陳ちん鑾(1786年ねん—1839年ねん),字じ仲なか和かず,號ごう芝しば楣,湖北こほく江夏えなつ人ひと,清朝せいちょう官かん员、探さがせ花はな。[1]
嘉よしみ庆二に十じゅう五ご年ねん(1820年ねん)庚かのえ辰たつ科か一いち甲かぶと第だい三さん名めい(探さがせ花はな)。歷れき官かん翰林院かんりんいん編修へんしゅう、武英たけひで殿どの纂修、浙江せっこう鄉さと試ためし副ふく考こう官かん。[1]
道みち光こう五ご年ねん,被ひ外そと派出はしゅつ任にん江蘇こうそ松江まつえ府ふ知ち府ふ。歷任れきにん道どう銜、蘇州そしゅう府ふ知ち府ふ、江西えにし督とく糧道りょうどう、江蘇こうそ蘇そ松まつ常つね鎮太糧かて儲もうか道みち、蘇そ松まつ太ふとし道どう、江こう安やすし糧道りょうどう、蘇そ松まつ糧道りょうどう、廣東かんとん鹽しお運うん使し、浙江せっこう按察使し、署しょ理り布ぬの政せい使し。[1]
道みち光こう七なな年ねん(1827年ねん)獲え任命にんめい為ため按察使し銜分巡じゅん台灣たいわん兵備へいび道どう,未到みとう任にん。[2]
道みち光こう十じゅう二に年ねん,遷江西えにし布ぬの政せい使し,後こう調ちょう任にん江蘇こうそ布ぬの政せい使し、江蘇こうそ按察使し、江蘇こうそ巡じゅん撫なで。[1]
道みち光こう十じゅう六ろく年ねん,被ひ拔擢ばってき為ため江西えにし巡じゅん撫なで。道みち光こう十じゅう七なな年ねん,復調ふくちょう任にん江蘇こうそ巡じゅん撫なで。後こう加か兵部ひょうぶ侍さむらい郎ろう、都と察院右みぎ副ふく都と御ご史し銜。[1]
道みち光こう十じゅう九きゅう年ねん,陶とう澍以病解職かいしょく,陳ちん鑾代署しょ兩りょう江こう總督そうとく、江こう南河みなみかわ道みち總督そうとく。是ぜ年ねん冬ふゆ,在任ざいにん上じょう逝世,贈おく太子たいし少しょう保ほ,依よ尚書しょうしょ例れい優ゆう恤。[1]
陳ちん鑾有五ご子し,其中陳ちん慶けい涵因いん父ちち蔭かげ而受賜たまもの舉人銜,另一いち子し陳ちん慶けい滋しげる在ざい光ひかり緒いとぐち年間ねんかん官かん至いたり江西えにし按察使し。[1]