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資治通鑑/卷118 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき118

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 まきいちひゃくじゅうなな どおりかん
まきいちひゃくじゅうはち すすむよんじゅう
まきいちひゃくじゅうきゅう 

おこりきょう大荒おおあら落,つきほふ維協ひろし,凡さんねん

どおりかん だい118かん


すすむよんじゅうおこりきょう大荒おおあら落,つきほふ維協ひろし,凡さんねん

やす皇帝こうていみずのとじゅうさんねんちょうおおやけもとよんいちななねん


はる正月しょうがつきのえいぬついたちにちゆうしょく
はたしゅ泓朝かい百官ひゃっかん於前殿どの,以內がい危迫,君臣くんしんしょう泣。せいきた將軍しょうぐんひとしおおやけ恢帥安定あんてい鎮戶さんまんはちせん,焚廬しゃきた雍州趨長やす自稱じしょうだいとくたてよし大將軍だいしょうぐんうつりげきしゅうぐんよくじょくんがわあくあげ將軍しょうぐんきょうおさむそちしたがえけんぶし將軍しょうぐん彭完棄陰みつ奔還長安ながやす。恢至しんささえきょうおさむせつ恢曰:「國家こっかおもはた大兵だいひょうみなざい東方とうほう京師けいし空虛くうきょおおやけ亟引けいへいかさね,必克。」恢不したがえみなみおさむ郿城。鎮西ちんぜい將軍しょうぐん姚諶ため恢所はい長安ながやす大震たいしん。泓馳使せい東平とうへいこう紹,姚裕及輔こく將軍しょうぐんえびすつばさたむろ澧西。扶風太守たいしゅ姚俊とうみなくだ於恢。東平とうへいこう紹引しょぐん西にしかえあずか恢相於靈だい,姚贊とめやすしさく將軍しょうぐんいんみやびためひろのう太守たいしゅまもり潼關,また引兵かえ。恢眾しょぐんよんしゅうみなゆう懼心,其將ひとしとうまい大軍たいぐんくだ。恢進へいふく紹,さんげき,恢兵大敗たいはいころせ恢及其さんおとうと。泓器慟,そう以公れい
ふとしじょうひろし引水ひきのみずぐんはつ彭城,とめ其子彭城こう義隆よしたか鎮彭じょうみことのり以義たかしためかんじょ、兗、あお、冀よんしゅうしょ軍事ぐんじじょしゅう刺史しし
りょうこう暠寢やましいのちちょうそう繇曰:「われこれ世子せいしなおきょう也,ぜん訓導くんどう。」がつ,暠卒,かんぞくたてまつ世子せいし歆為だいとく大將軍だいしょうぐんりょうこうりょうりょうしゅうまき大赦たいしゃ改元かいげんよしみきょうみこと歆母天水てんすいいんためふとしきさき。以宋繇錄さんごと。謚暠曰武あきらおうびょうごうふとし
西にししん安東あんどう將軍しょうぐん弈干げき吐谷渾樹らくやぶ其弟おもねしば於堯桿川,俘五せんくち而還。らくはししろ蘭山あららぎやま,慚憤はつやまし將卒しょうそついいおもねしば曰:「吾子あごひろえけん幼弱ようじゃくこん大事だいじづけなんじ。」らくそつおもねしばりつ自稱じしょう驃騎將軍しょうぐんすなしゅう刺史しし。謚樹らく曰武おうおもねしばやや用兵ようへいおかせなみ其傍小種こたね地方ちほうすう千里せんりとげため強國きょうこく
河西かさいおうこうむへりくだ其將かさねがらす啼部,大破たいはまたげき卑和くだこれ
おう鎮惡進軍しんぐん澠池,もういさおかさねいんみやび於蠡われじょう,禽之,みやびころせもりしゃ而逃。鎮惡引兵みちまえ,抵潼せき
だんみちずみ、沈林陝北渡河とか,拔襄邑堡,はた河北かわきた太守たいしゅ薛帛奔河ひがしまたおさむはた并州刺史ししいんあきら於蒲ばんかつべつはたおさむ匈奴きょうど堡,ため姚成しょはい
からしとり,滎陽守將しゅしょうでんひろし以虎ろうくだ
はたしゅ泓以東平とうへいこう紹為太宰だざい大將軍だいしょうぐんとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじかり鉞,あらためふう魯公,使つかいとくたけまもる將軍しょうぐん姚鸞とうまんもり潼關,またべつしょう姚驢すくいがまばん
沈林いいまゆみどうずみ曰:「かばばんしろけんへい不可ふか猝拔,おさむきず眾,守之もりゆき引日。おう鎮惡ざい潼關,いきおいりょくじゃく如與鎮惡ごうぜいなみりょく,以爭潼關。わかとくいんあきらおさむつぶせ矣。」みちずみしたがえこれ
さんがつみちずみ林子りんこいたり潼關,はた魯公紹引へいせんみちずみ林子りんこ奮擊,大破たいは以千すう。紹退たむろじょうじょうよりどころけんこばめもりいいしょしょう曰:「みちずみとう兵力へいりょく懸軍けんぐん深入ふかいりけんかべ以待つぎ援。われぶんぐんぜっ其糧どうすわ禽也。」乃遣姚鸞たむろ大路おおじ以絕どうずみ糧道りょうどう
鸞遣いんみやび將兵しょうへいあずかすすむせん於關みなみためすすむへいしょはたころせこれみやび曰:「みやび前日ぜんじつやめとうこうとくだついたりいまかた甘心かんしんしかえびすなつ雖殊,君臣くんしんよし一也かずやすすむ以大義行よしゆきどく使つかいはたゆうもりぶししん乎!」乃免
へいよる,沈林はたするどそつかさね鸞營,鸞,ころせ其士そつすうせんにん。紹又東平とうへいこうさんたむろ河上かわかみ以斷水道すいどう;沈林げきさん敗走はいそうかえていしろ。薛帛よりどころ河曲かまがりらいくだ
