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資治通鑑/卷215 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき215

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 まきひゃくじゅうよん どおりかん
まきひゃくじゅう からさんじゅういち
まきひゃくじゅうろく 

おこりげん黓敦牂,つききょう圉大ふちけんじじゅういちがつ,凡ねんゆう

どおりかん だい215かん

まきだいひゃくいちじゅう
からさんじゅういち】 おこりげん黓敦牂,つききょう圉大ふちけんじじゅういちがつ,凡ねんゆう

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽう元年がんねんみずのえうまおおやけもとななよんねん


はる正月しょうがつちょうついたちうえつとむせいろう朝賀ちょうが,赦天改元かいげん
みずのえふんひらめべつため節度せつど,以安祿ろくやまため節度せつど使
天下てんかごえきょうしょこれしゅうさんひゃくさんじゅういち,羈縻しゅうはちひゃくおけじゅう節度せつど經略けいりゃく使以備安西あんざい節度せつどなでやすし西域せいいきみつるかめ茲、焉耆、于闐、疏勒よん鎮,かめ茲城,へいまんよんせんきたにわ節度せつどぼうせい突騎ほどこせけんこんみつる瀚海、天山あまやまわれ三軍さんぐんたむろ西二にしにしゅうさかいきたにわみやこまもるへいまんにん河西かさい節度せつどだんへだた吐蕃、突厥,みつる赤水あかみずだいたてやすしやすし寇、玉門ぎょくもんくろはなれまめ新泉しんいずみはちぐんちょうわき、交城、しろていさんもり捉,たむろすずし、肅、ふりすなかいしゅうさかいりょうしゅうへいななまんさんせんにんついたちかた節度せつど捍御突厥,みつる經略けいりゃく豐安とよやすじょうどお三軍さんぐんさん受降じょうやすきたたんまもるたむろれいなつゆたかさんしゅうさかいれいしゅうへいろくまんよんせんななひゃくにん河東かわとう節度せつどあずかついたちかた掎角以御突厥,みつるてんへい大同だいどう橫野よこの、岢嵐よんぐんくもちゅうもり捉,たむろふとはら忻、だいあらしさんしゅうさかいふとはらへいまんせんにん。范陽節度せつど臨制奚、ちぎりみつる經略けいりゃく威武いぶきよしえびすしずかふさがつね北平きたひらこうようからきょうよこうみきゅうぐんたむろかそけあざみ、媯、だんえきつねじょうばく、滄九州きゅうしゅうさかいかそけしゅうへいきゅうまんいちせんよんひゃくにんひら節度せつど鎮撫ちんぶしつ韋、靺鞨,みつるひら龍二りゅうじぐん,榆關守せきもり捉,安東あんどうまもる屯營とんえいひらしゅうさかい營州,へいさんまんななせんひゃくにん。隴右節度せつど備御吐蕃,みつる臨洮、かわげん白水しろうずやすじんえびすばくもんやすしふさがせきせき鎮西ちんぜいじゅうぐん,綏和、合川あいかわひらえびすさんもり捉,たむろ鄯、ろう、洮、かわさかい鄯州,へいななまんせんにんけんみなみ節度せつど西にしこう吐蕃,みなみなで蠻獠,みつる天寶てんぽうひらえびすこんあきらやすしとお澄川すみかわ南江なみえろくぐんたむろえきつばさしげるとう、巂、柘、まつ、維、きょうまさはじむ、姚、悉じゅうさんしゅうさかいえきしゅうへいさんまんきゅうひゃくにんみねみなみ經略けいりゃく綏靜えびす、獠,みつる經略けいりゃく清海きよみぐんかつらよう、邕、交四かんおさむ廣州こうしゅうへいまんせんよんひゃくにん。此外またゆう長樂ながら經略けいりゃくふくしゅうりょうへいせんひゃくにんひがし萊守捉,萊州りょうひがし牟守捉,のぼりしゅうりょうへいかくせんにん。凡鎮へいよんじゅうきゅうまんにんうまはちまんひきひらきもとまえ每歲まいさいきょうへい衣糧いりょうひゃくまん天寶てんぽうこれへんはたそうえきへいひた每歲まいさいようころもせんじゅうまんひきかてひゃくきゅうじゅう萬斛ばんこく公私こうしろうみんはじめ困苦こんく矣。
きのえとらひねおうさんぐんどうしゅうじょうげん:「げんもと皇帝こうてい於丹おおとりもん空中くうちゅうつげ以『わがぞうれいざいいんたく。』」じょう使つかい於故はこたにせきいんだいつくりもとめこれ
陝州刺史ししひとしぶつ穿ほじ三門さんもんうんみぞからしみぞなりひとしもの神通じんずう曾孫そうそん也。
みずのえたつ群臣ぐんしん上表じょうひょう,以「はこたにたからせんおう年號ねんごう先天せんてんたがえ,請於尊號そんごう天寶てんぽう。」したがえこれ
がつからしうえとおるげんもと皇帝こうてい於新びょうかぶとうまとおるふとしびょうへいさる合祀ごうし天地てんち南郊なんこう,赦天あらためさむらいちゅうためひだりしょう中書ちゅうしょれいためみぎしょう尚書しょうしょひだりみぎ丞相じょうしょうふくためぼくしゃ東都とうと北都ほくとみなためきょうしゅうためぐん刺史ししため太守たいしゅあらためももはやしけん靈寶れいほうどうしゅうじょあさ散大さんだいおっと時人じじんみなうたぐたからどうしゅう所為しょいあいだいちさい清河きよかわじんちぇ以清ふくごと:「げんもと皇帝こうてい於天津橋つばしきたくもぞうざいたけじょうむらさきほろやま。」敕使往掘,またとく東京とうきょう留守るすおう倕知其詐,按問,はてくびふくそううえまたふかざいりゅう而已。
さんがつ,以長やすれい韋堅ため陝郡太守たいしゅりょうこう、淮租いさおてんうん使
はつ宇文うぶんとおるすんではいげん利者きけものややいき。及楊まき矜得こう,於是韋堅、おうこれきおい以利すすむひゃくつかさ有事ゆうじけんしゃやややや別置べっち使以領きゅうかんたかし而已。けん太子たいしこれけい也,ため吏以さとしょう上使じょうしとくこう、淮租うんさいぞうきょまんじょう以為のう擢任おう□,ほうつばさまご也,また以善租賦ため戶部とべいん外郎ういろうけんさむらい
はやしはじめ為相ためすけ凡才ぼんさいもち功業こうぎょうおのれみぎ及為上所かみところあついきおいくらいはた逼己しゃ,必ひゃくけいこれゆう文學ぶんがくあるあずかこれぜん,啖以甘言かんげん而陰おちいこれいいはやしはじめくちゆうみつはらゆうけん。」
うえ嘗陳らく於勤せいろうたれすだれかん兵部ひょうぶさむらいろうあやいいじょうやめおこりたれむち按轡,よころうあやふうしめぎきよしいきうえ目送もくそうふか歎其蘊藉。はやしはじめつねあつ以金帛賂じょう左右さゆううえ舉動必知;乃召あや子弟していいい曰:「たかしくんもともちせいたかしこん交、こう藉才,聖上せいじょうよく以尊くん為之ためゆき乎?わかはばかとおぎょうのりとう左遷させんしか,以賓、詹分つとむひがしらくまたゆうけんいのち也,なに如?」あや懼,以賓、詹為請。はやしはじめおそれ乖眾もち,乃除はなしゅう刺史ししいたかんいく,誣其ゆうやまししゅうごとじょ詹事、員外いんがいどうせい
うえまた嘗問はやしはじめ以「いむていこん安在あんざいじんまた可用かよう。」ていときため絳州刺史ししはやしはじめ退すさ,召挺おとうとそんさとし以「うえまち尊兄そんけい甚厚,盍為上之うえのさくそうしょうふうやましもとめかえ京師けいし就醫。」ていしたがえこれはやしはじめ以其そう白上しらかみうん:「ていおとろえろうとくふうやましむべ且授以散秩,使つかい便びん醫藥いやく。」じょう歎吒久之ひさゆきなつよんがつみずのえとら,以為詹事,また以汴しゅう刺史しし河南かなん採訪さいほう使ひとし澣為しょう詹事,みな員外いんがいどうせい於東おひがしきょうようやまし。澣亦朝廷ちょうてい宿望しゅくぼうなみ
うえはつへいおさめ十姓可汗阿史那昕於突騎施,いたり俱蘭じょうため莫賀たちしょころせ。突騎ほどこせだい纛官らいくだ六月ろくがつ乙未おとみさつためさんせいまもる
あきなながつみずのとついたちにちゆうしょく
からしひだりしょううし仙客せんかく薨。はちがつちょううし,以刑尚書しょうしょてきためひだりしょう
突厥拔悉みつかい紇、かずら邏祿三部共攻骨咄葉護,ころせこれ,推拔悉蜜酋長しゅうちょうため頡跌ほどこせあせかい紇、かずら邏祿ためひだりみぎまもる。突厥あまり共立きょうりつばん闕特勒之ためがらすまいほどこせあせ,以其かずら臘哆ため西にしころせ
うえ使つかいさとしがらすれい內附,がらすしたがえついたちかた節度せつど使おう忠嗣ただつぐもりへい磧口以威がらす懼,請降,而遷延せんえんいたり忠嗣ただつぐ其詐,乃遣使せつ拔悉みつかい紇、かずら邏祿使おさむがらす遁去。忠嗣ただつぐいん出兵しゅっぺいげき其右ひさし以歸。
ちょう,突厥西にしまもるおもねぬのおもえ及西ころせかずら臘哆、だますすこれまご勃德ささえしかしょうつま、毘伽のぼり利之としゆきじょそち眾千あまりちょうそうらいくだ,突厥とげほろ九月くがつからしうえはながくろうえん突厥降しゃ賞賜しょうし甚厚。
まもるみつさき吐蕃,つちのえうま,其王頡吉うら匐遣使請降。
ふゆじゅうがつちょうとりうえみゆき驪山溫泉おんせんおのれかえみや
十二月じゅうにがつ,隴右節度せつど使すめらぎはじめおもんみあかりそうやぶ吐蕃大嶺おおみねひとしぐんつちのえいぬまたかなでやぶあお海道かいどう莽布ささえさんまんあまり眾,せんあまりきゅうかのえ河西かさい節度せつど使おう倕奏やぶ吐蕃りょううみ及游弈等ぐん
これさい天下あもりけんいちせんひゃくじゅうはちさといちまんろくせんはちひゃくじゅうきゅうはちひゃくじゅうまんせんななひゃくろくじゅうさんくちよんせんはちひゃくきゅうじゅうまんきゅうせんはちひゃく
かい紇葉まもるほねりょく裴羅使つかい入貢にゅうこうたまもの爵奉おう

