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資治通鑑/卷151 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき151

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 まきいちひゃくじゅう どおりかん
まきいちひゃくじゅういち はりなな
まきいちひゃくじゅう 

ちょうやわらちょうあつし牂,つききょう圉協ひろし,凡ねん

どおりかん だい151かん
  【りょうおさむなな】 ちょうやわらちょうあつし牂,つききょう圉協ひろし,凡ねん
   高祖こうそたけし皇帝こうていなな普通ふつうななねん丙午ひのえうまおおやけもとろくねん
はる正月しょうがつからしうしついたち大赦たいしゃ
みずのえ以汝みなみおうえつりょうふとしじょう
やすしゅうせきはなれあなじょう、斛鹽さん戍兵はんおうもりらくしゅう,眾合まんらくしゅうまつ岍赴くだりだいつねけい使べつはたちぇなかあきらたむろぐんせき以邀なかあきら戰沒せんぼつげんたんぐんよるつぶせ以別はた琚代たんためとくなかあきら,秉之也。
はつ廣陽こうようおうふかしどおり於城おう徽之。徽為尚書しょうしょれいためえびすふとしきさきしょ信任しんにんかいつねしゅうじん請深ため刺史しし,徽言ふかこころ不可測ふかそく。及杜らくしゅうはん,五原降戶在恆州者謀奉深為主,ふか懼,上書うわがきもとめかえ洛陽らくよう以左まもる將軍しょうぐん楊津だいふかため北道ほくどうだいとくみことのりふかため吏部尚書しょうしょ。徽,長壽ちょうじゅまご也。
五原降戶鮮于修禮等帥北鎮流民反於定州之左城,改元かいげん魯興,引兵向州むこうすじょう州兵しゅうへいこれ不利ふり。楊津いたりれいおか,聞定しゅう危迫,引兵すくいにゅうよりどころしゅうじょうおさむれいいたりよく出擊しゅつげきちょうふみもと聽,しゅけんげきはしめん開門かいもんせん斬首ざんしゅすうひゃくぞく退すさ人心じんしんしょうやすみことのりひろ以津ためじょうしゅう刺史ししけん北道ほくどうゆきだい以揚しゅう刺史ししちょうまごいとけなためだいとくきた討諸軍事ぐんじ與河よこうあいだおう琛共討修れい
がつきのえいぬきた眾軍かいげん
西部せいぶ敕勒斛律洛陽らくようはん於桑西にしあずか也頭牧子まきこしょう連結れんけつ三月さんがつきのえとらゆうげき將軍しょうぐんしかしゅさかえ擊破げきは洛陽らくよう深井ふかい牧子まきこ於河西にし
なつよんがつおつとり臨川りんせん靖惠やすえおうひろしそつ
大赦たいしゃ
癸巳きし以侍ちゅうくるま大將軍だいしょうぐん城陽じょうようおう徽為どうさん。徽與きゅうごと黃門こうもんさむらいろうじょ紇共毀侍中元ちゅうげんじゅん於太きさきためまもるぐん將軍しょうぐんふとしつねきょうじゅんたてまつ於西遊園ゆうえん,紇侍がわじゅんゆびいいふとしきさき曰:「此魏おさむ嚭,こくほろび,此終不死ふし!」紇脅かた而出,じゅんこうこえしかこれ曰:「なんじがたなひつ小才こさいせいこらえきょういくあんもちいあにおう污辱門下もんか,斁我つねりん!」いんころも而起。ふとしきさき默然もくぜん
ついたちしゅうぐすくみん鮮于阿えびすとうよりどころじょうはん
もりらくしゅう南出みなみでしょうかすめあざみじょうつねけいみつるぐんりょうなかれい擊破げきは丁未ていみみやこただし琚與らくしゅうせん於薊じょうきたはいぼつつねけいそち眾拒らくしゅう引還上谷うえたに
ちょうまごややぎょういたり鄴,みことのりかいだいとく,以河あいだおう琛代ややじょうげん:「こうあずか琛同ざい淮南ワイナン,琛敗しんぜんとげなりわたしすきこんなん以受其節。」ちょう聽。ぜんいたりよび沱,ややよくせん,琛不したがえ。鮮于おさむれい邀擊ようげきやや於五鹿しか,琛不赴救,ややぐん大敗たいはいやや、琛並すわ除名じょめい
