どおりかん/まき283

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 まきひゃくはちじゅう どおりかん
まきひゃくはちじゅうさん すすむよん
まきひゃくはちじゅうよん 

おこりげんだまひさげかくつき閼逢執じょ正月しょうがつ,凡ねんゆう

どおりかん だい283かん
すすむよん】 おこりげんだまひさげかくつき閼逢執じょ正月しょうがつ,凡ねんゆう

高祖こうそきよし文章ぶんしょうたけ明德あきのりこう皇帝こうてい天福てんぷくななねんみずのえとらおおやけもときゅうよんねん


はる正月しょうがつちょう,鎮州きばはた西にしかくみず碾門しるべ官軍かんぐん入城にゅうじょうころせもり陴民まんにんやすじゅうさかえこれもりじゅうころせしるべしゃ以為こう庚申こうしんじゅうさかえくびいたり鄴都,みかどいのちうるしはこおくちぎり
みずのとあらため鎮州ためつねしゅう成德しげのりぐんためじゅん國軍こくぐん
へいとら,以門さむらいろうどうたいらあきらごとちょう瑩為さむらいちゅう,以杜じゅうためじゅんこく節度せつど使けんさむらいちゅうあんしげるさかえ私財しざい及恆しゅうじゅうつきゆうみかど而不といまたおもてまもるじょうしょうきょう范陽おう瑜為副使ふくし,瑜為じゅう斂於みん恆人つねとかち其苦。
ちょうしきちち鐸詣闕訟冤。みずのえうま,以河節度せつど使おうあまねためあきら節度せつど使だいちょう彥澤。
閩主曦立皇后こうごうどうたいらあきらごと真之まさゆきじょ也;嗜酒剛愎ごうふく,曦寵而憚
あきらたけ節度せつど使丁していしん琪,やしなえきょくせんにんたてため暴於さかい內;ぐんこう行政ぎょうせいあずかしょえびすしょうゆいためみだれおさむのぶしゅうみかど曹州防禦ぼうぎょ使なんじゅうけん將兵しょうへいすくいどう、鄜援へいつぎいたり,乃得めんがつみずのとやめ,以重けんためあきらたけとめ,召審琪歸朝きちょうじゅうけんくもさくあいだえびすじん也。からひだり丞相じょうしょうそうひとしおかかたもとめ政事せいじからしゅ聽入中書ちゅうしょまたもとめりょう尚書しょうしょしょう,乃罷さむらいちゅうことぶきおうけいとげばん尚書しょうしょしょうさらりょう中書ちゅうしょ門下もんかしょう,以齊おかとも尚書しょうしょしょうごと;其三省事並取齊王璟參決。ひとしおかことすうがつおや吏夏あきらぬすめかんぜにさんせん緡,ひとしおかばんかし其死;とうぬしだいいかあきらひとしおかしょうやまし,請罷しょうごとしたがえこれ
涇州そう押牙ひねのべあきら敕書まいりょうしゅうしゅう中將ちゅうじょう吏請のべあきらため節度せつど使
さんがつ,閩主曦立長樂ながらおうきよしため閩王。
ちょう彥澤ざい涇州,擅發へいげきしょえびすへいみなはいぼつ調しらべみんせんひき以補かえいたり陝,ほろびはた楊洪,じょうよいだん手足てあし而斬おうあまねそう彥澤ざい鎮貪ざん不法ふほうじゅうろくじょうみん亡者もうじゃせん。彥澤すんでいたりみかど以其ゆう軍功ぐんこうまたあずか楊光どおれん姻,しゃく不問ふもん
なつよんがつおのれみぎ諫議大夫たいふてい受益じゅえきじょうげん:「楊洪所以ゆえんほふゆかり陛下へいか去歲きょさいおくちょうしきあずか彥澤,使つかいたくましこころざし,致彥さわ敢肆きょうざんしょ忌憚きたん見聞けんぶんひときり,而陛不動ふどうしんいちつめゆずるよし慝莫べん賞罰しょうばつしょう中外ちゅうがいみなげん陛下へいか受彥さわしょけんじひゃくひき,聽其如是にょぜしん竊為陛下へいか惜此惡名あくめい,乞正彥澤ざいほう,以湔あらい聖德せいとく。」疏奏,とめちゅう受益じゅえきしたがえ讜之兄子せこ也。庚申こうしん刑部おさかべろうちゅう濤等ふくかく極論きょくろん彥澤つみ甚切いたりからしとり,敕:「ちょう彥澤そぎいちかいくだ爵一きゅうちょうしきちち子弟していみなはいかん。涇州民しゅうみん復業ふくぎょうしゃげん其徭。」みずのと濤復あずか兩省りょうしょう及御だいかんふくかくそう彥澤ばつふとしけい,請論如法にょほうみかど召濤めんさとしこれ。濤端しゃくぜんさこ殿どの陛,論辨ろんべん聲色こわいろ俱厲。みかどいかれんしかこれ,濤不退すさみかど曰:「ちんやめもと彥澤不死ふし。」濤曰:「陛下へいかもと彥澤不死ふし不可ふか不知ふち范延こうてつけん安在あんざい!」みかどはらいころもおこりにゅう禁中きんちゅうへいとら,以彥さわためひだりりゅうたけし大將軍だいしょうぐん
かん高祖こうそやまし,以其はたおうひろしすすむおうひろし熙皆おごほしいまま少子しょうしこしおう弘昌ひろまさこう謹有智識ちしきあずかみぎぼくしゃけん西にしいん使おう翷謀ひろ鎮邕しゅうひろ熙鎮ようしゅう而立じりつ弘昌ひろまさせいいのち將行まさゆきかいたかし文使ふみづかいしょうえきにゅうといやまし,以其ごとおとずれこれえき曰:「たて嫡以ちょうたがえ必亂。」乃止。ちょううし高祖こうそ殂。高祖こうそためじんべん察,けんすうこう矜大,つねいい中國ちゅうごく天子てんしためらくしゅう刺史しし」。みねみなみちんことしょ聚,まいきゅうおごごくうらら宮殿きゅうでん悉以金玉きんぎょくたまみどりためかざりようけいむごこくゆう灌鼻、わりしたささえかい剔、ほうあぶ、烹蒸ほうある聚毒へび水中すいちゅう,以罪じんとういいみずごくどうたいらあきらごと楊洞せん諫,聽。すえねんゆう猜忌さいき;以士じんため子孫しそんけい專任せんにん宦者,ゆかり其國ちゅう宦者大盛おおもり
