阿おもね魯圖(?—?),元もと順じゅん帝みかど年間ねんかん的てき中書ちゅうしょ右みぎ丞相じょうしょう,曾被指ゆび派は擔任たんにん《遼りょう史し》、《金きむ史ふみ》、《宋そう史ふみ》的てき編修へんしゅう都と總裁そうさい,但ただし不ふ諳漢字かんじ[1]。
元もと順じゅん帝みかど至いたり正せい三さん年ねん(1343年ねん)三さん月がつ,元もと順じゅん帝みかど下した令れい修おさむ遼りょう、金きむ、宋そう三さん史し。本ほん來由らいゆ脫だつ脫だっ作為さくい都と總裁そうさい,然しか而於正せい四よん年ねん五ご月がつ(1344年ねん)脫だつ脫だつ辭職じしょく,阿おもね魯圖被ひ指ゆび派は繼つぎ任にん成なり為ため都と總裁そうさい。同どう時期じき,鐵てつ木き兒じ塔とう識、賀が惟おもんみ一いち、張ちょう起おこり巖いわお、歐おう陽ひ玄げん等とう七なな人にん任にん總裁そうさい官かん,史官しかん斡玉たま倫りん徒と、泰やすし不ふ華はな、于文傳でん、貢みつぎ師道しどう、余よ闕、賈魯、危素等とう23人にん。
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