馬うま瑞みずほ彩いろどり(國頭くにがみ按司正彌まさや,1591年ねん—1635年ねん)是これ琉球りゅうきゅう國こく第だい二に尚しょう氏し王朝おうちょう時期じき人物じんぶつ。他た是ぜ國頭くにがみ按司正せい影かげ之子ゆきこ。馬うま氏し國頭くにがみ按司第だい六ろく代だい,領有りょうゆう國頭くにがみ間あいだ切きり總そう地頭じとう。
據よりどころ《中山なかやま世よ譜ふ》附ふ卷まき記載きさい,1614年ねん(萬まん曆れき四よん十じゅう二に年ねん),馬うま瑞みずほ彩あや被ひ派は往薩摩さつま作さく人質ひとじち。次つぎ年ねん,爆發ばくはつ大坂おおさか夏なつ之の陣じん,島津しまつ家久いえひさ奉たてまつ德川とくがわ家康いえやす之これ命いのち前ぜん往征討せいとう豐臣とよとみ秀賴ひでより。馬うま瑞みずほ彩いろどり請求せいきゅう從軍じゅうぐん,島津しまつ家久いえひさ即そく命いのち馬ば瑞みず彩いろどり梳くしけず日本にっぽん武士ぶし髮かみ髻たぶさ,改名かいめい「國頭くにがみ左ひだり馬ば守もり」,賜たまもの甲かぶと一いち、具足ぐそく一いち、大刀たち一いち、脇わき指ゆび一いち、鐵てつ鉋かんな二に、鞍くら一いち、鐙あぶみ一はじめ、轡くつわ一いち,並なみ授與じゅよ他た兵卒へいそつ。行くだり至いたり中途ちゅうと,得知とくち豐臣とよとみ秀賴ひでより已やめ被ひ攻おさむ滅ほろび,隨ずい家久いえひさ返かえし回かい鹿兒島かごしま。1616年ねん回かい到いた琉球りゅうきゅう。崇たかし禎ただし八はち年ねん八はち月がつ一いち日にち病びょう逝,享年きょうねん45歲さい。
因いん馬ば瑞みず彩いろどり曾被島津しまつ家久いえひさ賜たまもの名めい「國頭くにがみ左ひだり馬ば守もり」,因いん此他也被稱しょう為ため「左ひだり馬頭めず」。