しんとうしょ/まき007

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とくむね[编辑]

とくそう神武じんむせいぶん皇帝こうていいみな适,だいそう長子ながこ也。はは曰睿皇太后こうたいごう沈氏。はつ,沈氏以開もとまつせんいれだい宗宮むねみややす祿ろくやまみだれげんむね避賊于蜀,諸王しょおうわらわ及從しゃみなためぞく所得しょとくかかわ東都とうとわき廷。だいそうかつ東都とうととく沈氏,とめ宮中きゅうちゅうおもえあきらさいおちい東都とうととげしつ所在しょざい

肅宗元年がんねんけんうしがつふうとくむねたてまつふしぐんおうだいむね即位そくいあさよりどころ東都とうと,乃以とくむねため天下でんか兵馬へいば元帥げんすいしんふう魯王。はちがつ,徙封雍王。

たからおう元年がんねんじゅうがつたむろ于陝しゅうしょしょう進擊しんげきあさはいあさはし河北かほくとげかつ東都とうと十一月じゅういちがつあさかそけしゅう守將しゅしょうふところせん其首らいけんじ河北かわきたたいら。以功けん尚書しょうしょれいあずか功臣こうしんかくひかり弼等みなたまものてつけん圖形ずけいしのげけむりかくこうとくねんがつたてため皇太子こうたいし

だいこよみじゅうよんねんがつからしとりだいそうくずしみずのとそく皇帝こうてい太極たいきょく殿どの

閏月じゅんげつかぶといぬ,貶常衮為河南かなんしょういん,以河みなみしょういんちぇゆうはじめため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとへいやめしょしゅう及新、渤海みつぎたかはいたかつちのえとらやめ山南さんなんみつぎ枇杷びわ江南こうなんあまたちばなきょう宗廟そうびょうしゃからしやめ邕府としみつぎ奴婢ぬひみずのとやめ梨園りえんらくこうさんひゃくにんけんみなみみつぎせいはるしゅかぶとさるかくためなおちち兼太かねたじょう中書ちゅうしょれいへいいぬやめけんじ祥瑞しょうずいみつぎ金銀きんぎんかざりしゃかえこれちょう宮人みやびとまいぞうさん十有二于荊山之陽。

六月ろくがつおのれ大赦たいしゃたまもの文武ぶんぶかんかい、爵,みんためしゃ爵一きゅうげんじょう輿こしふく庶田たくくるまふく踰制しゃ有司ゆうしため立法りっぽうきん百官置邸販鬻。武德ぶとく至德しとくしょうしょう有功ゆうこうしゃ子孫しそんかんかのえしんふうせんじょうぐんおう誦為せんおうふう謨為舒王,諶通おうりょうけんおうしょう肅王,けんおうおつふうおとうと迺為えきおう,迅隋おうとげしょくおう丙午ひのえうまみことのり六品以上清望官,にちにんまちせいみずのとうしいのち皇族こうぞくとう以上いじょうきょ四方しほうしゃいえ一人ひとり赴山りょうおのれやめあげしゅうみつぐきょうかそけしゅうみつぐ麝。みずのと,舉可刺史ししきょうれいしゃ

なながつつちのえたつついたちにちゆうしょく庚午こうごたゆ邕州金坑きんこうきんからしやめ榷酤。

はちがつかぶとたつどうしゅう司馬しば楊炎ため門下もんかさむらいろうふところしゅう刺史ししたかし琳為大夫たいふどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとおつかえ吐蕃俘。

じゅうがつちょうとり,吐蕃、くも南蠻なんばん寇黎、しげるぶん、扶よんしゅうおおとりしょう節度せつど使しゅ泚、金吾きんごまもる大將軍だいしょうぐんきょくたまきはい于七ばんじょうおのれとりそう睿文こうたけ皇帝こうてい于元りょうつちのえうまやめ九成宮貢立獸炭、じょうしゅう蔗蒻こうからしとり,以沙えん豢豕さんせんきゅう貧民ひんみん

十一月じゅういちがつみずのえうまたかし琳罷。

十二月じゅうにがつおつたてせんおう誦為皇太子こうたいしへいとらみそにちゆうしょく

けん中元ちゅうげんねん正月しょうがつちょうしげる改元かいげん。羣臣じょう尊號そんごう曰聖しん文武ぶんぶ皇帝こうていおのれあさけんじ于太清宮きよみや庚午こうごあさとおる于太びょうからし有事ゆうじ南郊なんこう大赦たいしゃたまもの文武ぶんぶかんかいくん、爵,黜陟使于天たまものためちち後者こうしゃくんりょうてん

がつへいさるはつじょうりょうぜい

よんがつ乙未おとみよん鎮、きたにわ行軍こうぐんべつりゅうぶんはん于涇しゅうふく誅。おのれ地震じしん

ろくがつかぶとうまちぇゆうはじめ薨。

なながつへいとら王國おうこくくだおのれうしころせただしゅう刺史ししりゅう晏。

はちがつちょうはるかたかしはは沈氏ため皇太后こうたいごう

九月くがつおのれかみなりかのえとらむつみおうじゅつため奉迎ほうげい皇太后こうたいごう使

ふゆゆき黃河こうが、滹沱、えきすい溢。

ねん正月しょうがつつちのえたつ成德しげのりぐん節度せつど使たからしんそつ,其子おもんみだけ自稱じしょうとめかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使しゅ滔討はく節度せつど使えつはんかみさくおそれこうあきら河東かわとう節度せつど使ひうち昭義あきよしぐん節度せつど使だきしん河陽かわよう節度せつど副使ふくし芃討ながたいらぐん節度せつど使つとむため汴、すべりちんなつけていなんじ、陝、河陽かわよう三城みきそう、亳、潁節度せつどみやこみつる

がつおつ大夫たいふ𣏌ため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとおつたけぐんみだれころせ其使彭令よし及監ぐんりゅうめぐみこうちょうはつへいたむろ關東かんとうちかい于望はるろう山南さんなん東道とうどう節度せつど使りょうたかしよしはん

五月ごがつ京師けいし雹。庚申こうしんおけまちみことのりかんさんじゅうにん

ろくがつ,熒惑、太白たいはく鬬于ひがし癸巳きし,淮寧ぐん節度せつど使のぞみれつためかんみなみかんきた兵馬へいば招討使,以討りょうたかしからしうしかく薨。

なながつ庚申こうしん,楊炎やめ檢校けんぎょう尚書しょうしょみぎぼくしゃこうまれいっためそらまえながたいらぐん節度せつど使ちょう鎰為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとほうのぞみいっ薨。みずのとうまひうちだき及田おいたえつせん于臨洺,はい

はちがつけんみなみ西川にしかわ節度せつど使ちょうのべしょう東川ひがしがわ節度せつど使おう叔邕、山南さんなん東道とうどう節度せつど使賈耽、荊南節度せつど使あきら巙、ちんしょうゆう討梁たかしよし,以李まれれつためしょぐんみやこみつるからしひらぐん節度せつど使ただしおのれそつ,其子おさめ自稱じしょうとめみずのえりょうたかしふく誅。

きゅうがつおさむおちいそうしゅうおもんみだけはたちょうたかしちゅう以易、ていしゅうくだみずのえいぬたまものりつこう士卒しそつ帛,稟死ごとさんさい

じゅうがつつちのえさるおさむはた洧以じょしゅうくだ

十一月じゅういちがつからしとりおさめ寇徐しゅうせんぐん節度せつど使りゅうひろしはいななさとみぞちょううしうまひうち及田おいたえつせん于雙おかはいかぶとさるおさむはたおうわたる以海しゅうくだ

