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資治通鑑/卷220 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

どおりかん/まき220

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 まきひゃくじゅうきゅう どおりかん
まきひゃくじゅう からさんじゅうろく
まきひゃくじゅういち 

おこりきょうかこえさくきゅうがつつきちょ雍閹しげる,凡いちねんゆう

どおりかん だい220かん

まきだいひゃくじゅう
からさんじゅうろく】 おこりきょうかこえさくきゅうがつつきちょ雍閹しげる,凡いちねんゆう

肅宗文明ぶんめい武德ぶとく大聖たいせいだいせんこう皇帝こうてい中之下なかのしも至德しとくねんちょうとりおおやけもとななななねん


きゅうがつちょううしまれとく以輕いたり城下じょうか挑戰ちょうせん千里せんりそちひゃく開門かいもん突出とっしゅつよくとりこかいすくいいたり,千里收騎退還,きょう壞,墜塹ちゅうはんためまれとくしょとりこおおせいいしたがえ曰:「われ不幸ふこういたり此,てん也!しょしょうため守備しゅびやすししつそち不可ふかしつじょう。」まれとくおさむじょう,竟不かつおく千里せんり於洛あんけいいとぐち以為特進とくしんしゅうきゃくしょう
かく以回紇兵しらげすすむうええきせい其兵以擊ぞくふところひとしあせ子葉しようまもる及將ぐんみかどとくとうはた精兵せいびょう四千餘人來至鳳翔。うえ引見いんけんまもるうたげろうたまもの賚,おもんみ其所ほっちょう元帥げんすい廣平ひろへいおう俶將ついたちかたとうぐん及回紇、西域せいいきじゅうまんごうじゅうまんはつおおとりしょう。俶見まもるやくため兄弟きょうだいようまもる大喜だいぎいい俶為けいかい紇至扶風,かくとめえんさんにちまもる曰:「國家こっかゆうきゅう遠來えんらいしょうすけなに以食ため!」うたげ畢,即行そっこう日給にっきゅう其軍ひつじひゃくくちうしじゅうとうべいよんじゅう斛。
かのえしょぐん俱發;みずのえとらいたり長安ながやす城西じょうさいちん香積寺こうせきじきた澧水ひがし嗣業ためまえぐんかくためちゅうぐん王思おうしれいためぐんぞくじゅうまんひね於其きたじん挑戰ちょうせん官軍かんぐん逐之,逼於其陳。賊軍ぞくぐんひとしすすむ官軍かんぐん卻,ためぞくしょじょうぐんちゅうおどろきらんぞくそうおもむき輜重しちょう嗣業曰:「今日きょう以身えさぞくぐん孑遺矣。」乃肉袒,長刀ちょうとうたて於陣まえ大呼たいこ奮擊,とう其刀しゃ人馬じんば俱碎,ころせすうじゅうにんじん乃稍じょう。於是嗣業そちまえぐんかく長刀ちょうとう,如牆而進,さき士卒しそつしょこう摧靡。みやことも兵馬へいば使おうなんとくすくい其裨はたぞくしゃちゅうまゆかわたれ鄣目。なんとく拔箭,掣去其皮,りゅうめんまえせんやめぞくふくせい於陣ひがしよくかさね官軍かんぐんこれ,偵者知之ともゆきさくかたひだりひさし兵馬へいば使ぼくかたふところおん引回紇就げき,翦滅殆盡,ぞくよしさく嗣業またあずかかい紇出ぞくじんあずか大軍たいぐん交擊,うま及酉,斬首ざんしゅろくまんきゅうはまみぞ塹死しゃ甚眾,ぞくとげだいつぶせ眾走入城にゅうじょう,迨夜,囂聲とめ
ぼくかたふところおんげん於廣たいらおう俶曰:「ぞく棄城はし矣,請以ひゃくおいばくやすもりちゅうじんとう。」俶曰:「將軍しょうぐんせんまたつかれ矣,且休息きゅうそく,俟明。」ふところおん曰:「かえりひとしまもりちゅうぞく驍將ぎょうしょう,驟勝而敗,此天たまものわが也,奈何いかんたて使つかいふくとく眾,かえためわが患,悔之及!せんなお神速しんそくなにあかりだん也!」俶固どめ使つかいかえ營。ふところおんかた請,往而ふくはん一夕いっせきよんおこりおそあきら,諜至,まもりちゅうかえりじんあずかちょうとおる儒、いぬいしんとうみなやめ遁矣。みずのと大軍たいぐんいれ西京にしぎょう
はつじょうほっそくとく京師けいしあずかかい紇約曰:「かつじょうこれにち土地とち庶歸とうきむ帛、子女しじょみなかい紇。」いたりようまもるよく如約。廣平ひろへいおう俶拜於葉まもるぜん曰:「いまはじめとく西京にしぎょうわか遽俘かすめのり東京とうきょうこれにんみなためぞく固守こしゅ不可ふかふく矣,ねがいいたり東京とうきょう乃如やく。」まもるおどろきおど下馬げばこたえはい,跪捧おうあし,曰:「當為とうい殿下でんかみち東京とうきょう。」そくあずかぼくかたふところおん引回紇、西域せいいきへい城南じょうなん,營於滻水ひがし百姓ひゃくしょうぐんえびすとりこ俶拜しゃみな泣曰:「廣平ひろへいおうしんはな夷之えびすのぬし!」上聞じょうぶん曰:「ちん及也!」俶整眾入城にゅうじょう,百姓老幼夾道歡呼悲泣。俶留長安ながやす鎮撫ちんぶさんにち,引大ぐん東出とうで。以太子たいししょうでん虢王きょため西京にしぎょう留守るす
きのえたつとししょいたりおおとりしょうひゃくりょうにゅううえ涕泗交頤,即日そくじつちゅう使つかい啖庭ようにゅうしょく奏上そうじょうすめらぎいのちひだりぼくしゃ裴冕入京にゅうきょうつげ郊廟及宣慰百姓ひゃくしょう
うえ以駿召李泌於長安ながやすすんでいたりうえ曰:「ちんやめひょう上皇じょうこうひがしちんとうかえ東宮とうぐうふくおさむじんしょく。」泌曰:「ひょうつい乎?」じょう曰:「やめどお矣。」泌曰:「上皇じょうこうらい矣。」じょうおどろきもんゆえ。泌曰:「ぜい自然しぜん」。うえ曰:「為之ためゆき奈何いかん?」泌曰:「こん請更ため群臣ぐんしんひょうげんうま嵬請とめれいたけ勸進かんじん,及今成功せいこう聖上せいじょうおもえこい晨昏,請速かえきょう以就孝養こうようのり矣。」じょうそく使泌草ひょううえ讀之,泣曰:「ちんはじめ至誠しせいねがいまんこん先生せんせいげん,乃寤其失。」たて命中めいちゅう使たてまつおもていれしょくいん就泌飲酒いんしゅどう榻而。而李輔國請取うけとりちぎり鑰付泌,泌請使輔國てのひらじょうもと
