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韦法保 - 维基百科,自由的百科全书

韦法(?—549ねん),めいゆうほう一作いっさくほうたから[1]少年しょうねん以字ぎょうきょうちょうぐん山北やまきたいま陕西しょう西安しーあん长安にん出自しゅつじきょうちょう韦氏西にし[2]きたたかし西にしたかしかん员。

生平おいだいら

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韦法家族かぞく世代せだい为州ぐんもちぞく祖父そふ韦骈これ雍州おも簿举荐为秀才しゅうさい担任たんにんちゅう博士はかせちち韦义これまえはた上洛じょうらくぐん太守たいしゅ西にしたかしだいとし间,いん为韦ほう突出とっしゅつてきこう绩,ついしんしゅう刺史しし[3][4]

韦法少年しょうねん侠义,ただし质朴しょうげん来往らいおう交游てきじん轻猾亡命ぼうめい有人ゆうじんぐういたきゅう难投奔韦ほうたもてだい韦法保全ほぜん,韦法虽然屡次るじおいはじめ终不あらため操行そうこう。韦义去きさき,韦法ふくさむらいはは亲和けい长以こうけいめい。韦法おおせ长寿てき为人,しょ以娶长寿てきおんな儿,いん寓居ぐうきょ关南。せいひかりすえねん天下てんか大乱たいらんぐう难的王公おうこうぜん往依韦法たもてだいいた保全ほぜん王公おうこう显贵いん感恩かんおん戴德。韦法担任たんにん员外骑侍ろうごう轻车はたひとしいたこうたけみかどげんおさむ西にし迁,韦法从山みなみ赶赴こうたけみかど所在しょざいにんみぎはたふとなか大夫たいふふうかたやす县男,しょくひゃく[5][6]またげんざい关口あずか东魏こう敖曹交战[7]

长寿被害ひがいきさきてき儿子のべ收集しゅうしゅうあまりぼうもり东部。西にし朝廷ちょうてい担心のべ孙兵しょう难以たもて,于是任命にんめい韦法东洛しゅう刺史ししはい给数ひゃくへいぜん支援しえんのべ孙。韦法たもていた潼关きさきひろ农郡太守たいしゅ韦孝宽对韦ほう说:“ただ怕你此战难以平安へいあんかえしかい。”韦法说:“古人こじん说不にゅう虎穴こけつ焉得とら安危あんきこと预测。そく使つかい为国捐躯,也毫无遗憾。”韦法いん而加そくぎょう军前进。东魏陕州刺史しし刘贵以一千多步兵和骑兵截击,韦法命令めいれい部下ぶかぬの为圆阵,且战且进。数日すうじつきさきあずかのべ孙会师,于是ごうへい一处在伏流设置栅栏安札军营。ひさ宇文うぶんたい命令めいれい韦法かずのべ孙率军回あさ,赏赐犒劳很丰あつ,仍然授予韦法だいとくだいよんねん(538ねん),韦法担任たんにん河南かなんいんのべ被害ひがいきさき,韦法统领下据しもしがらみもりのべ孙的きゅう军营,つぎあずか敌人交战,每次まいじさき士卒しそつ,单骑陷阵,所以ゆえん每次まいじ交战必定ひつじょう受伤。韦法曾经到关南あずか东魏交战,流矢ながれやしゃちゅう脖子,头从口中くちじゅう而出,韦法とうそく昏迷こんめい抬回军营,很久ざい苏醒。だいきゅうねん(543ねん),西にしたかしざい邙山ちゅう溃败,东魏てきほうけいりつ领骑へいつい赶西军队,韦法杨摽齐心抵抗ていこう,且战且进,ほうけいざい撤退てったい[8]同年どうねん,韦法保加ほかごう车骑大将たいしょう仪同さんつかさ,镇守きゅうきょくじょう[9][10]

