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南史/卷48 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

みなみ/まき48

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 まきよんじゅうなな みなみ
列傳れつでんだいさんじゅうはち
まきよんじゅうきゅう 

りくきよし りくとしあかつき りく

りくきよし

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りくきよし彥深,くれぐんくれじん也。劭,臨海りんかい太守たいしゅちち瑗,しゅう從事じゅうじ

きよししょう好學こうがく博覽はくらんしょ不知ふちぎょうすわねむしょくしゃくまきそうやすしはじめはつため尚書しょうしょ殿中でんちゅうろう皇后こうごういみなはんおう舊稱きゅうしょうせいひだりすすむじょ爰案司馬しばまこと皇后こうごうしょうせい春秋しゅんじゅうぎゃくおうきさき于齊,なみ不言ふげんせいきよし以意りつすわ免官めんかん白衣はくいりょうしょく

ろうかんきゅうすわつえ有名ゆうめい無實むじつきよし在官ざいかんせき前後ぜんごばつ凡至せんすうけんひだりすすむ

やすしはじめろくねんみことのり皇太子こうたいしあさふく袞冕きゅうしょうきよし與儀よぎ曹郎おかなかおこり:「ふく冕以あさみのるちょ經文きょうもんはたじょろく冕,かんあかりかえ備。すすむ以來いらいよくれい臣下しんかふく袞冕,おおやけしゃさむらいかんこん皇太子こうたいしれいぜっぐんむべ遵聖おう盛典せいてんかわ近代きんだいこれせい。」るい遷御ちゅうすすむ

ひとしたてもと元年がんねん,驃騎はか沈憲とうやつきゃくためこう子弟してい劾,けんとう晏然。ひだりすすむにん遐奏きよし糾,請免きよしかん上表じょうひょうげん舊例きゅうれいひだりすすむ糾中すすむみことのりがいしょう尚書しょうしょれい褚彥かいけんそう以來いらいひだりすすむ糾正而中すすむ免官めんかんしゃ甚眾,そうきよし「謏聞はだ,貽撓こんうえ掩皇あきらしもかご朝議ちょうぎ。請以見事みごとめんきよししょきょかん」。みことのりきよし以白ころもりょうしょく

えいあきら元年がんねんるい遷度ささえ尚書しょうしょひろ領國りょうごく博士はかせ尚書しょうしょれいおう儉謂曰:「むかし曹志、繆悅ため此官,以君けいはじめ慚德。」儉嘗といきよし曰:「たかしれいもんゆう而未嘗鳴,其義安在あんざい?」こたえ曰:「こうひだり草創そうそうたかしれい闥皆ちがやいばらしつらえゆうそく扣以しゅう眾,相傳そうでんいたりいま。」またあずか儉書ひね:「おう弼注えきげんがくところはじめこんわかひろ儒,ていちゅう不可ふかはいなみげんひだりもりがくこれちょうたにはりきゅうゆうおうしかしんじきんえき以范やすし不足ふそく兩立りょうりつゆういちこうけいだいためていげんちゅうかん其用やめあずかちゅうしょしょうるいあんげん自序じじょしょちゅう眾書,またこうけい。且為小學しょうがくるいむべれつざいみかどてん。」

儉答曰:「えきたいほろとおじつぬきぐんせきあにせんよりどころしょうおう便びんため該備,きゅうそんていこうどうせつもと凱注でん超邁ちょうまいぜん儒,たにはり小書しょうしょ俟兩ちゅうそんおうしかりゃくはんりつよし舊式きゅうしき。凡此しょなみどうみやびろんうたぐこうけいていしょちゅうぼく以此しょあかりひゃくぎょうくびじつ人倫じんりんしょさきななりゃく藝文げいぶんなみひね六藝りくげいあずかあお頡、凡將ながれ也。ていちゅう虛實きょじつ前代ぜんだいいやいいやす,仍舊りつおけ。」

儉自以博聞多識,讀書どくしょきよしきよしいい曰:「ぼくしょうらい無事ぶじただ讀書どくしょためぎょう;且年やめだかれいくんしょう便びん鞅掌おうしょうおうつとむ,雖復一覽いちらん便びん諳,しか卷軸かんじく未必みひつおおぼく。」儉集學士がくしなんけんとうもり商略しょうりゃくきよしまち儉語畢,しかこうだんしょ遺漏いろうすうひゃくじゅうじょうみな儉所睹。儉乃嘆服。儉在尚書しょうしょしょうはばばこ几案ざつ服飾ふくしょくれい學士がくし事事ことごとしゃあずかこれ人人ひとびとかくとくいちりょうぶつきよし後來こうらいさら諸人もろびとしょ知事ちじふくかくすうじょうなみ舊物きゅうぶつだつはた

うたてつねさむらい秘書ひしょかんくれぐん中正ちゅうせいひかり祿ろく大夫たいふ加給かきゅうごとちゅうひろ領國りょうごくさいしゅ。竟陵王子おうじうつわ小口こぐちかたはら,而底ひらたようななはちしょう,以問きよしきよし曰:「此名ふく匿,たん于以與蘇武そぶ。」りょうしょうそこゆう,彷佛識,如澄しょげん

