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北史/卷009 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

きた/まき009

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 まきはち きた
まききゅう

しゅう本紀ほんぎじょうだいきゅう

まきじゅう 

ふとしぶんみかど こう閔帝 そうあきらみかど

ぶんみかど

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  周太しゅうたぶん皇帝こうていせい宇文うぶんいみなたいくろうそだいぐん武川むかわじん也。其先出自しゅつじえんみかどほのおみかどためみかどしょほろび子孫しそん遁居ついたち。其後ゆうかずらがらすうさぎしゃ雄武おうむさんりゃく,鮮卑奉以為ぬしとげそうじゅう部落ぶらくせいため大人おとな。及其裔孫曰普かいいんかりとくだまさんひもぶん曰「皇帝こうてい璽」,ひろしかい以為天授てんじゅおのれどくこと。其俗いい天子てんし曰「宇文うぶん」,故國ここくごう宇文うぶんなみ以為ひろしかい莫那,かげ山南さんなん徙,はじめきょりょう西にし曰獻こうためしゅうとおいくに莫那きゅうせいいたりこうまめため慕容あきらしょめつ。其子りょうつかまつつばめはい駙馬じょうふうげんうさぎこう。及慕ようたからはいかえりはいまぎぬしたまもの安定あんていこうてんきょうはつ豪傑ごうけつ於代りょうずいれい徙居武川むかわそくため其郡縣人けんじん焉。りょうせいけいけいせい韜,韜生皇考こうこうひじなみ以武略稱りゃくしょうひじにん俠有みきせいひかりまつ沃野よくや鎮人やぶ六韓拔陵作亂,其偽しょおうまもる最盛さいせいひじ糾合きゅうごう鄉里きょうり瑰,其眾乃散。おちい鮮于おさむれいためていしゅうぐんしょやぶ戰沒せんぼつ於陣。たけしげるはつつい謚曰とく皇帝こうてい

  みかどとく皇帝こうてい少子しょうし也。はは曰王はつがつよるゆめだきますてんさいいたり而止,寤,以告とく皇帝こうていとく皇帝こうてい曰:「雖不いたりてんとうとまたごく矣。」みかどせい而有くろ如蓋,したくつがえ其身。及長,身長しんちょうはちしゃくぽう顙廣がくよし須髯,はつちょうたれしゅひざゆう黑子ぼくろあててんわかりゅうばんかたちめんしょくむらさきひかり人望じんぼう而敬かしここれしょうゆう大度たいどこと家人かじん生業せいぎょうけいざいこうほどこせ,以交ゆいけん大夫たいふためつとむずいとく皇帝こうていざい鮮于おさむれいぐん。及葛さかえころせおさむれいみかどねんじゅうはちさかえにん將帥しょうすい,察其なりはかりごとあずか諸兄しょけいこれけいくだりかいさかえめついんずいしかしゅさかえ遷晉さかえみかど兄弟きょうだいゆうすぐるとげ讬以ざい誅帝だいさんあにらくせいみかど以家冤自むね慷慨こうがいさかえかん而免えきけいまちはじめ以統ぐんしたがえさかえ征討せいとう以別はたしたがえ拔嶽討北海王かいおう顥於洛陽らくようこうそうはんせい,以功ふうやすし都子くにこしたがえだけいれせきひらまん俟醜やつぎょうはらしゅうごとどきせき、隴寇みだれみかどなで以恩しんじ百姓ひゃくしょうみな,曰:「ぐう宇文うぶん使くんわれとうあにしたがえぎゃくらん。」みかど嘗從すう於野,ゆるがせ聞簫おと,以問從者じゅうしゃみな莫之聞,どくこと

  ひろしたいねんしかしゅたかしこうひがしこばめひとし神武じんむとめおとうとあらわことぶき鎮長やす,召秦しゅう刺史ししこう莫陳えつ東下ひがししもたけてんこう必敗,よくとめえつどもあらわことぶきけい所出しょしゅつみかどいいだけ曰:「こんてんこうなおちかえつ未必みひつ貳心ふたごころわか以此ごとつげおそれ其驚懼。しかえつ雖為主將しゅしょう不能ふのうせいぶつわかさきせつ其眾,必人有留ありどめしんすすむしつなんじしゅこれ退すさこわ人情にんじょう變動へんどうわかじょう此說えつこととげ。」たけ大喜だいぎそくれいみかどにゅうえつぐんせつえつとげあずかたけかさね長安ながやすみかどけいためぜんほこさきついいたりはなかげ,禽顯ことぶき。及嶽ため關西大かんさいだいぎょうだい,以帝ためひだりすすむりょうたけ司馬しばこと巨細きょさいみなけつ焉。ひとし神武じんむすんでじょしかしゅとげせん朝政ちょうせいみかど請往かんいたり并州。神武じんむ以帝非常ひじょうじん,曰:「此小兒しょうに眼目がんもくこと。」はたとめみかど詭陳ちゅう款,左右さゆうもとめ復命ふくめいばいどう而行。くだり一日而神武乃悔,はつじょうえき千里せんりついみかどいたりせき及而はんみかどかえいいだけ曰:「こう歡豈人臣じんしんよこしまぎゃくはかりごと未發みはつしゃはばかおおやけ兄弟きょうだいみみほう莫陳えつほんじついさおざいまた不為ふため歡忌,ただし為之ためゆき備,なんいま也頭ひかえつるこれしたいちまんなつしゅう刺史ししかい拔彌にわか突,しょうへいさんせん餘人よにん,及靈しゅう刺史しし曹泥,なみ僻遠へきえんつねふところもち河西かさい流人るにん紇豆りょうとう戶口とぐちとみたてまつ朝風あさかぜこんわかうつりぐんきん隴,扼其要害ようがいしめせ以威,ふところ以德,そくおさむ其士,以資われぐん西にし輯氐、羌,きたなですなふさがかえぐん長安ながやすただし輔魏しつ,此桓ぶん舉也。」たけだいえつふくみかどまい闕請ごとみつひね其狀。みかどおさめみかどたけまもる將軍しょうぐんかえれいほうだけたけとげ引軍西にしたいらすずしたけ以夏しゅう鄰接寇賊,欲求よっきゅうりょう刺史しし以鎮,眾皆舉帝。たけ曰:「宇文うぶんひだりすすむわれ左右さゆうしゅなにはい也。」沈吟ちんぎん累日るいじつ,乃從眾議,おもてみかどためなつしゅう刺史ししみかどいたりしゅうもちふう款附,而曹どろなおつう使於齊おさい神武じんむ

  えいさんねん正月しょうがつ拔嶽よく討曹どろみやこただしちょうたかいたりなつしゅうあずかみかどはかりごとみかど曰:「曹泥孤城こじょう阻遠,あしためほう莫陳えつむさぼ而無しんじこれむべさき也。」たけ聽,とげあずかえつ俱討どろがついたり河曲かまがりはてためえつしょがい。眾散かえひらりょうただだいとくちょうたかりつきょくおさむだけかばねかえ營。三軍さんぐん未知みち所屬しょぞくしょしょう以都とく寇洛ねん最長さいちょう,推總兵事へいじらくもと雄略ゆうりゃく威令いれいくだり,乃請避位。於是ちょうたかげん於眾,しょうみかど英姿えいし雄略ゆうりゃくわかつげ,必來赴難,いん而奉大事だいじずみ矣。しょしょうみなしょうぜん,乃令赫連たちはせいたりなつしゅうつげみかど吏咸泣,請留うけどめ以觀其變。みかど曰:「なんとく而易しつしゃ也,俟終しゃ也,こんはや赴,はたおそれ眾心はなれ。」みやこただしわたるあねもとすすむぶんまわしおうえつみつみかどことはつこれみかど乃率ちょうけいはせ赴平すずしときひとし神武じんむちょうこうけい招引だけ眾。みかどいたり安定あんていぐう於傳しゃ。吐哺上馬かみうまいい曰:「拔公雖死,宇文うぶんたいなおそんきょうなんため也?」けいしつしょく曰:「わがなおみみずいじんしょしゃしゃ也。」けい於此還。みかどいたりたいらすずか,哭嶽甚慟。將士しょうし悲且曰:「宇文うぶんこういたりところゆう矣。」ひとし神武じんむまた使つかいけいあずかつねさむらいちょう華原かはらよしやすし太守たいしゅおうはじめろうみかどみかど受命じゅめいあずかもとゆうきゅうはたとめなみよくとめけいなみ不屈ふくつ,乃遣とき斛斯椿つばきざいみかどしょ,曰:「けい人傑じんけつ也,何故なぜこれ?」みかどまた悔,えきおい及。もとまた逃歸にげかえげんみかどゆうすぐる,請及其未定みていめつ神武じんむ曰:「きょう拔、ほう莫陳乎,われとう以計拱手こうしゅこれ。」及沙えんはい神武じんむ乃始つい悔。

