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舊五代史/卷67 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

きゅうだい/まき67

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 まきろくじゅうろく きゅうだい
まきろくじゅうなな
まきろくじゅうはち 

まめかわせきどうしゅう刺史ししちち瓚,舒州刺史しし(《せん和書わしょうんしつ其世がかり。)かわしょう值亂はなれ,避地鄜、のべ轉入てんにゅう中山なかやまおうしょちょくれい,辟於幕下まくしたゆうそうほまれよし牡丹ぼたんかい,諷處ちょく以桑柘為げん古雅こがややおおせうたて節度せつど判官ほうがん。而理無法むほうどく請謁しょじきしょちょくおもんばかぬのせいゆうかけゆうしょぶんまわし諫,斂版出迎でむかえ,乃為嬖人いのりぐんしょく矣。

天祐てんゆうまつそう宗將むねのぶ即位そくいこうもとめ輔相,ただし以名家子いえこ舉之,せいはいぎょうだいひだり丞相じょうしょうどうひかりはつはいたいらあきらごと。及登ろうびょうこと錯亂さくらんいたり於官かいなずらえ前後ぜんご倒置とうち,屢為しょうろうしょうまれはじめ駿しゅんただしかわあらため難色なんしょくそうそうはつてい汴、らくかわ引薦韋說,冀諳ごとたいあずかおのれどうこうせつすんで登庸とうようふくごとりゅうひん,舉止けいだっ,怨歸於革。またかわせつ之子ゆきこ俱授拾遺しゅうい父子ふしどうかんためじんしょとげとげあらため授員外郎ういろうかわ請說之子ゆきこ濤為宏文ひろふみかん學士がくしせつ請革之子ゆきこますためしゅうけん學士がくし交易こうえきおんゆうどう市井しせい識者しきしゃみにくこれかわ自作じさく相之あいの以進けんすすむのうためつとむ唯事ただごとおさむねりもとめ長生ちょうせいじゅつ;嘗服すな,嘔血數日すうじつ垂死すいし而愈。

天成てんせいはつしょうそうそうむね,以革ため山陵さんりょう使。及木ぬしびょう不出ふしゅつわたしだいせん俟旄鎮,數日すうじつ耗,ため親友しんゆう促令入朝にゅうちょうやすじゅう誨對眾辱曰:「山陵さんりょう使めい銜尚ざいこうしんいのち便びんくつこうあさいいじん欺也。」側目そばめしゃ聞之,おもえゆうしょちゅうはつしょうまれはじめ有正ありまさ諫之もちかわ嘗阻とげじょう疏論かわあずかせつ苟且よう,致君じょうふく誣其たてきゃく殺人さつじんおかせもととおるじょうだいとげ貶為たつしゅう刺史しし,仍令所在しょざいはせえきはつこうてい玨、にん圜等れんじょうさんしょう,請不ぎょうめいじ,乃下せい曰:「まめかわ、韋說とうため輔相,にぎ權衡けんこうある端坐たんざしょうしんあるはんわらいそうごと,於君無禮ぶれい,舉世やすしようかわそく暫委利權りけん便びんわたし俸祿,文武ぶんぶ百辟皆從五月起支,父子ふし二人偏自正初給遣。せつそくきょじゅうぜん大綱たいこう。敘蔭むさぼさかえらんまご於昭きよしうりかんじゅんかわれいろくめい醜行しゅうこうたたみあきらぐんじょうどもいか,雖居まきまもるしめせふさがゆうかわせめ授費しゅうつかささんぐんせつえびすしゅうつかささんぐんみな員外いんがいおけどう正員せいいんなみ所在しょざいはせえきはつ。」ひろ貶陵しゅう長流ちょうりゅう百姓ひゃくしょうちょう吏常所在しょざい天成てんせいねんなつみことのりれい逐處刺史ししかんたまもの自盡じじん,其骨肉こつにくなみ放逐ほうちく便びん