隆昌りゅうしょう元年がんねん,以老やましてんこう祿ろく大夫たいふつねさむらいはいそつおくりな靜子しずこ

きよし當世とうせいしょうため碩學せきがく,讀易さんねんかい文義ふみよしよくせんそうしょ竟不なりおう儉戲曰:「りくこうしょ廚也。」ふんせきにんしょ罕見,せん地理ちりしょ及雜でん死後しご乃出。

きよしおとうと鮮,とくざいそうとうきよし于路舍人とねりおう道隆みちたか叩頭こうとう流血りゅうけつ,以此見原みはらあげしゅうおも簿顧測以兩やつ就鮮しつぜに,鮮死,あきら誣為かいけんきよしためちゅうすすむはかとげためきよししょそもそもせい以此しょうこれ

りくとしあかつき

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りくとしあかつき叔明,くれぐんくれじんすすむふとしじょう玩之玄孫げんそん也。玩至としあかつきまんせいためさむらいちゅうみな有名ゆうめいぎょうとしあかつき伯父おじなかもとまたためさむらいちゅう時人じじんかたきむちょうぞく

父子ふししんつかまつそうためうみりょう太守たいしゅどき中書ちゅうしょ舍人とねりあきとうこういえざいうみりょうかりかえそうちちしんあずか相聞そうもんとう請發じんおさむきょうまた以妨のうもと。彭城おう義康よしやす聞而しょうおうそうたち貴公きこう子孫しそん,以才傲物,ためくれぐん太守たいしゅにゅうあきらもん曰:「かれ有人ゆうじん焉。顧琛一公かずきみりょうじょうえいえい門戶もんこ陸子むつこせい內侍,わがこれりゅう。」しん臨海りんかい太守たいしゅ眼疾がんしつためちゅう散大さんだいおっとそつ

としあかつき清介せいすけせいだて雜交ざっこうゆうどうぐんちょういとぐちしょう曰:「江東こうとう裴、らく也。」はつおうしゅうぐん辟,舉秀才しゅうさいこよみしょぎょうさんぐん,以母ろうかえいえさむらいやしなえじゅうねんつかまつ

ひとしこうみかど輔政,じょため尚書しょうしょ殿中でんちゅうろう。鄰族らい相賀あいがとしあかつき舉酒曰:「りくとしあかつきねんさんじゅうちちりょうせんはじめさく尚書しょうしょろうきょうやから乃復以為けいよこしま?」

こうみかどひょうきん奢侈しゃしとしあかつきせんこたえみことのりそうためみかどしょしょう,引為ふとでんひがしごうさいしゅひとしたてもとはつ,遷太子たいし洗馬せばいおりなんてんつねしょうとしあかつきこころ如照きょうぐうがたさわものろうしか王思おうしどおつね如懷冰,あつがつまたゆうしも」。當時とうじ以為實錄じつろく

としあかつきあずかちょうとおるなみたく,其間ゆう池上いけがみゆうかぶ楊柳ようりゅうてん歎曰:「此池便びん醴泉,此木くのぎ便びん交讓。」及武りょうおう曄守かい稽,うえため精選せいせん僚吏,以慧あかつきためせいとりここう曹,あずかさんぐん沛國りゅう璡同したがえじゅつしょく。璡清かい也,ぎょういたりくれいいじん曰:「われちょうとおるあずかとしあかつきなみたく,其間有水ありみず,此必ゆうあじ。」いのち往酌而飲。曰:「いん此水,のりひなしわこれもえつき矣。」

なんてんこもとしあかつき于豫あきらおう嶷,そらじょう以恩れいるい遷安西にしはかりょうかんむりぐんろくごとさんぐん

たけみかどだい三子廬陵王子卿為南豫州刺史,みかどしょう其小めいいい竟陵王子おうじりょう曰:「がらすぐま如熊,とく天下でんかだいいち人為じんい行事ぎょうじ以壓いちしゅう。」すんで而曰:「われおもえとくじん矣。」乃使としあかつきためちょう行事ぎょうじべつみかどもん曰:「きょうなん以輔いおりりょう?」こたえ曰:「せい修身しゅうしん,儉以やしなえせいせいそくじん擾,儉則じんはん。」上大かみおおえつ

こうためみぎちょうときひねぐんしゃ朏為ひだりちょうこう竟陵王子おうじりょういいおうとおる曰:「わが前世ぜんせいだれ?」とおる曰:「あきらおおやけ二上ふたかみたすく天下てんかえい古來こらいしょう其比。」りょう西にしていしょうしょれいとしあかつきさん其事。

ひろ遷西おうせいとりこともえりょうおうきさきぐん、臨汝こう輔國さんちょうぎょうしゅうごとふくため西陽にしびおうひだりぐんちょう領會りょうかい稽郡すすむあるきぐんごと隆昌りゅうしょう元年がんねん,徙為すすむ王冠おうかんぐんちょう江夏えなつ內史,ぎょう郢州ごととしあかつきれき輔五せい立身りっしんしん肅,僚佐以下いか造詣ぞうけい,必起おくこれあるいいとしあかつき曰:「ちょう貴重きちょうむべ妄自けんこごめ。」こたえ曰:「わが性惡しょうわるじん無禮ぶれいよう以禮しょじん。」嘗卿大夫たいふあるとい其故,としあかつき曰:「貴人きじん不可ふかきょう,而賤しゃ乃可きょう人生じんせいなんようりつ輕重けいちょう懷抱かいほう。」終身しゅうしんつね呼人よびと