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽうねんみずのとおおやけもとななよんさんねん


はる正月しょうがつやす祿ろくやま入朝にゅうちょうじょうちょうまち甚厚,謁見えっけん祿ろくやまそうごと:「去秋きょしゅう營州むししょくなえしん焚香しゅくてんうん:『しんわかみさおしん不正ふせいことくん不忠ふちゅうねがい使むししょくしんしんわかまけ神祇じんぎねがい使むし。』そくゆうぐんとりしたがえきたらいしょくむしりつつき。請宣づけ史官しかん。」したがえこれ
はやしはじめりょう吏部尚書しょうしょ日在ひあり政府せいふせんごと悉委さむらいろうそうはるかなえすすむきょうちゅうすすむちょう新得しんとくみゆき於上,はるかすすむきょうよくどきせんじんしゅうしゃまんけいいれとうしゃろくじゅうよんにん。倚子奭為くび群議ぐんぎ沸騰ふっとうぜんあざみれいたかし韞以つげやす祿ろくさん祿ろく山入やまいりげん於上,うえ悉召いれとう人面じんめんためし,奭手ためし終日しゅうじつなりいち時人じじんいい「曳白」。みずのとはるか貶武とう太守たいしゅすすむきょう安康あんこう太守たいしゅ,倚貶淮陽太守たいしゅどうこう判官ほうがんれいろうちゅう裴朏とうみな貶嶺みなみかんすすむきょうつぼせきじん也。
さんがつみずのえついみことげんもと皇帝こうていちちしゅうじょう大夫たいふため先天せんてんふとしすめらぎまたみこと皋繇ため德明のりあき皇帝こうていすずし武昭たけあきおうためきょうせい皇帝こうてい
こう淮南ワイナン租庸とう使韋堅引滻すい抵苑ひがしもちはるろうため潭,以聚こう、淮運せんやくおっとたくみどおりこげみぞはつじんおか壟,こう、淮至きょうじょう民間みんかん蕭然しょうぜん愁怨,ねん而成。へいとらうえみゆきもちはるろうかんしん潭。けん以新せんすうひゃくそうひらた榜郡めいかくひね郡中ぐんちゅう珍貨ちんか於船;陝尉ちぇしげるはじめちょにしき半臂はんぴ,鈌胯みどり衫而裼之,べに袹首,居前いまえせん唱《とくたから》,使つかい百人盛飾而和之,れん檣數さとけん跪進しょぐんけい貨,仍上ひゃくきばばんしょくうえおけえん,竟日而罷,かんしゃ山積さんせきなつよんがつけんひだりつねさむらい,其僚ぞく吏卒褒賞ほうしょうゆうめい其潭曰廣うんどききょう兆尹韓朝宗亦引渭水置潭於西街,以貯材木ざいもく
ちょうすめらぎはじめおもんみあきら引軍西平にしだいらげき吐蕃,ぎょうせんあまりさとおさむひろしすみじょうやぶこれ
うえ以右さんぜん大夫たいふ楊慎矜知ちゅうすすむごとときはやしはじめ專權せんけん公卿くぎょうすすむゆう不出ふしゅつ其門しゃ,必以ざいこれまき矜由固辭こじ敢受。五月ごがつからしうし,以慎矜為諫議大夫たいふ
ふゆじゅうがつつちのえとらうえみゆき驪山溫泉おんせんおつかえみや