ますかんいたり檢校けんぎょう正郎まさおふくきむむらさきひろまたはつだつ(《たからすすむときほうしょたたえまめかわ田園でんえんじょううん大德だいとくよく要一よういちきょしょ,畿甸あいだきゅう田園でんえん,鄜州雖有さんりょうしょそうえん百姓ひゃくしょう租佃多年たねんるいゆうれいおおやけ大王だいおうしょ請,卻給かえひとぶたよくおかせだつつかれみんけんおもんばか無知むちやから,妄有かげひさしつつみやく云云うんぬんたけ珂曰:此帖乃與そう往還おうかんしょ,其畏きょうはん避罪罟,ぶたぐりぐりふち冰,しか其後そつ以故たてきゃく貶夜ろう正坐せいざしょかしこしん乎亂邦之くにゆき不可ふかきょ也。よりどころ鄜乃だかまんきょうかん檢校けんぎょうたい中書ちゅうしょれいふう北平きたひらおうそくかわ所謂いわゆるれいおおやけ大王だいおうしゃかんはり授,からいのち維新いしん,而顓麵正あさしゃ不能ふのう致褫鞶之誅,而反竊貢秉旄佞,とうきそえゆうらい矣。)

韋說,福建ふっけん觀察かんさつ使岫之也。あん以下いかゆう闕文。)そうそうじょう汴、らくせつあずかちょうひかりまことどうせいはいたいらあきらごとせつせい謹重,奉職ほうしょくつねみやつこ事端じたんときかくたかし韜秉せいせつとううけたまわじゅん而已,政事せいじ得失とくしつしょ措言。はつあるゆうげん於崇韜,銓選逾濫,せんじんある他人たにん出身しゅっしん銜,ある父兄ふけいいとぐちあずかれい囊橐罔冒,たかし韜乃じょうそう其事。其後郊天,行事ぎょうじかんすうせんにんゆうつげ敕偽濫,いんていとめぬり毀告しゃ甚眾,せんじんごう哭都もんそとしゃまた以為積弊せきへい累年るいねん,一旦澄汰太細,懼失おもんみしん含垢どきせつあずかかくたかし韜國れつ不能ふのう而止,頗遭物議ぶつぎせつしんとうつげせつ曰:「此郭漢子かんし也。」及崇韜得ざいせつ流言りゅうげんしょ鍾,乃令門人もんじんひだり拾遺しゅういおう、吏部いん外郎ういろうまきただしとうじょう疏,うん:「たかし韜往專權せんけん故實こじつふさがつかまつ進之しんのもん獎善みち。」疏下中書ちゅうしょせつとうくつがえそうふか詆崇韜,識者しきしゃこれまたゆうおう傪者,のう以多岐取ごとおさめまいない於說,せつ以其めいはんいみなとげあらためためみさお」,なずらえかん於近甸。及明むね即位そくいせつつねおもんばか危,まいもとめひさし於任圜,つね保護ほごせつきょ有井ありいむかしあずか鄰家共之ともゆきいんいやひなざつちくかき於外。鄰人訟之,ためまれはじめ疏論,以為ゆう貨財,及案本人ほんにんおもんみしょうゆうやぶがまいちしょはん虛妄きょもうはつ貶敘しゅう刺史ししひろせめ授夷しゅうつかささんぐん

はつせつ在江あるえりょうあずかこうきょう相知おうち,及入中書ちゅうしょまたつね通信つうしんぬさ討西しょくきょう請攻かい內,そうむねもと:「如能とくさんしゅう,俾為ぞくぐん。」西川にしかわ既定きていきょう尺寸しゃくすんこう。洎明むね纘承,きょうしきさんぐん朝廷ちょうていとくやめ而與かわせつかた在中ざいちゅうしょまたあずか其議。及季きょう占據せんきょどく其罪,りゅう於合しゅう明年みょうねんなつみことのり曰:「りょうしゅうごうしゅう長流ちょうりゅう百姓ひゃくしょうまめかわ、韋說,ごろざいさきあさ,擢居重任じゅうにん,欺公害こうがいぶつ,黷貨うりかんしずかおもんみはじめらんはしさら有難ありがたようこと,且夔、ただしまんさんしゅうれんともえしょくみち扼荊蠻,藉皇弭難はつ,徇逆そち僭求いきおい,罔予視聽しちょうりつわりうつりしょうせん疆,開通かいつうずるあなどう兩川りょうかわへい,禦捍經年けいねん。致朕莫遂偃戈,なおはんうんさくこんしゃ西方せいほう鄴雖ふく要害ようがいこうきょうひさしかた窠巢,ぞうわれ旰食ゆうしょくしかとも奸之けい。而又きょ貶所,つぎ流言りゅうげん。苟刑戮之稽時,ところ忠良ただよし於何むべれい逐處刺史ししかんたまもの自盡じじん。」 (《おう》:說子せつこ濤,すすむ天福てんぷくはつため尚書しょうしょ膳部ぜんぶいん外郎ういろうそつ。)