はたおうひろしそく皇帝こうていさらめい玢。以弘熙輔せい改元かいげんこうてんみことははちょうあきら曰皇たい
ちぎり以晉招納吐谷渾,使つかいらいゆずるみかどゆう不知ふちためけいがつおのれはじめゆうやまし
おつみことたいりゅうため皇太后こうたいごうふとしきさきみかど庶母也。
から丞相じょうしょうふとしそうひとしおかすんでやめ尚書しょうしょしょうふくあさ謁。からおもことぶきおうけいとげろうとえもと鎮洪しゅうはじめ入朝にゅうちょうからおもあずかこれえんさけたけなわひとしおか曰:「陛下へいか中興ちゅうこうしん力也りきや奈何いかん忘之!」からおもいか曰:「おおやけ以遊きゃくちんこんため三公みつきみまたあし矣。乃與じんげんちんがらす喙如踐,なんあずかきょう安樂あんらくゆう乎?」ひとしおか曰:「しんじつゆう此言。しんため遊客ゆうかく陛下へいか乃偏裨耳。今日きょうころせしん矣。」明日あしたからあるじしゅみことのりしゃ曰:「ちん褊性,かさひらたむかししょしょうあいおやろうしょう怨,乎!」丙午ひのえうま,以齊おかため鎮南節度せつど使
みかどやまし一旦いったん,馮道どくたいみかどいのち幼子おさなごじゅう睿出はいまたれい宦者かかえじゅう睿置どう懷中かいちゅう,其意ぶたほっどう輔立
ろくがつおつうしみかど殂。
みちあずか天平てんぴょう節度せつど使さむらいまもるうまあゆみおそれこうけい延廣のぶひろ,以國家こっか多難たなんむべ立長りっちょうきみ,乃奉こうすすむいんひとしおうしげるため嗣。ひとしおうそく皇帝こうてい延廣のぶひろ以為おのれこうはじめ用事ようじきん都下とかじん毋得偶語ぐうご
はつ高祖こうそやまし亟,ゆうむね召河ひがし使りゅうともとおにゅう輔政,ひとしおうとおゆかり怨齊おう
ちょうしげるみこと皇太后こうたいごう曰太皇太后こうたいごう皇后こうごう皇太后こうたいごう
閩富すなおうのべせいかこえなぎさしゅう,閩主曦發漳、いずみへいせんすくいまた其將はやしまもるあきらにゅうゆうけい大明だいめいみや使けいちゅうたむろゆうこうよくじょうきょかさねけんしゅうこくけい使つかい紹頗はた步卒ほそつはちせんためぐん聲援せいえん
あきなながつみずのえたつ太皇太后たいこうたいこうりゅう殂。
閩富すなおうのべせいおさむなぎさしゅうよんじゅうせんかつ而歸。其將つつみひろしちんのぞむはた水軍すいぐん以御ふくしゅうひのととりぐう於尤こうけいちゅうしょうせんうらないしゃげん時刻じこく,按兵不動ふどうひろしとう引兵とうがん水陸すいりく夾攻ころせけいちゅう,俘斬せんきゅうはやしまもるあきら紹頗みな遁歸。
かのえ大赦たいしゃ
みずのとけい延廣のぶひろどうたいらあきらごとけんさむらいまもるうまあゆみ指揮しき使
くんきゅうみなよくふくおけくるる密使みっし,馮道とうさんひょう,請以樞密すうみつきゅうしょくゆずるみかどもと
ゆうかみくだ於博縣民けんみんあずかひとげん而不其形,閭閻じん往占吉凶きっきょうけんけん吏張ぐうけんごと甚謹。とき循州盜賊とうぞくぐんおこり,莫相統一とういつぞくそちども禱於しんかみ大言たいげん曰:「ちょうぐうけん當為とういなんじぬし。」於是ぐんそちどもたてまつぐうけんしょう中天ちゅうてんはち國王こくおう改元かいげん永樂えいらくおけ百官ひゃっかんおさむかすめうみすみぐうけん年少ねんしょう方略ほうりゃくしょしょうただしつげ進退しんたい而已。かんぬし以越おう弘昌ひろまさためみやこみつる,循王ひろ杲為ふく以討せん於錢帛館。かんへい不利ふり,二王皆為賊所圍;指揮しき使ひねどう癢等力戰りきせんすくいとくめん東方とうほうしゅうけんおおためぐう賢所かしこどころおちいみち庠,はししゅうじん也。
高行たかゆき周圍しゅういじょうしゅう逾年,した城中じょうちゅう食盡しょくじんたてまつ國軍こくぐんおそれこうきょくしゅうおうきよしげん於行しゅう曰:「ぞくじょうやめ危,わがやめおい民力みんりょくやめこまはやせりなおなに俟乎!」あずかたてまつこく指揮しき使元城もとしろりゅうそち先登せんとうはちがつ,拔之。やすしたがえすすむ舉族焚。
甲子きのえね,以趙瑩為中書ちゅうしょれい。閩主曦遣使以手みことのり及金きゅうひゃくぜにまん緡、はた吏敕つげろくひゃくよんじゅうつうもとめ於富すなおうのべせいのべせい受。へいとら,閩主曦宴群臣ぐんしん於九りゅう殿どのしたがえまましやわ不能ふのういんつよこれまましやわわたしげん其酒,曦怒,なみ客將かくしょうこれ
閩人えいたかし通寶つうほうだいてつぜにいちとうなまりぜにひゃく
かんそう天皇てんのう大帝たいてい於康りょうびょうごう高祖こうそ
とうぬしためくれしょうきょうじょがい變更へんこう舊法きゅうほう甚多。及即位そくいいのち法官ほうかん及尚しょ刪定ためますもとじょうさんじゅうかんかのえとらぎょう
閩主曦以どうたいらあきらごとこうかんあまり廷英ため泉州せんしゅう刺史しし。廷英むさぼけがれかすめじん女子じょし詐稱さしょう受詔さい以備後宮こうきゅうことさとし,曦遣按之。廷英懼,まいふくしゅう,曦詰責きっせきはた以屬吏;廷英退すさけんじかいえんぜにまん緡。曦悅,明日あした召見,いい曰:「うたげやめかい矣,皇后こうごう貢物みつぎもの安在あんざい?」廷英ふくけんじぜに於李,乃遣かえり泉州せんしゅうもろしゅうみなべつみつぎ皇后こうごうぶついくふく召廷えい為相ためすけ