十二月じゅうにがつひのととりうま萬通以密州降。うまひうちためはく招討使

これさいころせがけしゅう司馬しば楊炎。

さんねん正月しょうがつへいとらしゅ滔、成德しげのりぐん節度せつど使ちょうたかしちゅう及李おもんみだけせん于束鹿しかはいからしげんつねぜん太子たいし諸王しょおう食物しょくもつふく榷酤。みずのとおさむおちいうみみつしゅう

閏月じゅんげつ乙未おとみおもんみだけはたかんにち以趙しゅうくだかぶとたつおもんみだけふく誅,其將楊榮こく以深しゅうくだかのえいぬうまひうち及田おいたえつせん于洹すいはいこれがつえつはたさいはる以博しゅうくだのぼる以洺しゅうくだ

がつつちのえうまおもんみだけはた楊政以定しゅうくだかぶといぬきゅうふくえきじょうふかちょうつね、冀ろくしゅうさんねん,赦吏みんためおもんみだけせりおびえしゃおのれふるえどおりもん

よんがつつちのえうまおさむはた以德、棣しゅうくだ甲子きのえねしょうぜにかぶといぬ昭義あきよしぐん節度せつど副使ふくしげんきょうためはく、澶相招討使つちのえとらちょう鎰罷。みずのえうまころせ殿中でんちゅうさむらいてい詹。これがつしゅ滔反,おちいとく、棣しゅう

五月ごがつからしさくかたぐん節度せつど使ふところこう討田えつ

ろくがつ甲子きのえね京師けいし地震じしんつね觀察かんさつ使おう武俊たけとしはんからしふところこううまひうち芃、だき及朱滔、おう武俊たけとしえつせん于連篋山,はい績。

なながつみずのえたつ殿中でんちゅうすすむくもはし謀反ぼうほんふく誅。癸巳きしとましょうぜにれい

はちがつみずのとうしえんじしゅう司馬しば孟秋もうしゅうみねしゅう刺史ししかわがんはんふく誅。

きゅうがつちょうはつぜいしょうぜにちゃうるしたけ

じゅうがつへいたつ,吏部さむらいろうせき播為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとのぞみれつはんへい,肅王しょう薨。

よんねん正月しょうがつひのとおおとりしょう節度せつど使ちょう鎰及吐蕃なおゆいさんめい清水しみずかのえとらのぞみれつおちいなんじしゅう刺史ししもとたいらつちのえいぬ東都とうとなんじぎょう節度せつど使哥舒曜討のぞみれつがつちょうしげるかつなんじしゅう

さんがつからしのぞみれつ寇鄂しゅう刺史ししけんはいちょうとり,荊南節度せつど使ちょうはく及李まれれつせん于安しゅうはい績。

よんがつ庚申こうしんつとむため淮西招討處置しょち使,哥舒曜副ちょうはくため淮西應援おうえん招討使,賈耽、江南こうなん西道さいどう節度せつど使嗣曹おうさつきふくこれ甲子きのえね京師けいし地震じしんなまへい,哥舒曜及のぞみれつせん于潁きょうはい

五月ごがつからし京師けいし地震じしんおつとり,潁王璬薨。乙未おとみりゅうひろしため淄青、兗鄆招討せいおけ使

ろくがつかのえいぬぜいあいださんじょ陌錢。ちょうしげる,徙封逾為おう,遘簡おう

なながつうまひうちためはく、澶相節度せつど招討使みずのえたつ𣏌、せき播、忠臣ただおみ及吐しげる頰贊めい于京

はちがつ丁未ていみのぞみれつ寇襄じょうおつまれれつはた曹季あきら以隋しゅうくだ庚申こうしんゆうほし隕于京師けいし

きゅうがつへいいぬかみさくぐんぎょう兵馬へいば使りゅういさおしん及李まれれつせん于扈澗,はい績。かのえ,舒王謨為荊襄、江西えにし、沔鄂節度せつどしょぐんぎょう營兵うま元帥げんすい,徙封おう

じゅうがつ,涇原節度せつど使姚令げんはんはん京師けいしつちのえさる,如奉てんしゅ泚反。かのえいぬ,泚殺つかさみのりきょうだん秀實ひでみ及左驍衞將軍しょうぐんりゅううみまろうどおおとりしょう營將すわえ琳殺其節度せつど使ちょう鎰,自稱じしょうとめみずのとうしのぞみれつおちいじょうじょうせんぐん兵馬へいば使だかつばさきのえとらしゅ泚殺涇原節度せつどおそれこうなんあかりれいおつころせ尚書しょうしょみぎぼくしゃちぇやすしちょう戶部とべ尚書しょうしょしょうふくため吏部尚書しょうしょ,吏部ろうちゅうりゅうしたがえいちため刑部おさかべさむらいろうきょう兆府戶曹參軍、翰林かんりん學士がくしきょうこう輔為諫議大夫たいふどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとしゅ泚犯奉天ほうてんきんぐんはい績于城東じょうとうからしとりれいしお節度せつどとめもりまれぜん、鄜坊節度せつど使けん徽及しゅ泚戰于漠だにはい績。みずのとりゅういさおしん及泚せん于思りょうはい甲子きのえねぎょうざいおそれこう渾瑊及泚せん于城はいひだりりゅうたけしぐん大將軍だいしょうぐんりょまれ倩死おつうし將軍しょうぐん高重たかしげすぐるこれがつしょうしゅうぐんみだれころせ其刺しゃ良輔りょうすけ

十一月じゅういちがつけん南西なんせいやま兵馬へいば使ちょう朏逐其節度せつど使ちょうのべしょう,朏伏誅。癸巳きしふところこう及朱泚戰于魯てんはいふところこうため中書ちゅうしょれいさくかた邠寧どうはな陝虢河中かわなかすすむ絳慈隰行營兵ふく元帥げんすい

十二月じゅうにがつしゅ泚陷はなしゅうみずのえいぬ,貶盧𣏌ためしんしゅう司馬しば庚午こうごのぞみれつおちい汴、ていしゅう

きょうもと元年がんねん正月しょうがつみずのととり大赦たいしゃ改元かいげんきよしかみ文武ふみたけごうふくのぞみれつえつおう武俊たけとしおさむ官爵かんしゃく。赴奉天ほうてんおさむきょうじょう將士しょうし有罪ゆうざいげんさんとう子孫しそんげんとうざいくだり營者たまものくんてんたまもの文武ぶんぶかんかいくん、爵。やめあいだたけちゃうるしぜい及除陌錢。きゅうふく奉天ほうてんねん城中じょうちゅうじゅうねんせき播罷。へいいぬ,吏部さむらいろう翰為兵部ひょうぶさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと戊子ぼししょうふくため山南さんなん東西とうざい、荊湖、淮南ワイナン江西えにし、鄂岳、浙江せっこう東西とうざい福建ふっけんみねみなみせん慰安いあんなで使つちのえいぬりゅうひろしため汴滑そう亳都すべ副使ふくし

がつ甲子きのえねふところこうためふとしじょうふところこうはんちょうしげる,如梁しゅうふところこうはたはじめにわ以兵らいおいひだりまもる大將軍だいしょうぐんこうなかそうはい于驛てん

さんがつふところこうだつ鄜坊京畿けいききんしょう節度せつど使けん徽、かみさくぐん兵馬へいば使めぐみもとへいめぐみもとみずのととりはく兵馬へいば使いとぐちころせ節度せつど使えつ自稱じしょうとめかぶといぬふところこうころせひだりひさし兵馬へいば使ちょう名振なぶりみぎたけほこさき兵馬へいば使せきえんじ芬。ちょうあきらため京畿けいき、渭北、鄜坊のべ節度せつど招討使かみさくぎょう兵馬へいば使なおためかみさく京畿けいき、渭南、しょうしゅう節度せつど招討使みずのえたつやなしゅうちょうとりりゅうひろしけん汴滑そう亳都すべ兵馬へいばごとおのれ,渾瑊ためついたちかた、邠寧、たけひさしひらめ奉天ほうてんゆき營兵ふく元帥げんすい