ほどからあさみぎぞく懿,ちち蘊,こよみつかまつどおりあらわほどてんふくまつとう進士しんしだいちぇたかしおおやけりょうしおてつしょためじゅんかんあきらそう遷洛やなぎ璨陷みぎぞくほど避地かわついたちきゃくゆうつばめちょうあるころも道士どうしふくみき謁藩はくにん未知みちまめかわきゃくゆう中山なかやまおうしょじきなんじ弼來たいばらほどあずかかわ、弼皆あさぞくきゅういん往來おうらいかわしょちょく禮遇れいぐうゆうとう於太げんなんじ弼因ためのべほまれそうむねしょため推官,ひろあらためささえ使ほど褊淺ざいおもんみ矜恃きょうじもんだいくち是非ぜひあつしあつ君子くんしゆううす

はつ判官ほうがんおう緘從ぐんてのひらぶん翰,えびす柳之やなぎのやく,緘歿於軍。そうむねかえりやすしふとしはらおけしゅおおやけえん,舉酒いいはりうけたまわぎょう曰:「こん於此かいいち書記しょきさき以卮しゅ辟之。」そく舉酒ぞくじゅんかん馮道,みち以所舉非こうさけ避。そうむね曰:「勿謙挹,逾於きょう也。」以職れつじょ遷,のりほど當為とうい書記しょきなんじ弼亦左右さゆうほどすんで失職しっしょくわたしなつけいきどお惋,いいじん曰:「主上しゅじょうじゅう人物じんぶつ使つかいさときょあまりじょう。」さきそうむね嘗於ちょうちゅう召程くさそうほど曰:「叨忝なりめい筆硯ひっけん。」ゆかりぶん翰之せん及於ほどときはりうけたまわぎょうせんせい河東かとう留守るすごとにんみなけいはばか舊例きゅうれいささえ使かんしょ出納すいとうほど訴於承ぎょう曰:「此事仆所ちょう,請擇のうしゃ。」うけたまわぎょうしかこれ曰:「公稱こうしょう文士ぶんしそくごうぶんしみ翰,以濟霸國,嘗命そうやめひねみじかつたな,及留職務しょくむまた以為やめ公所ぐぞのうしゃなん也?」ほどたれ泣謝こうれき觀察かんさつ判官ほうがん

そう宗將むねのぶ即位そくいもとめ四鎮判官可為宰輔者。ときなんじ弼、循相淪沒,當用とうよう判官ほうがんただししつせい疏放,ねがいじゅうもとめとめふとはら,乃舉じょうしゅう判官ほうがんまめかわ舉程,そくみことのりせいなみいのち為平ためひらあきらごとほどほん重器じゅうき,驟曆あらわ,舉止つねとき朝廷ちょうてい草創そうそう庶物しょぶつ備,はんれつ蕭然しょうぜんてらしょかけほどかわ受命じゅめいにちそくじょうかた輿こし,騶導やかましにえそうむね聞訶しるべこえ,詢於左右さゆう,曰:「宰相さいしょう擔子入門にゅうもん。」そうむね駭異,登樓とうろうわらい曰:「所謂いわゆる而非しゃ也。」ごろほど使すすむみやさつ皇太后こうたいごう山路やまじ險阻けんそ往復おうふく綿めん邈,ほど安坐あんざかた輿こししょいたりしゅうけんりつひのとおっとちょう吏迎謁,はいふく輿こしまえしょうゆう忤意,いんむちはずかしめ