ふゆじゅうがつへいちょうぐうけんおちい循州,ころせかん刺史ししりゅうつたえ
すわえおうまれはんさくてんさくきょくとう宇之もり牖欄おりみなかざり以金だまぬりかべようすなすうじゅうまんきん地衣ちいはるなつようかく簟,秋冬あきふゆよう木綿もめんあずか子弟してい僚屬ゆうえん其間。
十一月じゅういちがつかのえとらそうひじり文章ふみあきたけ明德あきのりこう皇帝こうてい於顯りょうびょうごう高祖こうそ
さき河南かなんきたしょしゅうかんうれうみしおさいおさむ緡錢じゅうななまんまたかいこしお斂民ぜにげんごとしゃしょうみんすわわたし販鹽抵罪しゃ眾,わか聽民自販じはん,而歲以官しょうりぜにちょく斂於みんいい食鹽しょくえんぜに高祖こうそしたがえこれにわか而鹽ひたすら賤,まいきんいたりじゅうぜにいたり,三司使董遇欲增求羨利,而難於驟へんぜんほう,乃重せいしおしょうしゃななせんとめうりしゃじゅうぜによししおしょう殆絕,而官ふくうれ。其食しおぜにいたりこん斂之如故。
閩鹽てつ使みぎぼくしゃひとしぐう敏之としゆき,閩主曦之おい也;年少ねんしょうよし姿容しようとくこう於曦。十二月じゅうにがつ,以仁ぐうためひだりぼくしゃけん中書ちゅうしょさむらいろう翰林かんりん學士がくし、吏部さむらいろうひかりじゅんため中書ちゅうしょさむらいろうけん戶部とべ尚書しょうしょなみどうたいらあきらごと。曦荒淫こういん,嘗夜えんひかりじゅんよい忤旨,いのちおく都市としこれ;吏不敢殺,けい獄中ごくちゅう明日あしたあさ,召復其位。ゆうまたうたげおさむ翰林かんりん學士がくししゅう維岳下獄げごく。吏拂榻待,曰:「あいおおやけ昨夜さくや宿やど此,尚書しょうしょ勿憂。」醒而しゃく他日たじつまたうたげ侍臣じしんみな以醉どく維岳ざい。曦曰:「維岳甚小,なに飲酒いんしゅ?」左右さゆうある曰:「さけゆうべつちょう必長だい。」曦欣然きんぜんいのち捽維だけ下殿しもとのよく剖視其酒ちょうある曰:「ころせ維岳,無人むじんふくのうさむらい陛下へいかげきいんしゃ。」乃捨
みかどはつ即位そくい也,大臣だいじんたてまつおもてしょうしんつげあい於契けい延廣のぶひろ請致しょしょうまご而不しょうしん崧曰:「こごめ以為社稷しゃしょくなにはじゆう陛下へいか如此,他日たじつ必躬擐甲冑かっちゅうあずかちぎりせん,於時悔無えき矣。」延廣のぶひろかたそう,馮道たがえ其間。みかどそつしたがえ延廣のぶひろちぎりだいいか使つかいらいせめゆずる,且言:「なにさきうけたまわ稟,遽即帝位ていい?」延廣のぶひろふく不遜ふそんこたえ
ちぎりりゅう節度せつど使ちょう延壽えんじゅよくだいすすむみかど中國ちゅうごく,屢說ちぎりげきすすむちぎりぬし頗然
ひとしおうじょう

高祖こうそきよし文章ぶんしょうたけ明德あきのりこう皇帝こうてい天福てんぷくはちねんみずのとおおやけもときゅうよんさんねん


はる正月しょうがつみずのとしょくぬし以宣徽使けん宮苑みやぞの使けいぜんりょうながひら節度せつど使けいぜん,宦者也,引前しょくおううけたまわきゅうため而命國人くにびとこれ
みかど聞契たんすすむ入寇にゅうこうがつおのれはつ鄴都;おつうしいたり東京とうきょうしかなおあずかちぎりとえのこあい往來おうらいきょがつ
からせんじょうおうけいたち剛毅ごうきひらけ爽,れつあい,屢欲以為嗣;そうひとしおか亟稱其才,からしゅ以齊おう璟年ちょう而止。璟以怨齊おかからしゅ幼子おさなごけい逷,はは种氏ゆうちょうひとしおう璟母そう皇后こうごうまれとくしんからしゅ如璟みやぐう璟親調ちょう樂器がっきだいいか,誚讓しゃ數日すうじつ。种氏乘うじのりあいだごとけい逷雖よう而慧,以為嗣。からおもいか曰:「ゆうちちくんつねこと也。國家こっか大計たいけい女子じょしなんとくあずか!」そくいのちよめからしゅ嘗夢吞靈だん而方もりおきけんじかた,以為しん而餌ひたなる躁急そうきゅう左右さゆう諫,聽。嘗以やくたまものたていさおたていさお曰:「しんえさ數日すうじつやめさとし躁熱,きょうえさ乎!」からしゅ曰:「ちんふくひさ矣。」群臣ぐんしんそうごと往往おうおう暴怒;しかある有正ありまさしょく論辨ろんべんちゅうしゃまた斂容慰謝いしゃ而從からしゅとい道士どうしおう棲霞:「なにどう太平たいへい?」たい曰:「王者おうじゃしん,乃治こくこん陛下へいかひさしのうひだる嗔、飽喜,なにろん太平たいへい!」そうきさきすだれ中稱ちゅうしょう歎,以為至言しげん。凡唐ぬししょたまもの,棲霞みな受。棲霞つねためじんそうあきらとうぬしよく為之ためゆきちくだん曰:「くにようかたとぼしなにひま及此!俟焚あきら,乃當奏請そうせいみみ。」
