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于謹 - 維基百科,自由的百科全書

于謹(493ねん—568ねん5がつ5にち),おもえけい小名しょうみょうきょわたるきょ河南かなんぐん洛陽らくようけんいま河南かなんしょう洛陽らくようひがしにん代人だいにん鮮卑じん本姓ほんせいまん忸于きたたかし西にしたかしきたあまね官員かんいん西にしたかしはちはしらこくこれいち

生平おいだいら

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曾祖そうそ于仁せい祖父そふ安定あんていちち于子ひさげ使敕勒,以功せいきた將軍しょうぐん、隴西太守たいしゅ茂平もびらけんはくきたしゅうたもつていねん,以子于謹ちょ勛,追贈ついぞうふとたもてけん平郡へごおりこう

  • 于謹通曉つうぎょうけい喜好きよし孫子まごこ兵書へいしょせいひかりよんねん(523ねん),だいくだりだいもと闢為よろい曹參軍事ぐんじきた蠕蠕,前後ぜんごじゅうななせんつき其眾。
  • せいひかりねん(524ねん),ぎょうだい廣陽こうようおうもとふちきた,引為長流ちょうりゅうさんぐんやぶぞくぬし斛律こく祿ろくとうよし通曉つうぎょうてつかたり單騎たんき招降西部せいぶてつ勒酋ちょう也列かわとうさんまんざい析郭みね以也れつかわため鉺,しつらえふく大破たいはやぶろくかん拔陵ますにんためせきしゃ將軍しょうぐん
  • 孝昌たかまさ元年がんねん(525ねん),またずい廣陽こうようおうもとふちせい鮮于おさむれいいんとまぐん中山なかやまれいふとしきさきたて榜懸しょう緝拿。于謹知道ともみち,趕往洛陽らくよう陳述ちんじゅつとまぐん原因げんいんれいふとしきさき于是りょう
  • りつぐんみなみはり將領しょうりょう曹義むねざいみのるじょう附近ふきん交戰こうせんすすむますためとくせん將軍しょうぐん
  • たて義元よしもとねん(528ねん),擔任たんにん鎮遠將軍しょうぐん轉任てんにんちょく。跟隨もとてんきよし討伐とうばつかずらさかえ平定へいてい邢杲,跟隨しかしゅたかしこうげきはいまん俟丑やつふう石城せきじょうけんはくしょうにんだいとく
  • ふとあきら元年がんねん(532ねん),したがえしかしゅたかしこうあずかこうせん於韓りょうやまてんこうはい,于謹西行さいぎょういれせきとう拔岳拔岳ひょう于謹ためまもる將軍しょうぐん咸陽ぐんもり
  • 宇文うぶんたい任命にんめい任命にんめいためぼうじょうだいとくけんなつしゅうちょう
  • 534ねん拔岳ほう莫陳えつところがい宇文うぶんたい任命にんめい于謹ためせき內大とくしんせきちゅうさく
  • こうたけみかど西にし遷長やす,于謹したがえ宇文うぶんたいせい潼關やぶかいらくじょう,授北雍州刺史しししん藍田あいだけんこう
  • だいすべさんねん(537ねん),西にしたかし大軍たいぐんひがし,于謹ためぜんほこさきおさむひろのうとりこあずまたかし陝州刺史しし徽伯