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽうさんねんきのえさるおおやけもとななよんよんねん


はる正月しょうがつへいさるついたちあらためねん曰載。
からしうしうえみゆき驪山溫泉おんせんがつ庚午こうごかえみや
からし太子たいしさらめいとおる
海賊かいぞくくれれいひかりとうしょうかすめだいあきらいのち河南かなんいん裴敦ふく將兵しょうへい討之。
さんがつおのれ以平いたいら節度せつど使やす祿ろくやまけん范陽節度せつど使;以范節度せつど使裴寬ため戶部とべ尚書しょうしょれい尚書しょうしょせきけんこうため河北かほく黜陟使しょう祿ろくやまこうちょくはやしはじめ、裴寬みなじゅんむねしょう其美。さんにんみな上所かみところ信任しんにんゆかり祿ろくやまちょうえきかたゆら矣。
なつよんがつ,裴敦ふくやぶくれれいこうとりこ五月ごがつ河西かさい節度せつど使おっとこうむれい察討突騎ほどこせ莫賀たちこれさら請立くろせいうらそこみつほどこせこつ咄祿毘伽;ろくがつきのえたつさつはいこつ咄祿毘伽ためじゅうせいあせ
あきはちがつ,拔悉みつおさむ突厥がらすあせつてくび京師けいし國人くにびとりつ其弟鶻隴匐白眉はくびとく勒,ため白眉はくびあせ。於是突厥大亂たいらん,敕朔かた節度せつど使おう忠嗣ただつぐ出兵しゅっぺいじょういたり薩河內山,やぶ其左ひさし阿波あわたちいぬいとうじゅう一部いちぶみぎひさししたかいかい紇、かずら邏祿どもおさむ拔悉みつ頡跌ほどこせあせころせこれかい紇骨りょく裴羅自立じりつためこつ咄祿毘伽闕可あせ使つかいげんじょうじょうさつはい裴羅ためふところひとしあせ。於是ふところじんみなみよりどころ突厥たてきばちょう於烏とく犍山,きゅうすべやく邏葛とうきゅうせい,其後またなみ拔悉みつかずら邏祿,凡じゅう一部いちぶかくおけとくまいせんそくきゃくためさき
はやしはじめ以楊まき矜屈於己,きゅうがつきのえいぬふく以慎矜為ちゅうすすむたかし諸道しょどうぜに使
ふゆじゅうがつ癸巳きしうえみゆき驪山溫泉おんせんじゅういちがつちょうしげるかえみや
じゅつよしみけいじょうげん:「遁甲じゅつゆうきゅうみやかみてんすいひでり,請立だん於東おひがし郊,まつ以四はじめがつ。」したがえこれれいざいひろしてん上帝じょうていふとし清宮きよみやふとしびょうじょう所用しょよう牲玉,みな侔天
十二月じゅうにがつ癸巳きしおけかいあきらけん於溫泉宮いずみみや
戶部とべ尚書しょうしょ裴寬もとため上所かみところじゅうはやしはじめおそれ其入しょう刑部おさかべ尚書しょうしょ裴敦ふくげき海賊かいぞくかえ,受請たくこうじょ軍功ぐんこうひろしほろそう其事。はやしはじめ以告あつしふくあつしふくごとひろしまた嘗以おやぞくあつしふくはやしはじめ曰:「きみそくそう,勿後於人。」あつしふく乃以五百金賂女官楊太真之姊,使つかいげん於上。かぶとうまひろしすわ貶睢太守たいしゅ
はつたけめぐみ薨,うえ悼念やめ後宮こうきゅうすうせんとうしゃあるげんことぶき王妃おうひ楊氏よし絕世ぜっせい無雙むそう上見うわみ而悅,乃令以其乞為女官にょかんごうふとしさらためことぶきおうめとひだりまもるろうはた韋昭くんおんなせん內太真宮しんぐうちゅうふとはだたいゆたかつやあかつき音律おんりつせい警穎,ぜんうけたまわむかえ上意じょういとしちょうぐう如惠宮中きゅうちゅうごう曰「むすめ」,凡儀たいみな皇后こうごう
みずのと,以宗おんなため和義かずよし公主こうしゅよめやすしとおたてまつおうおもね悉爛たち
みずのとうしうえまつきゅうみやかみ,赦天
はつれい百姓ひゃくしょうじゅうはちためちゅうじゅうさんなりひのと
はつじょう東都とうとかえはやしはじめじょういや巡幸じゅんこう,乃與うし仙客せんかくはかりごとぞう近道ちかみちあわ及和糴以せきちゅうすうねん蓄積ちくせきややゆたかうえ從容しょうよういいだか力士りきし曰:「ちん不出ふしゅつ長安ながやすきんじゅうねん天下てんか無事ぶじちんほし高居たかい無為むい,悉以政事せいじはやしはじめなに如?」たい曰:「天子てんしじゅんかりこれせい也。且天大柄おおがら不可ふかかりひとかれ威勢いせい既成きせいだれ敢復これしゃ!」じょうえつ力士りきし頓首とんしゅひね:「しん狂疾きょうしつはつ妄言ぼうげんつみとう!」上乃うえのため力士りきしおけしゅ左右さゆうみなよびまんさい力士りきし敢深げん天下でんかごと矣。