泌曰:「しんこん報德ほうとくあし矣,ふくためあいだじんなにらく如之!」じょう曰:「ちんあずか先生せんせい累年るいねんどう憂患ゆうかん今方いまがたしょうどう娛樂ごらく奈何いかん遽欲乎!」泌曰:「しんゆう不可ふかとめねがい陛下へいか聽臣めんしん於死。」じょう曰:「なにいい也?」たい曰:「しんぐう陛下へいかふとはや陛下へいかにんしんふとおも寵臣ちょうしんふとふかしんこうたいだかあとふとし,此其所以ゆえん不可ふかとめ也。」じょう曰:「且眠矣,にち。」たい曰:「陛下へいかこん就臣榻臥,なおとく請,きょうにちあんぜん乎!陛下へいか聽臣ころせしん也。」じょう曰:「不意ふいきょううたぐちん如此,あにゆう如朕而辦ころせきょうよこしまちょく以朕ため踐也!」たい曰:「陛下へいか辦殺しんしんもとめわか其既辦,しんやすとくふくごと!且殺しんしゃ陛下へいか也,乃『不可ふか』也。陛下へいかこう日待ひまちしん如此,しん於事なおゆう敢言しゃきょう天下でんかすんでやすしん敢言乎!」
うえ良久よしひさ曰:「きょう以朕したがえきょうきたこれはかりごと乎!」たい曰:「也,しょ敢言しゃ,乃建やすしみみ。」じょう曰:「たてやすしちん愛子あいこせいえいはて艱難かんなん有功ゆうこうちんあに知之ともゆきただしよし此為小人こどもしょきょうよくがい其兄,繼嗣けいしちん社稷しゃしょく大計たいけいとくやめ而除きょうほそ其故よこしま?」たい曰:「わかゆう此心,廣平ひろへいとう怨之。廣平ひろへいまいあずかしんげん其冤,輒流涕りゅうてい嗚咽おえつしんこん必辭陛下へいかはじめ敢言みみ。」じょう曰:「みぞ嘗夜捫廣ひらめ意欲いよく加害かがい。」たい曰:「此皆讒人くちあにゆうたてやすし之孝ゆきたかとも聰明そうめい,肯為此乎!且陛むかしほっようたてやすしため元帥げんすいしん請用廣平ひろへいたてやすしわかゆう此心,とうふか憾於しん;而以しんためちゅうえきしょう親善しんぜん陛下へいか以此察其こころ矣。」上乃うえの泣下曰:「先生せんせいごと是也これや既往きおうとがめちんよく聞之。」
泌曰:「しん所以ゆえんごとこれしゃとがめ既往きおう,乃欲陛下へいかまき將來しょうらいみみむかしてんゆうよんちょう太子たいしひろしてん方圖ほうずしょうせいあく聰明そうめい,鴆殺たて次子じし雍王けんけん內憂懼,さくだいふり》,冀以かんさとるてんてん聽,けんそつ於黔ちゅう。其辭曰:『たねふり台下だいかふりじゅくはなれはなれいち摘使ふりこのみさい摘使ふりまれさん摘猶ためよん摘抱づる!』こん陛下へいかやめいち摘矣,まきさい摘!」じょう愕然がくぜん曰:「あんゆう哉!」きょうろくやめちんとうしょしん。」たい曰:「陛下へいかただし識之於心,なに必形於外也!」廣平ひろへいおうゆう大功たいこうりょう娣忌せん流言りゅうげん言及げんきゅう。泌復かた歸山きさんうえ曰:「俟將はつ此議。」
かく引蕃、かんへいついぞくいたり潼關,斬首ざんしゅせんきゅうかつはなかげひろのうぐん關東かんとうけんじひゃく餘人よにん,敕皆これかん察御つとむげん於上曰:「今元いまもとあくじょためぞくしょ污者半天ばんてん,聞陛りゅうきょう,鹹思洗心せんしん以承ひじりこん悉誅これ使したがえぞく也。」じょう遽使赦之。
ふゆじゅうがつ丁未ていみ,啖庭よういたりしょく
みずのえおきたいらぐんそうやぶぞく於武せきかつ上洛じょうらくぐん
吐蕃おちい西平にしだいら
いんひさかこえ睢陽,城中じょうちゅう食盡しょくじん棄城ひがしはしちょうじゅんもと遠謀えんぼう,以為:「睢陽,こう、淮之保障ほしょうわか棄之ぞく必乘しょう長驅ちょうくこう、淮也。且我眾饑羸,はし必不たちいにしえしゃ戰國せんごく諸侯しょこうなおあい救恤きゅうじゅつきょうみつ邇群そち乎!堅守けんしゅ以待。」ちゃすんでつきとげしょくつきすずめねずみすずめねずみまたつきじゅん愛妾あいしょうころせ以食とおまたころせ其奴;しかくく城中じょうちゅう婦人ふじんしょくすんでつきつぎ男子だんし老弱ろうじゃく人知じんち必死ひっし,莫有叛者,しょさいよんひゃくにん
みずのとうしぞく登城とじょう將士しょうしびょう不能ふのうせんめぐ西向にしむき再拜さいはい曰:「しんりょく竭矣,不能ふのうぜんしろなますんで以報陛下へいか當為とうい厲鬼以殺ぞく!」しろとげおちいじゅんとお俱被いん奇問きもんじゅん曰:「聞君ごとせん眥裂碎,なに也?」じゅん曰:「われこころざし逆賊ぎゃくぞくただしちから不能ふのうみみ!」以刀こじ其口しょさいさんよん所為しょいよくかつ。其徒曰:「かれもりぶししゃ也,おわり不為ふためわれよう。且得こころそんはたため後患こうかん。」乃並みなみ霽雲、かみなり萬春等三十六人皆斬之。めぐ且死,顏色かおいろ不亂ふらん揚揚ようよう如常。なま致許どお於洛
めぐはつもり睢陽そつまんにん城中じょうちゅうきょじんまた且數まんじゅん一見いっけんとい姓名せいめい,其後識者しきしゃ前後ぜんご大小だいしょうせん凡四ひゃくあまりころせぞくそつじゅうまんにん巡行じゅんこうへいほうきょうせんひねれいほんはたかく以其教之のりゆきひとあるとい其故,じゅん曰:「いまあずかえびすとりこせんくもあいとり變態へんたいつねすうあいだいきおいゆうどうこと臨機りんきおう猝,ざい呼吸こきゅうあいだ,而動詢大將たいしょうことあい及,へいへんしゃ也。われ使へい識將はた識士じょうとう而往,如手使つかいゆびへいしょうしょう習,にんためせんまた乎!」きょうへい器械きかいきのえ仗皆これ於敵,自修じしゅうまいたたかえ將士しょうしある退散たいさんじゅんりつ於戰しょいい將士しょうし曰:「わが不離ふり此,なんじためわがかえけつ。」將士しょうし莫敢かえせんそつやぶてきまた推誠待人まちびとしょうたぐかくれ;臨敵應變おうへん無窮むきゅう號令ごうれいあかり賞罰しょうばつしんじあずか眾共甘苦かんくさむあつしたそう致死ちしりょく
