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十國春秋/卷048 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

じゅうこく春秋しゅんじゅう/まき048

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高祖こうそせいはじめめいさちたね,邢州龍岡たつおかじん也。以唐咸通じゅうねんよんがつじゅういちにち誕生たんじょうどき光照みつてるしつ,鄰里ことゆうそう而撫曰:“此武だい山靈さんれい也。”弱冠じゃっかんふとはらまもる指揮しき使一云始爲郡衛史。さち温厚おんこうしょいさむ於樂ぜんとうとうまつ叔父おじ遷據邢、洺、磁さんしゅうためすすむしょ鹵。つうかんまたうんさち,遷之弟子でしいましたがえおうすすむおうかつよう以遷もりさわ潞,汴兵おさむすすむ,遷以さわ潞降はりさちちちどうどくとめごとすすむ而不あらわすすむおう鎮太ばらいいさちためざい,以其おとうとかつゆずるじょつまるい親衛しんえい軍使ぐんしからそうむね嗣晉王位おういあらためぐんひだり教練きょうれん使あらししゅう,召爲中門ちゅうもん使そうむねあずかりょうふとし夾河ひたぶるへいさち參謀さんぼう應變おうへんこととめとどこおぜん此爲中門ちゅうもん使者ししゃ以罪誅,いたりさち懼禍,もとめしょくそうむね喻知さちこもだいおのれしゃさちいんかくたかし韜自だいたかし韜德さちとげぐんおそれこうそうそうけんごう,以太はらため北京ぺきん,以知さちためふとはらいん北京ぺきん留守るすおうつぎ岌伐しょくかくたかし韜爲招討使たかし韜臨訣,しろそうむね曰:“そくしんとうたいらしょく陛下へいかそち以守西川にしかわ如孟さちしゃ。”やめ而唐へいやぶしょくいん以知さちため同中どうちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと成都せいといんたかしけんみなみ西川にしかわ節度せつどふく大使たいしさちはせいたり洛陽らくようそうむね戒有もりきょうちょうだしない珍奇ちんき諸物しょぶつ以宴ろうさけたけなわ及平むかし,以爲わらいらく,歎曰:“つぎ前日ぜんじつ乳臭にゅうしゅうしか,乃能ためわれ平定へいてい兩川りょうかわわれろう矣,孺子じゅししかえきれいじん悲爾。われ先帝せんてい棄世,疆土おかせそぎ,僅保一隅いちぐうあに今日きょう奄有天下でんか九州きゅうしゅう四海しかいちんことさんたかし牣吾。”且指以示さち曰:“われ聞蜀とみ於此,以卿おやけん以相づけ。”すんで而莊むねうたぐたかし韜,戒知さち誅之。さち曰:“たかし韜,國之くにゆきくんきゅう,必無しん。俟臣いたりしょくかんこれ,苟無こころざしそく闕。”及知さち抵石ごうかいちゅう使つかい彦珪げん往誅たかし韜,さちとげばいどう兼行けんこうらくしょくじゅうゆうななにちいたり成都せいと,而崇韜已どうひかり四年正月甲戌也。だいさくつちのえたついましたがえ錦里きんり耆舊でんしょしょう忷忷,いたりそくうけたまわせいせん慰,にんこころややじょうつちのえとらおう以知さちまい大慈寺だいじじはいから僖宗ようやめまたのべさちいんしょくおもおう衍真ようなみれい撤去てっきょ,别塑北方ほっぽう天王てんのういち軀。さきしょくじんげきはらえ,以初にゅうためはじめいれきのろくまたうんさきしょくじんかさ,一棒便入湖子者,ためもういれ譌爲はじめにゅうとくかげ一籌いっちゅうこうはじめつきりょうしょく,一籌者一子昶也。あるうん,此毬したがえぶとげん將來しょうらいまたおう宫殿みなだいふとしたくみはじめとく姓名せいめいとくあずか同音どうおんしょく檮杌さくはじめいましたがえこく故事こじかん戒録。及知さちらい成都せいとにん以爲さきちょうおうちゅうしょく宫,さち乃館於徐のべ瓊之だいぜんしょくしゅつね於延瓊壁上書うわがきはじめ以戲ぜんしょくでんちゅうさち而笑曰:“うときょう霸豎,また豫知よちあずかわれ交代こうたいよこしま?”