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諸葛瞻 - 維基百科,自由的百科全書

しょかずら(227ねん—263ねん),おもえどお琅邪山東さんとう沂南けんにんしょかずらあきらてき長子ちょうしさんこく時期じきしょくかん後期こうきてき重臣じゅうしんまたこれ書法しょほう畫家がか。曾為じょうかずいずるにんはねりんちゅうろうしょう最終さいしゅうかんいたりまもる將軍しょうぐん

しょかずら
諸葛瞻
しょかずら瞻畫ぞう
まもる將軍しょうぐん
國家こっかしょくかん
時代じだいさんこく時期じき
主君しゅくんりゅうぜん
姓名せいめいしょかずら
おもえどお
せきあおしゅう琅琊ぐん山東さんとう沂南けん
出身しゅっしんしょくかん成都せいといま四川しせんしょうなり都市とし
出生しゅっしょう227ねん
逝世263ねん(35—36さい) 
綿めんちく

生平おいだいら

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しょかずら瞻戰死處しにどころ四川しせん綿めんちくたてゆうしょかずらそうちゅうほこらきのねんしょかずら父子ふし

美名びめいきょほまれ

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しょかずら瞻是しょかずらあきら晚年ばんねんざいいたてきいん此他じゅうふん關心かんしんしょかずら瞻,ゆう一次收到諸葛瞻的來信,文字もじうつしてき拙劣せつれつしょかずらあきら十分じゅうぶん不滿ふまん[1]同時どうじつげ誡諸かずら瞻日わか飲酒いんしゅよう知道ともみち適度てきど[2]なみとめゆう誡子しょいちへん

234ねんしょかずらあきらざい軍旅ぐんりょちゅううつししんきゅうてき哥哥しょかずらせつ:「瞻今やめはちさいさとしとし可愛かわいいや其早なりおそれ不為ふため重器じゅうきみみ。」(三國志さんごくし·しょくしょ·しょかずらあきらでんしも引同)。

しょかずら瞻17さいめとしょくかんてき公主こうしゅためつまため此,しょくかん授給以騎じょうてき官職かんしょく。這是一種比將軍略低的武官。だいねんまたますため羽林はばやしちゅうろうはたせめ護衛ごえい皇宮こうぐう以後いごまたます遷為しゃごえこうじょうさむらいちゅう尚書しょうしょぼくしゃ軍師ぐんし將軍しょうぐんとうしょく當時とうじよし於益しゅうじん忘舊とく十分じゅうぶんふところねんしょかずらあきら便びんたいしょかずら瞻愛及烏,凡是ゆうりょう成績せいせき都會とかいこう於他。

忠勇ちゅうゆうよし

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263ねんあき曹魏大將軍だいしょうぐん司馬しばあきらさく劃大舉伐しょくいのち鄧艾りつさんまん餘人よにん進攻しんこうきょう,雍州刺史しししょかずらいとぐちのりりつさんまん餘人よにんだん其歸鍾會すべじゅうあまりまん眾主りょく進攻しんこうかんちゅういのちまもるためかんぐんひさ,鍾會おさむやぶかんちゅうきょう維退もりけんかく雙方そうほうしょうした同年どうねんじゅうがつ,鄧艾りつ精兵せいびょうしたがえ陰平かげひら小路こうじ進攻しんこう。鄧艾到達とうたつこうあぶらしょくかん守將しゅしょううま投降とうこう。鄧艾りつぐん迅速じんそくおさむ涪城綿めんちくしょかずら瞻在涪城卻步まえたかしつぎすすむしょかずら瞻快そくまえぎょう,佔據險要けんよう地勢ちせい阻止そしてきぐん進入しんにゅう平地ひらち惜諸かずら瞻猶なみぼつゆう採納さいのうたかしいん流涕りゅうてい。鄧艾長驅ちょうく直入なおいりしょかずら瞻曰:「われ內不じょあきらそとせいきょう維,しん守江もりえわれゆうさんざいなに面目めんぼく而反!」[3]さい後退こうたいもり綿めんちく。鄧艾じんおく書信しょしんきゅうしょかずら瞻,すすむ投降とうこうせつ:「如果投降とうこう必定ひつじょう上表じょうひょうきゅう皇帝こうていふう你為琅邪おう。」しょかずら瞻大いかはた鄧艾使者ししゃ斬首ざんしゅたかし激勵げきれい部下ぶかたたかえただし最後さいごたかしころせしょかずら盡力じんりょく反抗はんこう最後さいごあずかしょかずらなおみな戰死せんし,鄧艾ちくだい以為きょうかん[4]ただししょかずら瞻臨なんてき行為こういれんてきじん表示ひょうじけい[5]ひさ,鄧艾到達とうたつ成都せいとりゅうぜん投降とうこうしょくかん滅亡めつぼう