五月ごがつ丁未ていみぬしみことのりはたきた討,內外戒嚴かいげんすんで而不ぎょう
衡州刺史ししもとりゃくいたり江南えな,晨夕哭泣,つね如居。及魏元義もとよしえびすふとしきさきよく召之,知略ちりゃくいん刁雙まぬかれせいそうためこう祿ろく大夫たいふこうかわつねみなみかえ以求りゃくうえ備禮これちょうおく甚厚。りゃくはじめずみ淮,はいりゃくためさむらいちゅうたまもの爵義おう;以司馬しばはじめまろうどためきゅうごとちゅうぐりほうこう為本ためもとけんれい,刁昌ため東平とうへい太守たいしゅ,刁雙ため西にし兗州刺史しし。凡略しょいちいち宿しゅくみなしょう
以丞しょうだかおう雍為だい司馬しばふく以廣おうふかためだいとく,討鮮于修れいあきらたけおうとおるためひだりとく,裴衍ためみぎとくなみ受深節度せつど
ふか以其したがえ城陽じょうようおう徽言於太きさき曰:「廣陽こうようおう攜其愛子あいこにぎへい在外ざいがいはたゆうこころざし。」乃敕とおる、衍潛為之ためゆき備。とおる、衍以敕示ふかふか懼,こと大小だいしょう自決じけつふとしきさき使とい其故,たい曰:「徽銜しんこつしん疏遠在外ざいがい,徽之構臣,しょ不為ふため執政しっせい以來いらいしんしょひょう請,したがえまこと。徽非ただしがいしん而已,したがえしん將士しょうしゆうくんろうしゃみなはいそもそもとく它軍,仍深にく嫉,あるいん其有ざい以深ぶんいたり於殊,以是したがえしん行者ぎょうじゃ,莫不悚懼。ゆうげんしんぜんしゃ如仇讎;ごとしん惡者わるものまち親戚しんせき。徽居ちゅう用事ようじ朝夕あさゆうほしおちいしん不測ふそく誅,しんなん以自やす陛下へいかわか使つかい徽出臨外しゅうしん內顧ゆう,庶可以畢いのちぞくにわてん其忠りょく。」ふとしきさき聽。
徽與中書ちゅうしょ舍人とねりていげんとうさらしょうおもねとうそとやわ謹,內實かつ賞罰しょうばつにんじょう政由まさよしこれいよいよらん
つちのえさるつばめしゅう刺史ししちぇ秉帥眾棄じょう奔定しゅう
おつうし以安西にし將軍しょうぐんそうただしちんまごためとく,討汾しゅうはんえびす
ろくがつたかしくだしょくひねそうおき聚眾はんごうはじめけんおう以假鎮西ちんぜい將軍しょうぐんちょうまごいとけなため討蜀とくべつはた河東かわとう薛修けいまいそうおきるいあかつき利害りがいそうおきそくくだみことのり以修ためりゅうもん鎮將。
へい徙義おうりゃくため東平とうへいおうごろ,遷大將軍しょうぐん尚書しょうしょれいためえびすふとしきさきしょ委任いにんあずか城陽じょうようおう徽相らちしかじょてい用事ようじほぼまた敢違也。
もりらくしゅうとくおう曹紇しんとう將兵しょうへいかすめあざみみなみあきなながつ丙午ひのえうまぎょうだいつねけいとく於榮とうげき於栗えん大破たいは曹紇及將そつさんせんあまりきゅうらくしゅうそち眾南おもむき范陽,けいあずかさかえとうまたやぶこれ
ぼくもと纂以ぎょうだい鎮恆しゅう。鮮于阿えびすようついたちしゅう流民りゅうみん寇恆しゅうつちのえさるおちい平城ひらじろ,纂奔冀州。
上聞じょうぶん淮堰水盛みずもりことぶきようじょういくぼつふく郢州刺史ししもととう北道きたみちおさむはじむ漿,しゅう刺史ししなつこうただしひとし南道みなみどうおさむことぶきよう
はちがつ癸巳きしぞくそちもとひろしぎょう鮮于おさむれい,請降於魏;賊黨ぞくとうかずらさかえふくころせひろしぎょう自立じりつ
やすきた將軍しょうぐんとくつねさく討虜しょ軍事ぐんじしかしゅさかえ肆州,肆州刺史ししじょうけいまろうどよりどころじょう不出ふしゅつさかえいか,舉兵かさね肆州,けいまろうどかえしゅうようしょ其從叔羽せいため刺史ししちょう不能ふのうせいはつ拔允及弟しょうたけしたがえもと纂在つねしゅう平城ひらじろおちい也,まこと兄弟きょうだいしょうしつたけ奔爾しゅさかえかち奔肆しゅうさかえかつ肆州。とくしょう大喜だいぎ曰:「とくきょう兄弟きょうだい天下てんか不足ふそくひら也!」以為べつはたぐんちゅう大事だいじおおあずかこれはかりごと