  於時みかどしょう神武じんむ,聞嶽被害ひがいたけまもる將軍しょうぐんもと毗宣むねろうだけぐんついかえ洛陽らくよう。毗到たいらすずかかいしょしょうやめ推帝。ほう莫陳えつまた敕追かええつすんで神武じんむ應召おうしょうみかど曰:「えつ枉害忠良ただよしふくおうみことのりいのち,此國大賊たいぞく。」乃令しょぐん戒嚴かいげんはた討悅。及毗還,みかどひょう於魏みかど以高歡至河東かとうほう莫陳えつざいみずらく首尾しゅび受敵,乞少とまなるみかどこころざしざい討悅,而未はかあさむね,且眾しゅうかりため此辭。いんあずかもと毗及しょしょうけい牲盟ちかいどう獎王しつはつ拔嶽營河きょくぐん獨行どっこうゆるがせいちおきないい曰:「拔雖よりどころ此眾,おわりしょなりとうゆう一宇文家從東北來,大盛おおもり。」げん訖不いたりかたけん

  みかどいんみことのりみかどためだいとくそくすべ拔嶽ぐんみかど乃與えつしょせめ以殺拔嶽ざいまた喻令歸朝きちょうえつ乃詐ため詔書しょうしょあずかしんしゅう刺史ししまん俟普ばちれいためおのれ援。ひろしばちうたぐこれふう以呈みかどみかどひょうそうみかどいんといみかどやすしん、隴計。みかど請召えつ,授以內官,及處以瓜、りょういち籓。しかのりおわり致猜おそれ三月さんがつみかど進軍しんぐんいたりはらしゅう,眾軍悉集,さとし以討えつ士卒しそつ莫不なつけいきどおよんがつ,引兵じょう隴,とめ兄子せこ遵為とく,鎮原しゅうみかど軍令ぐんれい嚴肅げんしゅく秋毫しゅうごうおかせ百姓ひゃくしょうだいえつぐんかいせき大雪おおゆき平地ひらちしゃくみかどえつおびえ而多猜,乃倍どう兼行けんこう不意ふいえつはてうたぐ左右さゆうゆうこころざし左右さゆうやす,眾遂はなれ。聞大ぐん且至,退すさりゃくとめ一萬餘人據守永洛。みかどいたりかこえこれしろくだみかどそくけいすうひゃくおもむきりゃく,以臨えつぐん。其部將ぶしょうみなすすむえつ退すさじょう邽。ときみなみしんしゅう刺史しし弼亦ざいえつぐんあいだ使つかい請為內應。其夜,えつぐんぐんおどろきつぶせ將卒しょうそつあるみかどたてへい奮擊,大破たいはえつあずか子弟してい及麾すうじゅう遁走とんそうみかど乃命げん州都しゅうととくみちびけついえついたり牽屯やまこれつてくび洛陽らくようみかど至上しじょう邽,えつ財物ざいぶつ山積さんせきみな以賞士卒しそつ,毫厘しょ左右さゆう竊以いちぎんみかど而罪そく剖賜將士しょうし,眾大えつひとし神武じんむ聞關隴克とし使つかい於帝,ふかあい倚結。みかどこばめ不納ふのうふう神武じんむしょ以聞。

  とき神武じんむやめゆうこころざしみかどふか仗於みかど,仍令みかどやや引軍而東。みかど乃令だいとくはり禦率せんはた鎮河、渭合こうため河東かとうけいみかどしんみかどさむらいちゅう、驃騎大將軍だいしょうぐん開府かいふどうさんつかさ關西大かんさいだいとくりゃくけんこううけたまわせいふうはい使つかいぶし如故。どきみかど方圖ほうずひとし神武じんむまたせいへいみかど乃令ぜんしんしゅう刺史しし駱超ためだいとくりつけいいちせん赴洛。みかどしん授帝けん尚書しょうしょひだりぼくしゃ關西大かんさいだいぎょうだいかん如故。みかど乃傳げきかた鎮曰:

  ぶた聞陰遞用,盛衰せいすいしょうかさね。茍當ひゃくろくさんすめらぎそうれきすえ蒼生そうせい保安ほあん四海しかいじんそだてまんぶつうん距孝あきらたむろ沴屢おこり,隴、冀騷動そうどうつばめかわおおかみ顧。雖靈いのちじゅうけいとろけてい有期ゆうき,而乘釁之いんつばさせい賊臣ぞくしんだか歡,うつわ識庸出自しゅつじ輿こし皂,罕聞れいちょく以一かいたかけん效力こうりょくえびすこう,靦冒おんわたしとげかいさかえちょう不能ふのう竭誠つきぶしせんはさみ奸回,乃勸しかしゅさかえぎょう茲篡ぎゃく。及榮以專せいふく誅,せいたかし以凶黨外とうがい叛,歡苦しょうあつしつとむれい京師けいしまたすすむまんふくため弒虐,暫立たてあきら,以令天下でんかかり推普たいよく竊威けんなみはい斥,俱見こくがい。於是しょうへい河北かほくかり討爾しゅ,亟通ひょうかなでくも讒賊。すんでぎょうはい黜,とげはた篡弒。以人望じんぼうあらためおそれかなえ鑊交及,乃求宗室そうしつけんまこと人心じんしん天方あまがたあずか,必將ゆうぬし,翊戴ひじりあきらまこと歡力。而歡阻兵やすしのべ以為こうこうぬの腹心ふくしんまたがしゅうれんぐんはし揆禁闥,莫非おやとうみなぎょうむさぼしいたげ,窫窳生靈いきりょう。而舊しょうめいしん正人まさと直士なおしよこせいかさいわどうかけ網羅もうらたけまもる將軍しょうぐん琳,せい直武なおたけあつしきんたび攸屬,ちょくかく將軍しょうぐん鮮于康仁やすひとただしあきら驍傑,爪牙そうが斯在,歡收而戮,曾無聞奏。つかさそらだかみき其黨あずかまいあい影響えいきょうはかりごと社稷しゃしょくただし奸誌したがえおそれさき泄漏,乃密しろ朝廷ちょうてい使つかいころせだかみきぽう哭對其弟,しょう天子てんしよこ戮。まごあがにんさち,歡之こころ膂,なみ使入居にゅうきょくるるちか,伺國間隙かんげき歡逆はかりごとしょうはつそうつぎ逃。歡益なでまてまたひねしろしか入洛にゅうらくはじめ本有ほんゆう奸謀。れいおやじん蔡俊さくまきかわすみ厚相こうしょうおん贍,ため東道とうどう主人しゅじん關西大かんさいだいとく清水しみずこう拔嶽,勛德隆重たかしげ興亡こうぼう攸寄。歡好らんらくふかしょうどく,乃與こう莫陳えつかげおちいがい幕府ばくふ以受りつせんせい便びんそく討戮。歡知ぎゃくじょうやめややふところたびこばめとげ蔡俊こばめだいれい竇泰またほうけいとうくもこう白馬はくば,輔世ちんとうみちおもむきせきずみこう隆之たかゆき、及婁あきらとうたむろよりどころつぼせきかん軌之よう眾蒲ばん。於是上書うわがき天子てんしかずろん得失とくしつ,訾毀じょう輿こしあなど朝廷ちょうてい。藉此ほろいさお,冀茲大寶たいほうけい壑可みつるわざわいこころ不測ふそくあるげんみち赴荊、すわえひらき疆於がいあるげんぶんまいらくかれ讒人,あるげんほしらいいれせきあずか幕府ばくふ決戰けっせんこんひじりあきら禦運,天下てんかきよしえびすひゃく僚師よん隩來暨,にん盡忠じんちゅうりょうだれため君側くんそく?而歡ぶく自己じこなまらんかい,緝構みなみゆび鹿しかため包藏ほうぞうきょうぎゃく,伺我神器じんぎ而可しのべ,孰不可ふかよう幕府ばくふおりおき宇宙うちゅうおやとう受脤,するどひゃくまん,彀騎せんぐん,裹糧すわかぶとただてき俟,義之よしゆき所在しょざい,糜軀匪吝。しきゆう詔書しょうしょはんつげ天下でんかしょう歡逆みだれせいへい致伐。こん便びんぶんいのち將帥しょうすいおうしん討。あるおもむき要害ようがいあるかさね其窟あなでんにょうへびげききりごう星羅せいら。而歡たがえ天地てんちどくひとおにじょう掃蕩そうとうえきどう俯拾。歡若かわやや逼宮びょうのりぶんいのちしょしょうちょく并州。幕府ばくふ躬自ひがしながえでん赴伊、らくわかかた其巢あな發動はつどうまたいのちぐんそち百道ももじ俱前,轘裂賊臣ぞくしん,以謝天下でんか。其州鎮郡けん率土そっとはじむじんあるしゅうきょうかんむり冕,ある勛庸ずみなみよろししゃぎゃく歸順きじゅんたてこう軍門ぐんもんふうしょうやめゆう別格べっかく凡百ぼんぴゃく君子くんしつとむ哉。

