魚さかな豢(?—?),京きょう兆ちょう郡ぐん(今いま河南かなん洛らく阳)人にん,三さん國こく時期じき曹魏史學しがく家か。
早年そうねん向むこう董ただし遇ぐう、樂らく詳しょう、邯鄲かんたん淳あつし等とう請教《左ひだり傳でん》和かず《詩經しきょう》齊ひとし、魯、韓かん、毛け四よん家いえ。後ご與あずか王おう粲つばら、阮瑀等とう答辯とうべん。魏ぎ明あかり帝みかど時どき官かん至いたり郎ろう中ちゅう,入いれ晉すすむ後こう不ふ仕つかまつ。
生平おいだいら嗜史學しがく,私撰しせん《魏ぎ略りゃく》,為ため記載きさい曹魏事ごと的てき紀傳きでん體たい史書ししょ。因よし屬ぞく私わたし修おさむ,體からだ例れい多た有ゆう創そう新しん,“鉅細畢載,蕪かぶら累るい甚多”,此書於唐とう代だい失しつ傳でん。後こう出現しゅつげん兩りょう種たね輯本,但ただし內容皆みな不ふ到いた原書げんしょ的てき二に十じゅう分ふん之の一いち。