馮安邦くに(1884-1938年ねん),出生しゅっしょう於山東さんとう無む棣,中華民國ちゅうかみんこく軍人ぐんじん,官かん至いたり中將ちゅうじょう,於中日ちゅうにち戰爭せんそう期間きかん陣じん亡ほろび的中てきちゅう國軍こくぐん方かた高級こうきゅう將領しょうりょう之の一いち。
馮安邦くに於1907年ねん從軍じゅうぐん,1911年ねん辛からし亥い革命かくめい後ご轉うたて隸第十じゅう六ろく混成こんせい旅たび馮玉祥ぎょくしょう麾下きか。1921年ねん隨ずい馮玉祥ぎょくしょう入にゅう陝討伐とうばつ陝督陳ちん樹いつき藩はん。1927年ねん就任しゅうにん寧やすし夏なつ省しょう主席しゅせき,在ざい隴南作戰さくせん中ちゅう,克復こくふく天水てんすい城じょう。為ため西北せいほく軍ぐん提供ていきょう物資ぶっし及人員いん調ちょう配はい。
中原なかはら大戰たいせん後こう因いん西北せいほく軍ぐん戰敗せんぱい,率りつ領りょう部隊ぶたい追隨ついずい上級じょうきゅう孫まご連れん仲なか納入のうにゅう蔣中正ちゅうせい南京なんきん國民こくみん政府せいふ指揮しき。1933年ねん,晉すすむ升ます國民こくみん革命かくめい軍ぐん第だい27師し師長もろなが後ご,入にゅう南京なんきん中央ちゅうおう陸軍りくぐん軍ぐん官かん學校がっこう高級こうきゅう班はん第だい二に期き受訓。結ゆい業ぎょう後ご返かえし回かい江西えにし省しょう,率りつ部ぶ參加さんか剿共作戰さくせん,1935年ねん再さい追擊ついげき至いたり湘西。
1937年ねん中日ちゅうにち戰爭せんそう爆發ばくはつ,馮安邦くに晉すすむ升ます國民こくみん革命かくめい軍ぐん第だい四よん十じゅう二に軍ぐん中ちゅう將軍しょうぐん長ちょう,參加さんか平津ひらつ作さく战、娘むすめ子こ關せき戰役せんえき。1938年ねん臺たい兒じ莊そう戰役せんえき獲え頒青天白日せいてんはくじつ勳章くんしょう。同年どうねん秋あき,四よん十じゅう二に軍ぐん轉戰てんせん湖北こほく省しょう大別たいべつ山さん防禦ぼうぎょ任務にんむ,11月3日にち四よん十じゅう二に軍ぐん撤退てったい到いた湖北こほく省しょう襄じょう陽ひ時じ遭到日び機き空襲くうしゅう,馮安邦くに負傷ふしょう陣じん亡ほろび。
1940年ねん10月がつ2日にち,中華民國ちゅうかみんこく政府せいふ特とく以1305號ごう褒揚令れい明あかり令れい褒揚。
中華民國ちゅうかみんこく國史こくし館かん編へん,《中華民國ちゅうかみんこく褒揚令れい集しゅう初はつ編へん》,1985年ねん,台北たいぺい,台灣たいわん商務しょうむ印しるし書しょ館かん