いくおう引軍ひがしかえ先鋒せんぽう紹琛そくかんのべこうはんおさむやぶかんしゅうさち大將たいしょうひとし罕會にん圜、ただしあきらとうへいげきはいつい紹琛於綿ちくさちいたりかんしゅう犒軍,あずか圜、あきらおけさけだかかい,引紹琛檻しゃいたり座中ざちゅうしゃくだい巵飲いい曰:“おおやけなん患不富貴ふうき,而求にゅう此邪?”紹琛曰:“かくさむらい中佐ちゅうさいのちこうだいいち一旦いったん無罪むざいぞく誅,如紹琛輩安保あんぽ首領しゅりょう?以此歸朝きちょうみみ。”さち乃得其將はじめほうひろしじつ及其へいすうせん以歸,そく以肇ため衙内うまあゆみ指揮しき使,而宏じつふくこれどきしょくちゅう羣盗なおいきさちれん吏,じょよこやすしゅうりゅうしも寬大かんだいれいあずかみん更始こうしはたちょう廷隱、ちょうともぎょうりつへいぶん討,しょぬすめ悉平。ころそうむねぐう弑,おうつぎ自殺じさつあきらそういれりつあらためねんため天成てんせい元年がんねんさち乃訓練兵れんぺいかぶとかげゆうおうしょくこころざしあきなながつひらきちゅうとくよろいかぶとじゅうまんえきおけ義勝よしかつていとおしょぐん左右さゆうきばとうへい,凡じゅうろく營,きょうまんろくせんにん,營於牙城がじょう内外ないがいまたたかし韜初ぶんひだりみぎ驍鋭とうろく營,凡驍へいさんせんにんひだりみぎやすしとおとうじゅう營,凡步へいじゅうまんにんいたりはちがつ增置ぞうちひだりみぎ衝山とうろく營,凡ろくせんにん,營於城内きうちがいおけよしやすしとうじゅう營,凡まんろくせんにんふん營内しゅうけん就食;またおけひだりみぎろうじょうよん營,凡四せんにんふん戍成境内けいだい九月くがつみずのえいぬまたおけひだりみぎざおへいろく營,凡ろくせんにんふん戍濱こうしょしゅう,習水せん以備夔、かいいのちひとし罕及廷隱、ぎょう等分とうぶんりょうはつおう及崇韜率しょくちゅう富民とみん輸犒しょうぜにひゃくまん緡,聽以金銀きんぎん繒帛たかしおさめ晝夜ちゅうやとくせめいたりゆう自殺じさつしゃきゅうぐんなおひゃくまん緡。にん圜自しょくいれ爲相ためすけけんばんさんつかさもと知成ともなりしょあまりぜにふゆじゅうがつあきらそう加知かちさちふとしじょうしょく檮杌さく檢校けんぎょうふとでんいましたがえひろしひつじ馬城ばじょうけんさむらいちゅうふう平原ひらはらこう,乃以しおてつ判官ほうがんふとぼくきょうちょうりょうためかんつげ國信くにのぶけん三川都制置轉運使,とくしょく犒軍あまりぜにおく京師けいし,且制おけ兩川りょうかわただしさちいかたてまつみことのり,曰:“他人たにんしょ聚,輸之可也かなりしゅうけん租税そぜい,以贍鎮兵じゅうまんけつ不可ふかとく。”ただしはつしょくきんじゅうおく於洛敢復げんせいおけてんうんしょくごとさちもとあずかりょうゆうきゅうとげとめくるる密使みっしやすじゅう誨頗疑さちあずか東川ひがしがわ節度せつど使ただしあきらよりどころけんようへいひさしょうなんせい,且知さちためそうそうきん姻,おもえゆう以圖はつ祥之よしゆき鎮蜀也,そうむね以宦しゃこげ彦賓ためかんぐんあきらむねりつ,悉誅宦者,やめ諸道しょどうかんぐんいたり彦賓やめやめきゃくしょう使,泗州防禦ぼうぎょ使いわお請爲西川にしかわかんぐん,必能せいさちこれがつおのれとりじゅう誨遂以嚴ため西川にしかわかんぶんおもえ使しゅ宏昭ひろあきため東川ひがしがわ副使ふくしいむぜん使つかいしょくすんで獻策けんさくしょくしょくじんみなあく。其母いいげん曰:“なんじぜんけいめつしょくはかりごとこん再往さいおう,必以むくいしょく矣。”ねんはる正月しょうがつさち聞嚴らいはていか曰:“こげ彦賓以例やめ,而諸どうみなはいかんぐんどくわれぐんおけこれげんよく以蜀さいためこう也。”てのひら書記しょき毋昭裔等みな請止いむうちさち曰:“われゆう以待矣。”吏至綿めんけんむかえこうかい武信たけのぶ節度せつど使紹文そつさちげんつね受密みことのりもと便宜べんぎ從事じゅうじみずのえいぬ以西いせいかわ節度せつど副使ふくし内外ないがいうまあゆみ指揮しき使たかししゅう爲遂しとげしゅうとめおもむき上道じょうとうしかこうひょう聞。