  みかどいいしょぐん曰:「こう歡雖さとし不足ふそく而詐有餘ゆうよこんこえげんよく西にし,其意ざい入洛にゅうらくわれほっれい寇洛りつまんあまり涇州ひがし引,おうひぐまりつかぶといちまんさきよりどころはなしゅう。歡若西にしらいおうひぐまあしとく抗拒こうきょ,如其入洛にゅうらく,寇洛そくかさね汾、すすむわれ便びんそくちょく赴京邑,使つかい其進ゆう內顧ゆう退すさゆう躡之ぜいいち舉大じょう,此為上策じょうさく。」眾咸しょうぜんなながつみかどそち眾發高平たかひらぜんぐんいたり於弘のう。而齊神武じんむやや逼京みかどおやそうろくぐんたむろかわきょうれいひだりまもるもとあきらりょうぐん斛斯椿つばき鎮武ろうみかどいい左右さゆう曰:「こう數日すうじつぎょうはちきゅうひゃくあかつきへいしゃしょせい須乘便びんげき。而主じょうまんじょうおも不能ふのうかわ決戰けっせんぽうえんよりどころもり。且長かわまん,捍禦ためなんいちしょ得度とくど大事だいじ矣。」そく以大とくちょうたかためべつ道行みちゆきだいがまばんわたるおもむき并州。だいとくけんはたせいいちせん赴洛かいあきらあずか斛斯椿つばきそうけん,鎮防もりみかどとげけいいれせきみかど備儀まもる奉迎ほうげい謁見えっけん於陽えきめんかんむり流涕りゅうてい謝罪しゃざい。乃奉帝都ていと長安ながやす。披草萊,たて朝廷ちょうてい軍國ぐんこくせい,咸取けつ於帝。仍加授大將軍しょうぐん、雍州刺史ししけん尚書しょうしょれいしんふうりゃくぐんこう別置べっち尚書しょうしょずい處分しょぶんかい尚書しょうしょぼくしゃ如故。

  はつみかどざい洛陽らくようもと以馮翊長公主こうしゅはいみかど結納ゆいのう而魏みかど西にし遷。いたりみことのりみかど尚之なおゆきはいじょうはちがつひとし神武じんむかさねおちい潼關,おかせはなかげみかどりつしょぐんたむろ霸上以待神武じんむとめ其將薛瑾もりせき而退。みかど進軍しんぐん瑾,とりこ其卒ななせんかえ長安ながやすしん丞相じょうしょう十一月じゅういちがつただしどうとらあずか弼、ちょうたかとう討曹どろ於靈しゅうとら引河灌之。明年みょうねんどろくだ,遷其ごうそち於咸十二月じゅうにがつこうたけみかどくずれみかどあずかぐん公定こうていさつみことりつ南陽なんようおうたから炬為嗣,ためぶんみかど

  だいすべ元年がんねん正月しょうがつおのれとりみかどしん帝都ていととく中外ちゅうがいしょぐんろく尚書しょうしょごとだいくだりだいあらためふう安定あんていぐんおうみかどかたゆずるおう及錄尚書しょうしょみかどもと,乃改ふう安定あんていぐんこうあずまたかしはたどうつかさ馬子まご如寇潼關,みかどぐん霸上。如乃かいぐんがま寇華しゅう刺史ししおうひぐまげきはしこれ三月さんがつみかどいのち有司ゆうしためじゅうよんじょう新制しんせいそうぎょう

  ねんがつしんしゅう刺史ししたてただしおう万俟普撥率所部入東魏。みかどけいおいいたり河北かほくせんあまりさと及而還。

  さんねん正月しょうがつあずまたかし寇龍もんたむろぐんがまばんみやつこさんみち浮橋うきはしかわまた其將竇泰おもむき潼關,こうのぼるかこえらくしゅうみかどぐん廣陽こうよう,召諸はたいい曰:「ぞく掎吾さんめんまたみやつこきょうしめせよく必度,よくつづりわれぐん使つかい竇泰とく西入にしいりみみ。且歡おこりへい以來いらいたいごと先驅せんくしたおおするどそつ,屢勝而驕。こんかさね必克。かつたいのり歡不せん而走矣。」しょしょう咸曰:「ぞくざいきんしゃ而襲とおわか跌,悔何及也。」みかど曰:「歡前さいかさね潼關,われぐん霸上。いましゃだいらいいいわれただしもりみみまた狃於とくこころざしゆうけいしんじょう此擊なに往不かつぞく雖造きょうのうみちにちちゅうわれたい必矣。」かのえいぬみかどかえ長安ながやすこえげんほしこう隴右。からし,謁魏みかど而潛ぐんいたり小關おぜき。竇泰そつ聞軍いたりちん未成みせいみかどげきつき俘其眾,たいつて首長しゅちょうやすこうのぼる聞之,焚輜重しちょう而走,ひとし神武じんむまた撤橋而退。みかど乃還。六月ろくがつみかど請罷ぎょうだいみかどふくさるぜんいのち,授帝ろく尚書しょうしょごとかたゆずる乃止。はちがつちょううしみかどりつ弼、どくしんじりょう禦、ちょうたか、於謹、若干じゃっかんめぐみ、怡峰、りゅうあきらおういさおほう莫陳たかしとおいたる奚武とうじゅうしょうひがしいたり潼關。みかど乃誓於師曰:「あずかしかゆう眾,奉天ほうてん,誅暴らんおもんみなんじ眾士,せいなんじかぶとへい,戒爾えびすごとむさぼざい以輕てき暴人以作用命ようめいそくゆうしょう用命ようめいそくゆう戮,しか眾士其勉。」乃遣於謹さき徇地いたりばんまめ,拔之。ひがししょうだか叔禮,おく於長やす戊子ぼしいたりひろのうおさむしろつぶせ。禽東陜州刺史しし徽伯,とりこ其戰はちせん守將しゅしょうだか千走ちわせかわいのち拔勝つい禽之,なみおく長安ながやす。於是むべ、邵郡みなさき河南かなん豪傑ごうけつおうひがししゃみなくだ

