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ひねしょ/まき15

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 まき十四とし ひねしょ
まきじゅう 列傳れつでんだいきゅう

宗室そうしつ

まきじゅうろく 

宗室そうしつ

ひねなずらえ[编辑]

  ひねなずらえ公正こうせい高祖こうそ疏屬也。しょうひん性質せいしつちょくつよし高祖こうそみなみせい交趾,なずらえしたがえ焉。またすすむ討侯けいいたりあきら,以擬ためしゅう刺史ししあずかえびす穎共後事こうじなみ應接おうせつぐんかて高祖こうそさく鎮朱かたなずらえじょ步兵ほへいこうじょうきょくおもねれい紹泰元年がんねん,授貞將軍しょうぐん義興よしおき太守たいしゅねんにゅうまもるじょうごとじょ員外いんがいつねさむらいあきら將軍しょうぐん、雍州刺史ししかんみなみじょしゅう

  高祖こうそ踐祚せんそみことのり曰:「維城宗子むねこじつ固有こゆうしゅう盤石ばんじゃく懿親,ようたかしだいかんかいめいそく異姓いせいためけいそくりゅう勿王,所以ゆえん糾合きゅうごうえだみき廣樹ひろきしげるへいぜんおう懋典,列代れつだいつねぶんまわししたがえ子持こもちぶし員外いんがいつねさむらいあきら將軍しょうぐん、雍州刺史ししかんみなみじょしゅうなずらえぶしつうちょくさむらいろうさだ將軍しょうぐんきたじょしゅう刺史しし褒,したがえあきら、炅,したがえまごかりふし員外いんがいつねさむらいあきら將軍しょうぐん訬,かりふししん將軍しょうぐんきたじょしゅう刺史ししよしようけん開國かいこくこう諠,かりふしつうちょくさむらいろう信武のぶたけ將軍しょうぐん祏,[1]かりふしさむらいろうしん將軍しょうぐんあおしゅう刺史ししこうはり太守たいしゅしょうさだ將軍しょうぐんつうちょくさむらいろうとししたがえまごけいみやびたかしたいなみえだ戚密ちか,劬勞王室おうしつむべれつ河山かわやま,以光けんなずらええいおさむけん開國かいこくこう,褒鍾りょうけん開國かいこくこうあきらけんぐすくけん開國かいこくこう,炅上にょうけん開國かいこくこう,訬虔けん開國かいこくこう,諠仍まえふうじ,祏豫あきらけん開國かいこくこう[2]しょうとげおきけん開國かいこくこうとしむべけん開國かいこくこうたかしまさやすし都縣とけん開國かいこくこうけい泰平たいへいかたけん開國かいこくこうかく邑五ひゃく。」なずらえひろじょけいしゃ將軍しょうぐんけんみなみじょしゅう刺史ししつねさむらい如故。其年,授通ちょくつねさむらいちゅうりょうぐんさんねんふく以本かんかんみなみじょしゅう嗣位,のぞき丹陽たんよういんつねさむらい如故。すわことまた以白ころもともぐんひろふく本職ほんしょくてんよしみ元年がんねんそつねんじゅうはちおくりょうぐん將軍しょうぐん凶事きょうじしょ須,なみかんきゅうおくりな曰定。ねんはいとおるだか祖廟そびょう廷。とう嗣。

ちんしょう[编辑]

  ちんしょうぶんいくしょう出家しゅっけため桑門そうもんぜん書記しょき談論だんろん清雅せいが高祖こうそ討侯けい,召詳,れいはんはつふくはい以兵したがえていきょう邑。高祖こうそ東征とうせいもりがんしょうべつ安吉やすよし原鄉はらごうさんけんがんひらめ,以功授散さむらいろうかりふししん將軍しょうぐんあおしゅう刺史ししわり鄣、廣德ひろのりおけこうやなぐん,以詳ため太守たいしゅ高祖こうそ踐祚せんそあらためこうはりためひねとめまた以為ひねとめ太守たいしゅえいじょうねんふうとげおきけんこうしょく邑五ひゃく。其年じょあかり將軍しょうぐんつうちょくつねさむらいさんねんずいこうやすやぶおう琳將つね眾愛於宮ていみずうみ嗣位,じょせんじょう太守たいしゅ將軍しょうぐん如故。おう琳下よりどころ柵口ませぐちしょうずいあきらとおるかさね湓城,琳家こうかつよし入南にゅうなん鄱陽步道ほどう而歸。琳平,しょうあずかあかりてっ並無ならびなこうてんよしみ元年がんねんずいれいぞう邑并まえいちせんひゃく。仍除どおりちょくつねさむらいけんみぎまもる將軍しょうぐんさんねんためかりふしみやこただしくれしゅうしょ軍事ぐんじひとし將軍しょうぐんくれしゅう刺史しし