きゅうがつやめとり,鄱陽ちゅうれつおう恢卒。
かずらさかえ既得きとくもりらくしゅうしたがえきたおもむき瀛州,廣陽こうよう忠武ただたけおうふかし交津引兵躡之。からしさかえいたりしろうし邏,けい掩擊あきらたけそうたけおうとおるころせこれさかえ自稱じしょう天子てんし國號こくごうひとし改元かいげん廣安ひろやすふか聞融はいとまぐんすすむさむらい中元ちゅうげん宣言せんげん於太きさき曰:「廣陽こうようおうばん桓不すすむすわ非望ひぼうゆう於謹しゃ智略ちりゃくひとため其謀ぬし風塵ふうじんさいこわ陛下へいかじゅんしん也。」ふとしきさきふかしかこれみことのり榜尚しょしょうもんつののう謹者ゆうじゅうしょう。謹聞いいふか曰:「こんおんなぬし臨朝,信用しんよう讒佞,苟不明白めいはく殿下でんかもとしんおそれいたり。謹請たばまい闕,ざい有司ゆうし。」とげみちまい榜下,自稱じしょう於謹;有司ゆうし以聞。ふとしきさき引見いんけんだいいか。謹備ろんふかただ款,けんひねとまぐんじょうふとしきさきかいとげ捨之。
ふか引軍かえおもむきじょうしゅうていしゅう刺史しし楊津また疑深うたがいぶかゆうこころざしふか聞之,とめ於州南佛なんふつてらけいにちふか召都とく謚等すうにん,交臂ためやく危難きなんさいしょう拯恤。謚愈うたぐこれ密告みっこくくも深謀しんぼう不軌ふき謚討ふかふか走出はしりで,謚呼噪逐ふかふかあずか左右さゆうあいだぎょういたりはくりょうかい,逢葛さかえゆうこうまいさかえ賊徒ぞくとふか,頗有しゃさかえ新立しんだてあくとげころせふか城陽じょうようおう徽誣ふかくだぞくろく其妻ふかそうゆうどう為之ためゆき訴理,乃得しゃくゆうみち,繇之玄孫げんそん也。
きのえさるゆきだいつねけいやぶもりらくしゅう武川むかわおう拔文きょうとう捕虜ほりょよんひゃくにん
就德きょうおちいたいらしゅうころせ刺史ししおうかいやつ
天水てんすいみんりょはくほん莫折ねんせいとう也,あらわよりどころあらわおや以拒ねんせいやめ而不しょうほろびえびす琛,琛以ためだいとくしんおう以士使つかいげきねんせいはく屢破ねんせいぐんふくよりどころあらわおや,乃叛琛,ひがし引魏ぐんねんせい窘迫,乞降於蕭たからとらたからとら使ぎょうだいひだりすすむちぇよりどころしんしゅう以伯ため涇州刺史ししふうたいらしんぐんおおやけだいとくもとおさむとまぐん隴口,ひさしすすむねんせいふくはんおくえびす琛,於道ころせこれ久之ひさゆきはくためまん俟丑やつしょころせぞくぜいえきもりたからとら不能ふのうせいえびす琛與莫折ねんせい交通こうつうことやぶ六韓拔陵浸慢,拔陵其臣りつ至高しこうひらめさそえ琛,これうしやつつきなみ其眾。
ふゆ十一月じゅういちがつかのえたつ大赦たいしゃ
ちょうたか嬪卒,太子たいしすい漿不入口いりくち上使じょうしいい曰;「毀不滅ふめつせいきょうわがざいよこしま!」乃進かゆすうごう太子たいしたいもとこえたけし腰帶こしおびじゅうかこえいたりげんそぎ過半かはん
なつこうただしとうぐんいれさかいしょこうみなからしあげしゅう刺史ししけん以壽くだせんもう將軍しょうぐんちん慶之よしゆきにゅうよりどころ其城,凡降じょうじゅう男女だんじょななまんせんくちちょうたてけんかえふく以壽ためしゅうあらためあいこえためみなみしゅう,以夏こうただしためみなみしゅう刺史ししことぶきひさしかか兵革へいかくみん眾流ただしけい荊薄つとむのうしょうやくごろみんたかしふく
もりらく周圍しゅうい范陽,つちのえいぬみんかそけしゅう刺史ししおうのべねんくだりだいつねけいおくらくしゅう開門かいもんおさめ
ひとししゅう平原ひらばらみんりゅういつきとうはんおさむおちいこおりけんしきはいしゅうぐん刺史ししもと欣以平原へいげんぼうたちためはた,討平
曹義むねよりどころみのるじょう以逼新野あらたのたかしみやこただしうけたまわ及尚しょひだりすすむみなみ道行みちゆきだいからし纂救義宗よしむねせん不利ふり敢進。纂,ゆうしたがえ父兄ふけい也。