評價ひょうか

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  • しょかずらあきら:瞻今やめはちさいさとしとし可愛かわいいや其早なりおそれ不為ふため重器じゅうきみみ
  • 鍾會:ともえしょくけん智文ともふみ武之たけゆき士多した矣。いたり足下あしもとしょかずらおもえとおたとえしょ草木くさきわれるい也。
  • たから:瞻雖さとし不足ふそく以扶危,いさむ不足ふそく以拒てき,而能がいまけこく,內不あらためちちこころざし忠孝ちゅうこうそん焉。(《すすむ》)
  • 司馬しばえんしょかずらあきらざいしょくつき其心りょく,其子瞻臨なん而死よし天下てんかぜん一也かずや
  • ちんひさし:瞻工書畫しょがつよ識念,しょくじんついおもえあきら,咸愛其才さと每朝まいあさ廷有いち善政ぜんせいこと,雖非瞻所けん倡,百姓皆傳相告曰:「かずらこう所為しょい也:」以美ごえ溢譽,ゆう其實。
  • 貫中かんちゅう蒼天そうてん有意ゆういぜっえんりゅうかんしつ江山えやまいたる此休。しょかずら子孫しそんみなこう成都せいときょうしょうつき添愁。智謀ちぼう雖不扶危ぬし忠義ちゅうぎこらえまましたけこう古往今來こおうこんらい多少たしょうなみだ行人こうじんあい怨哭墳丘ふんきゅう。《三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ
  • 蔡東はんしょかずら瞻不崇之たかゆきゆずるてき深入ふかいり,猝至戰死せんしとがめざいしょかずら瞻。(《こうかん演義えんぎ》)

家族かぞく成員せいいん

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兄弟きょうだい

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  • しょかずらひさししょかずら長子ちょうしあずか父親ちちおやしょかずら瞻在涪城いちやくちゅう戰死せんし
  • しょかずらきょうしょかずら次子じし。264ねんあずかしょかずらよじ之子ゆきこしょかずらあらわうつりきょ河東かとうざいすすむあさ仕官しかん根據こんきょ三國志さんごくし·裴松ちゅう》,しょかずらきょうしるほかてき才能さいのう任命にんめいため郿(こん陝西せんせいまゆけんれい,而晉あさ大臣だいじんやま濤也稱讚しょうさんしょかずらきょうため郿令時政ときまさ績可たたえおう拔擢ばってきしょかずらきょう最後さいごかんいたりしゅう刺史しし

逸聞いつぶん

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  • 落鳳坡的てらびょう入口いりくちしょてきしょうだいけいてん相傳そうでんためしょかずらあきら之子ゆきこしょかずら當年とうねんてん將之まさゆきゆう神話しんわ故事こじせつざいしょかずら瞻點しょうてきぜん一天いってん,這裡かえ一座いちざ土山つちやまゆう神仙しんせんしょうじょようけんいちてんしょうだいばんじょう神仙しんせん偽裝ぎそうなりうり豬匠,はた其他地方ちほうてき石頭いしあたま往白てら趕,かいいたきよし晨時,一農夫起床看見問神仙在幹什麼,神仙しんせん回答かいとうわがざい趕豬,農夫のうふせつ你明あかり趕的石頭いしあたま怎麼かい豬,法被はっぴてんやぶせいざい路上ろじょうてき石頭いしあたまとましもらいりょう現在げんざいゆうじん參觀さんかん仍然以見いた漫山てき整齊せいせいかたかたまり石頭いしあたまてんしょうだいちょ也真ゆうしゅ完工かんこうてきけいぞう[6]
  • 根據こんきょ華陽かようこくこころざしまきはちしょくちゅうぐんおうとみざい江原えばらかず臨邛一帶造反時自稱自己是諸葛瞻,かむだかとりこおく交給えきしゅう刺史ししただしさかえとえ[7]
  • 四川しせん綿めんちくたてゆうしょかずらそうちゅうほこらきのねんしょくかんまつねんざい綿めんちくせき戰死せんしてきしょかずら瞻及其子しょかずらひさしため四川重要蜀漢遺址之一,現存げんそん有清ありきよだい建築けんちくあずか三國兩晉時期建造的諸葛瞻墓冢。ほこら內有「しょくかんさん叛」ひとしおうしかかおるあずか郝普的石まといし雕跪ぞうあずかしょかずら父子ふし形成けいせい強烈きょうれつ對比たいひ