ふとしじょうひろしはた水軍すいぐん淮、泗入清河きよかわはたさかのぼ河西かさいじょう先遣せんけん使かりみち於魏;はたしゅ泓亦使つかい請救於魏。ぬし嗣使群臣ぐんしんみな曰:「潼關天險てんけんりゅうひろし以水ぐんおさむ,甚難;わかとうがんきたおかせ,其勢便びんえきひろしごえげんはた,其志なんはか。且秦,婚姻こんいんくに不可ふかすくい也。むべはつへいだん河上かわかみりゅう,勿使とく西にし。」博士はかせさいしゅちぇひろし曰:「ひろしはたひさ矣。こん姚興泓懦れつくに內難。ひろしじょう其危而伐,其志必取。わか遏其上流じょうりゅうひろしこころ忿戾,必上がんきたおかせだいしん受敵也。こんやわらしか寇邊,みんしょくまたとぼしわかふくあずかひろしためてきはつへいみなみ赴則きた寇愈ふかすくいきたそくみなみしゅうふく危,良計りょうけい也。わかかり水道すいどう,聽裕西上にしかみしかこうたむろへい以塞其東。使つかいひろしかつとし,必德かりみちとしわれしつすくいしんこれめい。此策しゃ也。且南きたぞく使つかい國家こっか棄恆やま以南いなんひろし不能ふのう以吳、えつへいあずかわれそうもり河北かほくこれやすのうためわれ患乎!おっと為國ためくにけいしゃおもんみ社稷しゃしょくあに顧一女子じょし乎!」しゃなお曰:「ひろし西入にしいりせきのりおそれわれだん其後,腹背ふくはい受敵;北上ほくじょうのり姚氏必不せきすけわが,其勢必聲西にし而實きた也。」嗣乃以司徒長とちょうまごかさみただし山東さんとうしょ軍事ぐんじまた將軍しょうぐん娥清、冀州刺史ししおもねうすはたじゅうまんたむろかわ北岸ほくがん
かのえたつひろし引軍にゅうかわ,以左將軍しょうぐんむかいわたるためきたあおしゅう刺史ししとめ戍碻磝。
はつひろしいのちおう鎮惡とう:「わかかつ洛陽らくよう,須大ぐんいた俱進。」鎮惡とうじょうみち趨潼せきためしんへいしょこばめとくまえ久之ひさゆきとぼししょく,眾心疑懼ぎくあるよく輜重しちょうかえ赴大ぐん。沈林按劍いか曰:「あいおおやけこころざしきよろくごうこんもとらくやめじょうせきみぎはたひらめことすみいな,繫於ぜんほこさき奈何いかん沮乘勝之かつゆき,棄垂成之しげゆきこう乎!且大ぐんなおとおぞく眾方もり,雖欲求よっきゅうかえあにとく乎!」したかん授命顧,今日きょうこととうため將軍しょうぐん辦之,未知みち三君子將何面以見相公之旗鼓邪!」鎮惡とう使つかいはせつげひろしもとめかて援。ひろしよび使者ししゃひらき舫北ゆび河上かわかみたかしぐん以示曰:「わがかたりれい勿進,こん輕佻けいちょう深入ふかいり岸上きしがみ如此,なによしぐん!」鎮惡乃親いたりひろのう說諭せつゆ百姓ひゃくしょう,百姓競送義租,ぐんしょくふく
じん以數千騎緣河隨裕軍西行;軍人ぐんじん於南がんひゃくたけ風水ふうすい迅急,ゆう漂渡北岸ほくがんしゃ,輒為じんしょころせりゃくひろしぐんげきたっとうがんそくはし退すさのりふくらいなつよんがつひろしはくただしたいしゅひのと晤帥仗士ななひゃくにんくるまひゃくじょうわたり北岸ほくがんみずひゃくため卻月じんりょうはしだきかわくるまおけなな仗士,こと畢,使つかい一白いっぱく毦;じんかい其意,みなどうひろしさきいのちやすしさく將軍しょうぐんしゅちょういし戒嚴かいげんしろ毦既舉,ちょういしそちせんにんはせ往赴まましだいいしゆみひゃくはりいちしゃえきじゅうにんしつらえ彭排於轅じょう人見ひとみ營陣すんでりつ,乃進かこえちょうまごかさそちさんまんすけ,四面肉薄攻營,いしゆみ不能ふのうせいときちょういしべつまましだいおもり乃槊せんあまりちょう,乃斷槊長さんよんしゃく,以錘おもりいち槊輒ほらぬきさんよんにんへい不能ふのうとういち奔潰,死者ししゃしょうせき;臨陳おもねうすじん退すさかえほとりじょうちょういしそちやすしさく將軍しょうぐんえびす籓、やすしどお將軍しょうぐんりゅうさかえ追擊ついげきまたやぶこれころせせんけいぬし嗣聞,乃恨不用ふようちぇ浩之ひろゆきげん
はた魯公紹遣ちょう姚洽、やすしさく將軍しょうぐんやす鸞、まもるぐん姚墨蠡、河東かわとう太守たいしゅから小方おがたそちさん千屯河北之九原,阻河ためかたよく以絕まゆみどうずみかて援。沈林邀擊ようげきやぶこれあまねくろ蠡、小方おがたころせ殆盡。林子りんこいんけいふとじょうひろし曰:「紹氣ぶたせきちゅうこんへいこごめ於外,くに危於內。おそれ其凶いのちさきつきとく以膏ひとしおのみみ。」紹聞あまねとうはいいきどお恚,發病はつびょう嘔血,以兵ぞく東平とうへいこうさん而卒。さんすんでだい紹,眾力なおもり,引兵かさね林子りんこ林子りんこふく擊破げきは
ふとしじょうひろしいたり洛陽らくようぎょうじょう塹,よしみもう修之のぶゆきかん葺之こうたまもの衣服いふく玩好,ちょくせんまん
ちょうぬし嗣如だかやなぎみずのえいぬかえ平城ひらじろ
河西かさいおうこうむへりくだ大赦たいしゃちょうわき太守たいしゅ沮渠こうむねいつわりくだ,以誘りょうこう歆,歆發へいおうこうむへりくだ將兵しょうへいさんまんふく於蓼いずみ,歆覺,引兵かえこうむへりくだついこれ,歆與せん於解ささえ澗,大破たいは斬首ざんしゅななせんあまりきゅうこうむへりくだしろたてやすしおけ戍而還。
五月ごがつ乙未おとみひとしぐん太守たいしゅおう懿降於魏,上書うわがきごと:「りゅうひろしざいらくむべはつへいぜっ其歸不戰ふせん而克。」ぬし嗣善
ちぇひろし侍講じこうざいまえ,嗣問曰:「りゅうひろし姚泓,はてのうかつ乎?」たい曰:「克之かつゆき。」嗣曰:「何故なぜ?」たい曰:「むかし姚興好事こうじ虛名きょめい而少實用じつよう泓懦而多びょう兄弟きょうだい乖爭。ひろしじょう其危,へいせいはたいさむ何故なぜかつ!」嗣曰:「ひろしざいなん如慕ようたれ?」たい曰:「勝之かつゆきたれ藉父けいおさむ復舊ふっきゅうぎょう國人くにびとわかよるむし就火,しょう倚仗,えき以立こうりゅうひろし奮起ふんきさむほろかい尺土しゃくど,討滅桓玄,きょうふくすすむしつきた禽慕ようちょうみなみふくろう循,しょむかいまえ其才ひとやすのう如是にょぜ乎!」嗣曰:「ひろしすんでいれせき不能ふのう進退しんたいわが以精ちょく搗彭じょうことぶきはるひろしはたわかこれなに?」