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽうよんねんおつとりおおやけもとななよんねん


はる正月しょうがつ庚午こうごうえいい宰相さいしょう曰:「ちん以甲子日ねのひ,於宮ちゅうためだんため百姓ひゃくしょういのりぶくちんくさもとおけあんじょうにわかますてん,聞空中くうちゅう:『聖壽せいじゅ延長えんちょう。』またちん嵩山すせねりやくなりまたおけ壇上だんじょう,及夜,左右さゆうよくおさむまた空中くうちゅううん:『くすり須收,此自守護しゅご。』たちあけぼの乃收。」太子たいし諸王しょおう宰相さいしょうみな上表じょうひょう
かい紇懷ひとしあせげき突厥白眉はくびあせころせこれつてくび京師けいし。突厥毘伽あつしそち眾來くだ。於是北邊ほくへん晏然,烽燧警矣。
かい紇斥いよいよひろひがしぎわしつ韋,西にし金山かなやまみなみまたがだいばくつきゆう突厥ふところじんそつすりのべすすたてごうかずら勒可あせ
がつおのれとり,以朔かた節度せつど使おう忠嗣ただつぐけん河東かとう節度せつど使忠嗣ただつぐしょう勇敢ゆうかん自負じふ,及鎮方面ほうめんせん以持重安しげやすためつとむつね曰:「太平たいへいはたただしとうなで訓練くんれん士卒しそつ而已,不可ふかつかれ中國ちゅうごくちから以邀功名こうみょう。」ゆううるしゆみひゃくじゅうきんつね貯之橐中,以示不用ふようぐん中日ちゅうにちよるおもえせん忠嗣ただつぐはかりごとじん伺其間隙かんげきかちしかこうきょう有功ゆうこうすんでけん兩道りょうどう節制せっせいついたちかたいたりくもちゅうあたり陲數千里せんり要害ようがい,悉列おけじょう堡,斥地かくすうひゃくさとあたりじん以為ちょうひとしただしこれ將帥しょうすいみな及。
さんがつみずのえさるうえ以外いがいまごどくためせいらく公主こうしゅよめちぎりおうふところぶしおい楊氏ためよろしよし公主こうしゅよめ奚王のべちょう
おつ,以刑尚書しょうしょ裴敦ふくたかしみねみなみ經略けいりゃくとう使五月ごがつみずのえさるあつしふくすわ逗留とうりゅうこれかん,貶淄かわ太守たいしゅ,以光祿ろくしょうきょう彭杲だいうえよしみあつしふくひら海賊かいぞくこうはやしはじめおちいこれ
てきあずかはやしはじめそうけんゆうすきてきりょう兵部ひょうぶ尚書しょうしょちょうためさむらいろうはやしはじめまたあく使つかいじんはつ兵部ひょうぶ銓曹奸利ごとおさむろく十餘人付京兆與御史對鞫之,數日すうじつ,竟不とく其情。きょう兆尹蕭炅使法曹吉溫鞫之。ゆたか入院にゅういんおけ兵部ひょうぶ吏於がいさき於後ちょうじゅうしゅう訊之,あるつえあるあつごうよびこえしょにん聞;みな曰:「苟存餘生よせい,乞紙つきこたえ。」兵部ひょうぶ吏素聞溫むごこく,引入,みな誣服,敢違ゆたかしゃころこく而獄なりけんしゅう榜掠あと六月ろくがつからし,敕誚せめ前後ぜんこう銓侍ろう及判みなみ曹郎かん而宥。□,ひとしこれけいぬる,頊之弟子でし也。
ぬるはじめため新豐しんゆたかすすむ太子たいし文學ぶんがく薛嶷そんぬるざいうえ召見,顧嶷曰:「いち不良ふりょうじんちん不用ふよう也。」
しょう炅為河南かなんいん,嘗坐ごと西台にしだいぬる往按ゆたか炅甚きゅう。及溫ためまんねんすすむいく,炅為きょうちょういんぬるあずかこう力士りきししょうゆい力士りきし禁中きんちゅう溫度おんど炅必往謝かん,乃先まい力士りきしあずかこれだん謔,握手あくしゅ甚歡。炅後いたりゆたかためおどろき避。力士りきしよび曰:「きちなな須避。」いい炅曰:「此亦われ故人こじん也。」召還しょうかんあずか炅坐。炅接甚恭,敢以ぜんことため怨。他日たじつゆたか謁炅曰:「曩者ぬる敢隳國家こっかほう自今じこん請洗心事しんじこう。」炅遂あずかつき歡,引為法曹ほうそう。及林はじめよくじょおのれしゃもとめ獄吏ごくり,炅薦ゆたか於林はじめはやしはじめとく大喜だいぎぬるつね曰:「わかぐう知己ちき南山なんざんしろがくとら不足ふそくばく也。」またゆう杭州こうしゅうじんのぞみ奭,ため吏深こくはやしはじめ引之,だいおも簿さい遷殿ちゅうさむらい。二人皆隨林甫所欲深淺,きたえねりなりごく無能むのうだっしゃ時人じじんいい鉗吉もう」。
あきなながつみずのえうまさつ韋昭くんおんなためことぶき王妃おうひ
はちがつみずのえとらさつ楊太ためとうとおく其父げん琰兵尚書しょうしょ,以其叔父おじげん珪為こう祿ろくきょう從兄じゅうけい銛為殿中でんちゅうしょうかんきむため駙馬じょうみずのとさつたけめぐみおんなため太華たいか公主こうしゅいのちきん尚之なおゆき。及貴さん姊,みなたまものだい京師けいしちょう赫然。
楊釗,たかしたがえけい也,不學ふがくくだりためむねとうしょひな從軍じゅうぐん於蜀,とく新都しんとじょうこう滿まんいえまずし不能ふのう新政しんせい富民とみん鮮于なか通常つうじょうきゅう。楊玄琰卒於蜀,釗往來おうらい其家,とげあずか其中おんなどおり
鮮于仲通なかどおりめいむこう,以字ぎょう,頗讀書どくしょゆうざいさとしけんみなみ節度せつど使あきらかたきけん瓊引ため採訪さいほうささえ使以心はら。嘗從容しょうよういい仲通なかどおり曰:「こんわれどくため上所かみところあつ,苟無內援,必為はやしはじめしょ危。聞楊新得しんとくみゆきひと敢附のうためわがいたり長安ながやすあずか其家しょうゆいわれ患矣。」仲通なかどおり曰:「仲通なかどおりしょくじん嘗游うえこくおそれはい公事こうじこんためこうさらもとめ一人ひとり。」いんごと釗本まつけん引見いんけん釗,かん甚偉,言辭げんじさとしきゅうけん瓊大そく闢為推官,往來おうらいひた親密しんみつ。乃使けんじはるいろどり於京しょうべついい曰:「ゆうしょうものざい郫,以具いちにちかてこれ。」釗至郫,けん瓊使おやしんじだいつぎしょく精美せいびしゃのここれじきまん緡。釗大もち晝夜ちゅうや兼行けんこういたり長安ながやすれき抵諸いもうと,以蜀貨遺,曰:「此章かたき公所ぐぞおく也。」ちゅうおんなしん寡,釗遂かん於其しつ中分なかぶんしょく貨以與。於是しょ楊日よるほまれけん瓊;且言釗善ぶながま,引之見上みあげとくずい供奉ぐぶかん出入でいり禁中きんちゅうあらため金吾きんご兵曹へいそうさんぐん
きゅうがつみずのと,以陝ぐん太守たいしゅこう淮租いさおてんうん使韋堅ため刑部おさかべ尚書しょうしょやめ其諸使,以御使ちゅうすすむ楊慎矜代けんつまきょうこうおんなはやしはじめしゅうと也,はやしはじめ暱之。及堅以通こげゆうちょう於上,とげゆう入相いりあいこころざしまたあずかてきぜんはやしはじめよしあく遷以みやじつだつこれけん也。
やす祿ろくやまよく以邊こうちょうすう侵掠しんりゃく奚、ちぎり;奚、ちぎりかくころせ公主こうしゅ以叛,祿ろくやま討破
隴右節度せつど使すめらぎはじめおもんみあきらあずか吐蕃せん於石堡城,ためとりこしょはい副將ふくしょう褚□戰死せんし
ふゆじゅうがつきのえうまやす祿ろくやまそう:「しん討契たんいたる北平きたひらぐんゆめさきあさ名將めいしょうやすし勣從しんもとめしょく。」とげいのちりつびょうまたそうこも奠之びょうやなさんしば
ちょうとりうえみゆき驪山溫泉おんせん
うえ以戶ろうちゅうおうため戶口とぐちしょくやく使,敕賜百姓ひゃくしょうふくじょ。□そうせい其輦うんこれこうちょうぜにすうまた使つかい本郡ほんぐけい貨,百姓所輸乃甚於不復除。舊制きゅうせい,戍邊しゃめん其租いさおろくさい而更。どきはたはじはい士卒しそつ死者ししゃみなさる牒,ぬきせきじょおうこころざしざい聚斂,以有せき無人むじんしゃみなため避課,按籍戍邊ろくさいそと,悉征其租いさおゆうなみせいさんじゅうねんしゃみんしょ訴。うえ在位ざいいひさし用度ようど侈,後宮こうきゅう賞賜しょうしふしよくすう於左、みぎぞうこれ。□探知たんちじょうゆびさいみつぎがくがいぜにひゃくおくまん,貯於內庫,以供宮中きゅうちゅうえんたまもの,曰:「此皆不出ふしゅつ租庸調そようちょうあずか經費けいひ。」じょう以□ためのう富國ふこくえき厚遇こうぐう。□つとむためわり剝以もとめこび中外ちゅうがい嗟怨。へい,以□ためちゅうすすむ京畿けいき採訪さいほう使
楊釗さむらいえん禁中きんちゅうせんてのひらぶながまぶん簿かぎこう精密せいみつうえしょう其強あきら,曰:「こうささえろう。」しょ楊數せい此言於上,また以屬おう□,□いんそうたかし判官ほうがん
十二月じゅうにがつつちのえいぬうえかえみや