ろうちゅう馮延おのれためひとしおう元帥げんすいつね書記しょきせいかたぶけたくみあずかそうひとしおか及宣徽副使ふくしちんさとししょうゆい同府どうふざいうえしゃのべおのれやや以計逐之。のべやめ嘗戲いい中書ちゅうしょさむらいろうまごあきら曰:「公有こうゆうなんのうため中書ちゅうしょろう?」あきら曰:「あきら山東さんとうひな儒,文章ぶんしょう如公,詼諧如公,諂詐如公。しかしゅ上使じょうしこうあずかひとしおうゆうしょぶたよく仁義じんぎ輔導ほどう也,あにただしため聲色こわいろいぬともよこしまあきらまこと無能むのう;如公のうてきあしため國家こっかわざわいみみ。」のべおのれ,歙州じん也。またゆう岑者,またざいひとしおうきゅうごとちゅうつねゆめすず屢言ちんさとし、馮延おのれ岑皆佞邪小人こどもむべさむらい東宮とうぐうもんろうちゅうばんだいてらしょうげんひょうたたえちんさとし奸回らんせいとうぬし頗感さとる及去。かい疽發れい人知じんちみつれい治之はるゆき,聽政如故。庚午こうごやまし亟,ふとしくれ廷裕しんしん召齊おう璟入さむらいやましからしゅいい璟曰:「われえさ金石かねいしはじめよくえきことぶき,乃更きずせいなんじむべ戒之!」ゆう,殂。不發ふはつしたせい:「以齊おうかんこく大赦たいしゃ。」
まごあきらおそれ馮延おのれとう用事ようじよくたたえのこみことのりれいふとしきさき臨朝しょうせい翰林かんりん學士がくし貽業曰:「先帝せんてい嘗云:『婦人ふじんあずかせいらんほん也。』やす肯自ため厲階!此必近習きんじゅ奸人いつわり也。且嗣くん春秋しゅんじゅうやめちょう明德めいとく著聞ちょぶんおおやけなんとく遽為亡國ぼうこくげんわかはて宣行のぶゆきわれ必對百官ひゃっかん毀之。」あきら懼而どめ。貽業,蔚之したがえ曾孫そうそん也。
へいはじめせん遺制いせいれつまつねん卞急,近臣きんしんかか譴罰。ちんさとししょうやまし累月るいげつ不入ふにゅう,及宣のこみことのり,乃出。しょうげん劾奏:「さとし端居はしい私室ししつ,以俟ます遐,請按其罪。」ひとしおうもと
れつしょうくれ禁壓きんあつため賤,れいかい奴婢ぬひしゃどおりかんさくけん。馮延おのれ及弟れい部員ぶいん外郎ういろうのべ魯,俱在元帥げんすいくさのこみことのり聽民うり男女だんじょ意欲いよくかいひめわらわしょうげん駁曰:「此必のべおのれとう所為しょいだいぎょういのち也。むかしのべ魯為東都とうと判官ほうがんやめゆう此請;先帝せんていおとずれしんしんたい曰:『陛下へいかむかしためくれしょう民有みんゆう男女だんじょしゃため出府しゅっぷきん,贖而遠近えんきん歸心きしんこん即位そくい而反使つかいひんじん之子ゆきこためとみじん廝役,乎?』先帝せんてい以為しかはたのべ魯罪。しん以為のべ魯愚,あしせめ先帝せんていはすふうのべ魯章,抹さんぴつにゅうみや請求せいきゅうしょ宮中きゅうちゅう,必尚ざい。」ひとし王命おうめい先帝せんていとめちゅうあきらそうせんあまりどうみなはすふう一抹いちまつはてとくのべ魯疏。しか以遺みことのりやめくだり,竟不あらため
閩富すなおうのべせいしょうみかど於建しゅう國號こくごうだいいん大赦たいしゃ改元かいげん天德てんとく。以將らくけんため鏞州,のべひら鎮為鐔州。たて皇后こうごうちょう。以節度せつど判官ほうがんはんうけたまわゆうため吏部尚書しょうしょ節度せつどじゅんかんけん楊思きょうため兵部ひょうぶ尚書しょうしょいく,以承ゆうどうたいらあきらごとおもえきょう遷僕ろくぐん國事こくじのべせいふく赭袍ごとしかきばさん及接鄰國使者ししゃなお如籓鎮禮。いんこくしょうみんひん軍旅ぐんりょいき。楊思きょう以善聚斂とくこう增田ますだうねさん澤之さわのぜいいたり於魚しお蔬果,ばいせい國人くにびといい「楊剝がわ」。
さんがつおのれついたち,以中しょれいちょう瑩為すすむあきら節度せつど使けん中書ちゅうしょれい;以晉あきら節度せつど使けんさむらいちゅうくわ維翰ためさむらいちゅう
から元宗もとむね即位そくい大赦たいしゃ改元かいげんだい秘書ひしょろうかん熙載請俟逾年改元かいげんしたがえ尊皇そんのうきさき皇太后こうたいごうだて鍾氏ため皇后こうごうとうぬし聽政,馮延おのれ屢入しろごといちにちいたりすうよんからしゅ曰:「書記しょきゆうつねしょくなにため如是にょぜ其煩也!」からしゅためじんけん謹,はつ即位そくいめい大臣だいじんすうのべ公卿くぎょうろん政體せいたいけんくんいいじん曰:「主上しゅじょう寬仁かんじん大度たいどゆう先帝せんていただしせい未定みてい,苟旁正人まさとただしこわ不能ふのうもり先帝せんていこれぎょうみみ。」からしゅ以鎮みなみ節度せつど使そうひとしおかためふとしけん中書ちゅうしょれいたてまつ節度せつど使しゅうはじめためさむらいちゅうからしゅ以齊おかむねさきあさくんきゅうじゅん人望じんぼう召為しょう政事せいじみな自決じけつ。徙壽おうけいとげためつばめおうせんじょうおうけいたちため鄂王。はつからしゅためひとしおう政事せいじまいゆう過失かしつつねゆめすずつね直言ちょくげん規正きせいはじめ雖忿懟,おわり以諒ちょく。及即位そくいもと以為翰林かんりん學士がくしひとしおかとうやましこれすわふう駁制しょ,貶池州いけす判官ほうがん池州いけす遷客,節度せつど使じょう蔡王彥儔,ぼうせい甚,いく聊生,おもんみごとゆめすず如在朝廷ちょうてい
そうひとしおかまちちんさとしもとあつとうぬしまた以覺ためゆうざいとげ委任いにん。馮延おのれのべ魯、岑,雖齊ていきゅう僚,みなさとしあずかきゅうやすし查文徽更しょう汲引,おかせ政事せいじ唐人とうじんいいさとしとうためおに」。のべ魯自れい部員ぶいん外郎ういろう遷中しょ舍人とねりつとむまさし殿どの學士がくししゅう觀察かんさつ使もりあきらぎょう聞之,歎曰:「國家こっかしょ以驅群臣ぐんしんざい官爵かんしゃく而已。わか一言ひとことしょうむね,遽躋どおりあらわゆうりつこうしゃなに以賞!」いくとうぬし以岑及文徽皆ため樞密すうみつ副使ふくし。岑既とくこころざしかいさとし遭母,岑即暴揚さとしあく擯斥ひんせき
