葛かずら晏春(1902年ねん—1956年ねん),遼寧りょうねい遼りょう陽ひ人ひと。東北とうほく軍ぐん、中國ちゅうごく人民じんみん解放かいほう軍ぐん將領しょうりょう。
1918年ねん,葛かずら晏春先さき加入かにゅう東北とうほく軍ぐん,並なみ考こう進すすむ東北とうほく陸軍りくぐん講こう武たけ堂どう學習がくしゅう,畢業後ご被かむ張ちょう學まなぶ良りょう送おく往日おうじつ本ほん繼續けいぞく學習がくしゅう軍事ぐんじ,歸國きこく後ご,回かい東北とうほく陸軍りくぐん講こう武たけ堂どう擔任たんにん教官きょうかん。1930年ねん,葛かずら晏春擔任たんにん張ちょう學まなぶ良衛よしえ隊たい營長,1934年ねん時じ曾因所部ところぶ被ひ改編かいへん為國ためくに軍ぐん第だい105師し,而改任にん1旅たび2團だん團長だんちょう,不ふ過か次つぎ年ねん第だい105師し又また恢復かいふく為ため張ちょう學まなぶ良衛よしえ隊たい,葛かずら氏し仍任團長だんちょう一いち職しょく。1936年ねん,張ちょう學まなぶ良りょう發動はつどう西安しーあん事變じへん,葛かずら晏春亦また參與さんよ其中,事變じへん後ご擔任たんにん國軍こくぐん第だい49軍ぐん109師し327旅たび旅たび長ちょう,率りつ部ぶ與あずか日にち軍ぐん作戰さくせん。隨ずい後ご又また任國にんごく軍ぐん熱ねつ河かわ省しょう保安ほあん副ふく司令しれい,以及第きゅうだい9兵團へいだん參謀さんぼう長ちょう、副ふく司令しれい、代だい司令しれい等とう職しょく。
1949年ねん1月がつ,葛かずら晏春跟隨傅でん作つくる義よし轉うたて投とう中國ちゅうごく人民じんみん解放かいほう軍ぐん,任にん華北かほく解放かいほう軍ぐん第だい19兵團へいだん副ふく司令しれい員いん。此後他た曾參加さんか太ふと原げん戰役せんえき、蘭あららぎ州しゅう戰役せんえき、寧やすし夏なつ戰役せんえき。1952年ねん起おこり,他た先後せんご在ざい第だい1、第だい2高級こうきゅう步兵ほへい學校がっこう從事じゅうじ教學きょうがく工作こうさく,至いたり1955年ねん轉任てんにん甘肅かんせい省しょう人民じんみん政府せいふ參事さんじ。
1956年ねん,葛かずら晏春逝世。[1]。