たい曰:「今西いまにしゆうこごめ丐,きたゆうやわらしか,窺伺こくすき陛下へいかすんで不可ふか親御おやごろく,雖有精兵せいびょう睹良しょうちょうまごかさちょう於治こくたん於用へいりゅうひろしてき也。きょうへいとおおさむ未見みけん其利,如且安靜あんせい以待ひろしかつはた而歸,必篡其主。せき中華ちゅうかえびすざつ錯,風俗ふうぞく勁悍;ひろしよく以荊、あげこれほどこせはこはた,此無かいころもつつみちょうとら;雖留へい守之もりゆき人情にんじょうひろし,趨尚不同ふどうてきあしため寇敵みみねがい陛下へいか按兵いきみん以觀其變,しんおわりため國家こっかゆうすわ守也もりや。」嗣笑曰:「きょうりょうこれしん矣!」ひろし曰:「しん嘗私ろん近世きんせいはた相之あいのしんわかおうたけし治國ちこく,苻堅かんなか也;慕容つとむ輔幼ぬし,慕容暐之霍光也みつやりゅう裕之ひろゆきひらわざわいみだれ司馬しばいさお宗之むねゆき曹操そうそう也。」嗣曰:「こごめ丐何如?」ひろし曰:』こごめ丐國やぶいえくつがえ一身いっしん寄食きしょく姚氏,受其ふうふえおもえむくいおんほうよし,而乘繳利,とうゆう一方いっぽうゆい怨四鄰。撅豎小人こども,雖能たていちおわり當為とういじんしょ吞食みみ。」嗣大えついたり夜半やはんたまものひろしはなだもろみじゅう觚,みずせいしおいちりょう,曰:「ちんあじきょうごと,如此しお、灑,ほっあずかきょうどもきょう其美。」しかなおいのちちょうまごかさ、叔孫けんかく簡精へい,伺裕西にしなり皋濟かわ南侵なんしん彭、沛,わか不時ふじのり引兵ずい
ぬし嗣西じゅんいたりくもちゅうとげずみかわ,畋於だいばく
たかしおけ天地てんち四方しほうろく大人おとな,以諸公しょこう為之ためゆき
あきなながつふとしじょうひろしいたり陝。沈田でん弘之ひろゆきにゅうせきはた戍將みなじょうはし田子たつこひとしすすむたむろあおどろはたしゅ泓使きゅうごと黃門こうもんさむらいろう姚和たむろ嶢柳以拒西にししん相國しょうこく翟勍そつはちがつ,以尚しょれいくもりたちためひだり丞相じょうしょうみぎぼくもともとためみぎ丞相じょうしょう大夫たいふ麴景ため尚書しょうしょれいさむらいちゅう翟紹ためひだりぼくしゃ
ふとしじょうひろしいたりC171さと,沈田とうはたおさむ嶢柳。はたしゅ泓欲しょう以御ひろしぐんこわ田子たつこひとしかさね其後,よくさき擊滅げきめつ田子たつこひとししかこう傾國けいこく東出とうで;乃帥すうまん,奄至あおどろ田子たつこほんためうたぐへい所領しょりょうさいせん餘人よにん,聞泓いたりよくげきでん弘之ひろゆき以眾寡不てきどめ田子たつこ曰:「へいとうとよう必在眾。且今眾寡しょうかかいきおい兩立りょうりつわかかれゆいかこえすんでかたのりわがしょ逃矣。如乘其始いたり,營陳だてさきうす有功ゆうこう。」とげそち所領しょりょう先進せんしん弘之ひろゆきつぎしんへいごうかこえすうじゅう田子たつこなで慰士そつ曰:「諸君しょくん冒險ぼうけん遠來えんらいせいもとめ今日きょうたたかえ死生しせい一決いっけつふうこうこれぎょう於此ざい矣!」士卒しそつみな踴躍噪,たんへい奮擊,しんへい大敗たいはいくびまんきゅうとく其乘輿こしふく御物ぎょもつはたしゅ泓奔還灞上。
はつひろし以田とう眾少,沈林將兵しょうへいしんみね往助いたりそくしんへいやめはい,乃相あずかついこれせきちゅうぐんけんせんおく款於田子たご
からしうしふとしじょうひろしいたり潼關,以朱ちょういしため河東かとう太守たいしゅ使つかいあずか武將ぶしょうぐんじょ猗之かい薛帛於河きたきょうおさむかばばんはた平原ひらはらこう璞與姚和どもげき,猗之はいちょういし奔還潼關。東平とうへいこうさん司馬しばこく璠引へい以躡ひろし
おう鎮惡請帥水軍すいぐんかわにゅう渭以趨長やすひろしもとはた恢武將軍しょうぐん姚難こうじょう引兵而西,鎮惡おいはたしゅ泓自灞上引兵かえたむろ石橋いしばし以為援,鎮北將軍しょうぐん姚強あずかなんごうへいたむろ涇上以拒鎮惡。鎮惡使もういさお進擊しんげきやぶこれつよしなん奔長やす
東平とうへいこうさん退すさたむろていしろふとしじょうひろし進軍しんぐん逼之。泓使姚丕もり渭橋,えびすつばさたむろ石積いしつみ東平とうへいこうさんたむろ灞東,泓屯逍遙しょうようえん
鎮惡さかのぼ渭而じょうじょうこうむおきしょうかんぎょうせんしゃみなざいかん內;しん人見ひとみかんしん而無ぎょうせんしゃみなおどろき以為しんみずのえいぬだん,鎮惡いたり渭橋,れいぐんしょく畢,みな仗登がんとうしゃ。眾既とう,渭水迅急,かんみなずいりゅう,倏忽不知ふち所在しょざいとき泓所はたなおすうまんにん。鎮惡さとし士卒しそつ曰:「われぞくなみ在江あるえみなみ,此為長安ながやす北門きたもんいえまんふねかじ衣糧いりょうみなやめずいりゅういますすむせん而勝,のり功名こうみょう俱顯;かちのり骸骨がいこつかえし它歧矣。きょうとうつとむこれ!」乃身さき士卒しそつ,眾騰踴爭すすむ大破たいは姚丕於渭きょう。泓引へいすくいため丕敗そつしょ蹂踐,不戰ふせん而潰。姚諶とうみな,泓單かえみや。鎮惡いれたいらさくもん,泓與姚裕とうすうひゃく逃奔石橋いしばし東平とうへいこうさん聞泓はい,引兵赴之,眾皆つぶせえびすつばさくだ於太じょうひろし
泓將,其子ふつねんねんじゅういちこと於泓曰:「すすむじんはたたくまし其欲,雖降必不まぬかれ引決いんけつ。」泓憮しかおうふつねんのぼりみや牆自とう而死。みずのと,泓將妻子さいし群臣ぐんしんまい鎮惡るいもん請降,鎮惡以屬吏。城中じょうちゅうえびすすすむろくまん,鎮惡以國おんなで慰,號令ごうれい嚴肅げんしゅく百姓ひゃくしょう安堵あんど