盜賊とうぞくしげる征討せいとういきくによう耗竭,あずかろくねん租調,なお不足ふそく,乃罷百官ひゃっかんしょきゅう酒肉しゅにくまたぜいにゅうとくじんいちせん,及邸てんみな有稅ゆうぜい百姓ひゃくしょう嗟怨。吏部ろうちゅうからしゆうじょう疏,以為:「えびすなつみんしょう聚為みだれあに有餘ゆうよ憾哉!せい以守れいとく其人,百姓不堪其命故也。むべ及此はや慰撫いぶただしぐんけんせん舉,由來ゆらいどもけいゆう俊才しゅんさい,莫肯きょ此。むべあらため其弊,ふんぐんけんためさんとうきよし官選かんせんほうみょうつきざいもち,如不可ふかなみ後地うしろじさきざいかかわ以停ねんさん黜陟,ゆうしょうしょくしゃ在京ざいきょうめいかん;如不れきもりれいとくため內職。のりじんおもえつとむもりこごめさる強暴きょうぼういき矣。」聽。
   高祖こうそたけし皇帝こうていなな大通だいつう元年がんねん丁未ていみおおやけもとななねん
はる正月しょうがつおつうし,以尚しょひだりぼくしゃじょいつためぼくしゃからしじょうまつ南郊なんこう
きのえいぬ以司そらすめらぎはじめためただしどうさんつかさしょうたからとらためそら
ぶんじょうあい二州四郡置殷州,以北いほく道行みちゆきだいはくりょうちぇ楷為刺史しし。楷表しょう:「しゅう今新いまじんりつしゃくかてみなしょゆう,乞資以兵糧ひょうろう。」みことのりづけがいりょう聞,竟無しょきゅうあるすすむ楷留單騎たんきかん,楷曰:「われ聞食じん祿ろくしゃゆうじんゆうわかわれ獨往どくおうのり將士しょうしだれ肯固こころざし哉!」とげ舉家かんかずらさかえ逼州じょうあるすすむげん弱小じゃくしょう以避,楷遣幼子おさなごいちじょよるすんで而悔,曰:「ひといいわれこころかた,虧忠而全あい也。」とげいのちおいかえぞくいたり強弱きょうじゃくしょうかかまたもり禦之;楷撫つとむ將士しょうし以拒,莫不そう奮,みな曰:「ちぇこうなおひゃくくちわれぞくなんあい一身いっしん!」連戰れんせんいき死者ししゃしょうまくらおわり叛志。からししろおちい,楷執ぶし不屈ふくつさかえころせこれとげかこえ冀州。
しょうたからとら出兵しゅっぺい累年るいねん將士しょうし疲弊ひへいはたぞくげきたからとら大敗たいはい於涇しゅうおさむへいまん餘人よにんたむろ逍遙しょうようえんひがししんしゅう刺史ししはんよしふち以汧じょうくだぞく。莫折ねんせいしん逼岐しゅうしろじん刺史ししらんおう。豳州刺史しし畢祖あきら戰沒せんぼつぎょうだいからしふか棄城はしきた海王かいおう顥軍またはいぞくそちえびす引祖よりどころきたはなしゅうしか麒麟きりんよりどころ豳州以應天生あもうせき中大ちゅうだい擾。雍州刺史しし楊椿募兵ぼへいとくななせん餘人よにんそち以拒もりみことのり椿つばきさむらいちゅうけん尚書しょうしょみぎぼくしゃためぎょうだい節度せつど關西かんさいしょしょう北地きたじこう曹毛おおとりまろうど引賊しょうかすめ渭北,雍州ろくごとさんぐん楊侃將兵しょうへいさんせん掩擊おおとりまろうど懼,請討ぞくこうとげとりこおく宿やどつとむがらすじんがらす仁者じんしゃ明達めいたつ兄子せこ也。莫折天生あもうじょうかち寇雍しゅうしょうたからとら部將ぶしょうひつじただしかくれ塹中しゃおうつる而斃,其眾とげつぶせただし,祉之也。
みぎみんろう陽平ようへいおもえれいじょう疏,以為:「有功ゆうこうざい將帥しょうすいとく其人そくろくごうつばてのひらきよししつ其人そくさん河方かわかたため戰地せんち。竊以ねん將帥しょうすいちょう子孫しそん,銜杯おどうまこころざし逸氣はやりぎ浮,けんまゆ攘腕,以攻せんもと;及臨大敵たいてきこわ交懷,雄圖ゆうと銳氣えいき一朝いっちょうひたすらつき。乃令羸弱るいじゃくざいぜん以當寇,強壯きょうそうきょ以衛けんふく器械きかい不精ぶしょうしんとめふし,以當けん眾,てきすうせんとりこよく不敗ふはいあにとく哉!以兵必敗,はじめしゅう而先逃;將帥しょうすいかしこてき遷延せんえん而不しん國家こっかいい官爵かんしゃく未滿みまん,屢加ちょういのちふくうたぐしょう賚之けいにちきむ帛。帑藏そら竭,みんざい殫盡,とげ使賊徒ぞくとえき甚,なまみん凋弊,凡以此也。おっととくかん義夫よしおおんすすむこんわか黜陟幽明ゆうめい賞罰しょうばつ善惡ぜんあく,簡練士卒しそつつくろえおさむ器械きかい先遣せんけん辯士べんしあかつき禍福かふく,如其悛,以順討逆。如此,のりなん厲蕭おの而伐あさきんつづみひろし而燎毛髮もうはつ哉!」どる聽。