からおけていとおぐん於濠しゅう
かん殤帝驕奢きょうしゃおや政事せいじ高祖こうそざい殯,作樂さくらたけなわいんよるあずか倡婦微行びこうはだか男女だんじょ而觀左右さゆう忤意輒死,敢諫しゃおもんみこしおう弘昌ひろまさ及內つねさむらいばん禺吳ふところおん屢諫,聽。つね猜忌さいきしょおとうとまいうたげしゅうれい宦者守門すもん群臣ぐんしん宗室そうしつみなさくしかこういれすすむおうひろし熙欲,乃盛かざりごえ伎,娛悅其意,以成其惡。かんぬし好手こうしゅ搏,ひろ熙令指揮しき使ひねどう庠引力士りきしりゅう思潮しちょうたんれい禋、はやししょうつよしはやししょうりょうなにあきら廷等五人習手搏於晉府,かんぬし聞而えつへいいぬあずか諸王しょおうえん於長春宮とうぐうかんしゅ搏,いたりゆうやめえんかんぬし大醉たいすいひろ熙使どう庠、思潮しちょうとうわきかんぬしいんひしげころせこれつきころせ左右さゆうあきらだん,百官諸王莫敢入宮,こしおう弘昌ひろまさそちしょおとうと臨於寢殿しんでんむかいひろし熙即皇帝こうていさらめいあきら改元かいげんおういぬい。以弘あきらためふとしじょうけん中書ちゅうしょれい諸道しょどう兵馬へいば元帥げんすい政事せいじ,循王ひろ杲為ふく元帥げんすいさんあずか政事せいじひねどう庠及りゅう思潮しちょうとうみな受賞じゅしょうたまもの甚厚。
閩主曦納金吾きんご使なおたもていんおんなたてためけんゆうことしょく,曦嬖よいちゅうしょよくころせそくころせしょよくなだめそくなだめこれ
なつよんがつつちのえさるついたちにちゆうしょく
から以中しょさむらいろうどうたいらあきらごとけんくんため昭武あきたけ節度せつど使鎮撫ちんぶしゅう
いんしょうちんのぞむとうおさむ閩福しゅうにゅう其西郛,すんで而敗
五月ごがついん吏部尚書しょうしょどうたいらあきらごとはんうけたまわゆう上書うわがきひねじゅうこと大指おおざすげん:「兄弟きょうだいしょうおさむぎゃくきず天理てんり一也かずや斂煩じゅうちからやくふし也。はつみんためへい,羈旅愁怨,三也みつや。楊思きょうだつみん衣食いしょく使つかい怨於じょう群臣ぐんしん莫敢げんよん也。疆土狹隘きょうあいおけしゅうけんぞう吏困みん也。じょどう裹糧,はたおさむ臨汀,曾不ゆうきんりょうぜに塘乘きょしょうかさねろく也。くくこう貲戶,ざいしゃかん,逋負しゃけいなな也。のべひらたしょせい果菜かさいぎょまいいたりほろ,斂怨甚大じんだいはち也。あずかからえつため鄰,即位そくい以來いらい嘗通使きゅう也。宮室きゅうしつだい榭,たかしかざりじゅう也。」いんおうのべせいだいいかそぎうけたまわゆう官爵かんしゃく,勒歸わたしだい
かんちゅうむねすんでりつ國中くになか議論ぎろん哅哅。循王ひろ杲請斬りゅう思潮しちょうとう以謝中外ちゅうがいかんぬししたがえ思潮しちょうとう聞之,譖弘杲謀反ぼうほんかんぬしれい思潮しちょうとう伺之。ひろ杲方えんきゃく思潮しちょうあずかたんれい禋帥衛兵えいへい突入とつにゅうひろ杲。於是かん主謀しゅぼうつき誅諸おとうと,以越おう弘昌ひろまさけん而得眾,ゆう雄武おうむ節度せつど使つかいひとしおうひろし弼,以居だい鎮,懼禍,もとめ入朝にゅうちょうもと
はつ,閩主曦侍かんはじめえんかいしんけんじ寶劍ほうけんかんはじめ舉以しめせどうたいらあきらことおう倓曰:「此何しょほどこせ?」倓對曰:「ためしん不忠ふちゅうしゃ。」曦己蓄異こころざし,凜然變色へんしょくいたりえん群臣ぐんしんふくゆうけんじけんしゃ,曦命はつこうづか其屍。こうしょろうちんひかりいっいい其友曰:「主上しゅじょうしつとくほろびにち矣,われほっ諫。」其友どめしたがえ上書うわがきひね曦大あくじゅうこと。曦怒,いのち衛士えじむちすうひゃく不死ふし;以繩けい其頸,かかしょ庭樹ていじゅ久之ひさゆき乃絕。
あきなながつおのれうしみことのり以年ひだるくによう不足ふそく分遣ぶんけん使者ししゃろく十餘人於諸道括民谷。
えつおうひろしはつだてうえみつる軍使ぐんし闞璠きょうもど排斥はいせきおのれひろ不能ふのうせい;內牙うえかん使あきらとくやすすうあずかこれそうみぎかん使ぶんけい於璠,おつ,貶德やす於處しゅうぶんけい於睦しゅう。璠與みぎすべ軍使ぐんしえびすしんおもええき專橫せんおう。璠,あきらしゅうじんぶんけいむつみしゅうじんしんおもえみずうみしゅうじん也。
からしゅえんれつ,以天節度せつど使けん中書ちゅうしょれいきむりょういんつばめおうけいとげため諸道しょどう兵馬へいば元帥げんすい,徙封ひとしおうきょ東宮とうぐう天平てんぴょう節度せつど使まもりさむらいちゅう東都とうと留守るす鄂王けいたちためふく元帥げんすい,徙封つばめおう宣告せんこく中外ちゅうがいやく以傳たて長子ちょうしひろ冀為みなみあきらおうけいとげけいたち固辭こじもとけいとげちかい必不敢為かんい嗣,さら其字曰退
かん指揮しき使萬景忻敗張遇賢於循州。ぐうけんつげ於神,かみ曰:「けんしゅうのり大事だいじなり。」ぐうけんそち眾逾みねおもむきけんしゅうとう百勝節度使賈匡浩不為備,ぐうけん眾十餘萬攻陷諸縣,さいはい州兵しゅうへい城門じょうもんひる閉。ぐう賢作けんさく宮室きゅうしつ營署於白雲洞うんとうはたよんひょうげかすめただしひろしおおやけ鐸之也。