  ひとし神武じんむ懼,りつ眾下がまばんはたきさきずみ其將だかのぼるさんまん人出ひとで河南かなんこれさいせきちゅうひだるみかどかんたに於弘のうじゅうにちどきぐん不滿ふまんまんにん,聞神武將ぶしょう,乃還。神武じんむとげかわ,逼華しゅう刺史ししおうひぐま嚴守げんしゅ,乃涉らくぐん於許げん西にしみかどいたり渭南,せいしょ州兵しゅうへいかいはたげきしょしょう以眾寡不てき,請且まち歡更西にし以觀みかど曰:「歡若いたり咸陽,人情にんじょうてん騷擾そうじょうこん及其しんいたりげき。」そくづくり浮橋うきはし於渭,れいぐんさんにちかてけい渭,輜重しちょう渭南,夾渭而西。じゅうがつみずのえたついたりすなえん,距齊ぐんろくじゅうあまりさと神武じんむ引軍來會らいかい癸巳きしほうつげひとしぐんいたりみかど召諸はたはかりごと弼曰:「かれ眾我寡,不可ふか平地ひらちおけじん。此東じゅうゆう渭曲,さきよりどころ以待。」とげすすむいたり渭,背水はいすい東西とうざいためじん弼為みぎこばめちょうたかためひだりこばめいのち將士しょうしみな偃戈於葭あしちゅう,聞鼓ごえ而起。にち晡,ひとしいたり望見ぼうけんぐんしょうきおい萃於ひだりぐんらんなりれつへいはた交,みかどみな奮起ふんき。於謹とうろくぐんあずかこれ合戰かっせん弼等りつ鐵騎てっきよこげきぜっ其軍ためとげ大破たいはろくせんきゅう,臨陣くだしゃまん餘人よにん神武じんむよる遁,ついいたり河上かわかみふくだいかつ前後ぜんごとりこ其卒ななまんとめ其甲へいまんあまり悉縱おさむ輜重しちょうへいかぶとけんじ俘長やすきよし曰:「こう歡膽やぶ矣,逐之。」みかど聽,乃還ぐん渭南。どきしょせいしょ州兵しゅうへいはじめいたり。乃於せんしょじゅん當時とうじへい人種じんしゅじゅいちかぶ,栽柳ななせん,以旌武功ぶこう

  みかどしんみかどばしらこく大將軍だいしょうぐんぞう邑並まえせん弼等じゅうしょうまたすすむ爵增邑。以左ぼくしゃ、馮翊おうもとうみためぎょうだいあずか開府かいふどくしんそちまんこう洛陽らくよう拔勝、弼度かわかこえかばばんかばばん鎮將だかしん開門かいもんおさめ勝軍かちいくさあずまたかしはた薛崇れい棄城はしかつひとしついこれみかど進軍しんぐんがまばんほぼてい汾、絳。はつみかどひろのういれせきあずまたかしはたこうのぼるかこえひろのう。聞其ぐんはい退すさまもり洛陽らくようどくしんいたりしんやすのぼるふくはしたびかわとげ入洛にゅうらくはりひねやめ西にしはた吏降しゃしょうぞく。於是ひがししょう堯雄、ちょういくくも寶出ほうで潁川,よくふくくだみかどただしどう宇文うぶんたかりょう遷等ぎゃくげき大破たいはちょういくひがしふくにんさちりつ河南かなんへいあずか堯雄あいただしどう怡峰あずかとうと、遷等ふく擊破げきはまたとく韋孝ひろししゅうくもたからころせ其東あげしゅう刺史しし椿つばき,以州

  よんねんさんがつみかどりつしょしょう入朝にゅうちょうれい畢還はなしゅうなながつあずまたかししょうこうけいとうかこえどくしん於洛ひとし神武じんむつぎみかどたてまつみかどいたりたにじょう,臨陣あずまたかしはた莫多婁貸ぶん,悉虜其眾,おくひろのうとげ進軍しんぐん瀍東。けいとうよるかいかこえ。及旦,みかどりつけいおいいたり河上かわかみけいとうきたよりどころかわきょうみなみぞくすすきやまためじんあずかしょぐんせんみかどちゅう流矢ながれやおどろきいっぐんちゅう擾亂じょうらんみやこただしきよし下馬げば授帝,ぐんふく。於是大捷たいしょう其將だかのぼるたけしそうあらわとうとりこ其甲いちまんせんにん,赴河死者ししゃまんすうおけじんすんでだい首尾しゅびかかとおしたがえだんいたりせんすうじゅうごう,氛霧よんふさが,莫能相知おうちどくしんじどおきょみぎちょうたか、怡峰きょひだりせんなみ不利ふりまた未知みちみかど及帝所在しょざいみな棄其そつさき開府かいふとらねんけんとうためぐんぐうしんとう退すさそくあずか俱還。よしはん洛陽らくようまたしつもり大軍たいぐんいたりひろのう守將しゅしょうみなやめ棄城西にしはしところとりこくだそつざいひろのうしゃいんしょうあずか閉門へいもんこばめもり進攻しんこう拔之,誅其さきがけくびすうひゃくにん大軍たいぐんひがし也,せきちゅう留守るすへいしょう,而前後ぜんごしょとりこひがし士卒しそつみな散在さんざい百姓ひゃくしょうあいだ,乃謀らん。及李とらとういたり長安ながやすけい所出しょしゅつ。乃與太よたじょうおうめいぼくしゃしゅうめぐみたち輔魏太子たいし渭北。せきちゅう大震たいしんおそれ百姓ひゃくしょうしょうひょうげこう。於是すなえんしょ俘軍じんちょうあおすずめ、雍州じん於伏とくとうとげはんあおすずめよりどころ長安ながやすじょうふくとく咸陽,與太よたもり慕容おもえかくおさむくだそつ,以拒かえ長安ながやすじょうじんみなしょうりつこばめあおすずめ每日まいにち接戰せっせんみかどとめとめ閿鄉,れいみかど討之。長安ながやす父老ふろうみかど,且悲且喜曰:「不意ふい今日きょうふくとくこう。」おんな咸相はなしゅう刺史しし宇文うぶんしるべかさね咸陽,おもえ,禽伏とくみなみ渭,あずかみかどかいおさむやぶあおすずめふとしでんはりけい睿先以疾とめ長安ながやすとげあずかあおすずめ通謀つうぼういたりまたふく誅,せきちゅう乃定。みかどかえ長安ながやすみかどふくたむろはなしゅう十二月じゅうにがつくもたからかさね洛陽らくようあずまたかしはたおうもと軌棄じょうはしみやこただしちょうつよしかさね廣州こうしゅう拔之,じょうこう以西いせいじょう鎮復西にしぞく

  ねんふゆだい閱於はなかげ

  ろくねんはるあずまたかししょうこうけいさんからすはたおかせ荊州。みかど開府かいふ弼、どくしんじかくりつたけせきけい乃還。なつ,蠕蠕かわいたりなつしゅうみかど召諸ぐんたむろすなえん以備

  ななねんじゅういちがつみかどそうぎょうじゅうじょうせいおそれ百官不勉於職事,またしたれいさるあかり

  はちねんじゅうがつひとし神武じんむおかせ汾、絳,かこえだまかべみかどぐんがまばん神武じんむ退すさ汾追とげ遁去。十二月じゅうにがつみかどかり於華かげ大饗おわい將士しょうしみかどそちしょしょうあさ於行在所ざいしょ