よんがつふところこうおちいぼうしゅうかぶとたつあきらため京畿けいき、渭北、しょうはな兵馬へいばふく元帥げんすいきのえとらきょうこう輔罷。涇原兵馬へいば使まれ鑒殺其節度せつど使馮河きよし自稱じしょうとめおつうし,渾瑊及朱泚戰于武ていかわはいちょうしげるおう玼薨。これがつぼうしゅう刺史しし竇覦かつぼうしゅう

五月ごがつみずのととり,涇王侹薨。へいだきしんおう武俊たけとし及朱滔戰于經じょうはいみずのえたつなお及朱泚戰于藍でん西にしはい乙未おとみあきらまたはい于苑きたつちのえいぬまたはい于白はなふく京師けいし

ろくがつみずのと,姚令げんふく誅。かぶとたつしゅ泚伏誅。おのれとりあきらため中書ちゅうしょれいみずのとうし,以梁しゅうためきょうもときゅうふくいちねん,耆老ばん授。きのえとら,渾瑊ためさむらいちゅうおのれきゅうふくようしゅういちねん加給かきゅうきょうもといちねんめんおおとりしゅういまとしぜい父老ふろうばん授。

なながつへいおおとりしょうめんいまさいあきみつぐ,八十以上版授刺史,あまり授上ちょううしそう宗室そうしつぐうがいしゃみずのえうまいたりきょうもとちょうふところこうころせせん慰使あなちちからし大赦たいしゃたまもの百官ひゃっかん將士しょうしかいくん、爵,おさむきょうじょうしゃますはちきゅうふくきょうちょういちねんこれがつ,嗣曹おうさつき及李まれれつせん于應やまはい

はちがつみずのとあきらためおおとりしょう隴右しょぐん、涇原四鎮北庭行營兵馬副元帥,うまひうちためすすむ、慈、隰諸ぐんぎょう營兵ふく元帥げんすい,渾瑊ため河中かわなかどう絳、陝虢しょぐんぎょう營兵ふく元帥げんすい丙午ひのえうま,渾瑊けんついたちかたぎょう營兵ふく元帥げんすいおのれとりのべおう玢、ずいおう迅薨。

じゅうがつからしうしつとむ檢校けんぎょうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

閏月じゅんげつ戊子ぼしのぞみれつはたきよし以滑しゅうくだ

十一月じゅういちがつみずのとりゅうひろし、邠隴ぎょう節度せつど使きょくたまき及李まれれつせん于陳しゅうはいつちのえうまかつ汴州。おつうししょうふくやめ

十二月じゅうにがつおつとり,渾瑊及李ふところこうせん于乾あなはい績。

これさいひねおう珪薨。

貞元さだもと元年がんねん正月しょうがつひのととり大赦たいしゃ改元かいげんやめ榷稅。

さんがつふところこうころせぐん兵馬へいば使せんひろしおそれこうりょたけ丁未ていみのぞみれつおちい鄧州,ころせから鄧隋招討使黃金おうごんだけ

はるひでり

よんがつおつうし,徙封よしみため舒王。みずのえうま,渾瑊及李ふところこうせん于長春宮とうぐうはいへいいぬうまひうち、渾瑊ため河中かわなか招撫使

六月ろくがつおのれうしかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使しゅ滔卒,涿州刺史ししりゅう自稱じしょうとめからしけんみなみ西川にしかわ節度せつど使ちょうのべしょうため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと戊子ぼしうまひうち及李ふところこうせん于陶じょうはい

なながつ,灞、滻竭。かのえ大風おおかぜ拔木。

はちがつかさねふうはいきょう功臣こうしん子孫しそん甲子きのえね,以旱避正殿どのげんぜんかぶといぬふところこうふく誅。おのれきゅうふく河中かわなかどうしゅういちねんうまひうちためさむらいちゅうちょうのべしょうやめへいいぬのぞみれつころせせん慰使がおきょう

きゅうがつからしりゅうしたがえいちやめ庚申こうしんかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使りゅう怦卒,其子ずみ自稱じしょうとめ

あきあめ冰。

十一月じゅういちがつみずのと有事ゆうじ南郊なんこう大赦たいしゃたまもの奉天ほうてんきょうもと扈從こしょう百官ひゃっかんおさむきょう將士しょうしかいくん、爵。

ねん正月しょうがつへいさるみことのりげん御膳ごぜんはん,賙貧乏びんぼうしゃ授以かんみずのえとら翰罷。吏部さむらいろうりゅうしげるためひだりつねさむらいきゅうごとちゅうちぇづくり中書ちゅうしょ舍人とねりひとしうつどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

がつみずのと山南さんなん東道とうどう節度せつど使樊澤及李まれれつせん于泌かわはい

よんがつへいとらまれれつふく誅。かぶといぬあめかぶとさるきゅうふく淮西ねん

五月ごがつのぞみれつはためぐみとう以隋しゅうくだおのれとり地震じしん

ろくがつみずのと,滄州刺史ししほどにちはなそつ,其子ふところちょく自稱じしょう觀察かんさつとめこれがつ,淮西兵馬へいば使しょうまこところせ節度せつど使ちんせん自稱じしょうとめ

なながつのぞみれつはた薛翼以唐しゅうくだほう召以光州こうしゅうくだ

はちがつへい大雨おおあめ雹。へいいぬ,吐蕃寇邠、やすし、涇、隴よんしゅう

きゅうがつおつ,寇好畤,あきらはい于汧

じゅうがつみずのととり,邠寧節度せつど使かんゆう瓌又はい于平かわ

十一月じゅういちがつかぶとうまたてよしおうため皇后こうごうちょうとり皇后こうごうくずしからしうし,吐蕃おちいしおしゅう

十二月じゅうにがつひのとおちいなつしゅううまひうちため綏、ぎん、麟、かち招討使庚申こうしんちぇづくりやめかぶといぬ,以吐しげる寇邊,避正殿どの

さんねん正月しょうがつみずのえとら尚書しょうしょひだりぼくしゃちょうのべしょう同中どうちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとみずのえりゅうしげるやめ。貶齊うつため夔州刺史しし兵部ひょうぶさむらいろうやなぎ渾同中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

がつおのれはなしゅう潼關節度せつど使駱元こうかつしおなつしゅうかぶとさるそう昭德あきのり皇后こうごう于靖りょう

さんがつ丁未ていみあきらためふとしじょうからしうまひうちやめふく元帥げんすい

五月ごがつあげしゅう溢。しょうまこところせさるしゅう刺史ししちょうはくもと殿中でんちゅうさむらいていつね

閏月じゅんげつからし,渾瑊及吐しげるめい于平すずし,吐蕃かいめい副使ふくし兵部ひょうぶ尚書しょうしょちぇかん衡,ころせ判官ほうがん殿中でんちゅうさむらいふみかん弇。つちのえとら太白たいはくひる

ろくがつ,吐蕃寇鹽、なつしゅうへいいぬうまひうちため徙,ぜん陝虢觀察かんさつ使泌為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

なながつ甲子きのえねさくかた節度せつど使もりまれぜんためついたちかたれいしおゆたかなつ綏銀節度せつどみやこみつるみずのえさるちょうのべしょう薨。

はちがつからしついたちにちゆうしょくおのれうしやなぎ渾罷。つちのえさる,吐蕃寇青石嶺いしみね,隴州刺史ししきよし沔敗かのえいぬきんだい馬出うまだしがま、潼、たけせき