戊子ぼし以皇はじめためふとしじょう
おのれうしぬし四方しほうひらめみことのり內外戒嚴かいげんはたおや討,竟亦くだり
譙州刺史ししたたえそうさとしかこえ東豫とうよしゅう將軍しょうぐん彭群、おうべんかこえ琅邪,敕青、みなみあおしゅうすくい琅邪。つかさしゅう刺史ししなつこう夔帥たけし武將ぶしょうぐん裴之れいとうどうおさむ平靜へいせいきよしりょうかげさん三關さんのせきみな克之かつゆき。夔,ただしこれおとうとれい,邃之也。
ひがし清河きよかわぐん山賊さんぞくぐんおこりみことのり以齊しゅうちょうぼうけいはくためひがし清河きよかわ太守たいしゅぐんみんりゅう簡虎嘗無禮ぶれい於景はく,舉家ほろびけいはくきゅうとりこしょ其子ため西にし曹掾,れいさとし山賊さんぞくぞく以景はく不念ぶねん舊惡きゅうあくみなしょうそち
けい伯母おばちぇつう有明ありあけ識。かいおか婦人ふじんれつ其子不孝ふこうけいはく以白其母,はは曰:「われ聞聞めい如見じょけんめんやまみん未知みちれいよしなに足深あしぶかせめ!」乃召其母,あずかこれたい榻共しょく使つかい其子侍立じりつ堂下どうしたかんけいはくきょうしょく旬日じゅんじつ,悔過もとめかえちぇ曰:「此雖めん慚,其心也,且置。」凡じゅうにち,其子叩頭こうとう流血りゅうけつはは涕泣ていきゅう乞還,しかこう聽之,そつ以孝聞。けいはくほう壽之としゆきぞく也。
がつはたぞくよりどころ潼關。
庚申こうしんひがしぐんみんちょう顯德けんとくはんころせ太守たいしゅ裴煙,ごうとく
將軍しょうぐんなりけいしゅんおさむ彭城,以前いぜん荊州刺史ししちぇたかし芬為じょしゅうあるきだい以御さきこう芬坐元義もとよしとうあずか同等どうとう除名じょめい,及將赴徐しゅうにゅうふとしきさきふとしきさきいいこう芬曰:「わがあずかきょう姻戚いんせき奈何いかん內頭元義もとよししゃちゅうしょう『此老おうなかい須去!』」こう芬曰:「しんこうむくに厚恩こうおんじつ斯語。假令たといゆうだれのうとく聞!わかゆう聞者,此於元義もとよし親密しんみつしんどお矣。」ふとしきさきかい悵然ちょうぜんゆう愧色。けいしゅんよくせき泗水しすい以灌彭城,こう芬與とく叔仁とうげきけいしゅん遁還。
さんがつ甲子きのえねぬしみことのりはた西にし討,中外ちゅうがい戒嚴かいげんかいしんぞく西にしはしふくとく潼關,つちのえたつみことのりかいきた討。其實みなくだり
かずらさかえひさかこえしん以金むらさきひかり祿ろく大夫たいふ源子もとこ邕為きた討大とく以救
はつ上作じょうさくどうたいてらまたひらけ大通だいつうもん以對其反しょうきょううえ晨夕こうてらみな出入でいりもんからしうえみゆきてら捨身しゃしんかぶといぬかえみや大赦たいしゃ改元かいげん
ひとししゅう廣川ひろかわみんりゅうひとし聚眾はん自署じしょだいぎょうだい清河きよかわみんぼう須自しょだいとくたむろよりどころあきらこくじょう
なつよんがつしょうもとあきら討東ぐんちょう顯德けんとく
おのれとりやわしかあたまへいあせ使つかい入貢にゅうこう於魏,且請討群ぞくじんかしこ反覆はんぷくみことのり盛暑せいしょ,且俟敕。