  きゅうねんがつあずまたかしきたしゅう刺史ししだかまき舉州らいみかどそちむかえこれ三月さんがつひとし神武じんむよりどころすすきやまじんすすむしゃ數日すうじつみかどとめ輜重しちょう於瀍きょくぐん銜枚,よるとうすすきさん未明みめいげき神武じんむ單騎たんきため拔勝しょ逐,僅免。みかどりつみぎぐん若干じゃっかんめぐみ大破たいは神武じんむぐん,悉虜其步そつちょうたかとう將軍しょうぐんきょひだりせん不利ふり神武じんむふく合戰かっせんみかどまた不利ふりよる引還。いれせきたむろ渭上。神武じんむすすむいたり陜,開府かいふたち奚武とう禦之,乃退。みかど以芒やましょしょうしつりつ上表じょうひょう貶,みかどもと。於是こうつのせき隴豪みぎ,以增軍旅ぐんりょじゅうがつだい閱於くぬぎかえたむろはなしゅう

  じゅうねんがつみかどあさ京師けいしなながつみかど以帝前後ぜんごしょじょうじゅうよんじょうじゅうじょう新制しんせいぽうため中興ちゅうこうながしきいのち尚書しょうしょ綽更損益そんえきそうためかんはん於天。於是さがせ賢才けんさいためまきもりれい,習新せい而遣焉。すう年間ねんかん百姓ひゃくしょう便びんじゅうがつだい閱於白水しろみず

  じゅういちねんじゅうがつだい閱於白水しろみずとげ西にしかり岐陽。

  じゅうねんはるりょうしゅう刺史しし宇文うぶんなかよりどころしゅうはんふりしゅうじんちょうたもつがい刺史ししなりけい以應みかど開府かいふどくしん討之。ひがししょうこうけいおかせじょうしゅうみかど開府かいふ若干じゃっかんめぐみ禦之,いたりみのるけい遁去。五月ごがつどく信平しんぺいりょうしゅう,禽仲,遷其百姓六千餘家於長安。ふり州都しゅうととくれいきつねのべおこり誅張たもてふりしゅうたいらなながつみかど大會たいかいしょぐん於咸

  じゅうさんねん正月しょうがつあずまたかし河南かなんだいぎょうだいこうけい舉河みなみろくしゅうらいかこえ於潁かわ六月ろくがつみかど開府かいふ弼援あずまたかしはたかん軌等遁去。けいとげ徙鎮しゅう。於是開府かいふ王思おうしせいよりどころ潁川,弼引ぐんかえなながつほうけいみつはりみかど其謀,悉追かえ前後ぜんごしょはいけい將士しょうしけい懼,とげ叛。ふゆみかどたてまつみかど西にしかり咸陽。

  じゅうよんねんはるみかどみことのりふうみかど長子ちょうしさとしためやすしぐんこうはつみかど以平いたいらもと顥納こうそうみかどこうふうやすし都縣とけんいたりあらため以為ぐん,以封さとしようあきら勤王きんのうはじめ也。五月ごがつみかどしん帝位ていいたいみかどたてまつ太子たいしじゅんなで西境にしさかいとう隴,こくせきごととげいたりはらしゅうれき北長きたながじょうだいかりひがしおもむきはらいたりかばのしゅう,聞魏みかど而還。及至,みかどやましやめいよいよ,乃還はなしゅうこれさいあずまたかししょうだかだけかこえ王思おうしせい於潁かわ

  じゅうねんはるみかど大將軍だいしょうぐんちょうたかそち王思おうしせい高嶽たかおかせき洧水以灌じょう,潁川以北いほくみなため陂澤,すくいへいとくいたり六月ろくがつ,潁川おちいはつほうけいかこえけん鄴,りょうつかさしゅう刺史ししやなぎなかれい赴臺じょうはり竟陵ぐんもりまごあきら以郡內附,みかど使だいとく苻貴鎮之。及建鄴陷,なかあやかえつかさしゅう來寇らいこうあきら以郡叛,みかどだいいか十一月じゅういちがつ開府かいふ楊忠おさむかつずいしゅうしんかこえなかれいちょう岫於やすりく

  じゅうろくねん正月しょうがつなかあや來援らいえんやすりく,楊忠ぎゃくげき於漴あたま大破たいは,禽仲れいうま岫以じょうくだ三月さんがつみかどふうみかどだい二子震為武邑公。なながつみかどひがしはいあきらたけこうしるべため大將軍だいしょうぐん總督そうとく留守るすしょぐんたむろ涇北,鎮關ちゅう九月くがつひのとぐん長安ながやすれんあき及冬,しょ軍馬ぐんばうさぎうまとげ於弘のうきたづくりきょうずみかわがまばんかえ。於是河南かなん洛陽らくよう河北かわきたひら以東いとうとげいれひとし

  じゅうななねんさんがつぶんみかどくずれ皇太子こうたいし嗣位,みかど以冢おさむそうひゃく揆。じゅうがつみかど大將軍だいしょうぐんおうゆううま上津かみづきょう大將軍だいしょうぐんたち奚武せきみなみてい

  廢帝はいていもと年春としはるおう雄平ゆうへい上津かみづきょう,以其おけひがしやなしゅうよんがついたる奚武かこえみなみてい月餘げつよやなしゅう刺史ししよろしゆたかこうしょうおさむ以州くだたけはちがつひがしやなしゅう百姓ひゃくしょうかこえしゅうじょうみかどふくおうつよし討之。

  ねん正月しょうがつみかどみことのりみかどためひだり丞相じょうしょうだいくだりだいとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじがつひがしやなしゅうたいら,遷其ごうそち於雍しゅう三月さんがつみかど大將軍だいしょうぐんやすおおやけじょうおそ迥帥りょうたけしりょうおうしょう於蜀。よんがつみかど勒銳さんまん西にし逾隴,金城きんじょうかわいたりしゅうと臧。吐谷渾震懼,使つかいけんじ其方ぶつなながつみかどいたりしゅうと臧。はちがつじょうおそ迥克成都せいとけん南平なべら十一月じゅういちがつ尚書しょうしょもとれつはかりごとみだれふく誅。

  さんねん正月しょうがつはじめさくきゅういのちてん,以敘內外官爵かんしゃく。以第いちひんためきゅういのちだいきゅうひんため一命いちめいあらためりゅうがいひんためきゅう秩,また以九ためじょうまたあらためおけしゅうぐんけん,凡改しゅうよんじゅうろくおけしゅういちあらためぐんいちひゃくろくあらためけんさんひゃくさんじゅうみかどゆう怨言えんげん,於是みかどあずか公卿くぎょう廢帝はいていだてひとしおうくるわ為恭ためちかみかど

  きょうみかど元年がんねんよんがつみかど大饗おわい群臣ぐんしんやなぎ虬執簡書つげ於朝曰:「廢帝はいていぶん皇帝こうてい嗣子ししねんななさいぶん皇帝こうていたく安定あんていこう曰:『也,さいゆかり於公,不才ふさいまたよし於公,おおやけむべつとむこれ。』おおやけすんで受茲じゅうよせきょもと輔之にんまたおさめおんなため皇后こうごうとげ不能ふのうくん誨有なり,致令はい黜,ぶん皇帝こうてい付屬ふぞく,此咎安定あんていこう而誰?」みかど乃令ふとつねべんさく誥喻公卿くぎょう曰:「嗚呼ああぐん暨眾,維文皇帝こうてい以繈褓之嗣托於予,くん誨之,庶厥ゆうなり。而予罔能どるへん厥心,いさお暨乎はい墜我ぶん皇帝こうていこころざし嗚呼ああ!茲咎其焉避?じつ知之ともゆきはぎなんじ眾人こころ哉。おもんみかおあにおもんみこんあつしはたおそれ來世らいせ,以予ため口實こうじつ。」おつみかどみことのりふうみかど邕為輔城こうけんため安城あきこうなながつ西にしかりいたりはらしゅうりょうもとみかど使つかい請據きゅう以定疆界,また連結れんけつ於齊おさい言辭げんじもと慢。みかど曰:「古人こじんゆうごとてんこれしょ棄,だれのうきょう,其蕭繹之いい乎。」じゅうがつみずのえいぬはしらこく於謹、中山なかやまこうまもるあずか大將軍だいしょうぐん楊忠、韋孝ひろしとうまん討之。十一月じゅういちがつみずのとずみかん中山なかやまこうまもるあずか楊忠りつするどさきたむろ其城へいさる,於謹いたりりょうれつ營圍もりからしかつ其城,戕梁もとみかどとりこ百官ひゃっかん庶以ぼつため奴婢ぬひしゃじゅうあまりまんめんしゃひゃくあまりたてしょう察為はりぬしきょりょうためつけいさおたかしはつみつるこくさんじゅうろくだいせいきゅうじゅうきゅう絕滅ぜつめついたり,以諸はたこうだかしゃためさんじゅうろくこくしゃためきゅうじゅうきゅうせいところみつる軍人ぐんじんまたあらためしたがえ其姓。