ちょう鎬聞睢陽かこえきゅうばいどう亟進,げき浙東、浙西、淮南ワイナン北海ほっかいしょ節度せつど及譙ぐん太守たいしゅ閭丘あかつき使つかいどもすくいあかつきもと傲很,受鎬いのち鎬至,睢陽じょうやめおちいさんにち。鎬召あかつきつえころせこれ
ちょうとおる儒等おさむあまり眾走陝,あんけいいとぐち悉發洛陽らくようへい使つかい其御大夫たいふげんそう將之まさゆき,就通儒以こばめ官軍かんぐんなみきゅうへいなおじゅうまんおのれ廣平ひろへいおう俶至きょく沃。かい紇葉まもる使其將ぐんはなほどこせ吐撥裴羅とう引軍つくり南山なんざんさがせふくいんちゅうぐんみねきたかくとうあずかぞくぐう新店しんてんぞくやま而陳。とうはつあずかこれせん不利ふりぞく逐之下山げざんかい紇自南山なんざんかさね其背,於黃ほこりちゅうはつじゅうあまりぞくおどろき顧曰:「かい紇至矣!」とげつぶせ官軍かんぐんあずかかい紇夾げきぞく大敗たいはい,殭屍蔽野。いむそうちょうとおる儒等棄陝ひがしはし廣平ひろへいおう俶、かくにゅう陝城,ぼくかたふところおん等分とうぶんどうおい
いむそう先入せんにゅう洛陽らくようつげやすけいいとぐち庚申こうしんよるけいいとぐちそち其黨えん門出かどではし河北かほくころせしょからしょう哥舒翰、ほどせんさととうさんじゅう餘人よにん而去。もととお於偃
みずのえいぬ廣平ひろへいおう俶入東京とうきょうかい紇意なおいや,俶患父老ふろう請率にしき萬匹以賂回紇,かい紇乃どめ
成都せいと使つかいかえ上皇じょうこう誥曰:「とうあずかわがけんみなみ一道いちどうたてまつふくらい矣。」うえゆう懼,不知ふち所為しょい數日すうじつ使者ししゃいたりげん:「上皇じょうこうはつとくじょう請歸東宮とうぐうひょう彷徨ほうこう不能ふのうしょくよく不歸ふき;及群臣ぐんしんひょういたり,乃大いのちしょく作樂さくらしも誥定ぎょう。」じょう召李泌告曰:「みなきょう力也りきや!」泌求歸山きさんやめうえかたとめ不能ふのう,乃聽衡山。敕郡けん為之ためゆきちくしつ於山ちゅうきゅうさんひんりょう
みずのとうえはつおおとりしょう太子たいしふとし韋見もといれしょく奉迎ほうげい上皇じょうこう
おつうしかくひだり兵馬へいば使はりようずみみぎたけほこさき使渾釋將兵しょうへい河陽かわよう及河內;げんそうひねとめじんころせいん,舉郡くだうけたまわ嗣圍らい瑱於穎川えいせんまた使つかいらいくだかくおうなるうけたまわ嗣復叛,あずかたけれい珣皆はし河北かほくせい以瑱ため淮南ワイナン節度せつど使
へいとらうえいたるもちけんみやとく東京とうきょうとしそうちょうしげるうえいれ西京にしぎょう百姓ひゃくしょう出國しゅっこくもん奉迎ほうげいじゅうさとぜっまいおどよびまんさいゆう泣者。うえ入居にゅうきょ大明だいめいみやちゅうすすむちぇうつわれい百官受賊官爵者皆脫巾徒跣立於含元殿前,搏膺頓首とんしゅ請罪,たまき以兵,使つかい百官ひゃっかん臨視ふとしびょうためぞくしょ焚,うえもとふくこうびょうさんにち上皇じょうこうはつしょくぐん
あんけいいとぐちはし鄴郡,あらため鄴郡為安ためやすなる改元かいげん天成てんせいしたがえさんひゃくそつせんにんしょはたおもねうけたまわけいとうとう常山つねやまちょうぐん、范陽。旬日じゅんじつあいだ,蔡希とくうえとううけたまわ嗣自穎川えいせんたけれい珣自南陽なんようかくそち所部ところぶへいまた召募しょうぼ河北かわきたしょぐんじん,眾至ろくまんぐんごえふく
廣平ひろへいおう俶之いれ東京とうきょう也,百官受安祿山父子官者陳希烈等三百餘人,みなもとふく悲泣請罪。俶以じょうむねしゃくひろ勒赴西京にしぎょうおのれちぇうつわれいまいちょうどう請罪,如西京にしぎょう百官ひゃっかんしかおさむけいだいきょうちょうごく。其府けん所由しょゆう、祗承じんとう受賊驅使くしついしゃみなおさむけい
はつ,汲郡甄濟,ゆう操行そうこう隱居いんきょあおいわおさんやす祿ろくやまため採訪さいほう使そうてのひら書記しょきすみ察祿やまゆうこころざしいつわりどくふうやまし,舁歸祿ろくやまはん使つかい蔡希とく行刑ぎょうけいしゃにんふうがたな召之,すみ引首まちがたなまれとく以實びょうしろ祿ろくやまこうやすけいいとぐちまた使つかいじんきょう舁至東京とうきょう月餘げつよかい廣平ひろへいおう俶平東京とうきょうすみおこりまい軍門ぐんもんじょう謁,俶遣まい京師けいしうえいのちかん於三れい受賊官爵かんしゃくしゃれつはい以愧其心,以濟ため秘書ひしょろう國子くにこつかさぎょうみなもとあきらしょうびょう受祿やまかんうえ擢為こうこうろうちゅうせい誥。みずのえさるうえおおとりろうしたせい:「庶受ぞくかん祿ろくためぞくようしゃれいさんつかさ條件じょうけん聞奏;其因せんとりこあるところみつちかいんあずかぞく往來おうらいしゃみな自首じしゅじょざい;其子おんなためぞくしょ污者,勿問。」
みずのととりかい紇葉まもる東京とうきょうかえうえいのち百官迎之於長樂驛,じょうあずかうたげ宣政のぶまさ殿どのまもるそう以「ぐん中馬ちゅうましょう請留うけどめ其兵於沙えんうまかえため陛下へいか掃除そうじ范陽あまり孽。」じょうたまもの而遣
十一月じゅういちがつ廣平ひろへいおう俶、かく東京とうきょううえろう曰:「われいえこくゆかりきょうさいみやつこ。」
ちょう鎬帥魯炅、らい瑱、おう祗、嗣業、奐五節度せつど徇河みなみ河東かとうぐんけんみなおもんみのうもとあきらよりどころ北海ほっかい高秀たかひでいわおよりどころ大同だいどうした
おのれうし,以回紇葉まもるためそら忠義ちゅうぎおうとしのこかい紇絹まんひき使つかい就朔かたぐん受之。
以嚴そうためつかさみのりきょう上之うえのざい彭原也,さら以栗ためきゅうびょうぬしかのえとらあさとおる於長らく殿どの