たてたけしはつじょ西中にしちゅうろうちょう行事ぎょうじ、內史如故。にわかせい黃門こうもんろうはい,遷吏ろう尚書しょうしょれいおう晏選門生もんせい內外ようきょくとしあかつきためようすうにん而止。晏恨おくじょいちにんほしあずかさるこのみとしあかつき不納ふのう。吏曹れいれきせいらいはかせんごととしあかつきにんおのれ獨行どっこう嘗與みかどおもしょたんけい雋謂曰:「れい諳悉きゅうつらぬけきょうさんふところ。」としあかつきいいけい雋曰:「ろくじゅうこれねんふくのうはかれいため吏部ろう也。うえわかいい不堪ふかん便びんとうはらいころも而退。」みかど甚憚こうよくようためさむらいちゅう,以形短小たんしょう乃止。ためすすむ安王やすおう鎮北司馬しばせい北長きたなが東海とうかい太守たいしゅぎょうしゅうごとにゅうためへい尚書しょうしょぎょうあげしゅうごとちぇとしけいごとひらめりょうみぎぐん將軍しょうぐんかんみなみじょしゅう朝議ちょうぎまたよく以為さむらいちゅうおうあきら曰:「すみかわ須人,こん且就あさ廷借,以鎮みなみ兗州。」おう瑩、おうこころざしみな曰:「さむらいちゅうわたる須英はなぽう鎮猶おうゆう選者せんじゃ。」あきら曰:「すみ其二そのじしゃのりてん璫緩,こばめ寇切。當今とうぎん朝廷ちょうてい甚弱,むべしたがえきりしゃ。」乃以ため輔國將軍しょうぐんみなみ兗州刺史ししとくいたり鎮,にわかしか以疾そつおくふとつね

三子みつご:僚、にん、倕並ゆう美名びめい時人じじんいい三陸さんりくはつ授慧あかつき兗州,三子依次第各作一讓表,なみまさうらら時人じじん歎伏。

りく

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僚學わたるちょう於微ごと姿容しようひげまゆ如畫。くらい西にしあきらこうちょうしょくぐん太守たいしゅ

りく

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倕字こうしょう勤學きんがくぜんぞくぶん。於宅內起りょう茅屋ぼうおく杜絕とぜつ往來おうらい晝夜ちゅうや讀書どくしょ,如此しゃすうさいところいちへん,必誦於口。嘗借じん漢書かんしょしつぎょうこころざしよんかん,乃暗うつしかえこれほぼ遺脫いだつようためがいちょう岱所こと。岱嘗いい諸子しょし曰:「此兒,なんじ元也もとなり。」じゅうなな,舉本州ほんしゅう秀才しゅうさい刺史しし竟陵王子おうじりょう開西かいせいていのべ英俊えいしゅん,倕預焉。

りょうたかしかんはつためみぎぐん安成やすなりおうぬし簿與樂ようらくやすにん昉友,ためかん知己ちき以贈昉,昉因此名以報。及昉ためちゅうすすむかんざしすそ輻湊ふくそうあずか其燕しゃいんげいいた溉、りゅうつとりゅう孺、りゅうあらわりゅうたかし綽及倕而やめごう曰:「りゅうもんゆう。」雖貴公きこう子孫しそんあずか也。遷臨かわおうひがし曹掾。

りょうたけしみかどまさあい倕才,乃敕せんしん漏刻ろうこくめいじ,其文甚美。遷太子中こなか舍人とねりまたみことのり為石ためし闕銘,敕褒美之みゆきたまものきぬさんじゅうひきるい遷太つねきょうそつ纘早としななさいどおりけいため童子どうじろうそつつぎはるゆう於倕,一看殆不能別。

りくつくろえ

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つくろえ繻,倕兄子せこ也。ちちにんちゅうすすむつくろえよう有志ゆうしなお,以雅ただし知名ちめいはりうけたまわせいなかため中書ちゅうしょさむらいろうてのひら東宮とうぐうかん平江ひらえりょうつくろえほろふく遁還けん鄴。

紹泰元年がんねんじょみぎちょうちゅうすすむ,以父にんしょおわり固辭こじちんたけしみかどさく輔,ため司馬しば。及受命じゅめいさむらいちゅうためしんやす太守たいしゅぶんみかど嗣位,しるしためちゅう庶子しょしりょう步兵ほへいこうじょうてのひら東宮とうぐうかんつくろえ端麗たんれい進退しんたいあいだみやび,趨步躡履,ぶんみかど使太子たいし諸王しょおう咸取そく焉。

こうふくはいちゅうすすむなお以父しょおわり固辭こじもと,乃權かわ廨宇,徙以きょふとしけんちゅうこよみささえ尚書しょうしょさむらいちゅう太子たいし詹事,尚書しょうしょみぎぼくしゃひろ遷左ぼくしゃまいりてのひらせんごとべつ敕與じょりょうとうななにん參議さんぎ政事せいじそつおく特進とくしんおくりな曰安。以繕東宮とうぐう舊臣きゅうしんとくたまもの奠。