だいじゅうさんねん(547ねん),ほうけいむかい西にしたかしけんじしゅう投降とうこうこう西にし请求援兵えんぺい宇文うぶんたい派遣はけんどう轨防ぬし韦法かずとく贺兰すなおとくとうひと领兵ぜん往相すけほうけい阴谋背叛はいはん西にし,计谋未成みせいよう丰厚てき待遇たいぐうやす抚韦ほうたもて希望きぼう韦法自己じこ所用しょよう,对外则显しめせぼつゆう猜忌さいきへだた阂。どう轨防长史裴宽对韦ほう说:“ほうけい阴险狡猾こうかつ一定いってい肯去关中,虽然表面ひょうめんこう表示ひょうじ忠心ちゅうしんおそれ未必みひつしんじ,如果うめ伏兵ふくへい杀掉,也是いち时的こう勋。如果这样,就应该严警戒けいかい不可ふかしんてき诱骗,造成ぞうせい自己じこてき悔恨かいこん。”韦法さい纳了裴宽てきけん议,ただし不能ふのう谋划杀掉こうけいただ自我じがぼう备,かえしかいしょ镇守处。宇文うぶんたい派遣はけんぎょうだいろうちゅう赵士宪ついかい韦法とうじんほうけい果然かぜんひさ叛乱はんらんりょう[11][12][13][14][15][16]だいじゅうねん(549ねん),韦法保加ほかごう骠骑大将たいしょう开府仪同さんつかさひさ爵位しゃくいすすむます公爵こうしゃくせいぐういた东魏派遣はけん军队ぜんむべおく军粮,韦法ふく击东军队,转战すうじゅう,寡不敌众,为流矢ながれやしゃちゅうざい战场阵亡,谥号しょう。儿子韦初继承爵位しゃくい建德けんとくすえねんかんいたり开府仪同大将たいしょう军、阎韩ぼうぬし[17][18][19]

家庭かてい

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兄弟きょうだい

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  • 韦觉きたあまねぎょうだいさむらいろう、雍州别驾、乐平县开こくおおやけ[20]

延伸えんしん阅读

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[]