へいさる上皇じょうこういたりおおとりしょう從兵じゅうへいろくひゃく餘人よにん上皇じょうこういのち悉以かぶとへい輸郡うえはつせいさんせん奉迎ほうげい十二月じゅうにがつ丙午ひのえうま上皇じょうこういたり咸陽,うえ備法むかえ於望けんみや上皇じょうこうざい宮南みやみなみろううえしゃくほうちょむらさきほう望樓ぼうろう下馬げば,趨進,はいまい於樓上皇じょうこうくだろうなでじょう而泣。うえささげ上皇じょうこうあし嗚咽おえつかち上皇じょうこうさくほうためじょうちょ上伏うえぶせ頓首とんしゅ固辭こじ上皇じょうこう曰:「てんすう人心じんしんみな於汝,使つかいちんとく保養ほようあまりなんじ孝也たかや!」じょうとくやめ,受之。父老ふろうざい仗外,歡呼かんこ且拜。うえれいひらき仗,たて千餘人入謁上皇,曰:「しんとう今日きょうふくひじりしょう恨矣!」上皇じょうこう肯居正殿せいでん,曰:「此天くらい也。」じょうかた請,上皇じょうこうのぼる殿どのなおしょくしんしょく上品じょうひん嚐而こも丁未ていみはた發行はっこうみやうえおやため上皇じょうこう習馬而進上皇じょうこう上馬かみうまうえおや鞚。くだりすう上皇じょうこうどめうえ乘馬じょうばぜん引,敢當はせどう上皇じょうこういい左右さゆう曰:「われため天子てんしじゅうねんためこんため天子てんしちち,乃貴みみ!」左右さゆうみなよびまんさい上皇じょうこうひらけどおもんにゅう大明だいめいみや含元殿どの慰撫いぶ百官ひゃっかん;乃詣ちょう東殿ひがしとのしゃきゅうびょうぬし慟哭どうこくひさ即日そくじつこうきょうけいみやとげきょうえるいひょう請避かえ東宮とうぐう上皇じょうこうもと
からし,以禮尚書しょうしょ峴、兵部ひょうぶさむらいろうりょ諲為しょう使あずか大夫たいふちぇうつわども按陳まれれつとうごく。峴以殿中でんちゅうさむらい棲筠ためしょう判官ほうがん,棲筠つとむひらじょ故人こじんみな怨諲、うつわこくふか,而峴獨得どくとくほまれ
つちのえうまうえおおとりろう,赦天おもんみあずかやす祿ろくやまどうはん及李はやしはじめおう鉷、楊國ちゅう子孫しそん不在ふざいめんれいたて廣平ひろへいおう俶為すわえおうかくひかり弼司そら自餘じよしょくぐんれいたけ扈從こしょうりつこうしんみなしんかいたまもの爵,しょく邑有憕、奕、かお杲卿、袁履けんもととおちょうじゅんちょうかいしか、蔣清、龐堅とうみな追贈ついぞうかん子孫しそんせんほろびこれきゅうふくぐんけんらい租、いさおさんふん蠲一。近所きんじょあらためぐんめいかんめいいち故事こじ。以蜀ぐんため南京なんきんおおとりしょうため西京にしぎょう西京にしぎょうため中京ちゅうきょう。以ちょうりょう娣為よしたて皇子おうじ南陽なんようおうじんけいためちょうおう新城しんじょうおう僅為彭王,穎川えいせんおう僩為兗王,東陽とうようおう侹為涇王,璜為じょうおう,倕為杞王,しのべため召王,あきらためきょうおう,侗為じょうおう
しゃあるつみはりじゅん以守睢陽あずか其食じん,曷若ぜんひと。其友じん翰為さくでんひょうじょう,以為:「めぐ以寡げき眾,以弱せいきょうこう、淮以まち陛下へいかいたり而巡じゅんこうだい矣。而議しゃあるつみじゅん以食じんじゅん以守ぜん遏惡あげろくきず棄用,しん竊痛じゅん所以ゆえん固守こしゅしゃ,以待しょぐんすくえすくいいたり食盡しょくじんしょくすんでつき而及じん,乖其素志そししつらえ使じゅんもりじょうはつやめゆうしょくじんけいそんすう百之眾以全天下,しんなお功過こうかしょう掩,きょう素志そし乎!いまじゅん大難だいなん睹休あきらただ其令めい其榮祿ろくわか不時ふじろくこわどお而不でん使つかいじゅん生死せいし不遇ふぐうまこと悲焉!しん敢撰でんいちかん獻上けんじょう,乞編れつ史官しかん。」眾議よしはじめいき赦令及李憕等,而程千里獨以生執賊庭,沾褒贈。甲子きのえね上皇じょうこう宣政のぶまさ殿どの,以傳國寶こくほう授上,うえはじめ涕泣ていきゅう而受
あんけいいとぐちきたはし也,其大將たいしょう北平きたひらおうじん及精へい曳落かわどう、六州胡數萬人皆潰歸范陽,しょ俘掠,人物じんぶつのこおもえあかりあつため備,且遣使ぎゃく招之范陽さかい,曳落かわろくしゅうえびすみなくだどうしたがえおもえあきらたてへいげきどう大敗たいはい,悉奪其所かすめ眾走其國。
けいいとぐちおもえあかりつよおもねうけたまわけいあんまもるちゅう徵兵ちょうへいいんみつ判官ほうがん耿仁さとしせつおもえあきら曰:「大夫たいふたかしじゅうにん莫敢ごとひとしさとしねがい一言ひとこと而死。」おもえあきら曰:「なに也?」ひとしさとし曰:「大夫たいふ所以ゆえん盡力じんりょく於安しゃさこ於凶みみこんとうしつ中興ちゅうこう天子てんしじんきよし大夫たいふまことそち所部ところぶ,此轉ためぶくけい也。」裨將がらすうけたまわ玼說おもえあきら曰:「こんとうしつさいみやつこけいいとぐち上露こうずゆみみ大夫たいふ奈何いかんあずかこれ俱亡!わか朝廷ちょうてい,以自湔洗,えき於反てのひらみみ。」おもえあきら以為しか
うけたまわけいまもりちゅう以五せん勁騎したがえいたり范陽,おもえあかりばん眾數まんむかえあい距一さとしょ使つかいじんいいうけたまわけいとう曰:「あいおおやけ及王どおいたり將士しょうしかち其喜,しかあたりへい怯懦きょうだ,懼相こう眾,敢進,ねがいたゆゆみ以安。」うけたまわけいとうしたがえこれおもえあきら引承けいとうにゅう內廳らくいんべつひとおさむ其甲へいしょぐんへいみなきゅうかてたてこれねがいとめしゃあつたまものふん隸諸營。明日あしたしゅううけたまわけいとう其將竇子のぼるたてまつおもて以所じゅう三郡及兵八萬來降,なみそち其河ひがし節度せつど使高秀たかひでいわおまた以所らいくだおつうしのぼるいたり京師けいしうえ大喜だいぎ,以思あかりためおう、范陽節度せつど使ななにんみなじょ顯官けんかん內侍おもえけいあずかがらすうけたまわおん往宣慰,使つかいはた所部ところぶへい討慶いとぐち