  • 537ねんじゅうがつ參與さんよすなえんたたかえしん常山つねやまこおりこうはいだい丞相じょうしょうちょうけんだいくだりだい尚書しょうしょさい太子たいしふとし
  • 538ねんひがし西にしたかし進行しんこうかわきょう邙山たたかえ西にしたかし戰敗せんぱい,于謹りつ麾下きかにせくだたて於路ひだりこう歡乘しょう進軍しんぐん以為。于謹自攻擊こうげきてきぐんだい駭。どくしんまたおさむへい於後奮擊,こう歡軍みだれ西にしたかし大軍たいぐんとく保全ほぜん。于謹にん太子たいしふとし
  • だいすべじゅうねん(546ねん),はい尚書しょうしょひだりぼくしゃりょうつかさみのりきょう
  • だいすべじゅうよんねん(548ねん),ちょうたかとら、于謹、どくしんほう莫陳たかしろく人為じんいばしらこく大將軍だいしょうぐん統率とうそつろくぐんあずか宇文うぶんたいもとごうしょうはちはしらこく」。
  • けんだいくだりだい尚書しょうしょだい丞相じょうしょうちょうりつへい鎮潼せき授華しゅう刺史しし
  • はいつかさそら
  • 西にしたかしきょうみかど元年がんねん(554ねん),じょ雍州刺史しし九月くがつ,于謹與中山なかやまこう宇文うぶんまもる及大將軍しょうぐん楊忠とうおさむおちいこうりょうりょうもとみかどひさ于謹しょころせ,另立しょうためはりぬし宇文うぶんたい賞賜しょうし奴婢ぬひいちせんくち。及梁あさ寶物ほうもつなみ金石かねいし絲竹いとたけたのし一部いちぶ別封べっぷう新野あらたのぐんおおやけまたれいつかさらくさく常山つねやま公平こうへいはりじゅうしゅ使つかいこうじん
  • 宇文うぶんたい設立せつりつろくかん制度せいど,于謹はいだい寇。
  • 557ねんきたあまね建國けんこくしんふうつばめこくおおやけ,邑まん,遷太でんふとし宗伯そうはくあずか弼、ほう莫陳たかしとう參議さんぎ朝政ちょうせい
  • じょうさんねん(563ねん),以于謹為さんろうたまもののべねんつえ宇文うぶんざいふとしがく舉行けいさんろうれい
  • じょうよんねん(564ねん),すすむおおやけ宇文うぶんまもる東征とうせいきたひとし,于謹當時とうじねんろう患病,宇文うぶんまもるいんため于謹宿將しゅくしょう勛舊,仍請求せいきゅう一同いちどうぜん往,ざい軍事ぐんじ謀略ぼうりゃくじょう請教于謹。しゅうぐんかえしかい,于謹たまものかおる一部いちぶ天和てんわねん(567ねん),于謹またたまものやすしゃいちじょう同年どうねんなながつみずのえ,于謹にん雍州まき[1][2]天和てんわさんねんさんがつつちのえうま(568ねん5がつ5にち),于謹去[3][4]きょとしななじゅうろくしゅうたけしみかどおや自前じまえ往弔唁,みことのりれい譙王宇文うぶん監護かんごごとたまものきゅう繒彩いちせんだんあわむぎせん斛,おく于謹原本げんぽんてき官職かんしょく使つかいぶしふとし、雍恆とうじゅうしゅうしょ軍事ぐんじ、雍州刺史しし諡號しごうぶん。于謹そう王公おうこう以下いかてき官員かんいんおくそういた郊外こうがい朝廷ちょうていはた于謹ごうさい于宇ぶんたいてき宗廟そうびょうなか[5][6]