さんこく演義えんぎ

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  • 小說しょうせつちゅうしょかずら生母せいぼため夫人ふじん父親ちちおやしょかずらあきら夫人ふじん死後しご,以忠孝ちゅうこうため遺訓いくんつとむ其子しょかずら瞻。よう聰明そうめいめとのちしゅりゅうぜん女兒じょじため夫人ふじんかさね父親ちちおや武鄉たけさと侯爵こうしゃくこう遷升ため行軍こうぐん護衛ごえい將軍しょうぐんいんあきら用事ようじ,而託びょう不出ふしゅつ
  • りゅうぜん聽從ちょうじゅう郤正げん即刻そっこく連發れんぱつ三道詔文召諸葛瞻到殿前。りゅうぜん以成受鄧もぐさ侵攻しんこうとうため理由りゆう哭泣,しょかずら瞻愧やまし接受せつじゅりょうへいぼうもりべつりゅうぜんせいそうまちはつ集結しゅうけつしょしょうといだれりょう先鋒せんぽう,一人喊著擔任先鋒之位,這就自己じこてき長子ちょうししょかずらひさししょかずら任命にんめいしょかずらひさしため先鋒せんぽうはなれ開成かいせい對抗たいこうぐんいた綿めんちく進行しんこう駐兵ちゅうへいぼうもり
  • だい一次綿竹防守戰,しょかずら瞻為りょう對抗たいこう鄧艾ぐん使用しようじょう自己じこ父親ちちおやしょかずらあきらてき木像もくぞうよんりんしゃゆずるせいざい進攻しんこう綿めんちくてき鄧忠以為しょかずらあきらつねざい人世じんせいしるべ致敵ぐん混亂こんらん大敗たいはいてきぐん。鄧艾にん回歸かいき而責いか,喊道就算しょかずらあきら在世ざいせい懼怕,而手てき哨兵しょうへい回報かいほうしょかずらあきらてき雕像,鄧艾派出はしゅつにんさいつぎ進攻しんこうしたれい鄧忠さいつぎ失敗しっぱい就必とう斬首ざんしゅ二人ふたりりょういちまん兵馬へいばさいつぎ進攻しんこう
  • だい二次綿竹防守戰,しょかずらなおさきごえだつひと壓倒あっとうせいげきはいにんしょかずら指揮しきりょうたい人馬じんばちょく撞魏じん最後さいごぐんさいつぎ失敗しっぱい。鄧艾二人受傷未有責罵,じょうみとめため不能ふのうさい拖時あいだおう該速やぶため經過けいかあずかかんぐんおかほん商議しょうぎ使者ししゃこうしょかずら瞻遞交招降しょしょかずら瞻看やめいか使者ししゃじんあたま顱領かい鄧艾營地,鄧艾だいいか打算ださん出擊しゅつげきおかほん制止せいし
  • だい三次綿竹防守戰,鄧艾おう牽弘しつらえ伏兵ふくへい於兩つくりしかこうおや攻擊こうげきしょかずら瞻,しょかずら瞻大いか衝入てきぐん陣地じんちかえげき,鄧艾いつわり逃。しょかずら瞻追げき途上とじょう伏兵ふくへいげきはい退すさもり綿めんちく。此時,鄧艾あずか眾將へいぞう鐵桶てっとう般圍ちょ綿めんちくしょかずら瞻見此事危急ききゅう彭和齎書逃出,趕至ひがしくれ救援きゅうえんいたりひがし吳吳くれぐれしゅまごきゅうあずか大臣だいじん討論とうろん決定けってい出兵しゅっぺいろうしょうひのとたてまつづくしゅそちりつさん萬兵力從壽春進發,ちょうふうじまご人為じんい副將ふくしょうりつへい五萬到沔中前進。しょかずら瞻不すくいへいたい眾將せつ:「長時間ちょうじかん這樣ぼうもり辦法。」とめしょかずらなおちょう自己じこ引兵出城でしろ進擊しんげき。鄧艾しょかずら瞻引へい出城でしろ便びんさいつぎいつわり逃,しょかずら瞻追趕忽しか四面しめん出現しゅつげん伏兵ふくへいしょかずら瞻圍じゅう,雖然しょかずら瞻引へいころせりょうすうひゃくにんただし最後さいご鄧艾指揮しきてき弓手ゆんで自軍じぐんろういたつぶせ自己じこ也射たおせざい馬下まおろししょかずら大呼たいこ最後さいご自刎じふん報國ほうこくしょかずらひさしざいしろじょういた父親ちちおや死後しご憤怒ふんぬ出城でしろ最後さいご於陣ちゅう。鄧艾憫にん忠孝ちゅうこうはたにんごうそうなみ趁勢おさむ綿めんちくちょう遵、たかしたまさんにん各自かくじ引軍抵抗ていこう惜窮へいしたたい鄧艾ぐんじんさんにん最終さいしゅう戰死せんしくれぐん聽到しょくぐん失敗しっぱい淪陷,便びん引軍退すさかえ