さきけいいとぐち以張忠志ちゅうしため常山つねやま太守たいしゅおもえあきら召忠こころざしかえ范陽,以其はた薛萼つねしゅう刺史ししひらき陘路,招趙ぐん太守たいしゅりくわたるくだこれいのち其子あさ將兵しょうへい五千人攝冀州刺史,以其しょうれいきつねあきらためはくしゅう刺史ししがらすうけたまわおんしょいたりせん佈詔むね,滄、瀛、やすふかとく、棣等しゅうみなくだ,雖相しゅうした河北かほくりつためからゆう矣。
上皇じょうこうじょう尊號そんごう曰光てん文武ぶんぶ大聖たいせいこうかん皇帝こうてい
かくかえ東都とうと經營けいえい河北かほく
ちぇりょ諲上ごと:「しょおちいぞくかんこくしたがえにせじゅんりつみなおうしょ。」じょうよくしたがえこれ峴以ため:「ぞくおちいりょうきょう天子てんしみなみじゅんにん逃生。此屬みな陛下へいか親戚しんせきあるくんきゅう子孫しそんこん一概いちがい以叛ほうしょおそれ乖仁じょみち。且河きたひらめ群臣ぐんしんおちいぞくしゃなおおおわか寬之ひろゆきあしひらけしんこれわかつき誅之,けん其附ぞくこころ也。《しょ》曰:『殲厥渠魁きょかいおびえしたがえ罔理。』諲、うつわもりぶんたち大體だいたいおもんみ陛上。」そう累日るいじつうえしたがえ峴議,以ろくとうじょうざいじゅうしゃけい於市,たまもの自盡じじんじゅうつえいちひゃくさんとうりゅう、貶。みずのえさるたち奚珣とうじゅう八人於城西南獨柳樹下,ちんのぞみれつとう七人賜自盡於大理寺;おう受杖しゃ於京ちょうもん
うえよくめんちょうひとしちょう垍死,上皇じょうこう曰:「ひとし、垍事ぞくみなにんけんようひとし仍為ぞく毀吾家事かじつみ不可ふか赦!」じょう叩頭こうとう再拜さいはい曰:「しんはりせつ父子ふしゆう今日きょうしん不能ふのうかつひとし、垍,使つかい死者ししゃゆうなにめん目見まみせつ九泉きゅうせん!」いん俯伏流涕りゅうてい上皇じょうこういのち左右さゆう扶上おこり,曰:「ちょう垍為なんじ長流ちょうりゅうみねひょうちょうひとし不可ふかかつなんじさら勿救!」じょう泣而したがえいのち
やす祿ろくやましょしょ河南かなんいんはり萬頃獨以在賊中能保庇百姓,すわころゆうぞくちゅうくだしゃげんとうぐん臣從しんじゅうやすけいいとぐちざい鄴者,聞廣たいらおう赦陳まれれつとうみな悼,恨失ぞくにわ;及聞まれれつとう誅,乃止。」じょう甚悔
しんこう曰:ため人臣じんしんしゃさくめいしつゆうまれれつとうあるとうとためきょうしょうあるおやれん肺腑はいふ,於承平之ひらの一言以規人主之失,すくい社稷しゃしょく危,迎合げいごうよう以竊富貴ふうき;及四海しかいよこつぶせじょう輿こし播越,偷生苟免,顧戀妻子さいしこびぞくしょうしん為之ためゆきちんつとむ,此乃屠酤之しょ羞,犬馬けんば如。倘更ぜん其首りょうふく官爵かんしゃく謅諛しん往而とくけい也。かれがお杲卿、ちょうじゅんせいそく擯斥ひんせき外方そっぽ,沉抑下僚かりょうらんそく委棄いき孤城こじょう,齏粉寇手。なにためぜんしゃ不幸ふこう而為惡者わるものこう朝廷ちょうていまち忠義ちゅうぎうす而保奸邪あつよこしまいたり於微賤之しんじゅん徼之隸,謀議ぼうぎあずか號令ごうれい及,あさ聞親せいみことのりゆうしつ警蹕けいひつこれしょ,乃復せめ不能ふのう扈從こしょうまたなん哉!ろくとうけい,斯亦矣,またなに悔焉!
韋氏すんではいためあまきょ禁中きんちゅうとしそつ
おけひだりみぎ神武じんむぐんもとしたがえ子弟していたかし,其制みな如四ぐんそういいきたきばろくぐんまたぜん騎射きしゃしゃ千人為殿前射生手,ふんひだりみぎひさしごう曰英たけぐん
ます河中かわなか防禦ぼうぎょ使ため節度せつどりょうがま、絳等ななしゅうぶんけんみなみためひがし西川にしかわ節度せつど東川ひがしがわりょうあずさとげとうじゅうしゅうまたおけ荊澧節度せつどりょう荊、澧等しゅう;夔峽節度せつどりょう夔、かいとうしゅうさら安西あんざい曰鎮西にし

肅宗文明ぶんめい武德ぶとく大聖たいせいだいせんこう皇帝こうてい中之下なかのしもいぬいもと元年がんねんつちのえいぬおおやけもとななはちねん


はる正月しょうがつつちのえとら上皇じょうこう宣政のぶまさ殿どの,授冊,じょう尊號そんごううえ固辭こじ大聖たいせいこれごう上皇じょうこうもとうえみこと上皇じょうこう曰太じょういたりどうせいすめらぎ天帝てんてい
さき官軍かんぐんすんでかつきょうじょう宗廟そうびょううつわ及府資財しざい散在さんざい民間みんかん使つかいけんくく,頗有はん擾;おつとり,敕盡とまこれ,乃命きょう兆尹李峴安撫坊市。
がつみずのとついたち,以殿ちゅうかん輔國兼太かねたぼくきょう。輔國ちょうよしばん元帥げんすい行軍こうぐん司馬しばいきおいかたぶけ朝野ちょうや
あんけいいとぐちしょしょ北海ほっかい節度せつど使のうもとあきら舉所らいくだ,以為おおとり臚卿,たかし河北かほく招討使
丁未ていみうえあかりおおとりもん,赦天改元かいげんつきめん百姓今載租、いさおふく以載ためねん
庚午こうご,以安ひがしふくだいみやこまもるおうげんこころざしため營州刺史ししたかしひら節度せつど使三月さんがつきのえいぬ,徙楚おう俶為なりおう
つちのえとらたてちょうよしため皇后こうごう
鎮西ちんぜいきたにわぎょう節度せつど使嗣業たむろかわ內。癸巳きしきたにわ兵馬へいば使おうおもんみはかりごとさくみだれ,嗣業あずか裨將荔非もとれい討誅
あんけいいとぐちきたはし也,其平原へいげん太守たいしゅおう暕、清河きよかわ太守たいしゅ宇文うぶんひろしみなころせ其使しゃらいくだけいいとぐち使其將蔡希とくあんふとしせいおさむ拔之,なまとりこ以歸,C061於鄴。凡有はかりごとしゃみな誅及しゅぞく乃至ないしきょくしゅうけんかんぞく連坐れんざ死者ししゃ甚眾。またあずか群臣ぐんしん血盟けつめい於鄴みなみ,而人しんえきはなれけいいとぐち聞李嗣業ざいかわ內,なつよんがつあずか蔡希とくちぇいぬいゆうはたまんわたる沁水おさむかち而還。