しょうたからとらこれはい也,有司ゆうししょ死刑しけいみことのりめんため庶人。雍州刺史しし楊椿ゆうやましもとめかいふく以寶とらためとく雍、涇等よんしゅうしょ軍事ぐんじせい西にし將軍しょうぐん、雍州刺史しし開府かいふどうさんつかさ西にし討大とくかん以西いせいみな受節椿つばきかえ鄉里きょうり,其子昱將てき洛陽らくよう椿つばきいい曰:「當今とうぎん雍州刺史ししまた逾寶とらしゃただし其上朝廷ちょうていおうこころ膂重じんなんとくにん其牒よう!此乃せいあさ百慮之一失也。且寶とら藉刺ためさかえわれかん其得しゅう喜悅きえつとく甚,いたり於賞ばつくもため常憲つねのりこわゆうしんなんじこん赴京とう以吾此意けいひじりなみはくおさむ輔,さらちょう司馬しばぼうぐすくとくよくやすせきちゅうせいさんにんみみ。如其必成ひっせい深憂しんゆう。」昱面けいぬし及太きさきみな聽。
五月ごがつへいとらなりけいしゅんおさむ臨潼、たけ邑,拔之。東宮とうぐうちょくかくらん欽攻しょうじょう、厥固,拔之,欽斬しょう曹龍きば
ろくがつとく叔仁討劉ひとし平之ひらの
あきなながつひねぐんみんりゅうていべんはん於西はな改元かいげん天授てんじゅあずかたたえそうさとし通謀つうぼう以行東豫とうよしゅう刺史しし譙國曹世ひょうため東南とうなん道行みちゆきだい以討源子もとこ恭代やすよひょうため東豫とうよしゅうしょしょう以賊眾強,官軍かんぐんじゃく,且皆はいこれあまり敢戰,よく保城ほうしろかた表方おもてかたびょうしゅ輿こしよびすべぐんくもたからいい曰:「たたえそうさとししょ以敢深入ふかいりため寇者,以獲、べんみな州民しゅうみんもち為之ためゆき內應也。こう聞獲引兵よくむかえそうさとし此八じゅうさと今出いまで不意ふい一戰いっせんやぶやぶのりそうさとしはし矣。」乃選うまづけたからくれ出城でしろあかつき而至,げき大破たいはきゅう討餘とう悉平。そうさとし聞之,遁還。ていべんあずかきょうおやきゅうほろび匿子きょうしょせいひょうしゅうはた面責めんせききょうおさむべんこれ
相州あいしゅう刺史ししらく安王やすおう鑒與北道ほくどうとく衍共すくいしん。鑒幸かげゆうこころざしとげよりどころ鄴叛,くだかずらさかえ
おのれうし大赦たいしゃ
はつさむらい遼東りゃおとんだかどうきよしたてまつ使つかい相州あいしゅうぜん刺史ししあきらおごたて不法ふほうみちきよしあんあきらおとうとしん用事ようじみちきよしけい謙之けんじやつ訴良,かみ軌收謙之けんじけい廷尉。赦將かみ軌啟ふとしきさきさきたまもの謙之けんじちょうあい
彭群、おうべんかこえ琅邪,なつ及秋,あおしゅう刺史しし彭城おう劭遣馬鹿ばか悆、みなみあおしゅう刺史ししえびすひらめちょうりゅう仁之ひとし將兵しょうへいげきぐんわきまえやぶこれぐん戰沒せんぼつ。劭,勰之也。
はちがつたかしとくげん邕,かみ軌,裴衍おさむ鄴。邕行及湯かげ安樂あんらくおう鑒遣おとうとあきら夜襲やしゅう邕營,かつ邕乘かつすすむかこえ鄴城,丁未ていみ,拔之,鑒,つてくび洛陽らくよう改姓かいせいひらけばついん邕、裴衍討葛さかえ
きゅうがつしんしゅうぐすくみんもりつばらころせ莫折ねんせい闔門みなつきつばらあるきしゅうごとみなみしんしゅうぐすくみんからし琛亦あるきしゅうごと使つかいまいしょうたからとら請降。ふく以寶とらため尚書しょうしょれいかえ其舊ふう
譙州刺史ししたたえそうさとしかこえ東豫とうよしゅう刺史ししもと慶和よしかず於廣りょう將軍しょうぐんもとあらわはくすくいつかさしゅう刺史ししなつこう夔自たけよう引兵じょそうさとしふゆじゅうがつ,夔至城下じょうか慶和よしかず舉城くだ。夔以ゆずるそうさとしそうさとし曰:「慶和よしかずよくくだおおやけほっくだそうさとしこん往,必乖其意。且僧さとししょはた應募おうぼ烏合うごうこれにん不可ふか以法;こうぐんもとげん,必無おかせ暴,受降おさめふか其宜。」夔乃登城とじょう,拔魏のぼりけんはりのぼりけい和束わづかへい而出,吏民安堵あんど男女だんじょよんまんくち
しんこう曰:たたえそうさとしいい君子くんし矣!忘其せきおさむせんろう,以授一朝いっちょうしんいたりはた知己ちきたん掩人これちょうこうなり,以濟國事こくじただし且無わたしいい君子くんし矣!