つくろえべんとしねんすうさいみことのり引入殿どの內,しんとめゆうちちふうせんみかどいんたまものめいべんとしけいじん

つくろえ兄子せこかしこまたほうみやびしょうきょうそつ

りく

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閑字遐業,としあかつき兄子せこ也。有風ゆうふうがいあずかひと交不苟合,しょうためどうぐんちょういとぐちしょつかまついたりあげしゅうべつひとしあきらみかどくずれ,閑謂しょおやじん曰:「みやしゃ晏駕,百司將聽塚宰。しゅ王地おうじじゅうざいじゃく,必不能ふのうなんしょういたり矣。」乃感心かんしんやましふくあずかしゅうごと

えいはじめまつ刺史ししはじめ安王やすおうはるかひかりよりどころひがしさくみだれあるすすむこれ。閑曰:「われためじん吏,なに逃死。」たいぐんおさむおちいしろ,閑以つなおさむいたりもりうばたく尚書しょうしょれいじょ孝嗣たかしけい閑不あずかぎゃくはかりごと及報,じょしるべいのちころせこれ。閑よん:厥、絳、かんじょう也。絳字きょうずい閑,だき頸求だいとげ以身蔽刀行刑ぎょうけいしゃ俱害

りく

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厥字かんきょうしょう有風ゆうふうがいこうぞくぶんひとしえいあきらきゅうねんみことのり百官ひゃっかん舉士,どう郡司ぐんじひだり西にし曹掾顧暠おもてこも厥,しゅう秀才しゅうさい

どきもりため文章ぶんしょうきょう沈約、ひねぐんしゃ朓、琅邪おうとおる以氣るいしょう推轂,なんじみなみしゅう顒善識聲いんやくとうぶんみなようみやしょうはた平上たいらかみにゅう四聲しせい,以此せいいんゆうひらあたま上尾あげおはちこしつるひざなか音韻おんいん悉異,りょう內,すみただし不同ふどう不可ふか增減ぞうげんよびためえいあきらからだ」。沈約そうしょしゃれいうんでんまたろん其事,厥與やくしょ曰:

范詹ごと自序じじょ:「性別せいべつみやしょう,識清濁せいだくとくのうてき輕重けいちょうすみ艱難かんなん古今ここん文人ぶんじん不全ふぜんりょう斯處,たてゆうかい此者,必從根本こんぽんちゅうらい。」尚書しょうしょまたうん:「れいひとし以來いらい,此秘睹。あるくらあずかあい,匪由おもえいたりちょう、蔡、曹、おう曾無先覺せんかくはんりくかおしゃこれわたるとお。」だいむねほっみやしょうしょうへんていのぼるますたかしわかぜんゆう浮聲,のり須切ひびきいち簡之內,音韻おんいんつきことりょうなか輕重けいちょう悉異」。すんで矣,またぜん焉;ただしかん歷代れきだい眾賢やみ此處ここら,而云:「此秘睹」,きん於誣乎。あん范云:「したがえ根本こんぽんちゅうらい」,尚書しょうしょうん:「匪由おもえいたり」,斯則揣情謬于玄黃げんこう,擿句ちょ音律おんりつ也。范又うん:「ときゆうかい此者」,尚書しょうしょうん:「あるやみあずかあい」。のりえいきよし謳,ゆうあきら調ちょういんしゃ,雖有謬,またゆう會合かいごう。推此以往いおうとく而言。おっとおもえゆうごうはなれぜんあきら同所どうしょめんぶんゆうひらけふさが即事そくじとくこれけん所以ゆえんこうひとそしたま所以ゆえん遺恨いこんおわりへんすんで遺恨いこんつき美之みゆきさく詆訶,君子くんし其詆訶,便びんいい合理ごうりためやみあに如指其合理ごうり,而寄詆訶ため遺恨いこんよこしま

ぶんぞくろんふか清濁せいだくためごとりゅう楨奏しょ大明だいめい體勢たいせい致。齟齬そご妥怗だんみさおまつぞく巔之せつきょう玄黃げんこう於律りょ五色ごしきあいせん。苟此睹,茲論ためなんしょゆびよこしまいいぜんえいやめ識宮せいただし屈曲くっきょくゆびてきわかいまろんしょさるいたり於掩きずぞうやましごうしょう謬多,のり臨淄しょうん:「ひと著述ちょじゅつ不能ふのう無病むびょう。」しゃ也。知之ともゆき而不あらためいいあらためそく不知ふち,斯曹、りくまたしょう「竭情悔,不可ふか力強ちからづよ。」しゃ也。こんもと以有びょうゆう悔為ごとのり必自悔無びょう。引其りょうごうためやみなにどく誣其一合一了之明乎?しゃまたしつぶんこといまふるこうことはたきゅうざいじょうぶつ,而緩於章じょうぶつぶんこれしょきゅうわるなお且相はん章句しょうくところなるごうしょう而謬義兼よしかね於斯,必非知明ともあき矣。長門ながと上林うえばやし,殆非一家いっからくしんいけかり便びんなりたいさくはじめけんせいただし詠史えいし虧於ひがしぬし平子ひらこ恢富,りょうるい於憑むなしおうつばらはつせいぶんのうしょう,楊修敏捷びんしょうあつわたるけんじりつ寡尤,のりごと促乎いちにちかげかげいよいよふせ,而理賒于なな一人ひとりおもえ遲速ちそくてんかか一家いっかぶんこうつたな壤隔,なにどくみやしょうりつりょ必責其如いちよこしま論者ろんしゃ乃可げんきゅう其致,とくげん曾無先覺せんかく也。やくこたえ曰:

みやしょうこえゆう文字もじべつるいまん。以累まんしげるはいごえやく高下こうげていのぼるおもえりょくしょがくまたとめわか斯而やめ十字じゅうじぶん顛倒てんとうしょうはいじゅうたくみれきやめ不能ふのうつきなにきょうふく於此しゃ乎?れいひとし以來いらいけいよう懷抱かいほうかたしたがえ其髣ふつ矣。わか斯之みょう,而聖じんなおなに耶?此蓋曲折きょくせつごえいんたくみとう於訓よし聖哲せいてつげんごとこれしょきゅう也,以子くもたとえ「雕蟲篆刻てんこく」,うん:「壯夫たけお不為ふため」。じんあに不知ふちみやことしょう征之まさゆきべつ。雖知五音ごいん,而其ちゅう參差しんし變動へんどうしょ昧實ひな所謂いわゆる「此秘睹。」しゃ也。以此而推,のり前世ぜんせい文士ぶんし便びんさとる此處ここらわか文章ぶんしょう音韻おんいんどうつるかんこえきょくよしあく妍蚩,とくひたぶるしょう乖反,たとえ猶子ゆうしみさおきょくやすとくゆるがせゆう闡緩失調しっちょうこえ。以洛かみひねおもえゆうさく故知こち天機てんきけいのりりつりょ調しらべろくじょうとどこおのり音律おんりつひたすらます也。衡雖うん煥若縟錦,やすしゆう濯色江波えば,其中ふくゆう一片是衛文之服。此則陸生りくせいげんそくふく不盡ふじんしゃ矣。いんあずかいんふく有精ゆうせいあらりんひらた不能ふのうごとろうおっとまた不盡ふじんべん此。やくろん四聲しせいみょうゆうかいべん,而諸また往往おうおうあずかこえいん乖。

どきゆうおうあきらしゃ不知ふちなんもとじんちょ四聲しせいろんぎょう于時。あきらはつため道人どうじんひろしわたる經籍けいせきまさゆうざいべんぜんぞくぶんのう唱導しょうどう而不おさむ容儀ようぎ。嘗弊ころも於瓦かんてら聽雲法師ほうしこうなりろんふくすわしょただ僧正そうじょうとしちょうなお空席くうせきあきらちょくすわ其側。としちょう能平のっぺい,乃罵曰:「とく此道じん祿ろく蔌似たいちち唐突とうとつじん。」いんいのちこれあきらわらい曰:「すんでゆう敘勳僧正そうじょうなにためたいちち道人どうじん。」不為ふためどう。而撫といなんきよし舉,よんみな屬目しょくもくこう還俗げんぞく,以詩たのしらくにん莫能めい

えいもと元年がんねんはじめ安王やすおうはるかひかりはん,厥父閑被誅,厥坐けいひさしかたひろゆう赦,厥感慟而そつねんじゅうはち文集ぶんしゅうぎょう於世。

どきゆうかい稽虞えん文學ぶんがくあずか沈約俱為文惠ふみえ太子たいししょぐう眄殊つねかんいたり驍騎將軍しょうぐん

りくじょう

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じょうきょう,厥第よんおとうと也。本名ほんみょうおとろえちょうきょうゆうそうごとしゃ誤字ごじためじょうりょうたけしみかど乃改ためじょうきょう

てんかんさんねんかん尚書しょうしょ范岫ひょうこもじょうおこり著作ちょさくろうこう昭明しょうめい太子たいしみつる聞襄ぎょうぎょうけいみかど引與ゆうしょいおりりょうおうしつじょ太子たいし洗馬せば,遷中舍人とねりなみてのひらかんためあげしゅうちゅう從事じゅうじ,以父おわり此官,固辭こじたけみかどもと,聽與司馬しばかわ廨居

昭明しょうめい太子たいしけい耆老,じょうははねんはたはちじゅうあずかしょう琛、でんあきらりく每月まいつきつねそんとえたまものちん羞衣ふくじょうははつねそつ患心つう方須ほうすさんしょうあわ漿。ときふゆがつにちまた逼暮,もとめさくしょゆるがせゆう老人ろうじんまいもん貨漿りょう如方ざいはじめよくむくいじきなんしつ以襄こうかんしょ致。