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽうねんへいいぬおおやけもとななよんろくねん


はる正月しょうがつおつうし,以隴みぎ節度せつど使すめらぎはじめおもんみあかりけん河西かさい節度せつど使
てきせい疏率,はやしはじめ嘗謂てき曰:「華山かざん有金ありかね礦,さい以富こく主上しゅじょうひつじ知也ともや。」他日たじつてきいんそうごとげんうえ以問はやしはじめたい曰:「しんひさし知之ともゆきただし華山かざん陛下へいか本命ほんめいおう所在しょざい,鑿之よろし敢言。」じょう以林はじめためあいおのれうすてきおもんばかことじゅくいい曰:「自今じこんそうごとむべさきあずかはやしはじめとくけいだっ。」てきよしたばしゅ矣。てきすんでしつおん,韋堅失權しっけんえきしょう親密しんみつはやしはじめいよいよわるこれ
はつ太子たいしだてはやしはじめはやしはじめおそれにちためおのれつねゆう動搖どうよう東宮とうぐうこころざし;而堅,また太子たいしこれけい也。すめらぎはじめおもんみあきら嘗為ちゅうおうともやぶ吐蕃,にゅうけんじとしはやしはじめ專權せんけん不平ふへいときよし見上みあげじょうあいだほろすすむじょうはやしはじめはやしはじめ知之ともゆき使つかい楊慎矜密伺其所為しょいかい正月しょうがつもちよる太子たいしゆうあずかかたあいかたまたあずかおもんみあかりかい於景りゅうかん道士どうしこれしつまき矜發其事,以為けん戚裡,おうあずかあたりはた狎暱。はやしはじめいん譖堅あずかおもんみあきらゆいはかりごとよく共立きょうりつ太子たいしけんおもんみあかり下獄げごくはやしはじめ使まき矜與ちゅうすすむおう□、きょう兆府法曹吉溫共鞫之。うえまたうたぐがたあずかおもんみあきらゆうはかりごと而不あらわ其罪,みずのととりしたせいせめけん以干すすむやめ,貶縉くも太守たいしゅおもんみあきら以離あいだ君臣くんしん,貶播かわ太守たいしゅ;仍別せい戒百かん
以王忠嗣ただつぐため河西かさい、隴右節度せつど使けんついたちかた河東かわとう節度せつどごと忠嗣ただつぐはじめざいついたちかた河東かわとうまい互市ごしこう估馬しょえびす聞之,そううり於唐,忠嗣ただつぐみなかいよしえびすしょうからへいえきたけし。及徙隴右、河西かさいふく請分ついたちかた河東かわとううまきゅうせんひき以實,其軍またたけし忠嗣ただつぐつえよんせつひかえせいまん天下てんか勁兵重鎮じゅうちんみなざい掌握しょうあくあずか吐蕃せん青海せいかいせきせきみな大捷たいしょうまた討吐たに渾於すみはなれぐんとりこ其全而歸。
なつよんがつみずのとたて奚酋しゃばかたため昭信あきのぶおうちぎり酋楷らく為恭ためちか仁王におう
おのれせい:「自今じこんよんはじめがつみな吉日きちじつまつ天地てんちきゅうみや。」
韋堅とうすんで貶,ひだりしょうてき懼,もとめかのえとら,以適ため太子たいししょうたもてやめ政事せいじ。其子まもるじょうしょうきょう霅嘗もり饌召きゃくきゃくかしこはやしはじめ,竟日いちにん敢往しゃ
以門さむらいろうたかしげんかんだい學士がくしちんのぞみれつどうたいらあきらごとまれれつそうしゅうじん,以講おいそうとくすすむ專用せんよう神仙しんせんみずこび於上。はやしはじめ以希れつため上所かみところあい,且柔佞易せい引以為相ためすけ;凡政事せいじ一決いっけつ於林はじめまれれつただしきゅうただだく故事こじ宰相さいしょう午後ごごろくこく乃出。はやしはじめかなでこん太平たいへい無事ぶじそくかえだい軍國ぐんこくつとむみなけつ於私ぬししょだき成案せいあんまいまれれつ書名しょめい而已。
五月ごがつみずのえついたちにちゆうしょく
おつ,以劍みなみ節度せつど使あきらかたきけん瓊為戶部とべ尚書しょうしょしょ楊引也。
あきなながつへいたつ,敕:「ながれ貶人ざいみち逗留とうりゅう自今じこんひだりくだかんはせじゅうえき以上いじょう。」りゅう貶者不全ふぜん矣。
楊貴妃ようきひかたゆうちょうまい乘馬じょうばそくだか力士りきしくつわ授鞭,繡之こうせんきょういんしゃななひゃくにん中外ちゅうがいそうけんじふくちん玩。みねみなみ經略けいりゃく使はりきゅうしょう廣陵こうりょうちょうおうつばさ,以所けんじ精美せいびきゅうしょうさんひんつばさにゅうため戶部とべさむらいろう天下でんかしたがえふう而靡。民間みんかん曰:「なまおとこ勿喜おんな勿悲,きみいまおんなさくもん楣。」欲得よくとくせい荔支,さいいのちみねみなみはせえき致之。いたり長安ながやす色味いろみ不變ふへんいたり以妒悍不遜ふそんうえいかいのちおくけい銛之だいうえ懌,にちちゅうなおしょく左右さゆうどうしょうむねよこ棰撻。こう力士りきしよく上意じょうい,請悉載いんちゅうもうか偫送とうと凡百ぼんぴゃくあまりしゃじょう自分じぶん御膳ごぜん以賜。及夜,力士りきしふく奏請そうせいむかいたかいんとげひらけ禁門きんもん而入。おんぐういよいよたかし後宮こうきゅう莫得しん矣。
はたつくしょうたくみ韋蘭、兵部ひょうぶいん外郎ういろう韋芝ため其兄けん訟冤,且引太子たいしためげんじょうえきいか太子たいし懼,おもて請與離婚りこん,乞不以親はいほうへいさい貶堅江夏えなつべつらんしばみな貶嶺みなみしかうえもと太子たいしこう謹,譴怒及。はやしはじめいんごとけんあずかてきひとしため朋黨ほうとう數日すうじつけん長流ちょうりゅう臨封,てき貶宜はる太守たいしゅふとしつねしょうきょう韋斌貶巴りょう太守たいしゅ,嗣薛おう琄貶えびすりょうべつ,睢陽太守たいしゅ裴寬貶安陸別りくべつ河南かなんいんひとしぶつ貶竟りょう太守たいしゅ,凡堅おやとう連坐れんざりゅう貶者すうじゅうにんあきらやすせき之子ゆきこ。琄,ぎょう之子ゆきこけんおい也。琄母またれいずい琄之かん
ふゆじゅうがつつちのえいぬうえみゆき驪山溫泉おんせんじゅういちがつおつかえみや
さんぜん大夫たいふもりゆう鄰,おんなため太子たいしりょう娣,りょう娣之姊為ひだり驍衛兵曹へいそうやなぎ勣妻。勣性きょう疏,こう功名こうみょう交結ごうしゅん。淄川太守たいしゅ裴敦ふくこも於北うみ太守たいしゅ邕,邕與てい交。勣至京師けいしあずか著作ちょさくろうおう曾等ためともみな當時とうじ名士めいし也。
勣與つまぞくきょうほしおちいこれため飛語ひごつげゆう鄰妄しょう讖,交構東宮とうぐうゆび斥乘輿こしはやしはじめれいきょう兆士曹吉溫與御史鞫之,乃勣首謀しゅぼう也。ゆたかれい勣連引曾とういれだい十二月じゅうにがつきのえいぬゆう鄰、勣及曾等みなつえせきかばねだい妻子さいしりゅう遠方えんぽう中外ちゅうがいふるえ慄。嗣虢おうきょ貶義陽司ようじきょ,邕之也。べつかん察御のぞみ奭往按李邕,太子たいしまた娣為庶人。おつ,鄴郡太守たいしゅおう琚坐贓貶こうはな司馬しば。琚性ごう侈,あずか邕皆いい耆舊,ひさ在外ざいがい怏怏おうおうはやしはじめあく其負ざい使いんごとじょ