きゅうがつふとしじょうひろしいたり長安ながやす,鎮惡むかえ於灞じょうひろしろう曰:「なりわれ霸業しゃきょう也!」鎮惡再拜さいはいしゃ曰:「あかりこうしょ將之まさゆきりょく,鎮惡なんこうゆう!」ひろしわらい曰:「きょうほっがく馮異よこしま?」鎮惡せいむさぼしんみつるせき,鎮惡ぬすめ不可ふか勝紀かつのりひろし以其こうだい不問ふもんある譖諸ひろし曰:「鎮惡ぞう姚泓にせ輦,はたゆうこころざし。」ひろし使つかいじん覘之,鎮惡剔取其金銀きんぎん,棄輦於垣がわひろし乃安。
ひろしおさむはたつね、渾儀、けいうら指南車しなんしゃおくまいたてやすし。其餘金玉きんぎょく、繒帛、珍寶ちんぽうみな以頒たまもの將士しょうしはた平原ひらはらこう璞、并州刺史ししいんあきら以蒲ばんくだ東平とうへいこうさんそち宗族そうぞく百餘人詣裕降,ひろしみなころせこれおく姚泓いたりたてやすし於市。ひろし以薛べん為平ためひらよう太守たいしゅ使つかい鎮捍北道ほくどう
ひろし遷都せんと洛陽らくようはかさんぐんおうなかとく曰:「非常ひじょうことかた非常ひじょうじんしょ及,必致駭動。こん暴師ひさ士卒しそつおもえ遷都せんとけい也。ひろし乃止。
羌眾十餘萬口西奔隴上,沈林追擊ついげきいたりえんじゅうら俘虜ふりょまんけい
河西かさいおうこうむへりくだ聞太じょうひろしめつしんいか甚。もん下校げこうろうりゅうさちにゅうげんごとこうむへりくだ曰:「なんじ聞劉ひろしいれせき,敢謂群臣ぐんしん曰:「姚泓ひろしてき也。且其兄弟きょうだい內叛,やすのうこばめじんひろしせきちゅう必矣。しかひろし不能ふのう久留くる,必將みなみとめ子弟してい及諸はた守之もりゆきわれこれ如拾あくたみみ。」乃秣礪兵,くんやしなえ士卒しそつしんよりどころ安定あんていはたみね北郡ほくそぎけん鎮戍みなくだこれひろしのこ使つかいのこ勃勃ぼつぼつしょやくため兄弟きょうだい勃勃ぼつぼつ使中書ちゅうしょさむらいろうすめらぎはじめ徽為ほうしょ而陰そだてこれたいひろし使者ししゃ口授くじゅ舍人とねり使しょひろし讀其ぶん,歎曰:「われ如也!」
廣州こうしゅう刺史しししゃ欣卒,東海とうかいじんじょみち聚眾おさむおちいしゅうじょう進攻しんこうはじめきょうはじめきょうしょう彭城りゅうれん討誅みことのり以謙ため廣州こうしゅう刺史しし
みずのととり司馬しばきゅう司馬しばぶんおもえ司馬しばこく璠、司馬しばみちたまもの、魯軌、かん延之のぶゆき、刁雍、おうとしりゅう及桓ゆたかまごどう道子みちこぞくじん桓謐、桓璲、ひねぐん袁式とうみなまいちょうまごかさくだはた匈奴きょうど鎮將姚成及弟かず舉鎮降ぬし嗣詔民間みんかんとく姚氏子弟していおく平城ひらじろしゃしょうふゆじゅうがつおのれとり,嗣召ちょうまごかさとうかえ司馬しばきゅうひろそつ於魏。たまものこく璠爵淮南ワイナンこうみちたまもの爵池陽子ようし,魯軌爵襄こう。刁雍ひょうもとめみなみひなこう,嗣以雍為たてよし將軍しょうぐん。雍聚眾於かわすみあいだ,擾動じょ、兗;ふとじょうひろしへい討之,かつ,雍進たむろ固山こやま,眾至まん
みことのりしんそう公爵こうしゃくためおうぞうふうじゅうぐん受。
西にししんおうおきいわひだり丞相じょうしょうくもりたちとうげきはたしょう姚艾,もぐさ使つかいしょう籓,おきいわ以艾ためせい東大とうだい將軍しょうぐんしんしゅうまきせいおう松壽しょうじゅため尚書しょうしょひだりぼくしゃ
十一月じゅういちがつ叔孫けんとう西山にしやまひのとれい翟蜀らくささえとう平之ひらの
からしりゅうきよしこれそつふとしじょうひろし聞之,おどろき慟哀惋者累日るいじつはじめひろしよくとめ長安ながやす經略けいりゃく西北せいほく,而諸はたみなひさやくおもえよくとめかいきよしこれそつひろし以根ほんたくとげ決意けついひがしかえ
きよしこれそつ也,朝廷ちょうてい恇懼,よくはつみことのり,以太じょうひだり司馬しばじょともこれだいちゅうぐん咨議さんぐんちょう邵曰:「こんまこと急病きゅうびょうにんおわりざいじょしか世子せいしせんいのちむべ須諮。」ひろしよく以王弘代ひろよきよし從事じゅうじちゅうろうしゃみそ曰:「きゅうもと輕易けいいわかともこれ。」乃羨ため吏部尚書しょうしょたてたけし將軍しょうぐん丹陽たんよういんだいかん留任りゅうにん。於是朝廷ちょうてい大事だいじつねけつ於穆これしゃなみ悉北咨。
ひろし次子じしかつらよう公義きみよしためとく雍、りょうはたおうしゅうしょ軍事ぐんじ安西あんざい將軍しょうぐんりょう雍、ひがししんしゅう刺史しし真時さんときねんじゅう。以太じょう咨議さんぐんきょう兆王修為長史,おう鎮惡ため司馬しばりょう馮翊太守たいしゅ,沈田もういさおみなためちゅうへいさんぐん,仍以田子たつこりょうはじめひら太守たいしゅとくりょうしんしゅう刺史しし天水てんすい太守たいしゅでん弘之ひろゆきため雍州ちゅう從事じゅうじ
さき,隴上りゅうぐうせきちゅうしゃもちいんへいとくふく本土ほんど;及置ひがししんしゅう知裕ともひろふく西にしりゃくみな歎息たんそく失望しつぼう
せきちゅうじんもとじゅうおうたけし裕之ひろゆきかつ長安ながやすおう鎮惡こうためゆかりみなみじんみな。沈田以嶢柳之やなぎのとしあずか鎮惡そうこう不平ふへいひろしはたかえ田子たつこ及傅弘之ひろゆき屢言於裕曰:「鎮惡ざいかんちゅう不可ふか保信やすのぶ。」ひろし曰:「こんとめきょう文武ぶんぶ將士しょうし精兵せいびょうまんにんかれわかほしため不善ふぜんせいあし自滅じめつみみ。勿復多言たげん。」ひろしわたしいい田子たご曰:「かねかいとくとげ其亂しゃ,以有まもる瓘故也。かたり曰:『猛獸もうじゅう如群きつね』,きょうとうじゅう餘人よにんなに懼王鎮惡!」
しんこう曰:古人こじんゆうごと:「うたぐのり勿任,にんそく勿疑。」ひろしすんで鎮惡以關ちゅう,而復與田よだゆうげん使つかいためらん也。惜乎!ひゃくねん寇,千里せんりとく艱難かんなんしつ造次ぞうじ使つかいゆたか、鄗之ふく輸寇しゅ。荀子曰:「兼併けんぺいえきのう也,けんしこりなん。」信哉のぶや