及汴しょうおう彥章おちいとくかち南城なんじょうそうおさむ楊劉,そうむね禦軍苦戰くせん臣下しんかこれ,鹹白おさむしんよくれんあきらぶんまわし諫,請不躬禦まめかわ言及げんきゅうかんだか臨廣武事ぶじ及於むね,紿雲ちゅうあしほど曰:「此劉失策しっさく。」眾皆ちぢみ頸。嘗論近世きんせい士族しぞくある曰:「員外いんがいろう孔明こうめいかめ善和よしわ宰相さいしょうれいいとぐちせんせいこれがかりまごとくもり歟!」ほど曰:「とめ於孔これもりそくわれ知也ともや。」おやとうゆうかりうさぎうまおっと於程しゃほどちょうきゅう吏訴くもれいほどいかむち吏背。時任ときとう圜為きょうからしょういんそうむねしたがえ姊婿也,憑其ちょう戚,いんまいほどほどかたころもづる氅、華陽かようはば,憑幾けつごと圜怒詈曰:「なんむし豸,恃婦りょく耶!宰相さいしょうきゅう於府けんとく識舊たい!」圜不言ふげん而退,よるはせいたりはくひらめ,麵訴於莊むねそうむねいかいいかくたかし韜曰:「ちんあやまあい此癡ぶつ,敢辱きゅうきょう。」促令自盡じじんたかし韜亦いかこといく不測ふそくよりゆきただしよこかいとげためみぎ庶子しょしそうむね既定きてい河南かなんほどずい百官從幸洛陽,沿路えんろ墜馬,いんびょうふう而卒。おくれい尚書しょうしょ

ちょうおおとりかそけしゅうじん也。しょうため儒。から天祐てんゆうちゅうつばめそちりゅうまもるこうつきりつ內丁おっとためぐん,而黥其面,ため儒者じゅしゃ患之。ためそう以避おおとりまた落發いたりたいばらころしたがえりゅうまもる奔梁,はりようもりためはくしゅう刺史ししおもておおとりため判官ほうがんあんしもゆう闕文。)ため鄆州節度せつど判官ほうがんからそうむね聞鳳めいとく甚喜,以為まもる鑾學こうそうむね即位そくいはい鳳中おおとりなかしょ舍人とねり。及入汴,あらため授禮部員ぶいん外郎ういろうそう宗及そうきゅうりゅう皇后こうごうこうちょうちょんよしだいそう曰:「わらわろくさいしつ父母ちちははまいろうしゃ思念しねんみことおや泣下,以全ねんとくわらわよくちちごと,以慰おんなしん。」そうむねもといのち鳳作ほうさく箋上ちょんよしてい往來おうらいちゅうおおとり上書うわがきごく諫,不納ふのう天成てんせいはつおけはしあきら殿どの學士がくしおおとりあずか馮道俱任其職。時任ときとう圜為宰相さいしょう為安ためやすじゅう誨所かたぶけ,以至やめしょう磁州。及朱もりいん以汴しゅう叛,はせえきたまもの自盡じじんすんで而鳳哭謂やすじゅう誨曰:「にん圜,義士ぎし也,肯造ぎゃくはかりごと以讎君父くんぷ乎?如此濫刑,なに以安こく!」じゅう誨笑而不せめふゆけんみつぎ舉。