きゅうがつちょう,吐蕃寇汧へいとらおちいはなてい及連くも堡。

じゅうがつかぶとさる,寇豐よしかんゆう瓌敗おつとり,寇長たけじょうしろ使かんちょんよしはいみずのえたつしゃせいはたかん欽緒謀反ぼうほんふく誅。

十一月じゅういちがつおのれ京師けいし東都とうと河中かわなか地震じしん

十二月じゅうにがつかのえたつりょう新店しんてん

よんねん正月しょうがつかのえいぬついたち京師けいし地震じしん大赦たいしゃ刺史ししいちかん增戶ますと墾田こんでんしゃ加階かかい縣令けんれいげんせん,九品以上官言事。みずのえさるりゅうげんため四鎮北庭行營、涇原節度せつどふく元帥げんすいこれがつきむぼうしゅう地震じしんこう溢山きれあめ冰于ひねとめ

よんがつ河南かなん、淮海せいおのれ福建ふっけんぐんみだれ,逐其觀察かんさつ使くれ詵,大將たいしょう郝誡溢自稱じしょうとめ

五月ごがつ,吐蕃寇涇、邠、やすしけい、鄜しゅう

六月ろくがつおのれふう謜為邕王。

なながつかのえいぬ,渾瑊ため邠、やすしけいふく元帥げんすいみずのとうしやすししゅうぐんみだれ,邠寧おそれこう楊朝あきらはいおのれ,奚、しつ韋寇振これがつ河水こうすいくろ

はちがつ,灞水溢。

きゅうがつ庚申こうしん,吐蕃寇寧しゅう,邠寧節度せつど使はりけんじはじめはいふゆちく夾城。

これさい京師けいし地震じしんじゅう

五年正月甲辰朔,にちゆうしょく

がつかのえだいきょうただしすすむため門下もんかさむらいろう大夫たいふ竇參ため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

さんがつかぶとたつ泌薨。

なつ,吐蕃寇長たけじょうかんちょんよしはい于佛堂原どうばら

きゅうがつ丙午ひのえうまけんみなみ西川にしかわ節度せつど使韋皐はい吐蕃于臺とう北谷きただにかつ巂州。

じゅうがつみねみなみ節度せつど使ふくかつ瓊州。

ろくねんはるひでり

うるうよんがつおつみことのりつねさんかん、畿縣れいげんごとめんきょうちょうなつぜい

はちがつからしうしころせ皇太子こうたいししょう

十一月じゅういちがつつちのえたつあさけんじ于太清宮きよみやおのれあさとおる于太びょう庚午こうご有事ゆうじ南郊なんこうたまもの文武ぶんぶかんかい、爵。くだしゅうざい以下いか原之はらのそうせんほろび暴骨しゃ

これさい,吐蕃おちいきたにわみやこまもる節度せつど使楊襲奔于西にししゅう

ななねん正月しょうがつおのれじょうおう僙薨。

よんがつやすみなみ首領しゅりょうもりえい翰反,ふく誅。

五月ごがつかぶとさるはしおうぐう薨。

きゅうがつかい鶻殺楊襲いにしえ

十二月じゅうにがつつちのえいぬむつみおうじゅつ薨。

ふゆゆき

はちねんがつかのえあめ

さんがつかぶとさるせんぐん節度せつど使りゅうげんそつ,其子士寧しねい自稱じしょうとめ

よんがつ,吐蕃寇靈しゅうちょうころせひだり諫議大夫たいふせい誥吳どおりげん乙未おとみ,貶竇さんため郴州べつ尚書しょうしょひだりすすむちょう憬、兵部ひょうぶさむらいろうりくにえため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

五月ごがつおのれだい風發ふうはつふとびょうかわらみずのととりひらぐん節度せつど使おさむそつ,其子自稱じしょうとめ

ろくがつ,淮水溢。吐蕃寇連くも堡,大將たいしょうおうすすむよう

きゅうがつちょう,韋皐及吐しげるせん于維しゅうはい

十一月じゅういちがつみずのえついたちにちゆうしょく庚午こうご山南さんなん西道さいどう節度せつど使いむしん及吐しげるせん于黑すい堡,はいこれがつかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使りゅうわたる及其おとうと瀛州刺史しし澭戰于瀛しゅう,澭敗,奔于京師けいし

十二月じゅうにがつかぶとたつりょう于城ひがし

きゅうねん正月しょうがつみずのとふくぜいちゃ

よんがつからしとりせき輔、河中かわなか地震じしん

五月ごがつかぶとたつ義成よしなりぐん節度せつど使賈耽ため尚書しょうしょみぎぼくしゃ尚書しょうしょみぎすすむ邁:どう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと丙午ひのえうまただしすすむやめ

はちがつかのえいぬあきら薨。

十一月じゅういちがつみずのとあさけんじ于太清宮きよみやかぶとさるあさとおる于太びょうおつとり有事ゆうじ南郊なんこう大赦たいしゃ

十二月じゅうにがつへいたつせんぐんはた萬榮逐其節度使劉士寧,自稱じしょうとめ

じゅうねん正月しょうがつみずのえたつみなみみことのり蠻敗吐蕃于神がわらいけんじとし

よんがつみずのとついたち,赦京じょうつちのえさる地震じしんみずのとうしまたふるえこれがつ太白たいはくひる

ろくがつへいとら,韋皐はい吐蕃,かつ峨和じょうはるあめいたり于是がつからしあめ大風おおかぜ拔木。

なながつ西原にしはら蠻叛。

はちがつおちい欽、よこ、潯、よんしゅう

じゅうがつ昭義あきよしぐん節度せつどとめおうけんきゅう及攝洺州刺史ししもとよしみせん于鷄さわはい

十二月じゅうにがつへいたつりょう于城みなみみずのえいぬ,貶陸にえため太子たいし賓客ひんきゃく

じゅういちねんよんがつへいとら,奚寇たいらしゅうりゅうわたるはい于青やま

五月ごがつ庚午こうご中書ちゅうしょ門下もんかおもんばかしゅう

はちがつからしうまひうち薨。

きゅうがつよこ海軍かいぐん兵馬へいば使ほどふところしん逐其けい節度せつど使ふところじき自稱じしょうとめ

じゅうがつろうしょくしゅうこう溢。

十二月じゅうにがつつちのえたつりょう于苑ちゅう

じゅうねんがつおのれ,吐蕃寇巂しゅう刺史しし曹高つかまつはい

さんがつへいたつ,韶王暹薨。

よんがつ庚午こうごはく節度せつど使いとぐちそつ,其子やす自稱じしょうとめ

六月ろくがつおのれうしせんぐん節度せつど使よろずさかえそつ,其子迺自稱じしょう兵馬へいば使ふく誅。

なながつつちのえいぬかんおう迥薨。

はちがつおのれついたちにちゆうしょくへいいぬちょう憬薨。

きゅうがつ,吐蕃寇慶しゅう

じゅうがつかぶといぬみぎ諫議大夫たいふちぇそんきゅうごとちゅうちょうはじめ儒同中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうさんねん正月しょうがつみずのえとら,吐蕃請和。