家族かぞくけいてきけん

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中華ちゅうかしょきょくほんきた校勘こうかんよりどころ于謹てき生年せいねん推算すいさん曾祖そうそ天恩てんおん不可能ふかのう于勁てきおとうとおとうとしん懷疑かいぎきた記載きさいてきもたれせいなみ推測すいそくきたてき記載きさいよりどころ「于氏家傳かでん[7][8]

兄弟きょうだいあねいもうと

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  • 于虎,追贈ついぞう涇恆しゅう刺史しし
  • 于寔ずいあさじょうはしらこくつばめあんこう
  • 于翼ずいあさじょうはしらこくふとしじょうにんきよしおおやけ
  • 于義ずいあさじょうはしらこくたてたいらつよしおおやけ
  • 于儀ずいあさ大將軍だいしょうぐんちょうしゅう刺史しし安平あびらたいらこう
  • 于智ずいあさはしらこくだいつかさそらひとしけいこう
  • 于紹,うえ開府かいふ、綏州刺史しし華陽かようぐんおおやけ
  • 于弼,うえただしどうひらおんけんこう
  • 于蘭,うえただしどうじょうけんこう
  • 于曠,うえただしどうおくつねしゅう刺史しし
  • 于氏,だいきゅうじょよめばしらこく樂平よしひらぐん開國かいこくこう紇豆世子せいしただしどう三司紇豆奉志

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ しゅうしょ·まき·みかどだい》:みずのえ,以太でんつばめこくおおやけ于謹ため雍州まき
  2. ^ きた·まきじゅう·しゅう本紀ほんぎだいじゅう》:みずのえ,以太でんつばめこう于謹ため雍州まき
  3. ^ しゅうしょ·まき·みかどだい》:つちのえうまふとしでんはしらこくつばめこくおおやけ于謹薨。
  4. ^ きた·まきじゅう·しゅう本紀ほんぎだいじゅう》:つちのえうまふとしでんつばめこう于謹薨。
  5. ^ しゅうしょ·まきじゅう·列傳れつでんだいなな》:及晉こうまもるひがし,謹時老病ろうびょうまもる以其宿將しゅくしょう舊臣きゅうしんなお請與同行どうこう,詢訪えびすりゃくぐんかえたまものしょうかおる一部いちぶ天和てんわねんまたたまものやすしゃいちじょうひろ授雍しゅうまきさんねん,薨于ねんななじゅうろく高祖こうそ親臨しんりんみことのり譙王儉監護かんごごとたまもの繒彩せんだんあわむぎせん斛,おく本官ほんかん使ぶしふとし、雍恆とうじゅうしゅうしょ軍事ぐんじ、雍州刺史ししおくりな曰文。及葬,王公おうこうやめ,咸送出そうしゅつ郊外こうがいはいとおる于太祖廟そびょうにわ
  6. ^ きた·まきじゅうさん·列傳れつでんだいじゅういち》:及晉こうまもるひがし,謹時ゆうびょうまもる以其宿將しゅくしょう舊臣きゅうしんなお請與同行どうこう,詢訪えびすりゃくぐんかえたまものしょうかおる一部いちぶ天和てんわねんまたたまものやすしゃいちじょうひろ授雍しゅうまきさんねん,薨,ねんななじゅうろくたけみかど親臨しんりんみことのり譙王儉監護かんごごとたまものせんだんあわゆめせん斛,おく本官ほんかん使ぶしふとし、雍恆とうじゅうしゅうしょ軍事ぐんじ、雍州刺史ししおくりな曰文。及葬,王公おうこう以下いか,咸送郊外こうがいはいとおる于文帝廟ていびょうにわ
  7. ^ きた校勘こうかん·まきじゅうさん·列傳れつでんだいじゅういち·さん》:勁弟天恩てんおん しょ于栗磾傳天恩てんおん事跡じせき。按北天恩てんおんため于勁おとうとのり當為とうい孝文たかふみせん時人じじん。其よんせいまごため于謹,よりどころ謹傳,謹死於周たけみかど天和てんわさんねんねんななじゅうろくのりとうなま於魏孝文たかふみみかどふとやわじゅうななねんあずか天恩てんおんいく乎同うたぐしゅう書卷しょかん一五于謹傳不言其為于栗磾子孫,きたとうよりどころ于氏家傳かでんうたぐ事實じじつ
  8. ^ よめせっけいあずかもちたく东海——きたしゅうずいから虏姓于氏谱系けん构之考察こうさつ, 《民族みんぞく研究けんきゅう》 (だい00), 2014ねん, (だい00): 47–50 [2017-10-14], (原始げんし內容そん于2019-05-14) 

延伸えんしん閱讀

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 しゅうしょ·まき15》,出自しゅつじれいきつねとくしゅうしょ

參考さんこう文獻ぶんけん

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