 しゅうしょ/まき43》,出自しゅつじれいきつねとくしゅうしょ
 きた·まき066》,出自しゅつじ延壽えんじゅきた

参考さんこう资料

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  1. ^ 文苑ふみぞのえい华·ろくひゃくはちじゅう·あずかほうけい书》:盖闻为大たから守之もりゆきえき,责成にんじゅう。终之实难。ある身成みなりめいあるしょくそんしんじせいいのち于鸿ぽう义节于熊てのひらおっとしかしゃ,举不违德。动无过事,进不见恶,退すさ无谤ごと。   先王せんおうあずかつかさちぎり阔夷险,しょうへんしょ眷属けんぞく,缱绻えり。绸缪もとぶん。义贯终始,じょうそん岁寒。つかさしょう及长,从微いたるちょ,其相成立せいりつなま无恩。すんで爵冠どおりこう标上とう,门容驷马,しょくまん锺,财利润于乡党,荣华于亲戚。气相倾,にん伦所じゅうかん于知おのれ,义在忘。眷为国士こくししゃ,乃立うるし节,馈以壶飧しゃ便びん致扶轮之こうわかしかなお不能ふのうやめ,况其じゅう于此乎。   こう故旧こきゅう节,よくそん孙相たくぽう为晋しんこれひき共成きょうせい刘范亲。かり使つかい往月らい,时移えき,门无きょう荫,いえゆうよう,犹应璧不遗,ふんたくしょう济,无忘さきとく,以恤きさきじん。况闻负杖ぎょう便びんやめおおかみ反噬はんぜい,于名无所なり,于义无所忠臣ちゅうしん迹,おちい叛人力不足ちからぶそく以自きょう,势不足ふそく以自たもてりつ乌合众,为累たまご危。西にしもとむすくい于黑しんみなみ请援于萧ぬし。以狐疑こぎしん,为首ねずみことにゅうしん则秦じんよう,归吴则吴じん不信ふしん当今とうぎんしょ观。见其不知ふち终久,もち此安归异しょう推本しん,必不应尔。とう时不たくましこれにんきょく为异はし说,とげ怀狐ねずみうたぐ,乃致とうかんじ   此来举止,ことやめ见,人相にんそううたぐ误,そう觉知。ごう门大しょう,并在寇。谓李灭,犹言しょうきょうはん无状招祸,ちょうたかしこく罚,不能ふのう死亡しぼう,苟存晷漏,追慕ついぼなが远,ないくずしきれただしれい犹权夺,こころざしざい忘私,おもえ效力こうりょくいのちそつ成功せいこう业。前者ぜんしゃ聊命へん师,ぜん驱致讨,みなみ兖、扬州,应时かつ复。そくよくじょうつくえ,长驱悬瓠,ぞく炎暑えんしょよく为后图,且命旋军,まち时更举。こんかん飙向おり白露しらつゆはた团,ぽうもたれ国威こくい。龚行てん罚。器械きかいしらげしん马强もり内外ないがい感恩かんおん上下じょうげ戮力,さんれいさる蹈汤わか使つかい旗鼓きこしょうもちほこり尘相せっ,势如沃雪,こととうちゅう荧。おっとあかりしゃ危就やす智者ちしゃ转祸为福,宁使じん负我,使つかいわが负人。とう开从善之よしゆき门,使つかいゆうあらため迷。これこん诚刷こころ荡意,じょいや恶,そう犹致疑,便びん见信。わかのう卷甲まきこう来朝らいちょう,ゆみ还阙しゃとうあい授豫しゅう刺史しし。以终所部ところぶ文武ぶんぶ并不つい摄,进得其禄退すさ则不丧功めい。冀有几之しんとう为可信之のぶゆきごとこん王思おうしせい韦法たからひとし军偏はた,远来深入ふかいりしか其性いのちざいくんまたてのひらわかよくとげそうゆう馀力,わかのうとりこ翦,肆诸あさそく宠授,えいたもつ疆埸,きみ门眷ぞく以无恙。宠妻爱子,またあいおく还,仍为どおり共成きょうせい亲好。ところ食言しょくげんゆう如皎いま行人こうじん路程ろてい,此月十日应至彼间,そくとく还返。