みずのと,以太子たいししょう虢王きょため河南かなんいんたかし東京とうきょう留守るす
からししんしゅいれふとしびょうきのえとらうえとおるふとしびょうとげまつひろしてん上帝じょうていおつあかりおおとりもん,赦天
五月ごがつみずのえうませいとま採訪さいほう使あらため黜陟使ため觀察かんさつ使
ちょう鎬性簡澹,ことちゅうよう,聞史おもえあきら請降,うえごと:「おもえあきらきょうけわしいんらん竊位,力強ちからづよすなわち眾附,いきおいだつのりじんはなれかれ雖人めんこころ如野じゅうなん以德なつけねがい勿假以威けん。」またげん:「なめらしゅう防禦ぼうぎょ使もと叔冀,狡猾こうかついつわり,臨難必變,請征にゅう宿衛しゅくえい。」じょう以寵おさめおもえあきらかいちゅう使つかい范陽及白らいみなげんおもえあきら、叔冀ちゅうこんしんじうえ以鎬ためきりごと戊子ぼしやめため荊州防禦ぼうぎょ使;以禮尚書しょうしょちぇひかりとおため河南かなん節度せつど使
ちょうきさきせいきょうおう佋,さいすうさいよく以為嗣。うえうたぐ未決みけつ從容しょうよういいこうこうろうちゅうせい誥李揆曰:「なりおうちょう,且有功ゆうこうちんほしたてため太子たいしきょうなん如?」揆再拜賀はいが曰:「此社稷しゃしょくぶくしんかち大慶たいけい!」じょう曰:「ちんけつ矣。」かのえとらたてなりおう俶為皇太子こうたいし。揆,玄道げんどう玄孫げんそん也。
乙未おとみ,以崔えんため太子たいししょう麟為しょうでんみなやめ政事せいじうえ頗好鬼神きじんふとしつねしょうきょうおう璵專鬼神きじん以求こびまい禮儀れいぎざつ以巫しゅく俚俗。うええつ,以璵ため中書ちゅうしょさむらいろうどうたいらあきらごと
おく常山つねやま太守たいしゅがお杲卿太子たいしふとしたもて,謚曰忠節ちゅうせつ,以其あかりためふとぼくすすむ。杲卿也,楊國ちゅうようちょうとおるかそけこれ譖,竟無褒贈。うえざいおおとりしょうかおきょうため大夫たいふ泣訴きゅうそ於上。上乃うえのいずるどおりかそけためやす太守たいしゅそう其狀於上皇じょうこう上皇じょうこうつえころせどおりかそけ。杲卿いずみあきらためおううけたまわぎょうしょとめいん寓居ぐうきょことぶきようためおもえあかりしょとりこ,裹以牛革ぎゅうかわおく於范かいやすけいいとぐちはつだてゆう赦,とくめんおもえあきらくだ,乃得もとめ其父かばね於東おひがしきょうとくとげなみ袁履けんかばねかん斂以。杲卿姊妹おんな及泉あきら之子ゆきこみな流落ながれおち河北かほくきょうためかばのしゅう刺史しし使つかいいずみあきら往求いずみあきら號泣ごうきゅうもとめおとずれあいかんじん久乃ひさのとくいずみあきらまいしん乞索,ずい所得しょとく多少たしょう贖之,さきしゅうと姊妹而後其子。しゅうとおんなためぞくしょかすめいずみあきらぜにひゃく緡,よく贖己おんな,閔其しゅうと愁悴,さき贖姑おんなさらとくぜにもとめ其女,やめしつ所在しょざいぐうぐんしたがえ姊妹及父はた吏袁くつけんとう妻子さいし流落ながれおちしゃみなあずかこれ,凡五じゅうあまりさんひゃくくちひとし減資げんしかて一如いちにょ親戚しんせきいたりかばのしゅうちょくきょう悉加贍給,久之ひさゆきずい其所てき而資おくこれ。袁履けんつまうたぐくつけんころもふすま儉薄,はつかんあずか杲卿こと,乃始慚服。
ろくがつおのれとりだてふと一壇於南郊之東,したがえおう璵之請也。うえ嘗不ぼくくも山川やまかわためたたり,璵請遣ちゅう使つかいあずかじょみこじょうえきぶん禱天下名しもみょうさん大川おおかわみこ恃勢,しょはん擾州けんもとめ受贓。しゅうゆうみこもり年美としみしょくしたがえ無賴ぶらい少年しょうねんすうじゅうため蠹尤甚,いたりしゅう宿やど於驛捨。刺史ししひだりふるえ晨至えきもん扃鎖,不可ふかけいふるえいかやぶくさり而入,曳巫於階これしょしたがえ少年しょうねん悉斃せき其贓すうじゅうまん以狀聞,且請以其贓代貧民ひんみん租,ちゅう使つかいかえ京師けいしうえ以罪也。
開府かいふどう三司李嗣業為懷州刺史,たかし鎮西ちんぜいきたにわぎょう節度せつど使
山人さんじんかん改造かいぞうしんちょうはつくだり穎歷。
つちのえうま,敕兩きょうおちいぞくかん,三司推究未畢者皆釋之;やめ貶、くだしゃぞく處分しょぶん
太子たいししょうぼう琯既失職しっしょく,頗怏怏おうおうしょうやましあさ,而賓きゃく朝夕ちょうせきみつるもん,其黨為之ためゆき揚言ようげん於朝うん:「琯有文武ぶんぶざいむべ大用おおゆう。」上聞じょうぶん而惡したせいすう琯罪,貶幽しゅう刺史ししぜんまつりしゅりゅう秩貶閬州刺史ししきょう兆尹嚴武貶巴州刺史;みな琯黨也。
はつおもえあきら以列しょうごとらい軍使ぐんしがらす知義ともよし知義ともよしぜんまち義子ぎしうけたまわおん為信ためのぶ太守たいしゅ,以郡くだおもえあきらおもえあかりおもえ舊恩きゅうおん而全。及安けいいとぐちはいうけたまわおんせつおもえあきらくだとうひかり弼以おもえあきらおわりとう叛亂はんらん,而承おんためおもえあかりしょおやしんじかげ使またすすむじょう以承おんため范陽節度せつど副使ふくしたまものおもねうけたまわけいてつけんれいともおもえあきらうえしたがえこれ