はちがつおつからあるじりつおとうとけい逷為やすしおうそうふとしきさき怨种夫人ふじん,屢欲がいけい逷,から主力しゅりょく保全ほぜん
なつしゅうきば指揮しき使つぶせばつたかしあきらはかりごとさくみだれ,綏州刺史ししつねさとししょうすけことさとしからしつねさとし棄州,あずか其弟つねしゅんとうにん奔延しゅう
きゅうがつみことみかどははしんこく夫人ふじんやすためすめらぎたいだいきたじん也。みかどごとふとしきさきふとし甚謹,さむらいしょく於其みやまちしょおとうとまた友愛ゆうあい
はつ河陽かわようきばはたたかしさかえしたがえちょう延壽えんじゅにゅうちぎりちぎり以為かい使往來おうらい販易於晉,おけていだいはり。及契あずかすすむゆうすきけい延廣のぶひろせつみかどしゅうさかえ於獄,悉取ていちゅう貨。凡契これにん販易ざいすすむさかいしゃみなころせこれだつ其貨。大臣だいじんみなげんちぎりたんゆう大功たいこう於晉,不可ふかまけ戊子ぼししゃくさかえ,慰賜而歸さかえ延廣のぶひろ延廣のぶひろ大言たいげん曰:「而主,先帝せんていため北朝ほくちょうしょりつしょうしんたてまつひょうこん上乃うえの中國ちゅうごくしょりつしょ以降いこうこころざし於北あさしゃせい以不敢忘先帝せんてい盟約めいやくみみため鄰稱まごそく矣,しょうしん北朝ほくちょう皇帝こうてい勿信ちょう延壽えんじゅ誑誘,輕侮けいぶ中國ちゅうごく中國ちゅうごくなんじしょ目睹もくとおきないかのりらいたたかえまごゆうじゅうまんよこすりけんそく以相まち。它日ためまごしょはいわらい天下でんか,毋悔也!」さかえ亡失ぼうしつ貨財,おそれざい,且欲ためあやときよりどころけん,乃曰:「公所ぐぞげん頗多,懼有遺忘いぼうねがいこれすみ。」延廣のぶひろいのち吏書其語以授さかえ以白ちぎりぬしちぎりぬしだいいか入寇にゅうこうこころざしはじめけつすすむ使如契みな縶之かそけしゅうとくくわ維翰屢請遜以謝ちぎりまいため延廣のぶひろしょ沮。みかど以延こうため有定ありさださくこうちょうかんむり群臣ぐんしんまたそう宿衛しゅくえいへい大臣だいじん莫能あずかこれそう河東かわとう節度せつど使りゅうともとお延廣のぶひろ必致寇,而畏其方用事ようじ敢言,ただしえき募兵ぼへいそうおけきょうとし武節ぶせつとう十餘軍以備契丹。
きのえうまじょうなん節度せつど使つねいんそうつねさとしさくらんじょうみことのりつねさとしおくなつしゅうこれ
ふゆじゅうがつつちのえさるたて國夫くにおじん馮氏ため皇后こうごうはつ高祖こうそあいしょうおとうと重胤しげたねやしなえ以為;及留守るす鄴都,めとふく留守るすやす馮濛おんなため其婦。重胤しげたねはやそつ,馮夫じん寡居,有美ゆみしょくみかど而悅高祖こうそくずれあずさみやざい殯,みかどとげおさめ群臣ぐんしん皆賀みながみかどいい馮道とう曰:「皇太后こうたいごうめいじあずかきょうとうにん大慶たいけい。」群臣ぐんしんみかどあずか夫人ふじんたけなわいんあずさ宮前みやまえ,醊而つげ曰:「皇太后こうたいごうめいじあずか先帝せんていにん大慶たいけい。」左右さゆう失笑しっしょうみかどまたわらい,顧謂左右さゆう曰:「わが今日きょうさくしん婿むこなに如?」夫人ふじんあずか左右さゆうみなだいわらいふとしきさき雖恚,而無如之なにすんでせい中宮ちゅうぐう,頗預政事せいじこうあにだまためれいろうちゅうしおてつ判官ほうがんみかど驟擢よういたりはしあきら殿どの學士がくし戶部とべさむらいろうあずか政事せいじ
かん主命しゅうめい韶王弘雅ひろまさ致仕ちし
からおもひろししゅう營屯おそれこうげんおん將兵しょうへい討張ぐうけん,以通事つうじ舍人とねりきんりょうあたり鎬為かんぐん。鎬用おそれしゅうじんはく昌裕まさひろためはかりごとぬしげきちょうぐうけん;屢破ぐうけん禱於しんかみふくごと,其徒だい懼。昌裕まさひろすすむ伐木ばつぼくひらけどう其營かさねぐうけん棄眾奔別はただいたいしんけんぐうけん以降いこう於金りょう
十一月じゅういちがつちょうかんぬしまつ南郊なんこう大赦たいしゃ改元かいげんいぬいかず
戊子ぼしえつおうひろしおさめおおせひとしかいじょ也。
はつ高祖こうそ以馬さん百借平盧節度使楊光遠,けい延廣のぶひろ以詔めいじこれひかりとおいか曰:「うたぐわが也。」みつ召其たんしゅう刺史ししうけたまわ祚,つちのえいぬうけたまわ祚稱ははびょうよる開門かいもん奔青しゅうかのえ,以左りゅう使金城きんじょうなんちょうけんたんしゅう內班たまものこうとおだまたい御馬おんまきむ帛,以安其意。みずのえとらさむらいまもるぐん指揮しき使かく謹將へい戍鄆しゅう
とうそうこうぶん肅武こうだか皇帝こうてい於永りょうとうごうれつ
十二月じゅうにがつおつついたちひだりりょうぐんまもる將軍しょうぐん蔡行ぐう將兵しょうへい戍鄆しゅう。楊光とお騎兵きへいにゅう淄州,こう刺史しし翟進むね於青しゅうきのえとら,徙楊承祚為のぼりしゅう刺史しし以從其便。ひかりとおえきおご密告みっこくちぎり,以晉ぬしとくたがえめいさかい內大ひだる公私こうしこま竭,じょう此際おさむいち舉可ちょう延壽えんじゅまたすすむこれちぎりぬし乃集やま及盧りゅうへいごうまんにん使つかい延壽えんじゅ將之まさゆきゆだね延壽えんじゅ經略けいりゃく中國ちゅうごく,曰:「わかとくとうたてなんじためみかど。」またつねゆび延壽えんじゅいいすすむじん曰:「此汝ぬし也。」延壽えんじゅ信之のぶゆきゆかりためちぎり盡力じんりょくかく中國ちゅうごくこれさく朝廷ちょうてい頗聞其謀,へいたつ使つかい城南しろみなみらく及德きよしぐんせい近道ちかみちへい以備