三秦父老聞裕將還,まいもん流涕りゅうてい訴曰:「ざんみん沾王,於今ひゃくねんはじめ衣冠いかん人人ひとびと相賀あいが長安ながやすじゅうりょう公家くげ墳墓ふんぼ,咸陽宮殿きゅうでん公家くげしつたく,捨此ほしなに乎!」ひろし為之ためゆき愍然びんぜん,慰諭曰:「受命じゅめい朝廷ちょうていとく擅留。まこと諸君しょくんふところほんこころざしこん以次いきあずか文武ぶんぶ賢才けんさいども鎮此さかいつとむあずかこれきょ。」じゅうがつかのえひろしはつ長安ながやすらくにゅうかわひらき汴渠以歸。
氐豪じょ駭奴、ひとしもととうよう部落ぶらくさんまんざい雍,使つかい請降於魏。ぬし嗣遣將軍しょうぐんおうらくせいかわ太守たいしゅ楊聲とう西行さいぎょう以應
閏月じゅんげつみずのえさるぬし嗣如だいやすし長川ながわ
はた、雍人千餘家推襄邑令上谷寇贊為主,以降いこう於魏,ぬし嗣拜さんぐん太守たいしゅ久之ひさゆきはた、雍人流入りゅうにゅう河南かなん、滎陽、かわ內者,以萬すう。嗣乃おけみなみ雍州,以贊ため刺史ししふう河南かなんこうおさむ洛陽らくようたて雍州ぐんけん以撫さんぜん於招なつけ流民りゅうみんこれしゃさんばい其初。
なつおう勃勃ぼつぼつ聞太じょうひろしひがしかえ大喜だいぎもん於王かいとく曰:「あがほしかんちゅうきょうためしげん其方りゃく。」かいとく曰:「せき中形ちゅうがた勝之かつゆき,而裕以幼子守こもり狼狽ろうばい而歸,せいよくきゅうなり篡事みみひまふく中原なかはらため。此天以關ちゅうたまものわが不可ふかしつ也。あおどろ上洛じょうらく南北なんぼく險要けんようむべ先遣せんけんゆうぐんだんひがしふさが潼關,ぜっ其水きすいりくみちしかこうつてげきさん輔,ほどこせ威德いとくのりよしざいもう罟之ちゅう不足ふそく也。」勃勃ぼつぼつ乃以其子なでぐん大將軍だいしょうぐん瑰都とくぜんほこさきしょ軍事ぐんじそちまんむかい長安ながやすぜん將軍しょうぐんあきらたむろ潼關,以買とくためなでぐんみぎちょうたむろあおどろ勃勃ぼつぼつはた大軍たいぐんため後繼こうけい
これさいすわ大官たいかんあきらやすこうふう懿卒。

やす皇帝こうていみずのとじゅうよんねんつちのえうまおおやけもとよんいちはちねん


はる正月しょうがつちょうとりついたちぬし嗣至平城ひらじろいのちまもるだか車中しゃちゅうろうはた薛繁そちだかしゃひのとれいきたりゃくいたりじゃくすい而還。
からし大赦たいしゃ
なつ赫連瑰至渭陽,せきちゅうみんくだこれしゃぞくりゅう驤將ぐん沈田將兵しょうへいこばめこれかしこ其眾もり退すさたむろりゅうかい堡,使つかいかえほうおう鎮惡。鎮惡いいおうおさむ曰:「おおやけじゅう歲兒さいじづけわれぞくとうともおもえ竭力;而擁へいすすむとりこなんよし得平とくひら!」使者ししゃかえ,以告田子たご田子たつこあずか鎮惡もとゆうしょうこころざしゆかりえき忿懼。いく,鎮惡與田よだ俱出北地きたじ以拒なつへいぐんちゅうなまりごと:「鎮惡よくつきころせみなみじん,以數十人送義真南還。よしよりどころせきちゅうはん。」からし田子たつこ請鎮あくいたりでん弘之ひろゆき營計ごと田子たつこもとむへい人語じんご使つかい其宗じん沈敬じんこれ幕下まくした,矯稱受太じょうれい誅之。弘之ひろゆき奔告りゅうよししんあずかおうおさむきのえのぼるよこもん以察其變。にわか而田そちすうじゅうにんらいいたりげん鎮惡はんおさむ田子たつこかず以專戮,これ;以冠ぐん將軍しょうぐんもう修之のぶゆきだい鎮惡ため安西あんざい司馬しばでん弘之ひろゆき大破たいは赫連瑰於いけようまたやぶこれ於寡わたり甚眾,なつへい乃退。
みずのえいぬふとしじょうひろしいたり彭城,かいげん,琅邪おういさおぶんさきかえりたてやすし
ひろし聞王鎮惡おもてげん「沈田ゆるがせ發狂はっきょうえき,奄害ちゅうくん」,追贈ついぞう鎮惡ひだり將軍しょうぐんあおしゅう刺史しし
以彭じょう內史りゅう遵考ため并州刺史ししりょう河東かとう太守たいしゅ,鎮蒲ばんせい荊州刺史ししりゅうみち憐為じょ、兗しゅう刺史しし
ひろしよく世子せいし鎮荊しゅう,以徐しゅう刺史ししりゅう義隆よしたかためつかさしゅう刺史しし,鎮洛ちゅうぐんはかちょう邵諫曰:「もうか貳之にのじゅう四海しかいしょ繫,よろししょがい。」乃更以義たかしためとく荊、えきやすし、雍、りょうはたろくしゅうしょ軍事ぐんじ西中にしなかろうはた、荊州刺史しし以南いなんぐん太守たいしゅいた彥之ため南蠻なんばんこうじょうちょう邵為司馬しばりょうみなみぐんしょうかん軍功ぐんこう曹王くもりくびためちょうきたじょしゅう從事じゅうじおうはなため西中にしなかろうぬし簿,沈林ため西中にしなかろうさんぐん義隆よしたかなおようごとみなけつ於邵。くもりくび弘之ひろゆきおとうと也。ひろしいい義隆よしたか曰:「おうくもりくび沉毅ゆう宰相さいしょうざい也,なんじごとごと咨之。」
以南いなんこおりこうりゅうよしけいためしゅう刺史ししけいみち憐之也。
ひろしかいつかさしゅうりょうじょ、冀しゅう刺史しし
はたおうおきいわ以乞伏木ふしき弈干ためすなしゅう刺史しし,鎮樂がつおつどるがらすのべそちまんくだしん
さんがつ使つかい聘魏。
なつよんがつおのれ徙冀、じょうかそけ三州徒河於代都。はつかずりゅうゆうあかよんふさが蔽日,とらいたりさるつばめふとしれいちょうきよしげん於燕おうばつ曰:「此兵也。こんかたきょうもり,而執其使しゃこういのち不通ふつうしん竊懼焉。」ばつ曰:「われかたおもえこれ。」がつぬし嗣東じゅんいたり濡源及甘まつせいひがし將軍しょうぐんちょうまご道生どうしょう安東あんどう將軍しょうぐんさききゅうごと黃門こうもんさむらいろう奚觀そちせいまんかさねつばめまたいのち驍騎將軍しょうぐんのべひろしかそけしゅう刺史ししじょうだくかそけしゅう引兵趨遼西にし為之ためゆきこえぜい,嗣屯突門みね以待道生どうしょうとう拔乙れんじょう進攻しんこうかずりゅうあずかつばめたん于右輔古どろせんやぶこれころせ其將すめらぎはじめ軌。つばめおうばつ嬰城もりじんおさむかつかすめ其民まんあまり而還。