明年みょうねんはるゆうそう西國さいこく經回へめぐとくふつきばだい如拳,褐漬しわきれしん於明むねおおとり揚言ようげん曰:「 曾聞ふつきばおもりきたえ不壞ふえ,請試。」ずいおの而碎。とき宮中きゅうちゅうしょほどこせやめ逾數せん緡,聞毀乃止。及車かえらくとめ汴州ごとひろ授中しょさむらいろうたいらあきらごとしゅうとけい居士こじしゅう》:おおとりためそうむね實錄じつろく》,はたなにていろんりゅう煦疏すんでしょうとげ引鳳ども政事せいじ。)ちょうきょうちゅうあんしげる誨出鎮河ちゅうにん敢言しゃおもんみおおとり極言きょくげん於上ぜん曰:「じゅう誨是陛下へいか家臣かしん,其心おわりぬしねん秉權,かしこごう俯伏,ただし周防すおう浸潤しんじゅん。」あきらそう以為朋黨ほうとうえつ其奏。じゅう誨獲ざい,乃出邢州節度せつど使。及閔みかど蒙塵もうじん於衛しゅうおおとりしゅうまろうどぐんこうたれ涕曰:「主上しゅじょう播遷,渡河とか而北,吾輩わがはい安坐あんざ赴奔とえ,於禮乎?」ぐんこう曰:「ただ公所ぐぞ使。」將行まさゆき,聞閔みかどぐう弑而どめ清泰きよやすはつ召還しょうかん,授太すんで而病あし不能ふのうあさ謁。やましあつしためめどぎ筮,なりとうめどぎ而歎曰:「われじゅうしゃ,而復きゅう賤;われねんやめじゅうまたためしょうしょうあにゆう壽哉としや!」清泰きよやすねんさんがつそつ

おおとりせい豁達,けいたから重義しげよし,凡士とも以窮やくつげしゃ,必傾其資而餉人士じんし以此也。

みそ自稱じしょうちょうぐんたいらとげ西祖せいそこれいえため儒。ちち瞻業,おう進士しんしだいぐうみだれ,徙家渤海棣,以詩しょくん子孫しそんわらわ齔時,謹重ゆう異常いじょうねん長方おさかたがくへん閱經。慕晏嬰之ためじんはつめい晏平。ためぶんなおかくゆうかんやなぎたい。厲誌はしそう風神ふうじんたかしせい非禮ひれい不言ふげんぎょう苟且。はつ以艱ひんもとめためかりかん,滄州彥威しょやすりょう簿ちょうゆうふく闋,ずいけい長安ながやすぞくせき輔亂はなれしきとしやめ舉,きゃく於蒲、はなあいだひかりちゅうぐんようりゅうじゅつおうたてまつせんはいあきらそうたてひろしおうがつあまり諸侯しょこう奔問しゃざいはなかげ,致書於華そちかんけん,其略曰:「仆關東かんとういち布衣ふいみみこう讀書どくしょためぶんまい君臣くんしん父子ふしさいゆうきずきょうがい義之よしゆきごとつね痛心つうしんきり,恨不とく抽腸蹀血,肆之あさあかりこうきんせき重鎮じゅうちん君父くんぷかそけはずかしめ月餘げつよ坐視ざしきょうぎゃく,而忘勤王きんのう舉,仆所喻也。仆竊けいちゅうちょう輔弼ほひつ,雖有而無けんがい鎮諸こう,雖有けん而無おもんみあかりこう忠義ちゅうぎ社稷しゃしょく往年おうねんしゃ輅播遷,號泣ごうきゅう奉迎ほうげいるいとしきょう饋,さいふくあさびょうかん人心じんしんいたりこんうたえい。此時事じじぜいゆう於前,あきらおおやけしょ要衝ようしょうけんしょうしょうみや闈變やめわたるしゅんわか號令ごうれい率先そっせん,以圖はんせい遲疑ちぎ未決みけつ,一朝山東侯伯唱義連衡,ぎょう而西,あきらおおやけもとめほしやす如何いかけつさく!此必然ひつぜんいきおい也。如馳げき四方しほうさとし以逆じゅんぐんごえいちのり元凶げんきょうやぶきも,浹旬あいだ,二豎之首傳於天下,けい便びん於此しゃ。」たてふかし禮遇れいぐうけんやめかえやまてんふくはつざいおおとりしょう,汴軍おさむがまはな避難ひなんひがし歸洛きらくときまもるおおやけいさおひろしまごのべふるざい平泉ひらいずみきゅう墅,往依焉。子弟していおやさい梠負たきぎ,以給朝夕あさゆう嘗幹じんしょう薛廷珪掌みつぎせきとしとう進士しんしだいまたのぼりひろしりょう,授河南かなんさんぐんとげ下居おりいらく表白ひょうはくすな別墅べっしょ