よんがつからしとり,以旱おもんばかしゅうみずのえいぬ,雩于きょうけいみや

五月ごがつみずのえとら,吐蕃寇巂しゅう,曹高つかまつはいかのえいぬやすしぐんみだれころせ其將つねすわえきゃく

なながつ乙未おとみ京師けいし地震じしん

九月くがつおのれうし邁罷。

じゅうよんねんさんがつへいさるおおとりしょうかん軍使ぐんし西門にしもんおごころせ其將なつこう衍。

五月ごがつおのれとりはじめかみなり

閏月じゅんげつからしゆうほし隕于西北せいほくからしとり長武ながたけしろぐんみだれ,逐其使かんぜん

ろくがつへいさる歸化きか堡軍みだれ,逐其はたちょうこくまこと,涇原節度せつど使りゅうあきらはい

なながつみずのえさるちょうはじめ儒罷。こうさむらいろうてい餘慶よけいため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

きゅうがつちょうしげる,𣏌おう倕薨。

十二月じゅうにがつみずのえとらあきらしゅうはたぐり鍠殺其刺くも以反。

ふゆゆき京師けいしひだる

じゅうねん正月しょうがつきのえとらまさおういつ薨。みずのえいぬ,郴州あい山崩やまくずれ

がつおつとりせんぐんみだれころせ節度せつど行軍こうぐん馬陸やすでちょうげんそうしゅう刺史ししりゅういつ自稱じしょうとめ

さんがつきのえとらあきら義軍ぎぐん節度せつど使しょうまことはんおちいからしゅう守將しゅしょうちょうよしみ瑜死

よんがつ乙未おとみぐり鍠伏誅。

きゅうがつおつちんもと節度せつどとめ上官じょうかん涗及しょうまことせん于臨潁,はい績。丙午ひのえうましょうまこと寇許しゅうかのえいぬせんぐん節度せつど使りゅうぜんりょうそつみやことも兵馬へいば使かんひろし自稱じしょうとめへいたつせん河陽かわようていすべり東都とうとなんじ成德しげのりかそけしゅう、淄青、はくえきじょうさわ潞、河東かわとう淮南ワイナンじょ泗、山南さんなん東西とうざい、鄂岳ぐん討吳しょうまこと

じゅうがつおのれうし,邕王謜薨。

十一月じゅういちがつ丁未ていみ山南さんなん東道とうどう節度せつど使于頔及吳しょうまことせん于吳ぼうはいひねもと節度せつど使上官じょうかん涗又はい于柴ませからしやす節度せつど使まきまたはい于鍾やま

十二月じゅうにがつ庚午こうごことぶきしゅう刺史ししおうはじめまたはい于秋しがらみからし,渾瑊薨。乙未おとみ諸道しょどうへいつぶせ于小溵河。

じゅうろくねん正月しょうがつおつえきじょうへい及吳しょうまことせんはい績。

がつおつとりしおなつ綏銀節度せつど使かんちょんよしため蔡州ぎょう營招討處置しょち使上官じょうかん涗副

よんがつちょう,黔中えんしつらえはたでんきん逐其觀察かんさつ使くれむね

五月ごがつかのえいぬかんちょんよし及吳しょうまことせん于廣じょうはい績。みずのえじょ泗濠節度せつど使ちょうけんふうそつ,其子愔自稱じしょう軍事ぐんじ

なながつちょうまき及吳しょうまことせん于申しゅうはいおのれ,韋皐かつ吐蕃まつきょうじょうへいとらかんちょんよし及吳しょうまことせん于五ろうはい績。

はちがつりゅうわたる及其おとうと涿州刺史ししげんせん于涿しゅうみなもとはいこれおのれうしころせとげしゅうべつちぇ。韋皐かつ吐蕃顒城。

きゅうがつかのえいぬ,貶鄭餘慶よけいため郴州司馬しば庚申こうしんふとしつねきょうひとしこうため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうがつからしころせどおりしゅうべつちぇかわ

これさい京師けいしひだる

じゅうななねんがつちょうとり大雨おおあめ雹。おのれしもおつ,韋皐及吐しげるせん于鹿危山,はいつちのえさる大雨おおあめ雹,ふるえでんかのえいぬ大雪おおゆきあめ雹。

五月ごがつみずのえいぬついたちにちゆうしょく

ろくがつへいさるやすししゅうぐんみだれころせ其刺りゅうみなみきんおのれ,浙西觀察かんさつ使錡殺じょうふうごとじんちぇよしさだちょう成德しげのりぐん節度せつど使おう武俊たけとしそつ,其子自稱じしょうとめ

なながつ,隕霜ころせまめつちのえとら,吐蕃寇鹽しゅうおのれうしおちい麟州,刺史ししかくほこさき

きゅうがつおつ,韋皐はい吐蕃于雅しゅうかつなみじょう

これさいよしみおううん薨。

じゅうはちねんなながつおつやめせい衙奏ごと

十二月じゅうにがつたまきおうおちい驩、あいしゅう

じゅうきゅうねんがつおのれやすみなみしょうおうもと逐其經略けいりゃく使裴泰,兵馬へいば使ちょうひとしはい

さんがつみずのえ淮南ワイナン節度せつど使もりたすく檢校けんぎょうそらどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

なながつおのれひとしこうやめ正月しょうがつあめいたり于是がつかぶといぬあめ

うるうじゅうがつかのえいぬしおしゅうはたにわしゅんはんふく誅。ちょうちぇそん薨。

十二月じゅうにがつ庚申こうしんふとしつねきょうだか郢為中書ちゅうしょさむらいろう,吏部さむらいろうてい珣瑜ため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうねんがつかのえいぬ大雨おおあめ雹。なながつみずのととり大雨おおあめ雹。

ふゆあめ冰。

じゅういちねん正月しょうがつ癸巳きし皇帝こうていくずし于會やすし殿どのねんろくじゅうよん

じゅんむね[编辑]

じゅんむね至德しとく弘道こうどう大聖たいせい大安だいあんたかし皇帝こうていいみな誦,とくそう長子ながこ也。はは曰昭とく皇后こうごうおうはじめふうせんじょうぐんおうだいこよみじゅうよんねんろくがつしんふうせんおう十二月じゅうにがつおつたてため皇太子こうたいし

ためじん寬仁かんじん學藝がくげいぜん隸書れいしょれいじゅう師傅しふ輒先はいしたがえとくそうみゆき奉天ほうてんつね弓矢ゆみやきょ左右さゆう。郜國公主こうしゅ以蠱ごととくざい太子たいし,其女也,とくむねうたぐこれいくはいしゃ屢矣,よりゆき保護ほご,乃免。こうさむらいえんぎょみやちょうみずうれし綵艦,宮人みやびとためかい,眾樂あいだはつとくむね驩甚,顧太子たいし曰:「今日きょうなん如?」太子たいし誦詩「こうらくあら」以為たい。及裴のべよわい、韋渠牟用事ようじせいみなかしこ其為しょう太子たいしごとこう顏色かおいろちん不可ふか二人ふたりしゃそつ得用とくよう

貞元さだもとじゅうねん太子たいしびょうふう且瘖。

じゅういちねん正月しょうがつ不能ふのうあさとくそう諸王しょおうみなさむらい左右さゆうおもんみ太子たいしびょう不能ふのうとくむね悲傷ひしょう涕泣ていきゅうやまし有加ゆか癸巳きしとくむねくずしへいさるそく皇帝こうてい太極たいきょく殿どの

がつみずのとあさ羣臣于紫宸門。からし,吏部さむらいろう韋執よしみため尚書しょうしょひだりすすむどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと甲子きのえね大赦たいしゃやめみやみん百歲版授下州刺史,婦人ふじんぐんくんきゅうじゅう以上いじょううえ婦人ふじんけんくんおつうしやめしおてつ使がつすすむ