ろくがつふとしじょうひろしはじめ受相こくそうこうきゅうすずいのち。赦國ちゅうこと以下いかたかし繼母けいぼらんりょうしょうためたい。以太じょうぐんはかまつりしゅあなやすしためそうこく尚書しょうしょれいひだりちょうおうひろしためぼくしゃりょうせん從事じゅうじちゅうろうでんあきら、蔡廓みなためさむらいちゅうしゃみそためみぎまもる將軍しょうぐんみぎちょうてい鮮之ためたてまつつねぎょうさんぐんいんけいじんため秘書ひしょろう,其餘百官ひゃっかん,悉依天朝てんちょうこれせいやすし受。あきら,鹹之まごくるわ,謨之曾孫そうそん;鮮之,渾之玄孫げんそんけいひとしとおる曾孫そうそん也。けいじんがく不為ふためぶんさとしゆうおもえ致;こう談義だんぎふかたちたいいたり國典こくてんあさきゅうあきらちゅう,莫不せんろく識者しきしゃ其有當世とうせいこころざし
てん大人おとな白馬はくばぶんさだおおやけちぇひろしやましあつぬし嗣遣侍臣じしんといびょう一夜いちやすうかえし。及卒,みことのり群臣ぐんしん及附こくみぞそちみな會葬かいそう
あきなながつつちのえうまぬし嗣至平城ひらじろ
きゅうがつきのえとら人命じんめいしょしゅう調ちょうみん租,じゅうせきせき於定、そう、冀さんしゅう
河西かさいおうこうむへりくだふく引兵すずしりょうこう歆將こばめこれひだりちょうちょうからだじゅんかた諫,乃止。こうむへりくだ芟其あき稼而還。
歆遣使らいつげかさねふゆじゅうがつ,以歆ためとくななぐんしょ軍事ぐんじ鎮西ちんぜい大將軍だいしょうぐんさけいずみこう
姚艾叛秦,くだ河西かさいおうこうむへりくだこうむへりくだ引兵むかえこれもぐさ叔父おじしゅんげん於眾曰:「はたおう寬仁ひろひとゆうみやび安居あんきょごとなにためしたがえ河西かさいおう西にし遷!」眾鹹以為しか,乃相あずか逐艾,推俊ためぬし復歸ふっき於秦。しんおうおきいわせいしゅんためさむらいちゅう中書ちゅうしょかんせいみなみ將軍しょうぐんたまもの爵隴西にしこう,以左丞相じょうしょうくもりたちためとく洮、罕以東いとうしょ軍事ぐんじせい東大とうだい將軍しょうぐんしんしゅうまぎ,鎮南やす
りゅうよし年少ねんしょうたまものあずか左右さゆうふしおうおさむまいたっそもそも左右さゆうみな怨,譖修於義曰:「おう鎮惡ほしはん沈田ころせこれおさむころせ田子たつこまたほしはん也。」よし信之のぶゆき使つかい左右さゆうりゅう乞等ころせおさむおさむすんで人情にんじょうはなれ駭,莫相すべいちよし悉召がいぐんいれ長安ながやす閉門へいもんこばめもりせき中郡なかぐんけん悉降於夏。赫連瑰夜襲やしゅう長安ながやすかつなつおう勃勃ぼつぼつしんよりどころ咸陽,長安ながやすきこりさいぜっ
そうこうひろし聞之,使つかい輔國將軍しょうぐん蒯恩如長やす,召義ひがし;以相こくみぎ司馬しばしゅよわいせきためとくせきちゅうしょ軍事ぐんじみぎ將軍しょうぐん、雍州刺史ししだい鎮長やすひろしいいよわいせき曰:「きょういたり敕義輕裝けいそうそくはつ既出きしゅつせきしか徐行じょこうわかせきみぎ不可ふかもりあずかよし俱歸。」また命中めいちゅうしょさむらいろうしゅちょういし慰勞いろうかわらく
十一月じゅういちがつよわいせきいたり長安ながやすよし將士しょうしむさぼたてだいかすめ而東,たから貨、子女しじょぽう徐行じょこう。雍州べつ韋華奔夏,赫連瑰帥眾さんまんついしんたてたけし將軍しょうぐんでん弘之ひろゆき曰:「おおやけ處分しょぶん亟進;いまおおはた輜重しちょういちにちこうじゅうとりこおい且至,なに以待むべ棄車けいぎょう,乃可以免。」よししたがえにわか而夏へいだいいたりでん弘之ひろゆき、蒯恩だん力戰りきせん連日れんじついたりあおどろすすむへい大敗たいはい弘之ひろゆきおんみなためおうかいとくしょ禽。司馬しばもう修之のぶゆきあずかよし真相しんそうしつまたためなつへいしょ禽。よしくだりざいまえかい日暮ひぐれなつへい窮追きゅうついとくめん左右さゆうつきどく逃草ちゅうちゅうへいさんぐんだんひろし單騎たんきついひろえんどうよびよし識其ごえ就之,曰:「きみ段中だんなかへいよこしまざい此,ぎょう矣!必不兩全りょうぜん刎身あたま以南いなん使つかい公望きんもちぜっ。」ひろし泣曰:「今日きょうことまことさんりゃくしか丈夫じょうぶけい此,なに以知艱難かんなん!」
なつおう勃勃ぼつぼつほしくだでん弘之ひろゆき弘之ひろゆき不屈ふくつときてんかん勃勃ぼつぼつはだか弘之ひろゆきさけべののし而死。勃勃ぼつぼつせき人頭じんとうためきょうかんごう髑髏しゃれこうべだい長安ながやす百姓ひゃくしょう逐朱よわいせきよわいせき焚其宮殿きゅうでん,奔潼せき勃勃ぼつぼついれ長安ながやす大饗おわい將士しょうし,舉觴いいおうかいとく曰:「きょう往日おうじつげんいち而驗,いいざんのこさく。此觴しょしゅうきょう而誰!」以買とくためかん尚書しょうしょふう河陽かわようこう
りゅう驤將ぐんおうたかしさき戍曹こうるいよわいせき往從しゅちょういしいたりがまばん,聞齡せき所在しょざいまた往從。赫連あきらおさむけいさきるいだん其水きすいどう。眾渴,不能ふのうせんしろ且陷。よわいせきいいちょういし曰:「おとうとけい俱死しろ使つかい老親ろうしんなん以為しんしかもとめ間道かんどうほろびわが此,恨矣。」ちょう石持いしもちけい泣曰:「ひとだれ不死ふしやすしにん今日きょうけい乎!」とげあずかけいさき及右ぐんさんぐんりゅう欽之みなおく長安ながやす勃勃ぼつぼつころせ;欽之おとうと秀之ひでゆき悲泣歡燕しゃじゅうねん。欽之,きよしこれしたがえ兄子せこ也。