こうため太子たいし家令かれいふくてのひらかんははしょくじょうねんやめじゅう,毀頓れい太子たいしゆうにち使つかい誡喻。

中大ちゅうだいどおりななねんため鄱陽內史。さきぐんじん鮮于琮服しょく修道しゅうどうほうつね入山にゅうざんさいやく拾得しゅうとくしょくはた毦,また於地ちゅうとくせき璽,竊怪。琮先あずかつまべつしつもち琮所しょつねゆうえき以為しん大同だいどう元年がんねんとげゆい門徒もんところせこうすすむれいおう筠,ごう上願じょうがん元年がんねんしょおけかんぞく。其黨てんしょう誑惑,ゆうまん餘人よにんはたおさむぐんじょうさきやめりつじん吏修じょう隍為備,及賊いたりやぶこれなま琮。とき鄰郡あきら安成やすなりひとしもりおさむあん其黨あずかよしもとめ貨賄,みなとく其實。あるゆう善人ぜんにんつきしつかかわざわいただじょうぐん枉直濫。ひと作歌さっか曰:「鮮于しょう善惡ぜんあくぶんにん橫死おうしよりゆきりくくん。」

またゆう彭、いえさきいん忿爭,とげしょう誣告ぶこくじょう引入內室,せめ誚,ただしげんかい喻之。二人ふたり感恩かんおんふか悔咎。乃為しつらえ酒食しゅしょくれい其盡歡,さけやめどう而還,いんしょうおやあつひとまたうた曰:「りくくんせい怨家。鬥既やめ,讎共しゃ。」ざいせいろくねんぐん中大ちゅうだいやすしぐんじん睍等よんひゃくじゅうにんまい闕拜ひょうちんじょう德化とっかもとめ於郡りつくだ敕許またおもて乞留じょうじょうかた乞還。

ふとし清元きよもとねんためささえ尚書しょうしょほうけいかこえだいじょう,以襄ちょくさむらいちゅうしょうしろおちいじょう逃還くれけいはたそうせん進攻しんこうぜにとうかいうみしおじんりく黯舉かさねぐんころせにせ太守たいしゅたん于,推襄あるきぐんごとどき淮南ワイナン太守たいしゅ文成ふみなりこうしょうやすし逃賊にゅうじょうむかいやすしため盟主めいしゅ黯及兄子せこうつおおやけそち眾躡せんあずかたたかえ,黯敗走はいそう吳下ごかぐん聞之またじょう匿於はか一夜いちやいきどおそつ

じょう弱冠じゃっかん遭家しゃくふくなおわかきょゆう終身しゅうしん蔬食布衣ふい聽音ちょうおんらくくち不言ふげん殺害さつがいじゅうねんほう景平かげへらもとみかどおくさむらいちゅうついふうあまりけんこう

りくくもこう

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くもこうりゅうじょうけいかん也。かん甯遠ちょう、琅邪彭城ぐんすすむ

くもこうさい誦論もうきゅうさい讀漢しょりゃくのう記憶きおくしたがえ倕與沛國りゅうあらわ質問しつもんじゅうことくもこうたいしょしつあらわ歎異。及長,好學こうがくゆうざいおもえ為平ためひら西にし湘東おう繹行さんぐんくもこう先制せんせいふとはくびょうきょう太守たいしゅちょう纘罷ぐんけい,讀其ぶん歎曰:「いま蔡伯喈也。」纘至てのひらせんげんたけみかど,召為尚書しょうしょ曹郎,にゅうちょく壽光としみつしょう,以本かん著作ちょさくろうごとるい遷中しょ黃門こうもんろうけんてのひら著作ちょさく

くもこうぜん弈碁,嘗夜侍坐じざたけかんむりさわしょくみかどわらいいい曰:「しょくしょうきょうてん。」みかどしょうようためさむらいちゅう以此おどけこれときてん泉池いずみいけ新制しんせい鯿魚ぶねかたち闊而たんみかどひま日常にちじょう泛此ぶねあさちゅうただ引太つねりゅう遴、國子くにこさいしゅいた溉、みぎまもるしゅことくもこうとしなおかるまたあずか焉。

ふとし清元きよもとねんそつちょう纘時ため湘州,あずかくもこう叔襄けい晏子しょ曰:「みやこしんいたりうけたまわけん兄子せこ賢弟けんてい黃門こうもん殞逝,ただもんたからじつ有識ゆうしきどう悲。」其為りゅうたたえじゅう如此。

くもこうしたがえ父兄ふけい才子さいしまたゆうざいめい太子たいしちゅう庶子しょし、廷尉,あずかくもこうなみゆう文集ぶんしゅうぎょう於世。

りく

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くも公子こうし瓊字はくだまようさととしゆうおもえろくさいため五言ごごん,頗有さい大同だいどうまつくもこう受梁たけみかどみことのりこうていひんいた溉、しゅあや以下いかなみしゅう。瓊時ねんはちさい,於客まえくつがえきょくゆかり都下とかごう神童しんどうげんたけみかど,召見,瓊風しん警亮,進退しんたいしょうしんみかど甚異

じゅういちちょうちちゆう,毀瘠ゆういたりせいしたがえじょう歎曰:「此兒必荷もんもと所謂いわゆるいち不為ふためしょう。」及侯けいさくぎゃく,攜母避地於縣西鄉さいごうつとむ讀書どくしょ晝夜ちゅうやだるとげ博學はくがくぜんぞくぶん

ちんたかしよしみちゅう,以文學ぶんがくるい遷尚しょ殿中でんちゅうろう。瓊素ゆう令名れいめいふかためひねぶんみかどしょしょう。及討しゅうすすむちんたからおうとうかん及諸大手おおてひつなみちゅう敕付瓊。遷新安王やすおう文學ぶんがくてのひら東宮とうぐうかん