うけたまわ恩多おんた以私ざいつのきょくまたかずころも婦人ふじんふくまいしょしょう營說さそえこれしょしょう以白おもえあきらおもえあきらうたぐ察。かいうけたまわおん入京にゅうきょう上使じょうし內侍おもえけいあずかこれ俱至范陽せん慰。うけたまわおんすんで宣旨せんじおもえあきらとめうけたまわおんかん於府ちゅうとばり其床,ふくにん於床うけたまわおん少子しょうしざい范陽,おもえあかり使しょう其父。夜中よなかうけたまわおんみついい其子曰:「われ受命じゅめいじょ此逆えびすとう以吾ため節度せつど使。」二人於床下大呼而出。おもえあきら乃執うけたまわおんさく其裝囊,とくてつけん及光弼牒,牒云:「うけたまわ慶事けいじなりそくづけてつけんしか不可ふかづけ也。」またとく簿しょすうひゃくみなさきしたがえおもえあかりはんしゃ將士しょうしめいおもえあきらせめ曰:「わがなに於汝而為此!」うけたまわおんしゃ曰:「死罪しざい,此皆ひかり弼之はかりごと也。」おもえあきら乃集はた吏民,西向にしむきだい哭曰:「しんじゅうさんまん眾降朝廷ちょうていなに陛下へいか,而欲ころせしん!」とげ榜殺うけたまわおん父子ふし連坐れんざ死者ししゃひゃく餘人よにんうけたまわおんおとうとうけたまわ玼免。おもえあかりしゅうおもえけいひょうじょう其狀。うえちゅう使つかい慰諭おもえあきら曰:「此非あさ廷與こう弼之みなうけたまわおん所為しょいころせ甚善。」
かい三司議陷賊官罪狀至范陽,おもえあきらいいしょしょう曰:「ちんのぞみれつやからみな朝廷ちょうてい大臣だいじん上皇じょうこう自棄じきこうしょくいまなおめん於死,きょうわれぞくほんしたがえやす祿ろくやまはん乎!」しょしょう請思あかりひょうもとめ誅光弼,おもえあかりしたがえこれいのち判官ほうがん耿仁さとしあずか其僚ちょう矜為ひょううん:「陛下へいか不為ふためしん誅光弼,しんとう引兵就太げん誅之。」矜草ひょう以示おもえあきら,及將にゅうはこひとしさとし悉削これうつしひょうしゃ以白おもえあきらおもえあきらいのちにんこれじんさとしごとおもえ明久あきひさおもえあきら憐,よくかつふく召入,いい曰:「わがにん使なんじたれさんじゅうねん今日きょう非我ひがなんじ。」ひとしさとし大呼たいこ曰:「人生じんせいかいゆう一死いっしとくつき忠義ちゅうぎぜんしゃ也。いましたがえ大夫たいふはんのべ歲月さいげつあにわかそくいよいよ乎!」おもえあきらいからん捶之,のうりゅう於地。
がらすうけたまわ玼太ばらひかり弼表ためあきらぐんおうたかし石嶺いしみね軍使ぐんし
あきなながつへいいぬはつとうじゅうだいぜにぶん曰「いぬいもと重寶ちょうほう」,したがえちゅうすすむだい五琦之謀也。
ちょうさついのちかい紇可あせ曰英武威ぶいどお毘伽闕可あせ以上いじょう幼女ようじょやすしこく公主こうしゅつま。以監かんちゅうおう瑀為さつれい使みぎ司郎しろうちゅうたつみふくこれいのちひだりぼくしゃ裴冕送公主こうしゅ至境しきょうじょう戊子ぼしまた以司くんいん餐郎鮮於叔明ため瑀副。叔明,仲通なかどおりおとうと也。甲子きのえねうえおくやすしこく公主こうしゅいたり咸陽,公主こうしゅ訣曰:「國家こっかごとじゅう且無恨!」じょう流涕りゅうてい而還。
瑀等いたりかい紇牙ちょうあせころも赭袍えびすぼうすわとばりちゅう榻上,まもる甚盛,引瑀とうたて於帳がい,瑀不はい而立じりつあせ曰:「わがあずかてんあせりょう國之くにゆきくん君臣くんしん有禮ありのりなにはい!」瑀與叔明たい曰:「むこうしゃとうあずか諸國しょこくためこんみな以宗しつおんなため公主こうしゅこん天子てんし以可あせ有功ゆうこう以所せいおんなつまあせおんれいいたりじゅうあせ奈何いかん以子婿むこ婦翁ふおうすわ榻上受冊いのちよこしま!」あせあらためようおこり受冊いのち明日あしたたて公主こうしゅためあつし,舉國みな
乙未おとみかく入朝にゅうちょう
はちがつみずのえとら,以青、とうとう五州節度使許叔冀為滑、濮等ろくしゅう節度せつど使
かのえいぬひかり入朝にゅうちょうへいたつ,以郭ため中書ちゅうしょれいひかり弼為さむらいちゅうちょうまいあるき營。
かい紇遣其臣こつすすとく勒及みかどとくはた驍騎さん千助討安慶緒,じょういのちついたちかたひだりたけほこさき使ぼくかたふところおんりょう
きゅうがつ庚午こうごついたち,以右羽林はばやし大將軍だいしょうぐんちょう泚為がまどう、虢さんしゅう節度せつど使
へい,招討とうこう使おうなかますとうこう酋長しゅうちょうつぶせばつえびすいさおつてくび
あんけいいとぐちはついたり鄴也,雖枝とうはなれ析,なおよりどころななぐんろくじゅうあまりじょうかぶとへいかてゆたか備。けいいとぐちおや政事せいじせん以繕だいぬまろうせんたけなわいん為事しごと。其大臣だいじん高尚こうしょうちょうとおる儒等そうけんふく綱紀こうき。蔡希とくゆう才略さいりゃくへい精銳せいえい,而性つよしこう直言ちょくげんつう儒譖而殺麾下きかすうせんにんみな逃散,しょしょう怨怒不為ふためよう。以崔いぬいゆうため天下でんか兵馬へいば使そう中外ちゅうがいへいいぬいゆう愎戾こうころせ士卒しそつ
かのえとらいのちついたちかたかく、淮西魯炅、きょうたいら奐、すべり濮許叔冀、鎮西ちんぜいきたにわ嗣業、てい蔡季こう琛、河南かなんちぇひかりとお七節度使及平盧兵馬使董秦將步騎二十萬討慶緒;またいのち河東かわとうひかり弼、せき內、さわ王思おうしれい二節度使將所部兵助之。うえ以子ひかり弼皆元勳げんくんなんしょうすべぞくおけ元帥げんすいただし以宦かん開府かいふどう三司魚朝恩為觀軍容宣慰處置使。かんぐんようめい此始。癸巳きし廣州こうしゅうそう大食たいしょくなみ斯圍しゅうじょう刺史しし韋利逾城はしこくへいかすめ倉庫そうこ,焚廬しゃ,浮海而去。
ふゆじゅうがつきのえたつさつ太子たいしさらめい曰豫。中興ちゅうこう以來いらいぐんふく賜物たまものいたりはじめゆうしんだいぜに百官ひゃっかんろくぐん沾賚ゆう
