,とう劾径归。其同かんくに华、しゅうおこりもと、孙居しょう,及户ろうちゅう贺烺交章劾焕擅权,请还振もととう于言みかど为夺诸臣俸,贬烺かん以慰焕。焕请去えきりょく九月くがつとげ叩首阙前,出城でしろ待命たいめいみかど犹遣谕留。给事ちゅうしげるめい复劾焕伐异党どう,焕遂たたえやまし笃,坚不おこり。逾月,乃许じょう传归。
    よんじゅうろくねん,吏部なお书郑继之こく。时党じん势成,清流せいりゅう斥逐やめつき。齐党亓诗きょう挚尤张。以焕为乡じんろう而易せいちから引焕だい继之,ねんななじゅうゆうなな矣。いたり,一听诗教指挥,敢异どうゆかりもともちえき损。みかど终以焕清みさお信之のぶゆき。及明ねんなながつ,辽东つげ警,焕率廷臣ていしん诣文华门かた请帝临朝议政。抵暮,はじめちゅうかん谕之退すさ,而诸军机よう务废阁如ゆえ。焕等复具疏趣,且作危语曰:“他日たじつ蓟门蹂躏,敌人叩阍,陛下へいかのう高枕たかまくらふか宫,たたえやまし谢却乎?”みかどよし嗛焉。こう满当ぞう秩,报。焕寻そつ,恤典及。ひかりむねりつはじめ赐如せい。熹宗はつ,赠太子たいしふとし
  6. ^ 于慎ぎょうあきら誥封せい大夫たいふ南京なんきん吏部尚書しょうしょ西垣にしがきちょうこう墓誌ぼしめい

延伸えんしん阅读

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[]

 あかりまきひゃくじゅう》,出自しゅつじあかり

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 张廷だまとう. 《あかり》.
  • 张思つとむ、于始瞻. 《わきけんこころざし》. きよしいぬいたかしじゅうさんねん(1758ねんこくほん.