及宣みかどためみょう簡僚,吏部尚書しょうしょじょりょうこも瓊于せんみかどげん瓊「識具ゆうさとしぶんあしようしんきょろうしょ歲月さいげつ淹,ひだり西にしじょうかけまこと膺茲せん,雖階しょう踰,其屈とどこおやめせき」。乃除ひだり西にしじょうひろけんどおりちょくつねさむらい,聘齊。

ふとしけんちゅうためきゅうごと黃門こうもんさむらいろうてんちゅう庶子しょしりょうだい著作ちょさくせん國史こくしこうしゅ即位そくい直中ただなかしょしょうてのひらみことのり誥。至德しとく元年がんねんじょささえ尚書しょうしょさんせんごとてのひら誥詔,なみばん廷尉、たて康二こうじごくごとはつ,瓊父くもこうたてまつりょうたけし敕撰よしみみず,瓊述其旨而續焉,えいじょう訖於至德しとく,勒成一家いっかげん。遷吏尚書しょうしょ著作ちょさく如故。瓊詳ねり牒,まさゆう識鑒。さき吏部尚書しょうしょそうもとにょうそつ尚書しょうしょみぎぼくしゃ袁憲舉瓊,せんみかどひつじもちいいたりきょごうためしょうしょく

瓊性けん儉,ふううえ,雖位もちたかし,而執こころざし逾下。園池そのいけしつ宇,しょ改作かいさく車馬しゃば衣服いふくなお鮮華,よん祿ろく俸,みなこれ宗族そうぞくいえ餘財よざいくれねんふかふところとめあしおもえ避權ようつねしゃやましごと

にわかひのとはははつ瓊之さむらい東宮とうぐうははずい在官ざいかんしゃ,及喪かえさとみことのり賻贈,しゅ自製じせいこころざしめいじ朝野あさのさかえこれ。瓊哀慕過毀,以至德しとくよんねんそつゆうしゅうじゅうかんぎょう於世。

りくしたがえてん

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したがえてんよしようさとさととしはちさい,讀沈やくしゅう回文かいぶんけんめいじ,援筆なずらえ便びん有佳ゆか致。じゅうさくやなぎ,其詞甚美。したがえちち瑜特しょしょうあい。及瑜はたおわりいのち家中かちゅうふんせきみなづけしたがえてん乃集瑜文ためじゅうかん,仍制しゅうじょ,其文甚工。

したがえてんあつこう學業がくぎょうひろしわたるぐんしょ太子たいし洗馬せばつかさひだり西にしじょうひねほろびにゅうずい著作ちょさくろう尚書しょうしょみぎぼくしゃ楊素そうしたがえてんぞく司馬しば遷史まで于隋,其書就,すわおとうと受漢おうりょうしょくめんこうそつ南陽なんようけんおも簿

りく

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琰字ゆたかだま,瓊之したがえちちおとうと也。ちちれいおおやけりょうちゅうぐんせんじょうおうしつさんぐん

琰幼好學こうがく有志ゆうしみさおしゅう秀才しゅうさいるい遷宣めぐみはじめきょうおうがいへいさんぐんちょく嘉德よしのり殿どの學士がくしひねぶんみかど聽覽あまりひま,頗留こころ史籍しせき,以琰博學はくがくぜんうらない誦,引置左右さゆう。嘗使せいがたなめいじ,琰援ひつそくなりところてん竄,みかど嗟賞久之ひさゆきたまものころもいちかさねにわかけんどおりちょくつねさむらいふく琅邪おうあつし聘齊,いたり鄴而あつそつ,琰為使ぬしどきねんじゅうあまり風氣かざけ韶亮,うらないたい閑敏,ひとし大夫たいふ甚傾こころ焉。ふとしけんはつためたけりょうおうあきらこう曹史,けん東宮とうぐうかんちょうははかんそつ至德しとくねん追贈ついぞうのうきょう

琰寡よく,鮮矜きそえゆうこころ經籍けいせき晏如あんじょ也。ところせい文筆ぶんぴつそんほんおももとめ遺文いぶんせんなりかん

りく

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おとうと瑜字みきだましょう篤學とくがくよし詞藻しそうしゅう秀才しゅうさいさい遷軍すすむ安王やすおうがいへいさんぐん東宮とうぐう學士がくしあに琰時ためかんなみ以才がく娛侍左右さゆう時人じじんおう

ふとしけんちゅうるい太子たいし洗馬せばちゅう舍人とねり。瑜聰さとし強記きょうきつね受莊、ろう于汝みなみしゅう弘正ひろまさがくなりろん于僧滔法なみどおりだいむねとき皇太子こうたいし好學こうがくよく博覽はくらんぐんしょ,以子しゅう繁多はんたいのち瑜抄せん就而そつ太子たいし為之ためゆき流涕りゅうていおやせい祭文さいぶん,仍與詹事こうそう論述ろんじゅつ其美,甚傷きり至德しとくねん追贈ついぞうこう祿ろくきょうゆうしゅうじゅうかん。瑜有したがえ父兄ふけい玠,したがえちちおとうと琛。玠字じゅんだまりょうだいたくみきょう晏子之子ゆきこ也。弘雅ひろまさ有識ゆうしき好學こうがくのうぞくぶんこうぬしざい東宮とうぐうしるしためかん,仍兼ちゅう舍人とねりひろ以疾失明しつめいはたかえ鄉里きょうり太子たいしかいころもおくこれ為之ためゆき流涕りゅうていふとしけんはちねんそつ至德しとくねん追贈ついぞうしょうきょうゆうしゅうじゅうかん