わかのう悔过,忘本あさむべ腹心ふくしん使つかいこう此,めん委曲いきょく使つかい相知おうちしん。如其迟疑,便びんぶん决,使つかいらい赊缓,赴期かい国有こくゆうつねけい,以明くんほうこん不能ふのう东封はこだに南面なんめんしょう,受制于人,威名いめい顿尽。とく不能ふのうもり,聚众以为きょうそら使ゆう背叛はいはんめいいえ为恶ぎゃくとう兄弟子あにでし侄,首足しゅそく异处;たれ发戴しろどう就涂ずみ。闻者しょう为酸はな,见者しょう为寒しんくつがえそう绝嗣,贻伊戚,戴天くつしんのう无愧乎。祸福决之此使,ぜん恶向そうにんしょ从,だつ出自しゅつじおもえ,致延きさき悔,驷马おい,噬脐なん及。今日きょう应乃遣此书,ただし见蔡遵道うんつかさほん无归西之にしのしんふかゆうつい悔之,闻西へいはたいたり遵道こう崤中さん多少たしょうしょう则与其同りょく则更为之备。またうんぼう长史ざいかれこれにちつかさ尝欲はた书启,はたあらため过自しんもとめこう边畔。やめ龙仁とうたれよく发遣,闻房やめ还,とげ复停废。未知みち遵道此言为实为虚;ただしすんでゆうしょ闻,ようあいつきつげ吉凶きっきょうそう图之。
  2. ^ 元和がんわせい纂·まき·127》:瑱さん从兄ほうたもてしゅう安国やすくにおおやけ;孙绘,から仓部员外。
  3. ^ しゅう书·まきよんじゅうさん·れつ传第さんじゅう》:韦祐ほうたもてきょうちょうやまきたじん也。しょう以字ぎょう于世。为州ぐんちょせい骈,雍州ぬし簿。举秀才しゅうさいはいちゅう博士はかせちち义,まえはた军、上洛じょうらくぐんもりだい统时,以法ちょくんつい赠秦しゅう刺史しし
  4. ^ きた·まきろくじゅうろく·れつ传第じゅうよん》:韦祐ほうたもてきょう兆山北人也,以字ぎょう。为州ぐんちょせいちち义,上洛じょうらくぐんもりだい统中,以法ちょくんつい赠秦しゅう刺史しし
  5. ^ しゅう书·まきよんじゅうさん·れつ传第さんじゅう》:ほうしょうこうゆう侠,而质ちょくしょうげん所与しょよ交游,みな轻猾亡命ぼうめいひとゆうきゅう难投これしゃ保存ほぞん。虽屡おい,终不あらため其操,ちちぼつことははけい以孝けい闻。慕李长寿为人,とげめと长寿おんないん寓居ぐうきょ关南。せいひかりまつ四方しほううん扰。王公おうこう难者あるこれとくぜん济,以此为贵ゆうしょとく。乃拜员外骑侍ろう轻车はた军。及魏こう武西むざい迁,ほう从山みなみ赴行在所ざいしょじょみぎはた军、ふとなか大夫たいふふうかたやす县男,邑ひゃく户。
  6. ^ きた·まきろくじゅうろく·れつ传第じゅうよん》:ほうしょうこうゆう侠,而质ちょくしょうげん所与しょよ交游,みな轻猾亡命ぼうめいちちぼつことはは以孝闻。慕李长寿为人,とげめと其女,いん寓居ぐうきょ阙南。せいひかりまつ王公おうこう避难しゃあるこれとくぜん济,以此为贵ゆうしょとく。及孝武西むざい迁,ほう赴行在所ざいしょふうかたやす县男。
  7. ^ しゅう书·まきよんじゅうさん·れつ传第さんじゅう》:げんとげりつつの乡曲,たて义于关南,そく从韦ほうたもてあずか东魏だか敖曹战于关口。
  8. ^ きた·まきろくじゅうきゅう·れつ传第じゅうなな》:すすきやま战,摽攻拔柏たに坞,いんそく镇之。及大军不利ふり,摽亦拔还。而东しょうこうけいりつ骑追标,摽与仪同韦法同心どうしんこう,且战且前,けい引退いんたい
