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高珩 - 維基百科,自由的百科全書

こう(1612ねん—1697ねん),ねんひがしごうむらさきかすみ道人どうじん山東さんとう淄川(いま淄博淄川にんあきら末清すえきよはつ政治せいじ人物じんぶつ

生平おいだいら

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なま於明まんれきよんじゅうねん(1612)はちがつじゅうきゅうにちじゅうよんさいおう童子どうじこころみじゅうさいしゅう博士はかせ弟子でしいん[1]たかしただしじゅうろくねん(1643ねん進士しんし,授翰林院かんりんいん庶吉あかりほろびくだなり,授官縣令けんれい

にゅう清後せいご擔任たんにん秘書ひしょいん檢討けんとうれきかん國子くにこかんまつりしゅ詹事しょう詹事、吏部さむらいろう,以事あらためふとつねてらしょうきょうます察院ひだりふくおわりかん刑部おさかべさむらいろうあずかかばまつよわいゆう交往,かばまつよわい曾與だか珩、からゆめとう東遊あずまあそび嶗山[2]晚年ばんねんしんじほとけかんさんじゅうろくねん(1697ねんじゅういちがつじゅういちにちがままつよわいゆうさんしゅ《挽念ひがしだか先生せんせい七言しちごん律詩りっし悼之。

しるゆうあらまさしこうりゃく》、《四勉堂箋刻》、《棲雲かく詩文しぶんしゅうとう

じゅうせいこうあきらちち高所こうしょ,珩為次子じし[3]

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ こう河畔かはんあきらしんめい人傳ひとづて
  2. ^ からゆめ賚在《こころざし壑堂文集ぶんしゅう·雜記ざっきちゅう記載きさい:「みずのえなつゆう嶗山,みるかいとき同行どうこうしゃはちにん初宿しやけおさむしんかんれきうえきよししたきよしあんとうはちせん墩,みずつきやまきゅうれんてん一碧いっぺきさい宿やど青石あおいし澗,かん日出にっしゅつかいいたりばんながえみね微雨びうはつはれひがし望海ぼうかいぎわ一城かずきざい白雲しらくもちゅう,堞數じゅう仞,炮台てきろう歷歷れきれきすうにわかいちにんあおころもいずるみちみなみぎょう一人肩挑雨具從之,こう西にしもちわかしこりひとみ吾輩わがはいしょ同人どうじんかたおどろきうたぐくもとき未見みけん此城,且遷うみ以後いごやすしふくそん此島乎?詢之土人どじんしたがえ同行どうこうしゃ,乃曰:『此海也,ため滄洲そうしゅうとう。』いちしょくごろ,而埤堄漸てい青山あおやまたぶさぶんうつり城山しろやまつきとぼけ如夢寐矣。」
  3. ^ 《淄川だか

參考さんこう書目しょもく

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  • おう:《誥授どおりたてまつ大夫たいふ刑部おさかべひだりさむらいろうねんひがしだかおおやけ神道しんとう碑銘ひめい