りょうゆうぜんだいはかりごとやなぎ璨希むね殺害さつがいちょう衣冠いかんあい殘害ざんがい,乃避かわついたちあずか宗人むねとのべこうきゃく於山ひがしはりまつみかど嗣位,まさこう儒士,のべこうもとしょう款奉,とく侍講じこう禁中きんちゅう,屢言これぎょうだかがく贍,有史ゆうしぎょ、蘧瑗ふう。召見,嗟賞久之ひさゆき,擢為ひだり拾遺しゅういにわかたかしたかしせいいんちょく學士がくしあるあずか谘謀,而儼しかせいいろかしこきょう禦。衡王入朝にゅうちょう重臣じゅうしんやからみな致拜,おもんみちょう揖。すえみかどゆずる曰:「衡王,ちんあにちんなお致拜,たかしせい使とうみなはいしかなに傲耶!」たい曰:「陛下へいか以家じんれいけいひとしわたししん也。しんきょあされつあずかおうもとやす敢諂ごと。」其剛毅ごうき如此。すすむしゅう節度せつど使はなあつし在任ざいにん違法いほうせき民家みんかざい,其家訟於あさせい使劾之,ふくざいはりまつみかど以先あさ草昧そうまいしんにん加法かほうけん按其ざいはりまつみかどみことのり曰:「ちんわかあずか鞫窮,いい不念ぶねん赤子あかごわかある遂行すいこうてんけんいい不念ぶねん功臣こうしんためなんじくんしゃまたなん乎!其華ゆたか琪所受贓,むべ官給かんきゅうだいかえところ訟之。」貞明ていめいちゅう通事つうじ舍人とねり霄傭おっとなぐ僦舍じん致死ちしほうあんりつつみざい霄。しろ:「霄手鬥毆。庸夫みちお致死ちしやすすわ其主耶!」以是忤旨。拾遺しゅういさい遷膳部員ぶいん外郎ういろうたまものあらためくんいん外郎ういろうたまものむらさきいたり罷職ひしょくこよみもと、鄧觀察かんさつ判官ほうがん

はつざい內職,慈州舉子ちょう礪依焉。貞明ていめいちゅう,礪自河陽かわようきたそうむね授太はらじょう出入でいりたかし闥之あいだ,揄揚ふしがい,及言所為しょいぶんなかぐう》、《かおかいことぶき》、《えびすひとしかつえじんとうへんきた人望じんぼうふうしょう。洎莊むね洛陽らくよう,鄧帥俾奏あきら入朝にゅうちょうしょこれれいせっ如舊。ひろため主客しゅかくろうちゅうすうがつ,召為翰林かんりん學士がくしさんねんおうつぎ岌征しょく,請為みやこみつる判官ほうがん,仍帶本職ほんしょく從軍じゅうぐんとき物議ぶつぎ以蜀險阻けんそ長驅ちょうくかくたかし韜問けい於愚,曰:「如聞しょくじんいや其主あらほしいまま倉卒そうそつ不為ふためようむべ其人さんふうはせ電擊でんげきかれ必破きもやすのうもりけん。」及前ぐんいたりかた鎮,おさむぐんしょくじゅう萬斛ばんこくたかし韜喜,いい曰:「おおやけのうりょうごとわれぐんずみ矣!」招討判官ほうがんひね至寶しほう雞,たたえやまし乞留ざい厲聲曰:「ひね乂見利則としのりすすむ,懼難そくとめこん大軍たいぐんわたるけん人心じんしんえき惑,せいこれ以徇。」ゆかり軍人ぐんじんおそとめしゃ軍書ぐんしょげきみな其手。しょくたいら,就拜中書ちゅうしょ舍人とねりかえあきらむね即位そくいとき西にしせいふく招討使にん圜為宰相さいしょうみやびしょう欽重,屢言於安じゅう誨,請引ため同列どうれつぞくあな用事ようじ援引えんいんちぇきょう以塞其請。にわか以本職權しょっけんみつぎ舉,あらため兵部ひょうぶさむらいろうたかし翰林かんりんうけたまわむねちょうきょうはつじょふとつねきょうぞくちょうおおとりいずる鎮邢だい,乃拜中書ちゅうしょさむらいろうたいらあきらごとてんしゅうけん殿どのだい學士がくし