からさむらいちゅうしゅうむねねんおいきょう謹自もり中書ちゅうしょれいそうひとしおか廣樹ひろき朋黨ほうとうひゃくけいかたぶけこれそう泣訴きゅうそ於唐おうからしゅよしうすきひとしおかすんで而陳さとし疏,乃出ひとしおかため鎮海節度せつど使ひとしおか忿懟,おもて乞歸きゅうはなきゅうかくれから主知しゅち其詐,いちひょうそくしたがえこれたまものしょ曰:「今日きょうこれぎょう昔時せきじしょうもとちんじつこうだつおおやけこころざし。」仍賜ごうきゅうはな先生せんせいふうあおこうしょくいちけん租稅そぜいひとしおか乃治だいだい於青ふくしょう吏,みな王公おうこう,而憤邑尤甚。
やすししゅう酋長しゅうちょう莫彥こと以所ゆたかとうじゅうはちしゅう於楚;其州無官むかんおもんみたてぱい於岡阜,りゃく恩威おんい羈縻而已。
これさいはるなつひでり秋冬あきふゆすいいなご大起だいきひがしうみ壖,西にし距隴坻,みなみ逾江、みずうみきた抵幽あざみ原野はらの山谷さんや城郭じょうかくいおりしゃみな滿まんたけ木葉このは俱盡。じゅう以官くく民谷みんだに使者ししゃとくせめげんきゅういたりふううす磑,とめ其食,ゆうすわ匿谷抵死しゃけんれい往往おうおう以督おもむき辦,おさめしるし劾去。みん餒死しゃすうじゅうまんくち流亡りゅうぼう不可ふかかちすう。於是留守るす節度せつど使いたり將軍しょうぐんかくけんじきむ、帛、芻粟以助こく朝廷ちょうてい以恆、ていひだる甚,どくくく民谷みんだにじゅんこく節度せつど使もりそうしょうぐんしょく不足ふそく,請如しょしゅうれいもとよう判官ほうがんおういとぐちはかりごと檢索けんさく殆盡,とくひゃく萬斛ばんこくとめそうさんじゅう萬斛ばんこくあまりみなにゅう其家;またれい判官ほうがんぬまたたえかし於民,ふく滿まんひゃく萬斛ばんこく來春らいしゅんせりとく緡錢ひゃくまん,闔境ていしゅう吏欲援例ためそう義武よしたけ節度せつど使ぜんふしもと,曰:「われため觀察かんさつ使しょくざいやしなえみんあににんこうかれ所為しょい乎!」
すわえ多產たさん金銀きんぎん茶利ちゃりゆうあつゆかり財貨ざいかゆたかふえ。而楚おうまれはんおごほしいや誇大こだいためちょうやりだい槊,かざり以金,而不可用かようつの富民とみん年少ねんしょうこえさわしゃはちせんにんためぎんやり宮室きゅうしつえん囿、服用ふくようものつとむきゅう侈靡。さくきゅうりゅう殿どのこく沈香じんこうためはちりゅうかざり以金たからちょうじゅうあまりたけだきばしらしょうこうまれはんきょ其中,ためいちりゅう,其襆あたま腳長丈餘じょうよ,以象りゅうかく用度ようど不足ふそくじゅうため斂。まい使者ししゃ行田ぎょうだせん以增ごろうねためこうみんかち租賦而逃。おう曰:「ただしれいざいなにたに!」いのち營田使鄧懿ぶんせき逃田,つのみんこうげい租。みん捨故したがえしん,僅能自存じそん西にし徂東,かくしつ其業。また聽人いれざいはいかん,以財多少たしょうためかんだか卑之富商ふしょうだい賈,ぬのざいれつそとかんかえしゃ,必責貢獻こうけん民有みんゆうざいのり富者ふしゃ輸財,強者きょうしゃためへいおもんみ貧弱ひんじゃく受刑じゅけいまたおけはこ使つかいじんとう匿名とくめいしょしょうつげ訐,いたりゆうめつぞくしゃとしようあなかんしゅうのぼるれいつねぜいそとだいけんみつぎまいせん斛,ちゅうせん斛,しょうななひゃく斛;べいしゃ布帛ふはくてんさく學士がくしつぶせばつつね上書うわがき曰:「殿下でんか長深ながふけみやなか,藉已成之しげゆきぎょう不知ふち稼穡ろうみみ聞鼓鼙之おんはせ騁遨ゆう,雕牆だましょくつき矣,而浮えき甚;百姓困矣,而厚斂不いきこん淮南ワイナンためかたき讎之こくばん禺懷吞噬こころざし,荊渚窺伺,けいほらまてわが姑息こそくことわざ曰:『あしかん傷心しょうしんみん怨傷こく。』ねがいやめ輸米れい,誅周のぼる以謝こおりけん不急ふきゅうつとむげん興作こうさくこれやくれい一旦いったんわざわいはいため四方しほうしょわらい。」おうだいいか他日たじつつね請見,晝寢ひるねつねいい客將かくしょうひろねり曰:「おうたくましほし而愎諫,われ其千口飄零無日矣。」おうえきいかとげ終身しゅうしんふくこれ
閩主曦嫁其女,はん簿閱視ちょうゆうしゃじゅうにんみなつえ於朝どう。以御ちゅうすすむりゅうさん舉劾,またはたつえさんよし受辱,よく自殺じさつ。諫議大夫たいふていもと弼諫曰:「いにしえしゃけいうえ大夫たいふなかすすむけいひゃく僚,あにむべ棰楚!」曦正しょく曰:「きょうよくこうちょうよこしま?」もと弼曰:「しん以陛ためからふとしそう敢效ちょう。」曦怒ややほどけ,乃釋さんさん竟以ゆうそつ

高祖こうそきよし文章ぶんしょうたけ明德あきのりこう皇帝こうてい開運かいうん元年がんねんきのえたつおおやけもときゅうよんよんねん