さんがつ庚午こうご後宮こうきゅうさんひゃくにんみずのととり後宮こうきゅう及教ぼうおんなろくひゃくにん癸巳きしたて廣陵こうりょうぐんおうじゅんため皇太子こうたいし

よんがつみずのえとらふうおとうと諤為欽王,諴珍おうしんふうたてやすしぐんおうけい郯王,ようかわぐんおうぬきひとしおう,臨淮ぐんおうたて漵王,ひろのうぐんおう紓莒おうかんひがしぐんおうつなみつおう[1]すすむりょうぐんおう緫郇おう高平たかひらぐんおうやく邵王,くもやすぐんおうゆいそうおうせんじょうぐんおう緗集おう德陽とくようぐんおう絿冀おう河東かとうぐんおうあやぎぬおうふうあやため衡王,纁會おうたがねぶくおうひろしなでおう,緄岳おうしん袁王,綸桂おう,繟翼おうつちのえさる,以冊皇太子こうたいしくだ死罪しざい以下いかたまもの文武ぶんぶかんためちち後者こうしゃくんりょうてん

なながつからしよこ海軍かいぐん節度せつど使ほどふところしんそつ,其子きょう自稱じしょうとめ乙未おとみ皇太子こうたいしけんとう軍國ぐんこく政事せいじふとつねきょうもりため門下もんかさむらいろうひだり金吾きんごまもる大將軍だいしょうぐん袁滋ため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとてい珣瑜、こう郢罷。

えいさだ元年がんねんはちがつかのえたて皇太子こうたいしため皇帝こうてい自稱じしょう曰太上皇じょうこうからしうし改元かいげんくだ死罪しざい以下いかたてりょう娣王ためふとしじょう皇后こうごう

元和がんわ元年がんねん正月しょうがつ皇帝こうていりつ羣臣じょう尊號そんごう曰應いぬいきよしことぶきふとし上皇じょうこうこれがつくずし于咸やすし殿どのねんよんじゅうろく,謚曰至德しとく大聖たいせい大安だいあんたかし皇帝こうてい大中おおなかさんねんぞう至德しとく弘道こうどう大聖たいせい大安だいあんたかし皇帝こうてい

けんむね[编辑]

けんそう昭文あきふみあきらたけ大聖たいせいいたりしんこう皇帝こうていいみなじゅんじゅんそう長子ながこ也。はは曰莊けん皇太后こうたいごうおう貞元さだもとよんねんろくがつおのれふう廣陵こうりょうぐんおうじゅういちねんさんがつたてため皇太子こうたいし

えいさだ元年がんねんはちがつじゅんむねみことのりりつため皇帝こうていおつそく皇帝こうてい太極たいきょく殿どの丁未ていみはじめ聽政。かのえいぬやめけんじ祥瑞しょうずいみずのとうしけんみなみ西川にしかわ節度せつど使韋皐そつ行軍こうぐん司馬しばりゅう自稱じしょうとめつちのえうまてんゆうごえ于西きたおのれ,袁滋ためけん南西なんせいがわ山南さんなん西道さいどうやすなで大使たいしみずのと尚書しょうしょひだりすすむてい餘慶よけい同中どうちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

九月くがつおのれやめきょうぼうらくこう正員せいいんかん

じゅうがつちょうとりため曾太皇太后こうたいごう舉哀。賈耽薨。つちのえいぬ,舒王よしみ薨。袁滋やめおのれとりそう神武じんむせいぶん皇帝こうてい于崇りょう

十一月じゅういちがつおのれ,祔睿皇后こうごう于元りょうみやみずのえさる,貶韋執よしみためがけしゅう司馬しばなつ綏銀節度せつどとめ楊惠琳反。

十二月じゅうにがつみずのえいぬ中書ちゅうしょ舍人とねりてい絪為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

元和がんわ元年がんねん正月しょうがつちょうしげる大赦たいしゃ改元かいげんたまもの文武ぶんぶかんかいくん、爵,みん高年こうねんしゃまい帛羊しゅみずのと長武ながたけしろ使こうたかしぶんためひだりかみさくぎょう節度せつど使りつ左右さゆうしんさくきょう西行さいぎょう兵馬へいば使もと奕、山南さんなん西道さいどう節度せつど使げん礪、けん南東みなみあずまがわ節度せつど使やすし以討りゅう闢。かぶとさるふとし上皇じょうこうくずしりゅう闢陷あずさしゅうやすし

さんがつへいこうたかしぶんかつあずさしゅうからし,楊惠琳伏誅。

よんがつ丁未ていみもりたすくためみずのえいぬ,邵王やく薨。はつれい尚書しょうしょしょうろくひんしょつかさ四品以上職事官,太子たいし師傅しふ賓客ひんきゃく、詹事,おうでんにちにんまちせい

五月ごがつからしみことははため皇太后こうたいごう

ろくがつ癸巳きしくだ死罪しざい以下いかたまもの百姓有父母祖父母八十以上者粟二斛、ものだんきゅうじゅう以上いじょうあわさん斛、ものさんだんへいさる大風おおかぜ拔木。ちょうとりこうたかしぶん及劉闢戰于鹿あたましがらみはいみずのといむ礪又はい于石たに

閏月じゅんげつみずのえいぬひらぐん節度せつど使いにしえそつ,其弟師道しどう自稱じしょうとめ

なながつみずのえとらそう至德しとく大聖たいせい大安だいあんたかし皇帝こうてい于豐りょうみずのとうしこうたかしぶん及劉闢戰于玄はい

はちがつちょうしげるしんふう平原ひらばらぐんおうやすしため鄧王,どうやすぐんおうひろし澧王,のべやすぐんおうなだめとげおう,彭城ぐんおう察深おう高密こうみつぐんおう寰洋おうぶんやすぐんおうりょう絳王;ふうしんためけんおう

きゅうがつ丙午ひのえうまいむ礪及りゅう闢戰于神いずみはいからしこうたかしぶんかつ成都せいと

じゅうがつ甲子きのえねげんけん南東なんとう西川にしかわ山南さんなん西道さいどうこんとししゃくおびえしたがえはた吏。そうじん亡者もうじゃ,稟其さい戊子ぼしりゅう闢伏誅。

十一月じゅういちがつかのえいぬてい餘慶よけいやめ

これさい,召王しのべ薨。

ねん正月しょうがつおのれうしあさけんじ于太清宮きよみやかのえとらあさとおる于太びょうからし有事ゆうじ南郊なんこう大赦たいしゃたまもの文武ぶんぶかんくん、爵,文宣ふみのぶおおやけ二王におうさんつとむ公主こうしゅ諸王しょおういちかん高年こうねんまい帛羊しゅばん授。おつもりやめおのれとりちゅうすすむたけもと衡為門下もんかさむらいろう中書ちゅうしょ舍人とねりよしはじめため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

がつおのれやめ兩省りょうしょうかんたいみずのととり,邕管經略けいりゃく使じょはいほら蠻,其首りょううけたまわけい

きゅうがつおつとりみつおう綢薨。

じゅうがつ,鎮海ぐん節度せつど使錡反,ころせとめおう澹。おつうし淮南ワイナン節度せつど使おうつばためしょ道行みちゆき營兵招討使以討ちょうしげるたけもと衡罷。みずのととり,鎮海ぐん兵馬へいば使張子はりこ錡。おのれめんうるうしゅういまとしぜい

十一月じゅういちがつかぶとさる錡伏誅。

十二月じゅうにがつへいとらけんみなみ西川にしかわ節度せつど使こうたかしぶんため邠寧節度せつどきょう西にししょぐんみやこみつる

さんねん正月しょうがつ癸巳きし,羣臣じょう尊號そんごう曰睿ひじり文武ふみたけ皇帝こうてい大赦たいしゃやめ諸道しょどう受代しんたてまつぜに

さんがつ癸巳きし,郇王緫薨。

よんがつみずのえさる大風おおかぜ壞含もと殿しんがり西にし闕檻。

ろくがつ西原にしはら蠻首りょうしょうきょうくだ

なながつからしついたちにちゆうしょく

きゅうがつかのえとら山南さんなん東道とうどう節度せつど使于頔ためそらどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとへいさる戶部とべさむらいろう裴垍ため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとつちのえいぬよしはじめやめ

よんねん正月しょうがつみずのえうまめん山南さんなん東道とうどう淮南ワイナン江西えにし、浙東、湖南こなん、荊南こんとしぜい戊子ぼし,簡王遘薨。

がつちょうしげるてい絪罷。きゅうごとちゅうはんため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

さんがつおつとり成德しげのりぐん節度せつど使おうしんそつ,其子うけたまわそう自稱じしょうとめ

閏月じゅんげつおのれとり,以旱くだ京師けいし死罪しざい殺人さつじんしゃきん刺史ししさかい內榷りつ諸道しょどうむねじょうがいしんけんじみねみなみ黔中福建ふっけんかすめ良民りょうみんため奴婢ぬひしゃしょうりゅう廄馬。おのれあめちょうしげるたて鄧王やすしため皇太子こうたいし

なながつみずのと,吐蕃請和。

はちがつへいさるたまきおう寇安みなみみやこまもるちょうふねはい

じゅうがつからし成德しげのりぐん節度せつど使おううけたまわそうはん保信やすのぶぐん節度せつど使薛昌あさみずのとひだりかみさくぐんまもるぐん中尉ちゅうい吐突承璀為左右さゆうしんさく河陽かわよう、浙西、せん歙、鎮州ぎょう營兵招討處置しょち使以討戊子ぼしうけたまわ璀為鎮州招討せん慰使。癸巳きしくだ死罪しざい以下いかたまもの文武ぶんぶかんためちち後者こうしゃくんりょうてん

十一月じゅういちがつおのれあきら義軍ぎぐん節度せつど使しょうまことそつ,其弟しょう自稱じしょうとめ

ねん正月しょうがつおのれひだりかみさくぐん大將軍だいしょうぐん酈定しん及王うけたまわむねせん

さんがつ甲子きのえね大風おおかぜ拔木。

よんがつちょう河東かわとう節度せつど使范希あさ義武よしたけぐん節度せつど使ちょう茂昭しげあき及王うけたまわむねせん于木がたなみぞはい

なながつ丁未ていみ,赦王うけたまわむねおつかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使りゅうわたるそつ,其子緫自稱じしょうとめ

きゅうがつへいとらふとしつねきょうけんとく輿こしためれい尚書しょうしょどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうがつちょう茂昭しげあき以易、ていしゅうかえり于有からし義武よしたけぐんおそれこう楊伯だまはんふく誅。これがつ義武よしたけぐん兵馬へいば使ちょうたすくもとはんふく誅。

十一月じゅういちがつかぶとたつかいおう纁薨。庚申こうしん,裴垍やめ

ろくねん正月しょうがつ庚申こうしん淮南ワイナン節度せつど使よしはじめため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

がつみずのえさるはんやめおのれうし,忻王づくり薨。

さんがつつちのえいぬゆうほし隕于鄆州。

十二月じゅうにがつおのれうし戶部とべさむらいろう絳為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

閏月じゅんげつからしたつ、漵州首領しゅりょうちょうはくやすしはん,寇播、しゅうからし皇太子こうたいし薨。

ななねん正月しょうがつみずのととり武河むかわ溢,毀東受降じょう

よんがつ癸巳きしみことのり民田たみだうねじゅくわ

ろくがつ癸巳きしもりたすくやめ

なながつおつたてとげおうなだめため皇太子こうたいし

はちがつつちのえいぬはく節度せつど使やすそつ,其子ふところ自稱じしょうぐんごと

きゅうがつ京師けいし地震じしん

じゅうがつ乙未おとみはくぐん以田やすはたきょう軍事ぐんじかのえいぬくだ死罪しざい以下いかたまもの文武ぶんぶかんためちち後者こうしゃくんりょうてんこれがつはく節度せつど使きょうろくしゅうかえり于有

十一月じゅういちがつからしとり,赦魏、ひろしかいまもる、澶、あいろくしゅうきゅうふくいちねんたまものだかねん孤獨こどく廢疾はいしつあわ帛,しょうぐん

はちねん正月しょうがつからしけんとく輿こしやめ

がつちょうとり,貶于頔為おんおうでん

さんがつ甲子きのえねけんみなみ西川にしかわ節度せつど使たけもと衡為門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

よんがつおのれ,黔中經略けいりゃく使ちぇのう討張はくやすし

五月ごがつみずのと,荊南節度せつど使げん綬討はくやすしちょううしだい山崩やまくずれ

ろくがつからし,渭水溢。からしうし宮人みやびと

なながつおのれけん南東みなみあずまがわ節度せつど使はんはじめ討張はくやすし

はちがつからし湖南こなん觀察かんさつ使やなぎこう綽討はくやすし丁未ていみはくやすしくだ

十二月じゅうにがつかのえとら武將ぶしょう楊遵けんはん,逐其節度せつど使すすむけん

きゅうねんがつみずのと絳罷。

さんがつへいたつ,巂州地震じしんちょうしげる,隕霜ころせくわ

五月ごがつおつうしかつらおう綸薨。みずのととり,以旱めん京畿けいきなつぜい

ろくがつみずのえとら河中かわなか節度せつど使ちょうひろしやすしため刑部おさかべ尚書しょうしょどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

うるうはちがつへいたつあきら義軍ぎぐん節度せつど使しょうそつ,其子もとすみ自稱じしょう軍事ぐんじ

きゅうがつちょう山南さんなん東道とうどう節度せつど使げん綬、忠武ただたけぐん兵馬へいば使ひかりがおことぶきしゅうだんねり使文通ぶんつう河陽かわよう節度せつど使がらす重胤しげたね討之。

じゅうがつ太白たいはくひる丙午ひのえうまよしはじめ薨。甲子きのえねいむ綬為さるひかり、蔡招なで使

じゅういちがつ戊子ぼしやめきょう兆府臘獻狐兔。

十二月じゅうにがつみことのり刑部おさかべだいかんさくのぞむにゅうたいつちのえたつ尚書しょうしょみぎすすむ韋貫どう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうねん正月しょうがつおつとりせんぐん節度せつど使かんひろしため

がつかぶとたついむ綬及もとすみせん于磁おかはい績。ふゆあめいたり于是がつ丙午ひのえうまゆきみずのえいぬ河東かわとう戍將りゅう輔殺ゆたかしゅう刺史ししつばめしげる旰,ふく誅。

さんがつかのえ忠武ただたけぐん節度せつど使ひかりがお及吳もとすみせん于臨潁,はいよんがつかぶとたつまたはい于南とみ五月ごがつへいさるまたはい于時きょく

ろくがつみずのととうころせたけもと衡。つちのえさる京師けいしだいさくおつうしちゅうすすむ裴度ため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

なながつかぶといぬおううけたまわそう有罪ゆうざいぜっ朝貢ちょうこう

はちがつおのれついたちにちゆうしょく丁未ていみ師道しどうはた訾嘉めずらしはん于東留守るすりょもと膺敗おつうしひかりがお及吳もとすみせん于時きょくはい績。

きゅうがつみずのととりかんひろしため淮西ぎょう營兵みやこみつる

じゅうがつ地震じしん

十一月じゅういちがつみずのえさるひかりがおがらす重胤しげたね及吳もとすみせん于小溵河,はいちょううし文通ぶんつうまたはい于固はじめつちのえとらとう焚獻りょうみや

十二月じゅうにがつかぶとたつたけやすしぐん押衙おうさとしきょう及李師道しどうせん于平かげはい

これさいおう逾薨。

じゅういちねん正月しょうがつおのれちょうひろしやすしやめおつかそけしゅうりゅうぐん節度せつど使りゅう緫及おううけたまわむねせん于武つよしはいみずのとめん鄰賊しゅうさいぜいかぶとさるとうだんけんりょうもん戟。