ちょうきょうねんしんおうほしいままよこけんようしん,避禍ひま邦之くにゆき存亡そんぼう敢言しゃせいつよしかい往往おうおうかたちごとしかひと唱和しょうわしゃこうてん門下もんかさむらいろう監修かんしゅう國史こくしけん吏部尚書しょうしょあずかしょ儒修なり創業そうぎょう功臣こうしんでんさんじゅうかんはつ不治ふちだいすんでいのち為相ためすけかんのべまろうどかんきょ。嘗有やましみことのり近臣きんしんせんさとし延之のぶゆき中堂なかどうしつらえせきおもんみ筦秸,使つかいじんげんあきらそうとくたまものとばりちょうしとねしとね(《しょくかんぶんうんちょうきょうよんねんびょうあきらむねちゅう使つかいせんといしょきょ寢室しんしつ蕭然しょうぜんよんかべやまい榻弊氈而やめちゅう使つかいげん其事,みかど曰:「宰相さいしょう月俸げっぽう幾何きか?而委ひたぶる如此。」みことのりたまものきぬひゃくひきぜに百千ひゃくせんとばりちょう什物じゅうもついちじゅうさんこと。)

閔帝嗣位,おさむ德政とくせいえきがつこれせいざいじょ便びんのべおとずれ學士がくし讀《さだかんせいよう》、《ふとしそう實錄じつろく》,有意ゆうい於致わたしいい同列どうれつ曰:「われくんのべおとずれしょう及吾やからだかせめじゅうことまたこらえゆう,奈宗しゃなに!」みな惕息而不敢言。以恩れいしんひだりぼくしゃ清泰きよやすはつ,徽陵れい畢,馮道鎮同しゅう特進とくしんふとしほろみや使宏文ひろふみかん大學だいがく宰相さいしょうりゅうあずか馮道ため婚家こんかみち既出きしゅつ鎮,兩人りょうにん在中ざいちゅうしょあるきゅうこと不便ふべんようりんかわしゃ對論たいろん不定ふていせいふとしたかしいん曰:「此事けんおう所為しょいさらまた便びん乎!」憾其言切いいき,於是ごとげん必相おりなんあるいたりやかましよびいく兩人りょうにん俱罷しょうもり本官ほんかん清泰きよやすねんあきやめ嬰疾,りつ請告,るいひょう乞骸,まことそつ於位。

にん圜,きょうちょうさん原人げんじんきよし成都せいとしょういんちちしげるひろし,避地ふとはらそう授西かわれいゆうにん,曰圖、かい、圜、だん、冏,かぜあや俱異。たけすめらぎあい,以宗おんなつまだん歷代れきだい憲二けんじぐん刺史しし

嗣昭てんへい於晉あずか圜遊しょ甚洽,及鎮さわ潞,請為觀察かんさつささえ使かい褐,たまものしゅ紱。圜美姿容しようゆうくちべん。嗣昭ためじん間諜かんちょう於莊むねほうゆうほろすき,圜奉使往來おうらいつねさる理之まさゆきかつ成友しげとも於之どう,圜之力也りきや。及丁ははゆうそうむねうけたまわせいおこりふく潞州觀察かんさつ判官ほうがんたまものむらさき常山つねやまこれやく,嗣昭ためそちそつ於軍,圜代そう其事,號令ごうれい如一,てきじん不知ふちそうむね聞之,倍加ばいか獎賞。あきふく以上いじょうとうおさむ常山つねやま城中じょうちゅうまんにん突出とっしゅつ大將たいしょうまごぶんしんぞく逼我ぐん,圜麾騎士きしげき,頗有ころせ。嘗以禍福かふくさとし其城ちゅう,鎮人信之のぶゆき使つかい乞降。及城つぶせ,誅元あくそと官吏かんり鹹保其家ぞくまた圜所庇護ひご焉。そうむねあらため鎮州ため北京ぺきん,以圜ためこう尚書しょうしょけんしんていいん北京ぺきんふく留守るすぎょう留守るすごと明年みょうねんかくたかし韜兼鎮,改行かいぎょうぐん司馬しばたかし北面ほくめん水陸すいりくてんうん使,仍知ごとどうひかりさんねん歸朝きちょうまもりこう尚書しょうしょ