もとあらわはくよい遁,しょぐんおいまんけいみことのり以僧さとしりょう東豫とうよしゅう刺史しし,鎮廣りょう。夔引ぐんたむろ安陽あんようべつはたほふすわえじょうゆかり北道ほくどうとげあずかぜっ
りょう軍曹ぐんそうなかはじめ東宮とうぐうちょくごうちん慶之よしゆきおさむうずみことのりひろ太守たいしゅ韋放將兵しょうへいかいつねさむらいきよし引兵奄至,營壘だて麾下きかとめゆうひゃく餘人よにん放免ほうめんかぶと下馬げばよりどころえびすゆか處分しょぶんみなことたたかえ,莫不いちとうひゃくへいとげ退ずさ,睿之也。
また將軍しょうぐん元昭もとあきとう眾五まんすくいうずぜんぐんいたり駝澗,うずよんじゅうさとちん慶之よしゆきよくぎゃくせん,韋放以魏ぜんほこさき必皆かるするど如勿げきまち其來いたり慶之よしゆき曰;「へい遠來えんらいつかれ倦,わがすんでとお,必不うたぐ,及其しゅう,須挫其氣。諸君しょくんわかうたぐ慶之よしゆき請獨これ。」於是そち麾下きかひゃく進擊しんげきやぶこれじんおどろき駭。慶之よしゆき乃還,あずかしょしょうれん營而すすむうずじょうあずかぐんしょうはるいたりふゆすうじゅうひゃくせん將士しょうし疲弊ひへい。聞魏じんほしちくるい於軍,曹仲むねとうおそれ腹背ふくはい受敵,引軍かえ慶之よしゆきつえぶし軍門ぐんもん曰:「きょうらいいたり此,わたるれきいちさい,糜費ごくおおこん諸君しょくんみな鬥心,ただはかりごと退すさちぢみあにほしたて功名こうみょうちょく聚為しょう暴耳!われ聞置へい死地しち,乃可もとめなま;須虜だいごうしかあずかせんしんよくはん慶之よしゆきべつゆうみつ敕,今日きょうはんしゃとう敕行!」なかはじめとう乃止。
じんさくじゅう三城みきよく以控せいはりぐん慶之よしゆき銜枚よるおちい其四じょううず城主じょうしゅおうぬき乞降。韋放簡遣くだしゃさん十餘人分報魏諸營,ちん慶之よしゆきひね其俘くびつづみ噪隨きゅうしろみなつぶせ追擊ついげき,俘斬りゃくつきかばねのどうずすいしょくだ城中じょうちゅう男女だんじょさんまんくち
しょうたからとらこれはい於涇しゅう也,あるすすむざい洛陽らくようある曰不わかとめせき中立なかだていさおこうくだりだいれい河間こうま馮景曰:「ようへいかえ,此罪しょうだい。」たからとらしたがえねん出師すいし累年るいねん,糜費貲,一旦いったんくつがえはい,內不やすあさまたうたぐこれ
中尉ちゅうい酈道もともとめいいむたけしつかさしゅうまぎなんじみなみおうえつ嬖人おかねんろうけんたてほしいまま道元どうげんおさむねんづけごくえつ請之於胡ふとしきさきふとしきさき敕赦道元どうげんころせこれなみ以劾えつ
どきたからとらはんじょうやめえつ乃奏以道もとためせきみぎ大使たいしたからとら聞之,いいためおのれ,甚懼,長安ながやす輕薄けいはく子弟していふくすすむ使舉兵。たからとら以問河東かとうやなぎ楷,楷曰:「大王だいおうひとしあきらみかど天下てんか所屬しょぞく今日きょう舉,じつまこと人望じんぼう。且謠言ようげん『鸞生じゅうきゅう毈,一子不毈關中亂。』らんしゃ也,大王だいおうとうせきちゅうなんしょうたぐ!」道元どうげんいたりかげばんえきたからとら其將かく恢攻ころせこれおさむ殯其かばねおもてげんしろぞくしょがいまた上表じょうひょうしょうため楊椿父子ふししょ譖。