りく

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琛字きよしだませんあつし臨川りんせんおうちょうおかこう之子ゆきこ也。しょう警俊,事後じごはは以孝聞。こうしゅ嗣位,ためきゅうごと黃門こうもんさむらいろう中書ちゅうしょ舍人とねりまいりてのひら機密きみつ。琛性頗疏,すわ泄禁ちゅうみことのりたまもの

りく

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りく杲字明霞めいかくれぐんくれじん也。徽字きゅう猷,そうたてやすしれいきよしひら無私むしためぶんみかどしょぜんげんよしみじゅうねんじょひら越中えっちゅうろうはた廣州こうしゅう刺史ししとくしんめいおう鎮之,ため庶所あいえいじゅうさんねんためえきしゅう刺史ししまたとく,恤隱ゆうかためぐみけんちょ,寇盜せいいき人物じんぶついん阜,しょく安之やすゆきそつ於官,ほろびこれにちいえ餘財よざいぶんみかど痛惜つうせきおくりな曰簡ちちあきらあげしゅうちゅう從事じゅうじ

杲少好學こうがくこう書畫しょがしゅうとちょうとおる有高ありだかめい,杲風韻ふういん舉止頗類,たたえ曰。「たいにちただしゅうとあずかおい」。ため尚書しょうしょ殿中でんちゅう曹郎,はい,八坐丞郎並到上省交禮,而杲いたりばん及時こくすわ免官めんかんこうため從事じゅうじちゅうろうはりだいけんため相國しょうこく西にし曹掾。

てんかんねんちゅうすすむせい婞直,しょ顧望。時山ときやまかげれいおそれかた在任ざいにん贓汙すうひゃくまん,杲奏おさむ劾之。中書ちゅうしょ舍人とねりむつみ以肩ごとたく杲,杲不こたえりょうたけし聞之以問杲,杲答曰:「ゆう。」みかど曰:「識睦?」こたえ曰:「しん識其じん。」むつみざい禦側,うえ指示しじ曰:「此人是也これや。」杲謂曰:「きみ小人こどもなに敢以罪人ざいにんぞくみなみ。」むつみしつしょくりょうぐん將軍しょうぐんちょうきび杲從しゅうと,杲嘗以公事こうじだんきびきびいんさむらいえん訴帝曰:「りく杲是しんおやどおり小事しょうじだんしんかし。」みかど曰:「杲職其事,きょうなんとくためいや。」杲在だいごうかしこきょう禦。

ため義興よしおき太守たいしゅざいこおり寬惠ひろえためしょしょうこよみひだり尚書しょうしょふとしつねきょうため臨川りんせん內史,しょうはつたけみかど,於坐どおりけいもとめつのきょくみかどといなんづけ所由しょゆうてい聞。杲答所由しょゆう不為ふため受。みかど頗怪,以其臨路とがめといこういれためきんむらさきひかり祿ろく大夫たいふ特進とくしんそつおくりなしつ。杲素しん佛法ぶっぽう持戒じかい甚精,ちょ沙門しゃもんでんさんじゅうかん

りく

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おとうと煦,がくわたるゆうおもえ太子たいし家令かれいせんすすむしょ就。またちょりくじゅうかんりく驪泉こころざしいちかん並行へいこう于時。

罩字ほらもとしょう篤學とくがくしょ該覽,ぜんぞくぶん。簡文きょしげるためしつさんぐんせんみかどしゅうじょやや遷太子中こなか庶子しょしてのひらかん禮遇れいぐう甚厚。大同だいどうななねん,以母ろうもとめ公卿くぎょう以下いかどう於征とりこてい皇太子こうたいしたまもの黃金おうごんじゅうきん時人じじんかた疏廣。ははおわりおわりこう祿ろくきょう

はつ,簡文ざい雍州,せんほうたかられん璧,罩與ぐんけんなみしょう區分くぶんしゃすうさい中大ちゅうだいどおりろくねん而書なりいのち湘東おうためじょ。其作しゃゆうさむらい中國ちゅうごくさいしゅみなみらんりょうしょうあらわとうさんじゅうにん,以比おうぞうりゅう邵之すめらぎらん焉。

ろん曰:りくきよしがくしょうはくいにしえ,而用ごういまおっとはたじゅう于時,其所以立だん,于事のうしゅうつとむしょ廚得しょそし矣。叔明ゆうけん,殆為人望じんぼう雅道まさみち相傳そうでんいいとくしゃ也。杲諒直見ぬくみしょう,罩文以取たちまたあし乎?きゅうりく徽著でん事蹟じせきぶた寡,こん以附まご杲上うん

 まきよんじゅうなな かえしかいいただき まきよんじゅうきゅう

ほんとうあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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