たかし韜伐しょくそうれいしたがえせい西にししょくたいらしょ圜黔みなみ節度せつど使こんとげどめおうはんぎょう及利しゅうかんのべこう叛,以勁へいはちせんかいこう西川にしかわつぎ岌聞夜半やはん命中めいちゅう使廷安召圜,圜方,廷安とう其床以告,圜衣及帶,遽見つぎ岌。つぎ岌泣而言曰:「紹琛おん尚書しょうしょ不能ふのうせい。」そくしょ圜為招討副使ふくしあずか指揮しき使はりかん顒等りつへいおさむのべこう於漢しゅうとりこ。旋至渭南,つぎ岌遇がい。圜代そうぜんあさ於洛あきらそうよしみ其功,はいたいらあきらごとばんさん。圜揀拔賢しゅん杜絕とぜつこうもん,百官俸入為孔謙減折。圜以廷臣ていしんため國家こっかゆうかりはんぎょうきん其虛估,がつ內,たかし贍,朝廷ちょうていおさむ葺,軍民ぐんみん鹹足。雖憂こく如家,而切於功めい為安ためやすじゅう誨所。嘗與じゅう誨會於私だいゆうぜんじゅう誨求いやすき茲而ふか矣。さき使つかいじん食券しょっけんみな於戶じゅう誨止,俾須內出,そう於御まえ往復おうふくすうよん,竟為しょ沮,(《つう鑒》:あんしげる誨與圜爭於上まえ往復おうふくすうよん聲色こわいろ俱厲。うえ退すさあさ宮人みやびとといじょう:「てきあずかじゅう誨論ごとためだれ?」じょう曰:「宰相さいしょう。」宮人みやびと曰:「わらわざい長安ながやす宮中きゅうちゅう嘗見宰相さいしょうくるる密奏みっそうごと敢如しゃぶたけい大家たいかみみ!」じょういよいよえつ。)いんもとめやめさん

天成てんせいねんじょ太子たいししょう致仕ちしきょ磁州。及朱もりいん叛,じゅう誨乘あいだ誣其結構けっこうたて人稱にんしょうせい就害,乃下みことのり曰:「太子たいししょう致仕ちしにん圜,はや推勳きゅう,曾委じゅうなんすんで退すさめん於劇けん,俾優閑於外地がいち,而乃遵禮ぶんせんもりいん,緘題罔避於嫌疑けんぎじょうむね頗彰於怨もちおさむ汴壘,備見蹤由,わかつとむ含宏,てんけんなおぜん大體だいたいとめざい一身いっしんむべれい本州ほんしゅう於私だいたまもの自盡じじん。」圜受命じゅめいにち,聚族たけなわいんかみじょう不撓ふとう清泰きよやすちゅうせいおくふとでん

てっつかまつすめらぎあさいたりささえろうちゅうそつ

ふみしん曰:かわせつうけたまわきゅうぞく胄,新造しんぞうくにごう雖謝於財なりつみ未聞みもん於昭ちょ,而乃ため權臣けんしんこれしょ,顧後いのち以無逃,せい而言また憫也。ほどせま如是にょぜかたち渥攸よろしちょうおおとり,咸以文學ぶんがく,俱踐がんろうくらいこう其貞ぶしふくゆう焉。にん圜有縱橫じゅうおうずみぶつざい明哲めいてつ保身ほしんみち退すさなおめん,籲可悲哉!

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ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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