げんそういたるどう大聖たいせい大明だいめいこう皇帝こうてい中之下なかのしも天寶てんぽうろくねんちょうおおやけもとななよんななねん


はる正月しょうがつからし邕、裴敦ふくみなつえ。邕才藝さいげい眾,ぞうようつね曰:「きみ如干はた、莫邪,なんあずかそうほこさきしかおわりおそれかけおりみみ。」邕不能ふのうよう
はやしはじめまたそう分遣ぶんけんそく貶所たまものすめらぎはじめおもんみあきら、韋堅兄弟きょうだいとうころせ奭自あおしゅう如嶺みなみしょころせ遷謫しゃこおりけん惶駭。はい牒至むべはるてき懼,おおせやく自殺じさついたりこうはなおう琚仰やく不死ふし,聞希奭已いたりそく縊。まれ奭又迂路うろあんりくよくこわころせ裴寬,ひろしむかいのぞみ叩頭こうとういのりせいまれ奭不宿やど而過,乃得めんてきてきむかえちちいたり東京とうきょうはやしはじめれいじん誣告ぶこくてきつえ河南かなんきゅうごとちゅうぼう琯坐あずかてきぜん,貶宜はる太守たいしゅ。琯,とおる之子ゆきこ也。
はやしはじめ恨韋けんやめ使つかい於循かわ及江、淮州けんもとめけんざい所在しょざいおさむけいつなてんせんおっと,溢於牢獄ろうごくせい剝逋まけのべ及鄰みなはだか於公いたりはやしはじめ薨乃どめ
ちょううえとおるふとしびょうつちのえごうさい天地てんち南郊なんこう,赦天せいめん百姓今載田租。またれいじょそぎしぼじょううえ慕好せいれいおうしぼしゃみなじゅうつえりゅうみねみなみ,其實有司ゆうしりつつえころせこれまたれい天下てんかためよめははふくさん
うえほしこうもとめ天下でんかいのちどおり一藝以上皆詣京師。はやしはじめおそれ草野くさのこれ對策たいさく斥言其奸あく建言けんげん:「舉人卑賤聵,こわゆう俚言りげん污濁せい聽。」乃令ぐんけん長官ちょうかんしらげ試練しれん,灼然超絕ちょうぜつしゃめいおくしょう尚書しょうしょくつがえこころみちゅうすすむかんめい實相じっそうふくしゃ聞奏。すんで而至しゃみなためし以詩、ろんとげ一人ひとり及第きゅうだいしゃはやしはじめ乃上ひょう遺賢いけん
つちのえとら,以范ひら節度せつど使やす祿ろくやまけん大夫たいふ
祿ろくやまたいたかしこえはらたれひざ,嘗自稱じしょうじゅうさんひゃくきんそとわかじき,內實ずる黠。つねれい其將りゅう駱谷とめ京師けいし詗朝廷指おもむき動靜どうせいみなほうあるおうゆう箋表しゃ,駱谷そくため代作だいさくどおりとしけんじ俘虜ふりょざつ畜、禽、ししちん玩之ぶつぜっ於路,ぐんけんつかれ於遞うん
祿ろくやまざい上前うわまえ應對おうたいさときゅうざつ以詼諧。うえ嘗戲ゆび其腹曰:「此胡腹中ふくちゅうなん所有しょゆう,其大乃爾!」たい曰:「さらあまりぶつせいゆうあか心耳しんじ!」うええつまた嘗命太子たいし祿ろくやまはい左右さゆうおもむきおがめ祿ろくやま拱立曰:「しんえびすじん習朝不知ふち太子たいししゃなんかん?」じょう曰:「此儲くん也,ちん千秋萬歲せんしゅうばんぜいだいちんくんなんじしゃ也。」祿ろくやま曰:「しんむこうしゃおもんみゆう陛下へいかいちにん不知ふち乃更ゆうもうかきみ。」とくやめしかこうはいうえ以為しんしかえきあいうえ嘗宴つとむせいろう,百官列坐樓下,どくため祿ろくやま御座ぎょざひがしあいだしつらえきん雞障,おけ榻使すわ其前,仍命めくすだれ以示さかえちょういのち楊銛、楊錡、三姊皆與祿山敘兄弟。祿ろくやまとく出入でいり禁中きんちゅういん請為うえあずかどもすわ祿ろく山先やまさきはいとうとうえとい何故なぜたい曰:「えびすじんさきはは而後ちち。」うええつ
はやしはじめ以王忠嗣ただつぐ功名こうみょうもりおそれ其入しょうやす祿ろくやません蓄異こころざしたく以禦寇,ちく雄武おうむじょうだい貯兵,請忠嗣ただつぐ助役じょやくいんよくとめ其兵。忠嗣ただつぐさき而往,祿ろくやま而還,すうじょうげん祿ろくやま必反;はやしはじめえきあくなつよんがつ忠嗣ただつぐ固辭こじけん河東かとうさくかた節度せつどもと
ふゆじゅうがつおのれとりうえみゆき驪山溫泉おんせんあらため溫泉おんせんみや曰華清宮きよみや
河西かさい、隴右節度せつど使おうただし嗣以部將ぶしょう哥舒翰為だい副使ふくしひかり弼為河西かさい兵馬へいば使たかし赤水あかみず軍使ぐんし。翰父祖ふそほん突騎ほどこせべつ酋長しゅうちょうひかり弼,ちぎりおう楷洛之子ゆきこ也,みな以勇りゃくため忠嗣ただつぐしょじゅう忠嗣ただつぐ使翰擊吐蕃,ゆう同列どうれつ為之ためゆきふく,倨慢不為ふためよう,翰撾ころせこれぐんちゅうまたこころぐりるい功至かつじ隴右節度せつど副使ふくし每歲まいさいせきせきぐんむぎじゅく,吐蕃輒來これ無能むのう御者ぎょしゃへんじんいい「吐蕃むぎそう」。翰先伏兵ふくへい於其がわとりこいたりだん其後,夾擊きょうげきいちにんとくかえししゃ敢復らい
うえほっ使おう忠嗣ただつぐおさむ吐蕃せき堡城,忠嗣ただつぐじょうげん:「いし堡險かた,吐蕃舉國守之もりゆきこんとみへい其下,ころせすうまんにん不能ふのうかつしんおそれ所得しょとく如所ほろび如且厲兵まぐさ,俟其ゆう釁,しかこれ。」上意じょうい不快ふかい將軍しょうぐんただしのべこう請將へい取石とりいし堡城,うえいのち忠嗣ただつぐぶん兵助へいすけこれ忠嗣ただつぐとくやめたてまつみことのり,而不盡ふじんふくのべこうしょよくのべこう怨之。