かく引兵あんずえんずみかわひがしいたりよしみやぶあんふとしきよし斬首ざんしゅよんせんきゅう捕虜ほりょひゃくにんふとしきよしはし保衛やすえしゅうしんかこえ丙午ひのえうま使つかいつげとし。魯炅たけわたるこう琛、ちぇひかりとおさんなつめわたるあずか嗣業へいみなかい於衛しゅうけいいとぐち悉舉鄴中ななまんすくいまもるしゅうふん三軍さんぐん,以崔いぬいゆうはたうえぐんうけたまわ嗣將ぐんけいいとぐちしょうちゅうぐん使ぜんしゃしゃさん千人伏於壘垣之內,れい曰:「わが退すさぞく必逐わがなんじ乃登るいつづみ噪而しゃ。」すんで而與けい緒戰しょせんにせ退すさぞく逐之,いたりるい伏兵ふくへいおこりしゃ如雨ちゅうぞくかえはしふく引兵逐之,けいいとぐち大敗たいはい其弟慶和よしかずころせこれとげ拔衛しゅうけいいとぐちはしとうおいいたり鄴,もと叔冀、ただしはた王思おうしれい及河ひがし兵馬へいば使薛兼くんみな引兵つぎいたりけいいとぐちおさむあまり眾拒せん愁思しゅうしおかまたはい前後ぜんご斬首ざんしゅさんまんきゅう捕虜ほりょせんにんけいいとぐち入城にゅうじょう固守こしゅとうかこえこれひかり弼引へいつぎいたりけいいとぐち窘急,薛嵩もとめすくい於史おもえあきら,且請以位ゆずるこれおもえあかりはつ范陽へいじゅうさんまんよくすくい鄴,觀望かんぼう敢進,先遣せんけんじんはたいちまんぐん於滏はるかためけいいとぐちごえぜい
きのえとら上皇じょうこうこう清宮きよみやじゅういちがつちょううしかえ京師けいし
ちぇひかりとお拔魏しゅうへいいぬ以前いぜん兵部ひょうぶさむらいろうしょうはなためしゅう防禦ぼうぎょ使かいおもえあかりぶんぐんためさんいち邢、らくいち冀、かい,一自洹水趣魏州。かくそう以崔こうとおだいはな十二月じゅうにがつみずのと,敕以こうどおりょうしゅう刺史しし
きのえたつおけ浙江せっこう西道さいどう節度せつど使りょうじゅんとうじゅうしゅう,以升しゅう刺史しし韋黃為之ためゆきかのえいぬおけ浙江せっこう東道とうどう節度せつど使りょうえつむつみとうはちしゅう,以戶尚書しょうしょ峘為けん淮南ワイナン節度せつど使
おのれ群臣ぐんしん請上尊號そんごう曰乾もと大聖たいせいこう天文てんもんたけたかしかん皇帝こうていもと
ふみおもえあきらじょうちぇひかりとおはついたり,引兵大下おおげひかりどお使つかい將軍しょうぐんしょ崟拒ぞくぜいもりしょ連戰れんせん不利ふりかえおもむきじょうぞくついいたり城下じょうか揚言ようげん曰:「しょ崟召らいなにため不出ふしゅつ!」ひかりとお信之のぶゆきこししょ崟。ところ崟,驍將ぎょうしょう,眾所恃也,すんで,眾無鬥志,ひかりとおだつはしかえ汴州。ちょうしげるおもえあきらおちいしゅうしょころせさんまんにん
ひら節度せつど使おうげんこころざし薨,うえちゅう使つかい往撫慰將,且就察軍ちゅうしょよくりつしゃ,授以旌節。こう麗人れいじんふところだまため裨將,ころせげんこころざし之子ゆきこ,推侯まれはぐれ為平ためひら軍使ぐんしまれいっははふところだましゅうと也,ふところだまりつ朝廷ちょうていいん以希いっため節度せつど副使ふくし節度せつど使よしぐん廢立はいりつ此始。
しんこう曰:おっと民生みんせいゆうよく無主むしゅそくらん聖人せいじんせいれい以治天子てんし諸侯しょこういたり於卿、大夫たいふ、庶人,尊卑そんぴゆうぶん大小だいしょうゆうりんわかつなじょうあい維,ひじゆびあい使つかい以民ふくごと其上,而下覬覦。其在《しゅうえき》,「上天じょうてん下澤しもざわくつ。」ぞう曰:「君子くんし以辨上下じょうげていみんこころざし。」此之いい也。凡人ぼんじんくん所以ゆえんのうゆう臣民しんみんしゃ,以八柄存乎己也。苟或捨之,のり彼此ひしいきおいひとしなに以使其下哉!
肅宗遭唐ちゅうおとろえこう而復こくよろしせい上下じょうげれい綱紀こうき四方しほう;而偷取いちやすおもえ永久えいきゅう患。かれいのち將帥しょうすいみつる籓維,國之くにゆき大事だいじ也,乃委いちかい使つかい,徇行じょうといけん不肖ふしょうおもんみ其所ほしあずかしゃそく授之。これせき習為つね君臣くんしん循守,以為得策とくさくいい姑息こそく乃至ないしへん裨士そつころせ逐主そちまた不治ふち其罪,いん以其にん授之。しかのり爵祿しゃくろくはいおけ殺生せっしょう予奪よだつみな不出ふしゅつ於上而出於下おしたらんなま也,いさおゆうきょく乎!
且夫ゆう國家こっかしゃしょうぜん而誅あくためぜんしゃすすむため惡者わるもの懲。かれためじん而殺逐其じょうあく孰大焉!乃使よう旄秉鉞,師長もろなが一方いっぽうしょう也。しょう以勸あくあく其何しょいたり乎!《しょうん:「とお乃猷。」《うん:「猷之とおようだい諫。」孔子こうし曰:「ひと無遠慮ぶえんりょ,必有きんゆう。」ため天下でんかせい,而專ごと姑息こそく,其憂患ゆうかんかちこう乎!よしためしゃつね眄眄焉伺其上,苟得あいだそくおさむ而族ためうえしゃつね惴惴焉畏其下,苟得あいだそく掩而屠そうつとむ先發せんぱつ以逞其志,ゆうしょう保養ほようため俱利ひさそんけい也。如是にょぜ而求天下でんかやす,其可とく乎!あと其厲かいはじめ於此矣。
ぶたいにしえしゃぐん必本於禮,すすむぶんおおやけじょう濮之せん其師しょうちょう有禮ありのり其可ようこんからぐん而不顧禮,使つかい士卒しそつとく以陵へん裨,へん裨得以陵將帥しょうすいのり將帥しょうすいりょう天子てんし自然しぜんいきおい也。
よしらん繼起けいき兵革へいかくいきみん墜塗ずみしょ控訴こうそ,凡ひゃくねんしかこうそう受命じゅめいふとしはじめせい軍法ぐんぽう使つかい以階きゅう相承そうしょうしょうゆう違犯いはん,鹹伏おのしつ以上いじょうしたゆう敘,れいくだり禁止きんしよんせいにわおもえ不服ふふく,宇內乂安,兆民ちょうみんまことふえ,以迄於今,みな由治よしはるぐん以禮也。あに詒謀とお哉!
これさいおけたけ節度せつど使りょう鎮北だいみやこまもる、麟、かちしゅうまたおけ陝虢はな及豫もとなんじ節度せつど使やすみなみ經略けいりゃく使ため節度せつど使りょう交、りくとうじゅういちしゅう
吐蕃おちいかわげんぐん


 まきひゃくじゅうきゅう かえしかいいただき まきひゃくじゅういち

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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