  ねんはり廣州こうしゅう刺史ししおう琳寇じゅうがつみかど大將軍だいしょうぐんまめやすしそち討之。

  さんねん正月しょうがつひのとうしはつくだりしゅうあや》,けんろくかんみかどしん帝位ていいたいだい冢宰。みかど以漢、かんしげるおもえかわぜんへいだいすべちゅう,乃令綽、べんしゅうせいあらためそう其事,ひろまたおけろくきょうかんしかためせん未成みせい,眾務なおかえり臺閣たいかくいたりはじめ畢,乃命ぎょうよんがつみかどきたじゅんなながつ北河きたがわみかどふうみかどちょくためしんぐんおおやけ,招為正平しょうへいおおやけ九月くがつみかどかえいたりくもいのち中山なかやまこうまもる受遺輔嗣じゅうがつおつみかど薨於くもみやかえ長安ながやすはつねんじゅう十二月じゅうにがつかぶとさるそう於成りょう,謚文こう。及孝閔帝受禪じゅぜんついみことためぶんおうびょう曰太たけしげる元年がんねんついみことためぶん皇帝こうてい

  みかど知人ちじんぜんにん使したがえ諫如順流じゅんりゅうたかしなお儒術,明達めいたつ政事せいじおんしんじもののう馭英ごう一見いっけんこれしゃ,咸思用命ようめいすなえんしょしゅう俘,しゃく而用,及河橋之はしのやく,以充戰士せんしみなとく其死りょくしょしょう出征しゅっせい,授以方略ほうりゃく制勝せいしょうせいこうしらきもとなお虛飾きょしょくつね以反風俗ふうぞく復古ふっこはじめ為心いしんうん

閔帝

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  こう皇帝こうていいみなさとし陀羅尼だらにぶんみかどだい三子みつご也。はは曰元皇后こうごうだいすべはちねんなま於同しゅう。七歲封略陽郡公。ときぜん相者そうしゃもとはなみかど退すさいいしょおや曰:「此公子こうしゆういたりとうとしょうただし恨不ことぶきみみ。」

  きょうみかどさんねんさんがついのちため安定あんていこう世子せいしよんがつはい大將軍だいしょうぐんじゅうがつおつぶんみかどくずしへい世子せいし嗣位ためたいだい冢宰。十二月じゅうにがつひのとみかどみことのり以岐ふうみかどためしゅうこうかのえみことのりぜん於帝曰:「聞皇てんめいじ於常,おもんみ於德。堯授しゅんしゅん授禹,時宜じぎ也。てんいやわがくにたれへん以告,おもんみなんじ罔弗不明ふめい,敢弗龔天いのちかく有德うとく哉。こんかかととうおそれきゅうてんぜん於周,いさお布告ふこくしか焉。」使つかい大宗たいそうはくちょうたかぶしたてまつさつしょ曰:「咨爾しゅうこう帝王ていおうくらいどるつね有德うとくしゃ受命じゅめい乃天どうしきいさおあらもとむ於唐、おそれ彜踵,曰我德之のりゆきおわりきゅう矣。わがくにしょうだい罔弗こん其可亢怫於天どう而不有德うとく歟。どきよう詢謀,僉曰:公昭きみあきこうぶんこうかく勛德於天,丕濟黔黎。洎公,また躬宣重光しげみつげんぞうせい於上,謳訟奔走ほんそう於下おしたてん歷數れきすうよう實在じつざい焉,やす敢弗わか以欽祗聖典せいてんへりくだくらい於公。おおやけ其享茲天いのち保有ほゆう萬國ばんこくまき歟。」みかど臨朝,遣戶やりどちゅう大夫たいふすみきたこうもとすすむ皇帝こうてい璽綬。みかど固辭こじ公卿くぎょうひゃく勸進かんじんふとしひね祥瑞しょうずい,乃從みかどへりくだくらい於大おだい司馬しば

  げん年春としはる正月しょうがつ天王てんのう即位そくいしば燎告てんあさ百官ひゃっかん於路もんついみこと皇考こうこうぶんこうためぶんおうすめらぎ妣為ぶん大赦たいしゃふうみかどためそうこうえんじゅさとけんじあかすずめ百官ひゃっかんそう曰:「帝王ていおうきょう,罔弗更正こうせいついたちあきら受之於天,かわじん聽也。逮於あまはじめ,稽諸陰陽いんようくもぎょうなつときこうおうしょ不易ふえきこんれきつげおわりしゅうしつ受命じゅめい,以木うけたまわみずじつ當行とうこうろくせいようなつしき遵聖どうおもんみぶんおう誕玄さちゆう黑水くろみず讖,ふくしょくむべなおがらす。」せい曰:「。」以大ちょうぐんおう弼為たい,以大宗伯そうはく南陽なんようおおやけちょうたかためふとでんだい冢宰,以大司馬しばかわ內公どくしんためふとしたもて,以大宗伯そうはく中山なかやまこうまもるためだい司馬しば,以大將軍しょうぐんやすしおおやけ毓、こう公達きんだち奚武、たけようおおやけまめやすししょうつかさかんむり陽平ようへいおおやけすももとおしょう司馬しばひろしりょうこうらんぜんしょう宗伯そうはくやすおおやけじょう迥等なみためばしらこくみずのえとらまつえんおかみことのり曰:「ほんかみみのり,其於おかむべさく厥主。始祖しそけんじこうけいりょううみはいみなみ北郊ほっこうぶんこうとくうん,受天明てんめいいのち於明どう,以配上帝じょうてい。」みずのとまつかたおかかぶとたつとげまつりふとししゃはつじょもんぜいおつとおるふとしびょう丁未ていみかい於幹やす殿どのはんしょうかくゆうつちのえさるみことのり有司ゆうしぶんいのち使者ししゃ巡察じゅんさつ風俗ふうぞく求人きゅうじん得失とくしつれい餼高ねん,恤於鰥寡。からしまつ南郊なんこうみずのえだておうもとからしとりとおるふとしびょうみずのとおやこうせきでん

  がつみずのととりついたち朝日あさひ於東おひがし郊。つちのえとらまつりふとししゃちょうはしらこくすわえこくおおやけちょうたか謀反むほんふく誅。ふとしどくしんざいめんかぶとうま,以大そらはりこくおおやけこう莫陳たかしためふとしたもてだい司馬しばすすむこくおおやけまもるためだい冢宰,はしらこくはくりょうおおやけらんぜんためだい司馬しばこう公達きんだち奚武ためだいつかさ寇,大將軍だいしょうぐんせいこう宇文うぶんためばしらこく三月さんがつおのれとりまもるこくおおやけどくしんたまものみずのとしょうろくいんさんふんいちなつよんがつみずのえさるくだ死罪しざいやめしゅうみずのえうま,謁成りょうちょうとおるふとしびょう五月ごがつおのれとりみかどしょうかんりょう於昆あかり博士はかせきょうごろ諫,乃止。あきなながつみずのえとらみかど聽訟於右しょあいなだめからしとおるふとしびょうはちがつつちのえたつまつりふとししゃからしくだ死罪しざいやめしゅうかぶとうまみことのりじゅうよんぐん舉賢りょう九月くがつ庚申こうしんあらため太守たいしゅためぐんもり