がつかのえおううけたまわそう焚蔚しゅうおつ中書ちゅうしょ舍人とねり逢吉ため門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとおつうし地震じしん

さんがつ庚午こうご皇太后こうたいごうくずし

よんがつかのえひかりがおがらす重胤しげたね及吳もとすみせん于凌くもしがらみはいおつりゅう緫及おううけたまわむねせん于深しゅうはいおのれめん京畿けいきさい逋稅。

がつちょうしげるなだめしゅうぐんみだれ,逐其刺史しし駱怡,なつ綏銀節度せつど使縉敗ちょうくも南蠻なんばん寇安みなみ

ろくがつみつしゅううみ溢。かぶとたつから節度せつど使だかかすみぐう及吳もとすみせん于鐵じょうはい績。

なながつみずのえうまかんひろし及元ずみせん于郾じょうはいへいいぬめん淮西鄰賊しゅうなつぜい

はちがつかぶとうま,渭水溢。みずのえとら,韋貫やめつちのえさる西原にしはら蠻陷まろうど、巒しゅうおのれ昭義あきよしぐん節度せつど使郗士及王うけたまわむねせん于柏きょうはい庚申こうしんそうそうけん皇太后こうたいごう于豐りょう

十一月じゅういちがつおつうし,邕管經略けいりゃく使韋悅かつまろうど、巒しゅうかぶといぬもとりょう

十二月じゅうにがつ丁未ていみ翰林かんりん學士がくしこうさむらいろうおう涯為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとおのれ西原にしはら蠻陷いわおしゅう

ふゆ桃李とうりはな

じゅうねん正月しょうがつひのとうし地震じしん戊子ぼしゆう彗星すいせい于畢。

よんがつからしから鄧隋節度せつど使愬及もとすみせん于嵖岈山,はい乙未おとみひかりがおまたはい于郾じょう五月ごがつからしとり愬又はい于張しば

なながつへいたつ,裴度ため淮西せん處置しょち使戶部とべさむらいろうちぇ羣為中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

はちがつみずのとがらす重胤しげたね及吳もとすみせん于賈てんはい績。

きゅうがつ丁未ていみ逢吉やめきのえとら愬及もとすみせん于吳ぼうはい

じゅうがつみずのととりかつ蔡州。かぶといぬ淮南ワイナン節度せつど使鄘為門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごとかぶとさるきゅうふく淮西ねんめんつくりしゅうらいとしなつぜいそう戰士せんし,稟其ねん

十一月じゅういちがつへいいぬもとすみふく誅。かぶとうまおんおうれん薨。

これさいようかん經略けいりゃく使みんかつ欽、よこ、潯、よんしゅう

じゅうさんねん正月しょうがつおつとり大赦たいしゃめん元和がんわねん以前いぜん逋負,たまもの高年こうねんまい帛羊しゅ

さんがつつちのえいぬ大夫たいふえびす簡為門下もんかさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと鄘罷。おのれとりよこ海軍かいぐん節度せつど使ほどけん以滄、けい二州歸于有司,けんあさ于京

よんがつきのえとらおううけたまわむねけんじとく、棣しゅうかのえたつ,赦承むね

ろくがつみずのとうしついたちにちゆうしょくみずのときゅうふくとく、棣、滄、けいよんしゅういちねんからし,淮水溢。

なながつおつとりせんはく義成よしなりよこ海軍かいぐん討李師道しどうからしうしえびす簡罷。

はちがつみずのえおう涯罷。

きゅうがつかぶとたつ戶部とべさむらいろうすめらぎはじめ鎛,諸道しょどうしおてつてんうん使ほど异為こうさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

じゅうがつみずのえいぬ,吐蕃寇宥しゅうれいたけ節度せつど使もり叔良はい于定とおじょう

十一月じゅういちがつひのといのち山人さんじんやなぎ泌為うてなしゅう刺史しし以求やく

十二月じゅうにがつかのえいぬむかいふつこつおおとりしょう

じゅうよんねん正月しょうがつ丙午ひのえうま弘正ひろまさ及李師道しどうせん于陽こくはい

がつつちのえうま師道しどうふく誅。

よんがつからしほど异薨。へい,裴度やめ

なながつつちのえとらかんひろし以汴、そう、亳、潁よんしゅうかえり于有ひろしちょう于京おのれうし,羣臣じょう尊號そんごう曰元かずきよしぶん神武じんむほうてんおうどう皇帝こうてい大赦たいしゃたまもの文武ぶんぶかんかいくん、爵。黜陟使于天からし,沂海しょうおうべんころせ其觀察使おうとげ自稱じしょうとめちょうとり河陽かわよう節度せつど使令しれいきつねすわえため中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

はちがつおのれとりかんひろしため中書ちゅうしょれい

きゅうがつつちのえとらおうべんふく誅。

じゅうがつみずのえいぬやすみなみはた楊清ころせ其都まもるぞう以反。みずのととり,吐蕃寇鹽しゅう

十一月じゅういちがつからしさくかたしょうけいたてまつ及吐しげるせん于瓠あしかわはい

十二月じゅうにがつおつちぇ羣罷。

じゅうねん正月しょうがつ,宦者ちん弘志ひろしとうはんかのえ皇帝こうていくずしねんよんじゅうさん,謚曰きよしかみあきらたけたかし皇帝こうてい大中おおなかさんねん謚昭文章ぶんしょうたけ大聖たいせいいたりしんこう皇帝こうてい

さん[编辑]

さん曰:とくむね猜忌さいきこくうす,以彊あかり自任じにんはじこごめ於正ろん,而忘受欺於姦諛。其疑しょうふくけいおのれいいきょうこう輔為うりじき,而不能ふのうようよう𣏌、ちょうさんのりいたり於敗みだれ,而終悔。及奉天ほうてんこれなんふか懲艾,遂行すいこう姑息こそくせいよし朝廷ちょうていえきじゃく,而方鎮愈つよしいたり於唐ほろび,其患以此。けんそうつよしあきら果斷かだんはつ即位そくい慨然がいぜん發憤はっぷんこころざしひら僭叛,のうようちゅうはかりごと不惑ふわく羣議,そつおさむ成功せいこうもとすみ誅,つよしはん悍將みなよく悔過而効じゅんとう此之とう威令いれいいく於復のり其為優劣ゆうれつまち較而知也ともや。及其晚節ばんせつ信用しんよう非人ひにんおわり其業,而身かか不測ふそくわざわいのりゆう甚於とくむね嗚呼ああ小人こどものうはいこく也,必愚くん暗主あんしゅ,雖聰明そうめいひじりさとし,苟有惑焉,ゆう不為ふため患者かんじゃ也。むかしかんいよいよげんじゅんそうざい東宮とうぐうじゅうねん天下てんかかげ受其たまものしかとおるこく日淺ひあさ不幸ふこう疾病しっぺい,莫克有為ゆういまた以悲おっと

校勘こうかん

  1. かんひがしぐんおうつなみつおう 「つな」,しもぶんけんそうおさむほん書卷しょかんなな宗室そうしつけいひょうまき八二十一宗諸子傳及舊書卷一四順宗紀皆作「綢」。

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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