そうこうひろし聞青どろはい知義ともよし存亡そんぼういか甚,こくきたさむらいちゅうしゃみそ諫以「士卒しそつ疲弊ひへい,請俟它年」,したがえてい鮮之上表じょうひょう,以為:「とりこ聞殿おやせい,必並りょくもり潼關。みち往攻こわえきかつわか輿こしひたぶるらくのり不足ふそくじょうろうせい躬。且虜雖得こころざし敢乘しょうせき陝者,なお懾服だいため將來しょうらいおもんばか也。若造わかぞうらく而返,とりこ必更ゆう揣量しんある益生ますお患。きょう大軍たいぐん遠出とおで後患こうかん甚多。むかしとし西にしせいりゅうかね狼狽ろうばい去年きょねんきた討,廣州こうしゅうかたぶけくつがえ既往きおうこう後來こうらい鑒也。こんしょしゅう大水おおみずみんしょく寡乏,三吳群盜攻沒諸縣,みなよしこま於征やく也。江南えな庶,引領顒顒以望殿下でんかかえし旆,聞更北出きたいで不測ふそくあさふかこれはかりごと往還おうかんこれしんおそれかえし顧之さらざい腹心ふくしん也。わかおもんばか西にしとりこさらためかわらく患者かんじゃむべゆいこうきたとりこきたとりこおやそく河南かなんやす河南かなん安則やすのりわたる、泗靜矣。」會得えとくだんひろしけい知義ともよしとくまぬかれひろし乃止,ただし登城とじょうきたもち慨然がいぜん流涕りゅうてい而已。くだよしためたてたけし將軍しょうぐんつかさしゅう刺史しし;以段ひろしためそうだい黃門こうもんろうりょう太子たいしみぎまもるりつひろし以天すい太守たいしゅもういさおため河東かとう太守たいしゅだいりゅう遵考もりがまばん
なつおう勃勃ぼつぼつちくだん於灞じょうそく皇帝こうてい改元かいげんあきらたけ西にししんおうおきいわひがしじゅんじゅうがつ,徙上邽民五千餘戶於枹罕。
彗星すいせい天津てんしんにゅうふとしほろけい北斗ほくとからまむらさきほろはちじゅうにち而滅。ぬし嗣復召諸儒、じゅつとい曰:「こん四海しかい分裂ぶんれつわざわいとがめおうはてざいなんこくあが甚畏きょうやからつきげん,勿有しょかくれ!」眾推ちぇひろし使たいひろし曰:「おっとわざわいこときょうみなぞう人事じんじにん苟無釁,またなにかしこ焉?むかしおう莽將篡漢,彗星すいせい出入でいりせいあずかこんどう國家こっかぬしみことしん卑,みんもちすすむしつりょうえびす,危亡とお;彗之ためこと,其劉ひろしはた篡之おう乎!」眾無以易其言。
そうこうひろし以讖うん昌明まさあきこれなおゆうみかど」,乃使中書ちゅうしょさむらいろうおう韶之あずかみかど左右さゆう密謀みつぼう鴆帝而立じりつ琅邪おういさおぶんとくぶんつねざいみかど左右さゆう飲食いんしょくしょ嘗暫はなれ;韶之伺之經時きょうじとくあいだかいとくぶんゆうやましきょ於外。つちのえとら,韶之以散ころも縊帝於東おひがしどう。韶之,廙之曾孫そうそん也。ひろしいんたたえのこみことのりたてまつとくぶんそく皇帝こうてい大赦たいしゃ
これさい河西かさいおうこうむへりくだたてまつおもてしょう籓,はいりょうしゅう刺史しし
尚書しょうしょみぎぼくしゃ袁湛そつ
きょう皇帝こうてい

やす皇帝こうていみずのともと熙元ねんおのれおおやけもとよんいちきゅうねん


はる正月しょうがつみずのえたつついたち改元かいげん
たて琅邪おうおさむ褚氏ため皇后こうごう,裒之曾孫そうそん也。
ぬし嗣畋於犢なぎさ
きのえうませいそうこうひろし入朝にゅうちょうしん爵為おうひろし
みずのとぬし嗣還平城ひらじろ
庚申こうしんそうやす皇帝こうてい於休たいらりょう
敕劉どう憐司そら鎮京こう
なつすすむしかやつこうつつみそち萬攻毛德祖於蒲阪,とく不能ふのうぜんぐん彭城。がつそうこうひろし以德ため滎陽太守たいしゅ,戍虎ろう
なつしゅ勃勃ぼつぼつせいかくれきょうちょう韋祖おもえおもえすんでいたりきょう懼過甚,勃勃ぼつぼついか曰:「わが以國せいなんじなんじ乃以るいぐうわがなんじむかしはい姚興,いまなんどくはいわがざいなんじなお以我ため帝王ていおうなんじ曹弄ひつとうおけわが於何よこしまとげころせこれ
群臣ぐんしん請都長安ながやす勃勃ぼつぼつ曰:「ちんあに不知ふち長安ながやす歷世れきせい帝王ていおう,沃饒けわしかたしかすすむじん僻遠へきえんおわり不能ふのうためわれ患。あずかわが風俗ふうぞくりゃくどう土壤どじょう鄰接,すべ萬距魏境裁百餘里,ちんざい長安ながやすすべまん必危;わかざいすべまん必不敢濟かわ而西。しょきょうてき未見みけん此耳。」みな曰:「しょ及也。」乃於ちょう安置あんち南台みなみだい,以赫れん瑰領大將軍だいしょうぐん、雍州まきろく南台みなみだい尚書しょうしょごと勃勃ぼつぼつかえすべまん大赦たいしゃ改元かいげんきょう
勃勃ぼつぼつせいおごしいたげみん如草あくたつね居城きょじょうじょうおけゆみけん於側,ゆうしょいや忿,自殺じさつ群臣ぐんしん迕視しゃ鑿其わらいしゃけつ其脣,諫者さき截其した而後これ
はつ司馬しばすわえたてまつ其父さかえかえりたてやすしかいそうこうひろし誅剪宗室そうしつゆうざいもちしゃすわえ叔父おじせんあに貞之さだゆきみなすわえほろび匿竟りょう蠻中。及從きゅうりょう奔秦,すわえほろびなんじ、穎間,聚眾以謀復仇ふっきゅうすわえしょうゆう英氣えいきのう折節おりふし下士かしゆう眾萬あまりたむろよりどころちょうしゃひろし使刺客しかく沐謙往刺すわえまてけん甚厚。けんよくはつとくあいだ,乃夜しょうやましすわえ必往といやましいんよくとげすわえはてつぎやく往視やまし情意じょういつとむあつしけんにんはつ,乃出匕首ひしゅ於席,以狀つげ曰:「將軍しょうぐんふかためりゅうひろししょねがい勿輕りつ以自保全ほぜん。」とげごと為之ためゆき防衛ぼうえい