ひかり弼言於忠嗣曰:「大夫たいふ以愛士卒しそつよくしげるのべこうこう,雖迫於制しょじつだつ其謀也。なに以知こん以數萬眾授之而不立重賞,士卒しそつやす肯為盡力じんりょく乎!しか天子てんし也,かれこう,必歸ざい於大おだいおっと大夫たいふぐんたかし牣,なにあいすう萬段帛不以杜其讒口乎!」ちゅう嗣曰:「こん以數萬之眾爭一城,とくあし以制てきとくまた無害むがい於國,忠嗣ただつぐよく為之ためゆき忠嗣ただつぐこん受責天子てんし以金われ羽林はばやしいち將軍しょうぐん宿衛しゅくえい,其次黔中じょう忠嗣ただつぐあに以數萬人之命易一官乎!將軍しょうぐんまことあいわが矣,しかわれこころざしけつ矣,勿復ごと!」ひかり弼曰:「むこうしゃこわため大夫たいふるい不言ふげんこん大夫たいふ能行よしゆき古人こじんことひかり弼所及也。」とげ趨出。
のべこうかつげん忠嗣ただつぐ沮撓ぐんけいじょういかはやしはじめいん使ずみべつりんつげ忠嗣ただつぐ嘗自ごとわがようやしなえ宮中きゅうちゅうあずかちゅうおう相愛そうあい狎」,よくようへい以尊たてまつ太子たいし。敕征忠嗣ただつぐ入朝にゅうちょうゆだねさんつかさ鞫之。
上聞じょうぶん哥舒翰名,召見はな清宮きよみや與語よごえつこれ十一月じゅういちがつからし,以翰ばん西平にしだいら太守たいしゅたかし隴右節度せつど使;以朔かた節度せつど使やすおもえじゅんばん武威ぶいぐんごとたかし河西かさい節度せつど使
戶部とべさむらいろうけんちゅうすすむ楊慎矜為上所かみところあつはやしはじめひたまき矜與おうちちすすむ中表なかおもて兄弟きょうだい也,しょうあずか□狎,□これいれだい,頗因まき矜推引。及□遷中すすむまき矜與なお;□自恃じじあずかはやしはじめぜんやや不平ふへいまき矜奪□しょく,□ははほん賤,まき矜嘗以語じん;□ふか銜之。まき矜猶以故意こいまち,嘗與私語しご讖書。
まき矜與じゅつけいちゅうぜんけい忠言ちゅうげん天下でんかはたみだれすすむまき矜於臨汝山中さんちゅうかいそうため避亂これしょかいまき矜父田中たなか草木くさきみな流血りゅうけつまき矜惡,以問けいちゅうけいちゅう請禳しつらえ道場どうじょう於後えんまき矜退あさ,輒裸ぬき桎梏しっこくすわ其中。旬日じゅんじつ血止ちどめまき矜德まき矜有さむらい婢明たまいろけいちゅう屢目まき矜即以遺けいちゅう車載しゃさいたか姊柳ろう,姊邀けいちゅううえろうもとめしゃちゅう美人びじんたかしただし敢拒。明日あした,姊入みや,以明たまずい上見うわみ而異もんしょ從來じゅうらいあきらたま以實たいうえ以慎矜與じゅつため妖法,あく,含怒未發みはつ
楊釗以告□,□こころいんあなど慢慎矜;まき矜怒。はやしはじめあずかまき矜有すきみつさそえ使。□乃遣じん以飛つげまき矜隋煬帝まごあずかきょうじん往來おうらいいえゆう讖書,はかりごとふく祖業そぎょう。」上大かみおおいかおさむまき矜繫ごくいのち刑部おさかべだいあずかさむらい楊釗、殿中でんちゅうさむらい鉉同鞫之。たいしょうきょうちょう瑄,まき矜所こも也,鉉誣瑄嘗與まき矜論讖,拷掠ひゃくはし,瑄不肯答辯とうべん。乃以つづり其足,使つかいじん引其かせがらむかいぜん挽之,ちょうすうしゃく腰細こしぼそよくぜっはな出血しゅっけつ,瑄竟こたえ
また使つかいよしあつしけいちゅう於汝しゅうけいちゅうあずかぬるちちもとぜんゆたかよう也,たかし忠常ただつねだきなでこれ。及捕獲ほかくぬるあずか交言,くさり其頸,以布こうむくびこれまえいたりおどけすいゆたか使吏誘曰:「楊慎矜已款服,おもんみひげいちべんわかかいじんそくせいしか必死ひっしぜんいたり溫湯ぬるゆのりもとめくび矣。」けいちゅう顧謂ゆたか曰:「七郎しちろうもとめいち。」ゆたかおう溫湯ぬるゆじゅうあまりさとけいちゅう懇請こんせい哀切あいせつ,乃於桑下くわしもれいこたえさんべんみな如溫ぬるじょいい曰:「丈人たけと勿怪もっけ!」いんおこりはい
いたりかいあきらはじめ鞫慎矜,以敬ちゅうためしょうまき矜皆引服,おもんみさがせ讖書はやしはじめ危之,使つかい鉉入長安ながやすさがせまき矜家,鉉袖讖書にゅう暗中あんちゅう,詬而曰:「逆賊ぎゃくぞくふかぞう。」いたりかいあきら,以示まき矜。まき矜歎曰:「われ蓄讖しょ,此何したがえざいわれ哉!われおう而己。」ちょうとりたまものまき矜及けいしょうしょうかんまきあまり洛陽らくようれいまきめい自盡じじんけいちゅうつえひゃく妻子さいしみなりゅうみねみなみ;瑄杖ろくじゅうりゅう臨封,於會あきら。嗣虢おうきょ雖不あずかはかりごとすわあずかけいちゅう相識そうしきかいかんみなみまろうど安置あんち自餘じよ連坐れんざしゃすうじゅうにんまきめい聞敕,神色しんしょく不變ふへんためしょべつ姊;まきあまり合掌がっしょうゆびてん而縊。
三司按王忠嗣,じょう曰:「われきょふかみややすあずか外人がいじん通謀つうぼう,此必妄也。ただし劾忠嗣沮たわわ軍功ぐんこう。」哥舒翰之入朝にゅうちょう也,あるすすむつぎきん帛以すくい忠嗣ただつぐ。翰曰:「わか直道なおみちなおそん王公おうこう必不冤死;如其はたまいないなんため!」とげたん囊而ぎょう。三司奏忠嗣罪當死。翰始ぐう於上,ちからちん忠嗣ただつぐ冤,且請以己官爵かんしゃく贖忠嗣罪;上起かみおこしにゅう禁中きんちゅう,翰叩頭こうとうずいげんあずかなみだ俱。うえかん寤,おのれ,貶忠嗣漢太守たいしゅ