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ 《戒子どおりろくまき3:まいとくらい疏,しょなおほぼつたなあに修之のぶゆきつとむ而量有限ゆうげん耶?
  2. ^ 太平たいへい御覽ごらんまきよんひゃくきゅうじゅうなな引《しょかずらあきらしゅう》:おっとしゅしつらえごうれい致情,てきたいせいれいおわり而退,此和いたり也。主意しゅい殫,まろうど有餘ゆうよ倦,以致よい致迷らん
  3. ^ 元和げんなぐんけんこころざしまきさんじゅういちはつ,瞻在涪而もぐさやめ入江いりえ,瞻曰:「われ內不じょあきらそとせいきょう維,しん守江もりえわれゆうさんざいなに面目めんぼく而反!」すすむたむろ綿めんちくうめじん腳而せん父子ふし焉。
  4. ^ 元和げんなぐんけんこころざしまきさんじゅういち:鄧艾たいらしょくきょうかんざいけんきたさんじゅうさんさともぐさ以景もとよんねんせいしょく大破たいはしょかずら瞻於綿めんちくちくだい以為きょうかん
  5. ^ すすむしょまき35裴松ちゅう引《すすむたいはじめ起居ききょちゅうみことのり曰:「しょかずらあきらざいしょくつき其心りょく,其子瞻臨なん而死よし天下てんかぜん一也かずや。」
  6. ^ 庞统ほこら 庞统ほこらはかかい. くにしゅうもう. [2011-10-25]. (原始げんし內容そん檔於2020-09-05). 
  7. ^ 華陽かようこくこころざし》:たいはじめよんねんちゅうぐんおうとみ有罪ゆうざい逃匿,みつゆい亡命ぼうめいけいとくすうひゃくにん自稱じしょうしょかずらまもるおこり臨邛,てんおかせ江原えばら江原えばら方略ほうりゃく吏李だか、閭術(一說いっせつ高之たかゆき),ばくとみおくしゅう刺史ししわらわさくこれはつしょかずら瞻與鄧艾せん於綿ちく也,ぜに寫本しゃほん無死むししつあるげんせいはしふか逃。おやへいげんとみ貌似瞻,とみかり也。

延伸えんしん閱讀

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[へん]

 三國志さんごくし·まき35》,出自しゅつじちんひさし三國志さんごくし
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