  9. ^ しゅう书·まきよんじゅうさん·れつ传第さんじゅう》:及长寿ことぶき被害ひがい,其子のべ孙收长寿馀众,もり东境。朝廷ちょうていおそれのべ孙兵しょう不能ふのうかた,乃除ほう东洛しゅう刺史ししはいへいすうひゃくにん,以援のべ孙。ほういたり潼关,ひろ农郡もり韦孝宽谓ほう曰:“おそれ此役,难以きち还也。”ほう曰:“人称にんしょう不入ふにゅう虎穴こけつとくとら安危あんきこと预量。纵为こく殒身,またところ恨。”とげばいどう兼行けんこう。东魏陕州刺史しし刘贵以步骑千馀邀ほういのち所部ところぶ为圆阵,且战且前。数日すうじつとくあずかのべ孙兵せっ,乃并势置栅于伏流ふくりゅう几,ふとしおいほうたもてあずかのべ孙率众还あさ,赏劳甚厚。乃授ほうだいとくよんねんのぞき河南かなんいん。及延孙被害ひがいほう乃率所部ところぶすえのべ孙旧栅。频与敌人交兵,まいさき士卒しそつ,单马陷阵,以战必被伤。尝至关南,あずか东魏じん战,流矢ながれやちゅう颈,从口中出なかいでとう时气绝。舆至营,久之ひさゆき乃苏。きゅうねんはい车骑大将たいしょう军、仪同さんつかさ,镇きゅうきょくじょう
  10. ^ 《资治どおり鉴·まきいちひゃくじゅうはち·はりじゅうよん》:のべ孙以きよししんらく为己にん以延孙兵しょうさら以长寿之としゆき婿むこきょう兆韦法保为东洛州刺史,はいへいすうひゃく以助ほうめいゆう,以字ぎょうすんでいたりあずかのべ孙连へいおけ栅于伏流ふくりゅうどく信之のぶゆき入洛にゅうらく阳也,よく缮修宫室,使つかいがいへいろうちゅう天水てんすい权景せん帅徒へいさんせんさい运。かい东魏へいいたり河南かなんみな叛,けいせん间道西にしはしあずかのべ孙相かいおさむあなじょう,拔之,らく以南いなん寻亦西にし丞相じょうしょうやすしそくとめけいせんもり张白坞,节度东南诸军应关西にししゃ岁,のべ孙为其长杨伯兰所杀,韦法そく引兵すえのべ孙之栅。
  11. ^ 《资治どおり鉴·まきいちひゃくろくじゅう·はりじゅうろく》:けい复乞へい于魏,丞相じょうしょうたい使どう轨防ぬし韦法及都とく贺兰すなおとくとう将兵しょうへいすけ
  12. ^ しゅう书·まきさんじゅうよん·れつ传第じゅうろく》:じゅうさんねん,从防ぬし韦法こう颍川,かいこうけい围。けいみつ图南叛,军中颇有知者ちしゃ。以其ごと未成みせいそとしめせ无贰,往来おうらい诸军间,さむらい从寡しょう。军中名将めいしょう,必躬みやつこいたり于法たもてゆう亲附。宽谓ほう曰:“ほうけい狡猾こうかつ,必不肯入关。虽託款于こうこわしんわか仗兵以斩またいち时之计也。如曰しか便びん须深严警,とくしん其诳诱,贻后悔。”ほう纳之,しか不能ふのう图景,ただしかた而已。
  13. ^ きた·まきさんじゅうはち·れつ传第じゅうろく》:じゅうさんねん,从防ぬし韦法こう颍川,かいこうけい围。けいみつ谋南叛,伪亲狎于ほう。宽谓ほう曰:“ほうけい狡猾こうかつ,必不肯入关,虽託款于こうこわしんじわか伏兵ふくへい以斩またいち时之こう也。如曰しか便びん须深严警,とくしん其诳诱,贻后悔。”ほう纳之,しか不能ふのう图景,ただしかた而已。
  14. ^ 《资治どおり鉴·まきいちひゃくろくじゅう·はりじゅうろく》:けい阴谋叛魏,こと未成みせいあつ抚韦ほうとう,冀为おのれようそとしめせ亲密无猜间,まい往来おうらい诸军间,さむらい从至しょう军中名将めいしょうみなみやつこ诣。どう轨防长史裴宽谓法曰:“ほうけいずる诈,必不肯入关,よくたく款于こうこわしんわか伏兵ふくへい斩之,此亦いち时之こう也。如其尔,そく应深为之ぼうとくしん其诳诱,贻后悔。”ほうふかしかこれ敢图けいただし为备而已;寻辞还所镇。
