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林历山之战 - 维基百科,自由的百科全书

はやし历山

はやし历山东汉すえねん东吴孙权派遣はけん贺齐平定へいてい阳郡ない陈仆祖山そやま叛乱はんらん

はやし历山
さんこく战役てきいち部分ぶぶん
にちたてやすしじゅうさんねん208ねん
地点ちてん
结果 东吴军全胜平らん
まいり战方
东吴 叛军
ゆび挥官あずか领导しゃ
贺齐 陈仆
祖山そやま
兵力へいりょく
まん
伤亡あずか损失
斩首ななせん

たてやすしじゅうさんねん(208ねん),东吴境内けいだい阳郡てき黟县歙县不断ふだん发生地方ちほうきょうぞくはん吴起ごと。此时,孙权主力しゅりょくせいつつみ围合こえ,为稳てい境内けいだいきょく势,派遣はけん威武いぶちゅうろうはた贺齐りつぜん往镇压。とうたけつよしかのう东阳丰浦よん乡率さき投降とうこう,齐上ひょうげん以叶乡为はじめしん。歙县だいぞくくびきむあまかくりつ其部ぞくまん户分たむろあんつとむさん乌聊やま;黟县だいぞくくび领陈仆、祖山そやま带领部族ぶぞくまん户,たむろはやし历山(黟县南面なんめん)。はやし历山四面悬崖绝壁,だかすうじゅうたけ山路やまじ危狭,ようがたなだて,叛众きょだか临下,难以おおせ敌。吴军徘徊はいかい月余げつよ,无法おさむ。贺齐亲自かん察地がたきさき秘密ひみつつの选矫けんてき勇士ゆうし,携带铁橛,つぶせさん为道,趁夜よじとう上山かみのやましかきさきさい用布ようふ带把山下やました百余精锐士兵拉上去,隐蔽かく处,鼓吹こすいかく。叛众だい惊失措,弃扼もりてき山道さんどう,逃归だい营。吴大军随そくとう上山かみのやま顶向敌营寨猛攻もうこう,一举歼灭盘踞林历山中的陈仆、祖山そやま叛众,斩首级ななせん。歙县てききんあまりつ投降とうこう平定へいてい阳郡きさき,孙权黟县、歙县以及刚平定へいていてきはじむきゅうとうろく县。从丹阳郡划归新都しんとぐん任命にんめい贺齐为新都しんとぐん太守たいしゅ[1]

参考さんこう资料

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  1. ^ 三国志さんごくし まきろくじゅう 吴书·贺齐传》:じゅうさんねん,迁威武中たけなかろうはた,讨丹阳黟、歙。时武きょうかのう乡、东阳、丰浦よん乡先くだ,齐表げん以叶乡为はじめしん县。而歙贼帅きん万户屯安勒山,もうあま万户屯乌聊山,黟帅陈仆,祖山そやまとうまん户屯りん历山。はやし历山よん面壁めんぺきりつこうすうじゅうたけ,迳路危狭,ようがたなだて,贼临だか下石おろじ不可ふかとくおさむ。军住经日,はた吏患。齐身しゅうこう,观视がた便びん,阴募轻捷,为作铁弋,みつ于隐险贼しょ备处,以戈つぶせ斩山为缘どうよるれいせんじょう,乃多县布以援下人げにんとくじょうひゃくすうにん四面しめん流布るふ,俱鸣かく,齐勒へいまち。贼夜闻鼓ごえよんごう,谓大军悉やめとくじょう,惊惧惑乱わくらん不知ふちしょ为,もり备险しゃみなはし还依众。だい军因どくじょう大破たいは仆等,其余みなくだ,凡斩くびななせん。齐复ひょうぶん歙为新定しんじょうはじむ阳、きゅう阳。并黟、歙凡ろく县。权遂わり新都しんとぐん,齐为太守たいしゅたて于始しんへんはた军。

参考さんこう文献ぶんけん

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三国志さんごくし まきろくじゅう 吴书·贺全吕周锺离传》