  しゅうすすむよりどころ臨川りんせん舉兵,しょうしゅうしたがえみちかさねすすむ於濡じょうべつ營,其妻すすむ敗走はいそうしょうかえふくほん鎮。ねんしゅうすすむふく臨川りんせん,乃以しょうためとくりつすい討迪。ぐんいたり南城なんじょうあずかぞくしょうぐう戰敗せんぱいねんよんじゅう。以所すべしつりつおくおくりなせい嗣。

ちんとし[编辑]

  ちんとし元方もとかた高祖こうそしたがえまご也。涉獵しょうりょうしょざいにん高祖こうそたいらこうけいとししたがえ焉。ひろはい以兵景平かげへらしたがえせいもりがんじょさだ將軍しょうぐんつうちょくつねさむらい高祖こうそ踐祚せんそふうむべけんこう,邑五ひゃくじょ黃門こうもんさむらいろう即位そくいため安吉やすよしけんれい。遷明將軍しょうぐんぐんふくつかさそらあきらあきらたちせいやすしょくじょうとしため水軍すいぐんとく,於荊しゅうしょうあおどろせんともひかりだい元年がんねん,以功じょぶしつうちょくつねさむらいせんとお將軍しょうぐんゆたかしゅう刺史ししぞう邑并まえいちせんふとしけんじゅうねんあきらとおるきた討敗績,以慧ためぶしさとし武將ぶしょうぐんえんとく、兗州刺史ししぞう邑并まえせん如故。しゅうぐんじょうかちよりどころゆう淮南ワイナンこうがい騷擾そうじょうとし收集しゅうしゅう士卒しそつ海道かいどうかえひろじょ使ぶしつねさむらいせんあつし將軍しょうぐんとく郢巴しゅうしょ軍事ぐんじ、郢州刺史ししぞう邑并まえせんひゃく至德しとくねん,遷使ぶしつねさむらいくも麾將ぐんとく荊信しゅうしょ軍事ぐんじ、荊州刺史ししたまものおんな一部いちぶぞう邑并まえさんせんただし明元あけもとねんしょう琮尚しょひだりぼくしゃ安平あびらおうしょういわおすすむ熙王〔しょう〕瓛等,[3]りつ其部眾男女だんじょまんくちまいとし請降,とし以兵むかえこれ。其年,以應接おうせつこうさむらいちゅうきむむらさきこう祿ろく大夫たいふ開府かいふどうさんつかさせい西にし將軍しょうぐんぞう邑并まえろくせん如故。

  及隋ずみこう元帥げんすい清河きよかわこう楊素ともえ硤,とし其將りょちゅう肅、りくりんとうこばめこれ[4]戰敗せんぱいもとしんよりどころ馬頭めずずいはたかんとりことら及賀わか弼等やめずみこうよりどころ蔣山,とし聞之,とめ其長ひねぶんもりとうきょもりりつ將士しょうしさんまんにんろうせんせんじょう,沿江而下,よくおもむきだいじょういたりかんこうためしんおうぐんしょこばめとくすすむいんあずか湘州刺史ししすすむ熙王叔文、ともえしゅう刺史しし畢寶とう請降。にゅうずいれい授儀どうさんころこれそつ正平しょうへい,頗有文學ぶんがく

ひょう[编辑]

  しん曰:《うん宗子むねこ維城,俾城壞」。また曰「綿綿めんめんふり瓞,かずら藟纍」。西京にしぎょうみなゆたか沛故じん東都とうとまた南陽なんようあらわゆう以哉。

校勘こうかん[编辑]

  1. 信武のぶたけ將軍しょうぐん祏 「信武のぶたけ將軍しょうぐん」《みなみ·ひね宗室そうしつ諸王しょおうでんさくしん將軍しょうぐん」。
  2. 祏豫あきらけん開國かいこくこう 「あきらけん」,《みなみさくやすしけん」。
  3. しょう琮尚しょひだりぼくしゃ安平あびらおうしょういわおすすむ熙王〔しょう〕瓛等 よりどころきたかんほん、汲本、殿しんがりほん。按「尚書しょうしょひだりぼくしゃ」〈しゅさく尚書しょうしょれい」。「すすむ熙王」〈しゅさく義興よしおきおう」。
  4. とし其將りょちゅう肅陸りんとうこばめこれ 殿しんがりほん考證こうしょううん:「《みなみただしまたりくりん。」こん按:《みなみただしぶたあらためふくめいためたんめい。《ずいしょ·楊素でん》「ただしさくなか」,のり避隋ぶんみかどちち楊忠いみなあらため
 まき十四とし かえしかいいただき まきじゅうろく

ほんとうあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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