  みかどせいつよしはてすすむおおやけまもるせん司會しかいしょくぐん司馬しばまごつね以先あさいのちにゅうさむらい左右さゆうまたやましまもるけんじゅう,乃與みやはくおつおおとり拔提とうせん請帝誅護,みかどもとまた引宮はくはりさきらくさきらく以白まもるまもる乃出うえためやなしゅう刺史ししつねため潼州刺史ししおおとりひとしさらそうみかどはた群臣ぐんしんいれいん此誅まもるさきらくまたしろどきしょう司馬しばじょうつな總統そうとう宿衛しゅくえいへいまもる乃召つなにゅう殿中でんちゅういつわりよびおおとりひとしろんごと,以次おくまもるおとうとなみ誅之。つな乃罷きんへいみかど左右さゆうどくざい內殿,れい宮人みやびとへいもりまもるだい司馬しばらんさち逼帝へりくだくらい,貶為りゃくこうとげかそけ於舊てい月餘げつよ,以弒くずしねんじゅうろくうえ恒等こうとうまたぐうがい

  及武みかど誅護,乃詔曰:「りゃくこう至德しとく純粹じゅんすいてん姿すがたしゅうすぐるぞくいつわりつげおわりたからいのちはたあらため謳歌おうかまことしゅう歷數れきすう攸歸。うえきょうあおれいけいしたあきら祗之すず。而禍せいひじわき,釁起しょう墻,白武しらたけ噬驂,あおいたかしゅう殿どのかそけはずかしめ神器じんぎ,弒酷じょう輿こし,冤結生靈いきりょうどくりゅう宇縣。こんかわうみのぼりきよし,氛沴けしとろけついみことれいむべたかし徽號。」ふとしょくこくおおやけ迥於南郊なんこううえ謚曰こう皇帝こうていりょう曰靜りょう

あかりみかど

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  そうあきら皇帝こうていいみな毓,小名しょうみょうすべまん突,ぶん皇帝こうてい長子ちょうし也。はは曰姚夫人ふじんえいさんねんぶんみかど臨夏しゅうなま於統まんしろいん以名焉。だいすべじゅうよんねんふうやすしぐんこうきょうみかどさんねんるい遷大將軍しょうぐん,鎮隴みぎこう閔踐阼,しんはしらこくてん岐州刺史しし有美ゆみせい。及孝閔廢,すすむおおやけまもるむかえみかど於岐しゅう九月くがつみずのといたり京師けいしとめ於舊てい群臣ぐんしん上表じょうひょう勸進かんじん,備法奉迎ほうげいみかどかたゆずる群臣ぐんしんかた請,乃許

  元年がんねんあききゅうがつ天王てんのう即位そくい大赦たいしゃおつうしあさぐんしん於延ひさし殿どのふゆじゅうがつみずのととりふとしちょうこくおおやけ弼薨。おのれ,以大將軍しょうぐん昌平しょうへいこうじょうつなためばしらこくおつとりまつえんおかへいいぬまつかたおかかぶとうままつりふとししゃ陽平ようへいおおやけどおたまものからしりょうたかしみかどへりくだくらい於陳。十一月じゅういちがつかのえとおるふとしびょう丁未ていみまつえんおか十二月じゅうにがつ庚午こうご,謁成りょうかのえたつ,以大將軍しょうぐん、輔城こう邕為ばしらこく戊子ぼし,赦長安見やすみしゅうかぶとうまみことのりもと氏子うじこおんなすわちょうたかとうごと以來いらい所有しょゆう沒入ぼつにゅうためかんくちしゃ,悉免

  ねんはる正月しょうがつ乙未おとみ,以大冢宰、すすむおおやけまもるためたいからしおやこうせきでんみずのとうしだておうどくちょう,於雍しゅうおけじゅうぐん三月さんがつかぶとうまきたしゅう刺史しし司馬しばけしなん舉州らいあらため雍州刺史ししためまききょうちょうぐんもりためいん庚申こうしんみことのりさんじゅうろくこくきゅうじゅうきゅうせいみなみ徙,みなたたえ河南かなんじんこんしゅうしつすんでせきちゅうむべ改稱かいしょうきょうちょうにんなつよんがつおのれ,以太すすむおおやけまもるため雍州まきからしくだ死罪しざいしゅう一等いっとう,五歲刑已下皆原之。かぶといぬ天王てんのうどくくずしかぶとさるそうけい五月さつき乙未おとみ,以大そらはりこくおおやけこう莫陳たかしため大宗たいそうはく六月ろくがつみずのと,嚈噠こく使つかい朝貢ちょうこうおのれいた授高ねん刺史ししもりれい,恤鰥寡孤獨こどくかくゆうぶん長安ながやすためまんねんけん並居なみいきょうじょうみずのえさる使つかいぶんあるきしゅうぐん囚徒しゅうと,察風俗ふうぞく,掩骸うめ胔。あきなながつじゅんけんじさんそくがらすはちがつ甲子きのえね群臣ぐんしん上表じょうひょうしょうけい。於是大赦たいしゃ文武ぶんぶ進級しんきゅう九月くがつからし,以大將軍だいしょうぐん楊忠、おうつよしなみためばしらこくかぶとたつふうしょうもとため韓國かんこくこう,以紹丁未ていみ行幸ぎょうこうどうしゅうたくふゆじゅうがつからしとり,突厥遣使朝貢ちょうこうみずのとふとしびょうなりおつ,以功臣こうしん瑯邪さだけんじこう拔勝とうじゅう三人配享文帝廟庭。みずのえうま大赦たいしゃ

  たけしげる元年がんねんはる正月しょうがつおのれとりふとしすすむおおやけまもる上表じょうひょうせいみかどはじめおやまん軍旅ぐんりょなおそう於護。はつあらためとくしょしゅう軍事ぐんじためそうかん三月さんがつ癸巳きしひねろくぐんみかどおや擐甲胄,むかい太白たいはく於東おひがしかた。吐谷渾寇かのえいぬだい司馬しばはくりょうおおやけらんさちりつ眾討なつがつ戊子ぼしみことのり有司ゆうしづくりしゅうれきおのれ,聽訟於正武まさたけ殿どのからし,以大宗伯そうはくはりこくおおやけこう莫陳たかしためだいつかさだいつかさ寇、こう公達きんだち奚武ため大宗たいそうはくたけようおおやけまめやすしためだいつかさ寇,はしらこく、輔城こう邕為だいつかさそらおつみことのり曰:「屢有糾發かん赦前ごとしゃ有司ゆうし自今じこん勿推きわむただすんでくら廩,あずかうみ內所どもかんみかどゆううん:『ちんため天下でんかもりざいみみ。』わかゆうおかせぬすめ公家くげざい畜錢あわしゃちょうこと年月としつきすんでとおいち須問,しゅうゆう天下でんか以來いらい,雖經赦宥,事跡じせき可知かちしゃ有司ゆうしよろしそく推窮。とくじつこれにちめん其罪,せい備如ほう。」らんさちおさむ拔洮ひろししろ,吐谷渾遁走とんそう閏月じゅんげつこうあきら使つかい朝貢ちょうこうろくがつ戊子ぼし大雨おおあめ霖。みことのり公卿くぎょう大夫たいふ爰及まきまもるはじむ庶等,れいかくうえふうごと,讜言ごく諫,ゆうしょいみな。其遭すいしゃ有司ゆうし巡檢じゅんけんじょうれつ以聞。かのえみことのり曰:「潁川したがえわが曰元勛,忘父じょうじつおこりおうぎょうぶんこうぞく天地てんち草昧そうまい造化ぞうか權輿けんよ,拯彼流亡りゅうぼうただし茲頹うんよりゆきえいけん盡力じんりょく文武ぶんぶ同心どうしん翼贊よくさん大功たいこうかつたかしみかどぎょう。而被けんするど櫛風沐雨しっぷうもくうえいげん疇昔,りょうよう憮然ぶぜんわかこうなりめいとげ建國けんこく割符わりふただきゅう也。其有致死ちし王事おうじ妻子さいししゃちん甚傷。凡從先王せんおうこうなつしゅうはつなつしゅう從來じゅうらいざい及薨亡者もうじゃなみりょうたまものぜに帛,しょうちん焉。」これがつちんたけしみかど殂。あきはちがつおのれあらため天王てんのうしょう皇帝こうていついみことぶんおうためぶん皇帝こうてい大赦たいしゃ改元かいげんみずのとうしぞう禦正よんにんじょう大夫たいふふゆじゅうがつひとし文宣ふみのぶみかど殂。