おう鎮惡也,沈田ころせ兄弟きょうだいななにんただおとうとやすしとくまぬかれ,逃就そうこうひろし於彭じょうひろし以為相國しょうこくぎょうさんぐんかんもとむかえ洛陽らくようははかい長安ながやすもりかん糾合きゅうごうせきちゅう徙民,とくひゃくもとじんそち僑戶ななひゃくいえ共保きょうほきん墉城。時宗じしゅうしつ逃亡とうぼうざい河南かなんゆう司馬しば文榮ふみえしゃそち乞活千餘戶屯金墉城南;また有司ゆうし馬道うまみちきょう東垣ひがしがきそちさんせんにんたむろ城西じょうさい司馬しばじゅんあきらそちせんにんたむろりょうくもだい司馬しばすわえたむろ柏谷かしわや塢。かわ內鎮はた於栗磾游ざいすすき山上さんじょうおさむ逼交いたりかん堅守けんしゅろくしゅんひろし以康ため河東かとう太守たいしゅへいすくい平等びょうどうみなはしかんすすむのうくわ,百姓甚親賴之。
司馬しばじゅんあきら司馬しばみちきょう及平太守たいしゅ薛辯みなくだ於魏,以辯ため河東かとう太守たいしゅ以拒なつじん
なつよんがつはたただし西にし將軍しょうぐん孔子こうしそち五千討吐谷渾覓地於弱水南,大破たいは,覓地そち其眾ろく千降於夏,はいじゃくすいまもるぐん
かのえたつぬし有事ゆうじ於東おひがしびょう助祭じょさいしゃすうひゃくこくからしみなみじゅんいたりかりもん
五月ごがつかのえとらついたちぬし嗣觀りょう於A212みずおのれかえ平城ひらじろ
りょうこう歆用けいげんまた好治こうじ宮室きゅうしつ從事じゅうじちゅうろうちょうあらわじょう疏,以為:「りょうさんふんいきおいささえひさし兼併けんぺいほんざい於務のうふところとおこれりゃく,莫如ひろし簡。こんいれさいやめらい陰陽いんようしつじょ風雨ふうう乖和;よろしげんぜん撤懸,がわ修道しゅうどう,而更しげるけいたかしほうつくろえちくとめ,殆非所以ゆえん致興隆也たかやむかしぶんおうひゃくさと而興,二世以四海而滅,前車ぜんしゃ軌,得失とくしつあきらしかふとし神聖しんせい姿すがたため西にしなつしょ推,ひだりさけいずみみぎひらき西域せいいき殿下でんか不能ふのうたてまつうけたまわ遺志いしこんいちりょう,侔蹤はりはたなに以下いか先王せんおう乎!沮渠こうむへりくだえびす夷之えびすのすぐる,內修政事せいじそとれいえいけんおさむせんさいさき士卒しそつ百姓ひゃくしょうふところらく為之ためゆきようしんいい殿下でんかただし能平のっぺい殄蒙へりくだまた懼蒙へりくだかたため社稷しゃしょく。」歆覽えつ
おも簿汜稱じょう疏諫曰:「てん之子ゆきこ愛人あいじんぬしいんつとむいたり矣;政之まさゆきおさむしもわざわい戒告かいこくあらためしゃ雖危必昌,あらためしゃ雖安必亡。元年がんねんさんがつみずのと敦煌とんこうけんとくどうおちいはちがつこうこくきれねん元日がんじつ,昏霧よんふさがよんがつ日赤にっせきひかりしゅん乃復;じゅういちがつきつね上南かみなもんこん茲春、なつしきふるえろくがつ,隕星於建やすししん雖學稽古けいこ行年ぎょうねんじゅうゆうきゅう,請為殿下でんか略言りゃくげん耳目じもくこれしょ聞見,ふくのうとおろんしょでんこと也。乃者鹹安はつ西にし平地ひらちきれきつねにゅうけんひかり殿どのぜんにわか而秦奄至,都城みやこのじょうもりはり熙既ためりょうしゅうなで百姓ひゃくしょうせんため聚斂,たてもとじゅうきゅうねんしゅうと臧南もんくずれ隕石いんせき於閒どう明年みょうねんためりょこうしょころせだんぎょうしょうせい此方こちらさんねんなか地震じしんじゅう餘所よそすんで而先おうりゅうきょう於瓜しゅうこうむへりくだ篡弒於張わき。此皆目前もくぜんなりごと殿下でんかしょ明知めいち也。こうこく先王せんおうおおとりややこれけんとくそくとうとこれしつもとおちいきれ大凶だいきょうせい也。にちしゃ太陽たいようしらげ中國ちゅうごくぞうあか而無こう中國ちゅうごくしょうおとろえことわざ曰:『野獸やじゅういれ主人しゅじんはた。』きつね上南かみなもんまた變異へんいだいしゃ也。こん蠻夷ばんいえきもり中國ちゅうごくえきほろねがい殿下でんか亟罷宮室きゅうしつやくとめゆう畋之娛,のべれい英俊えいしゅんあいやしなえ百姓ひゃくしょう,以應天變てんぺんぼう未然みぜん。」歆不したがえ
あきなながつそうこうひろしはじめ受進爵之いのちはちがつうつり鎮壽,以度ささえ尚書しょうしょりゅうふところまきためとく淮北しょ軍事ぐんじじょしゅう刺史しし,鎮彭じょう
からしぬし嗣東じゅんかぶとさるかえ平城ひらじろ
きゅうがつそうおうひろしかいあげしゅうまき
はたひだりまもる將軍しょうぐんひきたちとう將兵しょうへい討彭利和としかず於漒がわ大破たいは利和としかず單騎たんき奔仇妻子さいし,徙羌ごうさんせん於枹罕,漒川羌さんまんみな安堵あんど如故。ふゆじゅうがつ,以尚しょみぎぼくしゃおう松壽しょうじゅためえきしゅう刺史しし,鎮漒かわ
そうおうひろし以河みなみ蕭條しょうじょうおつとり,徙司しゅう刺史ししよしためあげしゅう刺史しし,鎮石あたましょう太紀たいきいいひろし曰:「みち憐汝布衣ふい兄弟きょうだいむべもちいためあげしゅう。」ひろし曰:「よせやつ於道憐,あにゆうしょ惜!あげしゅう根本こんぽんしょよせ事務じむいたり非道ひどう憐所りょう。」ふとし曰:「みち憐年じゅうあに如汝じゅう歲兒さいじよこしま?」ひろし曰:「よし雖為刺史ししこと大小だいしょう,悉由よせやつみち憐年ちょうおや其事,於聽もち不足ふそく。」ふとし無言むごんみち憐性ひな而貪たてひろし肯用。
十一月じゅういちがつちょうついたちにちゆうしょく
十二月じゅうにがつみずのとぬし嗣西じゅんいたりくもちゅうしたがえ君子くんし津西つにし渡河とか大獵たいりょう於薛林山はやしやま
からしそうおうひろしことれいしんおうふとしためふとしきさき世子せいしため太子たいし


 まきいちひゃくじゅうなな かえしかいいただき まきいちひゃくじゅうきゅう

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