はる正月しょうがつおつへん籓馳つげ:「ちぎり丹前たんぜんほこさきはたちょう延壽えんじゅちょうのべあきら將兵しょうへいまん入寇にゅうこう,逼貝しゅう。」のべあきらおもえぬる之子ゆきこ也。さき朝廷ちょうてい以貝しゅう水陸すいりく要衝ようしょう聚芻あわため大軍たいぐんすうねんもうか,以備ちぎりぐんこう邵珂,せいきょうもとえいきよし節度せつど使おうれいゆたか黜之。珂怨もちみつひとほろびにゅうちぎりげんかいしゅうあわ而兵じゃくえき也。」かいれいゆたか入朝にゅうちょう執政しっせい以前いぜんふくしゅう防禦ぼうぎょ使くれ巒權しゅうごと。巒至,推誠なでかいちぎり入寇にゅうこう,巒書せい爪牙そうが,珂自請,ねがいこう,巒使將兵しょうへいもりみなみもん,巒自もり東門ひがしもんちぎりぬしおさむかいしゅう,巒悉りょくこばめこれしょう其攻殆盡。おのれちぎりたんふくおさむじょう,珂引ちぎりみなみもんいれ,巒赴ちぎりとげおちいかいしゅうしょころせまんにんかのえたつ,以歸とく節度せつど使高行たかゆきしゅうため北面ほくめんぎょう營都部署ぶしょ,以河節度せつど使彥卿ためぐんひだりひさしはいひね使,以右神武じんむみつるぐんすめらぎはじめぐうためぐんみぎひさしはいひね使,以陝節度せつど使おうあまねためぐんひだりひさしはいひね使,以左羽林はばやし將軍しょうぐんはんたまきためぐんみぎひさしはいひね使
ふとげんそうちぎりにゅうかりもんせきつね、邢、滄皆そうちぎり入寇にゅうこう
成德しげのり節度せつど使もり幕僚ばくりょう曹光裔詣楊光とおためひね禍福かふくひかりとおひかり裔入そうしょう:「うけたまわ祚逃ははやましなんじすんでこうむおんなだめ,闔族おん。」朝廷ちょうていしん其言,使つかいあずかひかり裔復往慰さとしこれ
から以侍ちゅうしゅうむねため鎮南節度せつど使ひだりぼくしゃけん門下もんかさむらいろうどうたいらあきらごとちょうきょえいため鎮海節度せつど使
からしゅけつほっでん於齊おさいつばめ二王におう翰林かんりん學士がくし馮延おのれとういんよく隔絕かくぜつ中外ちゅうがい以擅けんからし,敕:「ひとしおうけいとげまいけつ庶政しょせい,百官惟樞密副使魏岑、查文徽得しろごと召對とく。」國人くにびとだい駭。きゅうごとちゅうしょうげんじょう疏極ろんほうさむらいまもるおそれこう賈崇叩閣もとめ,曰:「臣事しんじ先帝せんていさんじゅうねんかん其延せっ疏遠,孜孜ししだる下情かじょうなおゆう不通ふつうしゃ陛下へいかしん即位そくいしょにんしゃ何人なんにん,而頓あずか群臣ぐんしん謝絕しゃぜつしんろう矣,ふくたてまつ顏色かおいろ。」いん涕泗嗚咽おえつからあるじかんさとる,遽收ぜん敕。からしゅ於宮ちゅうさく高樓こうろう,召侍臣じしんかん,眾皆歎美たんびしょうげん曰:「恨樓。」からしゅとい其故。たい曰:「以此及景ろうみみ。」からおもいか,貶於舒州,觀察かんさつ使まごあきらへいぼうげん曰:「げん以諫いさかいとくざいゆう它志。むかし顧命さいくんいく社稷しゃしょく,其罪顧不じゅう儼乎げんこ今日きょうはんぼうよこしま!」あきら慚懼,遽罷
みかど使つかいしょのこちぎりちぎりやめたむろ鄴都,とくどおり而返。みずのえうま,以侍まもるうまあゆみ指揮しき使けい延廣のぶひろため營使,ぜんやすしなん節度せつど使あまねため東京とうきょう留守るす高行たかゆきしゅう以前いぜんぐん先發せんぱつとき用兵ようへい方略ほうりゃく號令ごうれいみな延廣のぶひろ宰相さいしょう以下いか皆無かいむしょあずか延廣のぶひろじょうぜい使りょうあなどしょしょう,雖天また不能ふのうせいおつとりみかどはつ東京とうきょうちょうなめらしゅうそうちぎりたんいたるはじむ戊子ぼしみかどいたり澶州。ちぎりぬしたむろ元城もとしろちょう延壽えんじゅたむろみなみらく;以延ことぶきためはく節度せつど使ふうおうちぎり寇太ばらりゅうともとおあずかじろうけたまわぶくごうへいまんげきかぶとうま,以知とおためかそけしゅう道行みちゆき營招討使,もりため副使ふくしうまぜんふしためおそれこうへいさるみぎたけまもるじょう將軍しょうぐんちょう彥澤とう將兵しょうへいこばめちぎり於黎
つちのえいぬしょくぬしふく以將しょうはるかりょう節度せつど使
みかどふく譯者やくしゃはじめもりちゅう致書於契もとめおさむきゅうこのみちぎりぬしふくしょ曰:「やめ成之しげゆきぜい不可ふかあらため也。」からしうしふとしげんそうやぶちぎりえらおう於秀よう斬首ざんしゅさんせんきゅうちぎりからす鳴谷なるたに遁去。
いん天德てんとく通寶つうほうだいてつぜにいちとうひゃく
からおも使つかいのこ閩主曦及いんぬしのべせいしょせめ兄弟きょうだいひろほこ。曦復しょ,引周こう誅管、蔡,からふとしそう誅建なり元吉もとよしためのべせいふくしょ,斥唐ぬしだつ楊氏こくからおもいかとげあずかいんぜっ
天平てんぴょう節度せつど副使ふくし鄆州がお衎遣觀察かんさつ判官ほうがん竇儀そう:「ひろししゅう刺史しししゅう儒以じょうくだちぎりまたあずか楊光とおどおり使往還おうかん,引契うまくちずみかわとりこひだりたけまもる將軍しょうぐん蔡行ぐう。」いいけい延廣のぶひろ曰:「とりこわかすみかわあずかひかりどおごうのり河南かなん危矣。」延廣のぶひろしかこれあざみしゅうじん也。


 まきひゃくはちじゅう かえしかいいただき まきひゃくはちじゅうよん

ほんきたそう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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