  二年春正月癸丑朔,大會たいかい群臣ぐんしん於紫きょく殿どのはじめようひゃくおどけ三月さんがつからしとり重陽ちょうようかくなりかい群臣ぐんしんおおやけこうれつはたきょう大夫たいふ及突厥使於芳りんえんたまものぜに帛各ゆうなつよんがつみかどいんしょくとう䊚遇どくかのえだいややみことのり曰:

  人生じんせい天地てんちあいだ,稟五常ごじょう天地あまちゆうきゅうやめ五常ごじょうゆう推移すいいにんやすとくちょうざい以有せいゆう死者ししゃ物理ぶつり必然ひつぜんところ必然ひつぜんおさむたんあいだなんそく多恨たこんちん不德ふとくせいこうてんふん,披覽聖賢せいけんあまりろん嘗不以此あかつきこん乃命也,おっとふくなんこと諸公しょこう在朝ざいちょうきょう大夫たいふぐんちゅう大小だいしょうとく將軍しょうぐんじんとう並立へいりつ勛效,せきゆうねん,輔翼ふとしなりわがしゅうれいちん纘承大業おおわざしょまんじょううえ。此上まけふとししたまけちん躬。ちんとくけいしゅけいあししたがえ先帝せんてい於地じつ恨於こころ矣。ところ恨者,ちんとおるだいくらいいいよんねん矣,不能ふのう使せい修理しゅうりはじむ庶豐あし九州きゅうしゅういちぽうなお梗,顧此恨恨,もくようつむただ冀仁けい冢宰,洎朕さきせいさきちち公卿くぎょう大臣だいじんとう協和きょうわ為心いしんつとむりょくしょうすすむ,勿忘ふとしのこつつみ挈後じんちん雖沒九泉きゅうせん形骸けいがい不朽ふきゅうこんだいきょ曠,社稷しゃしょく無主むしゅちん幼少ようしょうこらえとうくに。魯國こう邕,ちんかいおとうと寬仁かんじん大度たいどうみ內共聞,のうひろしわがしゅう,必此也。夫人ふじんゆう始終しじゅうおおやけとうごとふとし,輔朕躬,いいゆうはじめ矣。わかかつねん政道せいどう,顧其艱難かんなん,輔邕以主天下でんかしゃいい有終ゆうしゅう矣。あいことせい人臣じんしんだいふしおおやけとう思念しねん此言,れいまんだいたたえ嘆。
  ちん稟生儉素けんそ能力のうりょくぎょう菲薄。まいだいぬのふくだい帛之ころも,凡是器用きようみな雕刻。おわりにちあにようたがえ棄此このみごとしょ須,つとむしたがえ儉約けんやく,斂以時服じふく,勿使有金ありかねだまかざりわか以禮不可ふか闕,みなれいようかわらしょう斂訖,ななにち哭。文武ぶんぶ百官ひゃっかんかくけん辟麻苴,以素ふく從事じゅうじそう選擇せんたく不毛ふもういんぜいためふん,勿封勿樹。且厚そうきずせい聖人せいじんしょ誡。すんで服膺ふくよう聖人せいじんきょうやす敢違凡百ぼんぴゃくかん,勿異ちん。四方州鎮使到,かくれいさんにち哭。哭訖,けん辟凶ふくかえ以素ふく從事じゅうじまちだいれいじょゆうよび召,かく按部もりとく輒奔赴闕にわれいゆうどおりふさが隨時ずいじこれそう訖,內外悉除服從ふくじゅうきちさんねん內,勿禁こんめと,一令如平常也。時事じじいん猥,やめこまこころみだれとめのう及此。如事ゆう不盡ふじんじゅん此以るいためだん而可しのべ古人こじんゆうちんこんにんつき懷抱かいほう

  其詔そくみかど口授くじゅ也。からしうしみかどくずし於延ひさし殿どのねんじゅうなな。謚曰あかり皇帝こうていびょうごうむね五月ごがつつらそう於昭りょう

  みかど寬明ひろあきひとしあつしあつしむつみ九族きゅうぞくゆうくんじんりょうよう而好がく博覽はくらんぐんしょぜんぞくぶんあやあつしうらら。及即位そくいしゅう公卿くぎょうやめゆう文學ぶんがくしゃはちじゅう餘人よにん,於麟趾殿かんこうけいまた捃采眾書,のうやめらい,訖於まつ,敘為《凡百ぼんぴゃくまきところちょ文章ぶんしょうじゅうかん

ろん

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  ろん曰:むかししゃ水運すいうんはたおわりぐんきょういのちある權威けんいふるえぬしある釁逆滔天とうてん。咸謂大寶たいほう以力致,神器じんぎ以求,而卒誅夷つぎ及,ほろび旋踵,天命てんめいゆうそこいさお慆乎。しゅうぶん爰自せんおど,眾無いち旋,はせえびすさい,躡足ぎょうあいだときぞく與能よのううん膺啟きよしばとしゅう義勇ぎゆう糾合きゅうごう同盟どうめい,一舉而殄仇讎,さい而匡帝室ていしつ。於是內詢帷幄いあくそとつえざいゆう,推至誠しせい以待じんひろしだいじゅん以訓ぶつこう藉甲へい眾,恃戎つよ,屢入近畿きんき吞噬。及英はかりごとでんはつかみ旆風はせひろのうけんじょう濮之勛,すなえんゆう昆陽こやとしたけしてい霸,以弱ためきょう。紹元むねおとろえいとぐちそうりゅうあまねけいいのちみなみ清江きよえかん西にし舉巴、しょくきたひかえ沙漠さばくひがしよりどころ、瀍。乃擯落魏、すすむ憲章けんしょう古昔こせきおさむろくかんはいてんなりいちだいおおとりぶんまわしとくけいなみよう,勛賢けん敘,とおやす邇悅,ぞく阜人億兆おくちょうもちゆう,揖讓これまことしゅう功業こうぎょうわか此,人臣じんしん以終,もり矣哉。もとめ雄略ゆうりゃくかんむり英姿えいし天與てんよ神授しんじゅぬきたけ經文きょうもんしゃ,孰能あずか於此乎?むかしかんけんじ蒙塵もうじん,曹公なり夾輔これぎょうすすむやす播蕩,そうたけしたてただしあい勛,こうとく論功ろんこう,綽有餘裕よゆういたり於渚みや制勝せいしょう,闔城孥戮,蠕蠕歸命きみょうつきしゅ誅夷,雖事於權どう,而用乖於とくきょう,斯為矣。

  こう閔承すんで安之やすゆきぎょう,膺樂推之うんあきらすめらぎしょだいていみこと,纂大宗之むねゆきいとぐちはじめのり權臣けんしんせんいのちおわり乃政わたしもん,俱懷すすきとげうたぐよう致幽弒之,惜哉。

 まきはち かえしかいいただき まきじゅう

ほんとうあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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