たからとらぎょうだいろう中武なかたけいさおじんびょう在家ありいえたからとられいたたえしたがえははおとうと開府かいふぞく天水てんすいきょう儉說たたえ曰:「もとりゃく受蕭衍旨,よく剿除。道元どうげんこと不可測ふかそくわれ不能ふのうすわ死亡しぼう今須いますためけいふくさくしん矣。死生しせい榮辱えいじょくあずかきょう共之ともゆき。」じん聞之,舉聲だい哭。儉遽どめ,曰:「なんとく便びんなんじ!」じん曰:「わがひゃくくちいまほふほろびくもなん哭!」哭數じゅうこえじょいい儉曰:「ためわがはくひとしおうおうほん以窮とり投入とうにゅう賴朝よりとも廷假おう羽翼うよくさかえちょういたり此。屬國ぞっこくおそれ不能ふのう竭忠報德ほうとく,乃欲じょう人間にんげんすきしん惑行識之よく以羸はいへいもりせきといかなえこんとく雖衰,天命てんめいあらため,且王恩義おんぎひろし於民,ただし其敗,未見みけんゆうなりじん不能ふのうひゃくくちため王族おうぞくめつ。」たからとらふく使いい曰:「わがすくいとくなんじ所以ゆえんさきしょうしろしゃおそれ沮吾けいみみ。」じん曰:「凡謀大事だいじとうとく天下でんか奇才きさいあずかこれ從事じゅうじいまただしあずか長安ながやす博徒ばくとはかりごと,此有なりたたえおそれ荊棘けいきょく必生於齋かくねがいたまもの骸骨がいこつ歸鄉ききょうさと,庶得病死びょうし下見したみ先人せんじん。」たからとらもとじゅうたたえ,且知其不為ふためおのれよう,聽還武功ぶこう
きのえとらたからとら自稱じしょうひとしみかど改元かいげんたかしいとぐち,赦其所部ところぶしょ百官ひゃっかんとくちょう遐,おおとりまろうどあに也,あずかおおとりまろうどそち氐、羌起へい於馬祗柵以拒たからとらたからとら大將軍だいしょうぐん遷擊ため遐所ころせたからとらかたまつ南郊なんこうぎょう即位そくいれい畢,聞敗,いろへんひませい狼狽ろうばい而歸。以姜儉為尚書しょうしょひだりすすむゆだね以心はらぶんやすしゅうめぐみたちためたからとら使ざい洛陽らくよう有司ゆうしよくおさむめぐみたち逃歸にげかえ長安ながやすたからとら以惠たちためこう祿ろくくん
丹陽たんようおうしょうさん聞寶とらはん,懼而出走しゅっそうおもむき白鹿山はくろくさんいたりかわきょうためじんしょ主知しゅち其不あずかはかりごとしゃく而尉くだりだいろうふうえらはくとうあずかせきちゅう豪傑ごうけつはかりごと舉兵誅寶とらこと而死。
以尚しょぼくしゃちょうまごややためぎょうだい以討たからとら
せい平民へいみん薛鳳けんはん宗人むねと薛修よしまた聚眾河東かとうふんよりどころ鹽池しおいけ攻圍こういがまばん東西連ひがしさいれん結以ゆいおうたからとらみことのりとくそうただしちんまご討之。
十一月じゅういちがつちょうしげる,以護ぐんしょうふちためきた討都とく,鎮渦つちのえたつ,以渦おけ西にしじょしゅう
かずらさかえかこえしんはる及冬,冀州刺史ししもとまことそち勵將晝夜ちゅうやこばめもりかてもうかすんで竭,そと救援きゅうえんおのれうししろおちいさかえまこと,逐出きょみん凍死とうししゃろくななまことけいゆうためぼうぐすくとくさかえだいしゅう將士しょうし其生まこと兄弟きょうだい各自かくじ引咎,そうしょうためみやこただしはん紹等すうひゃくにんみな叩頭こうとう請就ほう以活使くんさかえ曰:「此皆忠臣ちゅうしん義士ぎし。」於是どうきんしゃひゃくにんみなとくめん
以源邕為冀州刺史しし將兵しょうへい討榮;裴衍ひょう同行どうこうみことのりもと邕上ごと:「衍行,しん請留うけどめしんぎょう請留うけどめ衍;わか逼使同行どうこうはいざい旦夕たんせき。」もと十二月じゅうにがつつちのえさるぎょういたり陽平ようへい東北とうほく漳水きょくさかえそちじゅうまんげき邕、衍俱はい
相州あいしゅう吏民聞冀しゅうやめおちい邕等はいにん相州あいしゅう刺史ししつねのうかみ志氣しき自若じじゃくなでつとむ將士しょうし大小だいしょう致力,かずらさかえつきするどおさむそつ不能ふのうかつ
はた州民しゅうみん駱超ころせもりつばら,請降於魏。

 まきいちひゃくじゅう かえしかいいただき まきいちひゃくじゅう

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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