  15. ^ しゅう书·まきさんじゅうさん·れつ传第じゅう》:じゅうさんねんほうけいすえ河南かなんらい,仍请へい为援。ふとし先遣せんけん韦法たもて、贺兰すなおとくとう帅众すけえつげん于太曰:“ほうけい于高欢,はじめ则笃乡党じょうまつ乃定君臣くんしんちぎりきょじょうはた,职重だい,论其ぶん义,ゆうどう鱼水。こん欢始けい便びん离贰。岂不知ふち君臣くんしんみちゆう亏,ちゅう义之れい不足ふそく?盖其しょ图既だい卹小いやしかなおのう背德はいとく于高,岂肯つき节于朝廷ちょうていこんわかえき以势,援之以兵,ただこうけい为池中之なかのぶつまたおそれ朝廷ちょうてい贻笑将来しょうらい也。”ふとし纳之,乃遣ぎょうだいろうちゅう赵士宪追ほうとう,而景寻叛。
  16. ^ きた·まきろくじゅうきゅう·れつ传第じゅうなな》:じゅうさんねんほうけいすえ河南かなんらい,仍请へい为援,しゅうぶん先遣せんけん韦法たもて、贺兰すなおとくとう帅众すけえつげん于周ぶん曰:“ほうけい于高欢,はじめ则笃乡党じょうまつ乃定君臣くんしんちぎりきょじょうはた,职重だい,论其ぶん义,ゆうどう鱼水。こん欢始けい便びん离贰,岂不知ふち君臣くんしんみちゆう违,ちゅう义之れい不足ふそく?盖其图既だい卹小いやしかなおのう背德はいとく于高,岂肯つき节于朝廷ちょうていこんわかえき以势,援之以兵,ただこうけい为池中之なかのぶつまたおそれ朝廷ちょうてい贻笑将来しょうらい也。”しゅうぶん纳之,乃遣おいほうとう,而景寻叛。
  17. ^ しゅう书·まきよんじゅうさん·れつ传第さんじゅう》:及侯けい以豫しゅうらいほうりつへい赴景。けいよくとめほうたもてうたぐ其有贰心,乃固辞こじ还所镇。じゅうねん骠骑大将たいしょう军、开府仪同さんつかさ,寻进爵为こうかい东魏军送粮馈むべ阳,ほうせん邀之。转战すうじゅうへいしょう敌,为流矢ながれやしょちゅうそつ于阵。谥曰しょうはつ嗣。建德けんとくまついたり开府仪同大将たいしょう军、阎韩ぼうぬし
  18. ^ きた·まきろくじゅうろく·れつ传第じゅうよん》:及长寿ことぶき被害ひがい,其子のべ孙收长寿馀众,もり东境。朝廷ちょうていおそれのべ孙兵しょう,乃除ほう东洛しゅう刺史ししはいへいすうひゃく,以援のべ孙。ほういたり潼关,ひろ农郡もり韦孝宽谓曰:“おそれ此役,难以きち还。”ほう曰:“人称にんしょう不入ふにゅう兽穴,とく兽子。安危あんきこと预量。”とげばいどう兼行けんこうあずかのべ孙兵せっ,乃并势置栅于伏流ふくりゅう几,しゅうぶんおいほうたもてあずかのべ孙还あさ,赏劳甚厚。のぞき河南かなんいん。及延孙被害ひがいほう乃率しょすえのべ孙旧栅。尝与东魏战,流矢ながれやちゅう颈,从口中出なかいで久之ひさゆき乃苏。だいきゅうねん,镇きゅうきょくじょう。及侯けい以豫しゅうほうりつへい赴。けいよくとめほうたもてうたぐ其贰,乃固辞こじ还所镇。じゅうねん骠骑大将たいしょう军、开府仪同さんつかさ,寻进爵为こうかい东魏军送粮馈むべ阳,ほうせん邀之,ちゅう流矢ながれやそつ于阵。谥曰しょう
  19. ^ きた·まきろくじゅうろく·れつ传第じゅうよん》:はつ嗣。开府仪同大将たいしょう军、阎韩ぼうぬし
  20. ^ 博物はくぶついんとう. 《しん中国ちゅうごく出土しゅつどこころざし·陕西まき〔肆〕》. 北京ぺきん: 文物ぶんぶつ出版しゅっぱんしゃ. 2021ねん10がつ: 97. ISBN 9787501072675 ちゅうぶんしげるからだ)).