はやしはじめ屢起大獄たいごく別置べっち推事いん於長やす。以楊釗有わき廷之おや出入でいりきん闥,しょげん聽,乃引以為援,擢為ことゆうほろわたる東宮とうぐうしゃみなゆび擿使そうこくづけのぞみ奭、よしあつし鞫之。釗因とくたくまし其私こころざししょ擠陷誅夷しゃすうひゃくいえみな釗發さいわい太子たいし仁孝にんこう謹靜,ちょう□、こう力士りきしつね保護ほご於上まえはやしはじめおわり不能ふのうあいだ也。十二月じゅうにがつみずのえいぬはつ馮翊、はなかげ民夫たみおちくかいあきらじょうおけひゃく王公おうこうかくおけだい捨,うねちょく千金せんきんみずのとうえかえみや
へいとらいのち百官閱天下歲貢物於尚書省,すんで而悉以車載しゃさいたまものはやしはじめうえあるときあさ,百司悉集林甫第門,だいしょうためそらちんのぞみれつ雖坐一人ひとりにゅう謁者。
はやしはじめ岫為しょうさくかん,頗以滿まんみつるため懼,嘗從はやしはじめゆうえんゆびやくおっとげん於林はじめ曰:「大人おとなひさしょひとしじく,怨仇滿天下まんてんか一朝いっちょういたりほしため此,とく乎?」はやしはじめらく曰:「いきおいやめ如此,はたわかこれなに?」
さき宰相さいしょうみな以德しょこと威勢いせい,騶從すうにん士民しみんあるこれ避。はやしはじめ以多ゆい怨,つねおそれ刺客しかくそくひゃく餘人よにんため左右さゆうつばさ金吾きんごせいがい前驅ぜんくざいすうひゃくがい公卿くぎょうはし避;きょそくじゅうせきふくかべ,以石しきがわら,牆中置ちゅうちばん,如防大敵たいてき一夕いっせき屢徙ゆか,雖家じん莫知其處。宰相さいしょう騶從もりはやしはじめはじめ
はつ將軍しょうぐんだかせんしばほんだか麗人れいじん從軍じゅうぐん安西あんざいせんしば驍勇,ぜん騎射きしゃ節度せつど使おっとこうむれい察屢こもいたり安西あんざいふくみやこまもるみやことも兵馬へいば使たかしよん節度せつど副使ふくし
吐蕃以女つましょう勃律おう,及其つくりじゅうあまりこくみな吐蕃,貢獻こうけん不入ふにゅう前後ぜんこう節度せつど使討之,みな不能ふのうかつせい以仙しばためぎょう節度せつど使はたまん討之。安西あんざいゆきひゃくにち乃至ないしとく勒滿かわふんぐんためさんみちなながつじゅう三日會吐蕃連雲堡下。ゆうへいきんまんにん不意ふいとうへい猝至,だいおどろきやまこばめせんほう櫑如せんしば以郎しょうだかりょう嗣業ため陌刀はたれい曰:「及日ちゅうけつ須破とりこ!」嗣業一旗ひとはた,引陌がたなえんけん先登せんとう力戰りきせんたついたり大破たいは斬首ざんしゅせんきゅう捕虜ほりょせん餘人よにんあまりみな逃潰。ちゅう使つかいれいまこと以入とりこさかいやめふか,懼不敢進;せんしば乃使れいまこと以羸じゃくさんせんもりじょうふくしん
さんにちいたりひろし駒嶺こまみねしたたかしばんよんじゅうあまりさとぜんゆうおもねいしゆみえつじょうせんしばおそれ士卒しそつはばかけわし肯下,さきれいじんえびすふくいつわりためおもねいしゆみえつじょうもりしゃむかえうん:「おもねいしゆみえつ赤心せきしんとうしゃばえびすすいとうきょうやめ斫斷矣。」しゃばえびすそくじゃくみず也,其水きすい不能ふのうしょうくさあくたとうきょうしゃつう吐蕃みち也。せんしば士卒しそつ乃下。またさんにちおもねいしゆみえつじょうむかえしゃはていたり
明日あしたせんしばいれおもねいしゆみえつじょう將軍しょうぐんせきもとけいしょうせんまえぎょういい曰:「しょう勃律聞大ぐんいたり,其君臣くんしん百姓ひゃくしょう必走山谷さんやおとうと呼出よびだし繒帛しょう敕賜大臣だいじんいたりつきばく以待。」もとけい如其ごと,悉縛しょ大臣だいじんおう及吐しげる公主こうしゅ逃入石窟せっくつ不可ふかせんしばいたる其附吐蕃しゃ大臣だいじんすうにん
とうきょうしろなおろくじゅうせんしばきゅうもとけい往斫はじめ畢,吐蕃へいだいいたりやめ及矣。とうきょう闊盡一矢いっしちから修之のぶゆきねん乃成。
はちがつせんしばとりこしょう勃律おう及吐しげる公主こうしゅ而還。九月くがついたりれんくも堡,あずかあたりれいまこと俱。月末げつまついたり播密がわ使つかいそうじょういたり河西かさいおっとこうむれい察怒せんしばさきごとおのれ而遽はつかなでいちむかえろうののしせんしば曰:「啖狗くそ高麗こうらいやつなんじかんみなこまだれ,而不まてわが處分しょぶん,擅奏とししょ高麗こうらいやつなんじざいとうただし以汝しん有功ゆうこうにんみみ!」せんしばただし謝罪しゃざいあたりれいまことそうせんしば深入ふかいりまんたて奇功きこうこん旦夕たんせきゆう


 まきひゃくじゅうよん かえしかいいただき まきひゃくじゅうろく

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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