これさいさんがつきのえとらあきらそうそく以敬しゅうため武信たけのぶとめしたがえさち請也。いむ至境しきょうじょう使つかいしょさとしさち以與いむゆう舊恩きゅうおんはつげんあずかさちどうことそうむねさちため教練きょうれん使いむつねゆうそうむねいか甚,いのちこれさち行刑ぎょうけいしゃしょうなる徒跣かちはだし諫莊むね曰:“つよしてきほろびいむしょう大王だいおうむべ喜怒きどころせ嚮義これにんおそれしつ大夫たいふしん。”そうむねいかややほどけいのちさちかんむちげんじゅう而釋もりひねへいかぶとこれ,冀其懼而いむ聞之自若じじゃくやめ而至成都せいとさち禮遇れいぐうげん甚厚。いちにちおけしゅ召嚴。こげ彦賓なおざいしょくいむ於懷中出なかいでみことのりしめせさち以誅彦賓,さち聽,いんせめげん曰:“おおやけまえたてまつ使つかいおう衍,かえり而請へいしょくとげ致兩こく俱亡。こんおおやけふくらいしょくじん懼矣。且諸かた鎮皆はいかんぐんおおやけどくらいかんわれぐんなに也?”いむ惶怖もとめあいさち曰:“しゅういか不可ふか遏也!”とげ揖下,もく客將かくしょうおう彦銖これかん戒録うんいわお天成てんせいはつふく來臨らいりんまもるはじめれいぶん從容しょうよう乃言曰:“われ聞利こうくつがえ邦家ほうかべんごとみだれけいせいしょうせいげんにせ而辨,孔子こうし誅之。こん巧言こうげん如簧,勿矜ほそゆきゆう大罪だいざいしゃ知之ともゆき乎?ただ如初あずかおう衍折ためちかい,及其降也,ふくまた誅之,とげ使天道てんとうあくみつるこく俱滅,其罪一也かずや。其次たいらしょくさい先入せんにゅうきん闈,内藏ないぞうたまきんせん宫庭嬪婇,其罪也。ごろしゃいつわりさとし三川みかわげんしゃくりょうぜい,及其とくばいさらちょう,其罪三也みつや。而又誑惑朝廷ちょうてい,妄陳利害りがいせつさんがわ形勢けいせいそう二鎮之節旄,ひかえ扼我咽喉いんこう,覬覦わが土地とち,其罪よん也。いままたためわが監護かんごすわにぎ兵權へいけん,儭我はん維,うけたまわわが爵位しゃくいひとしんあにじょ天意てんいそうようなんじ再來さいらいまた謬矣,其罪也。”げん訖,とげれい武士ぶしかい簷。いむまた倉皇そうこうしつ節操せっそう,乃叩頭こうとう曰:“いむざい一死いっしよろししかねがい殘骸ざんがいため洛中らくちゅうおに。”高祖こうそ聽,いのちけんこれずい以嚴しかばねぞくひだりひさしうまあゆみおそれこうちょうともしゅん曰:“むかしげんたてまつ使つかい,而汝ためふく故人こじん也,ためわが瘞之!”いん誣奏:“いむいつわりせんこう敕,うんだいしん赴闕,また擅許將士しょうし優賞ゆうしょうしん輙已誅之。”ない八作使楊令芝以事來蜀,いたり鹿頭ししずせき,聞嚴,奔還,而明むね竟不ふくとい也。しゅ宏昭ひろあきざい東川ひがしがわ,聞之,また懼,はかりごと歸洛きらくかいただしあきらゆう軍事ぐんじ使にゅうそう宏昭ひろあきにせしかぎょうゆかりとくめんときさちかたきばない指揮しき使たけ漳迎ぞく於晉ぎょういたりおおとりしょうおおとりしょう節度せつど使したがえ曮聞いむころせ,以爲さちはん矣,とげとめ而不はつからしゅすんで不能ふのうつめ,而猶よく以恩しん羈縻みことのり聽知さちぞくかえりしょく,乃遣きゃくしょう使ひとしのり慰諭さち及吏みん三月さんがつかぶといぬいたり成都せいとへいさる,瓊華公主こうしゅ及子じんさんいたりすすむさちいんひょう請趙ため副使ふくしなつよんがつから以季ため西川にしかわ節度せつど副使ふくしさちごと大小だいしょうみなあずかりょうまいりけつひろしかえり成都せいと,以爲觀察かんさつ推官。あきなながつさちそう五人貢佛牙於唐,ちょういちすんろくふんうん僖宗こうしょくしょとめこんぞくおうひじりよしみぶしからあかりむねきゅうがつきゅうにち誕生たんじょうごうおうひじりぶしねがいまんことぶきから主命しゅうめいせんしめせ羣臣。ふゆじゅうがつちくひつじ馬城ばじょう於羅じょうそとしろこう駢所ひろみずのえたつ西にし南方みなかたゆうあか如火燄,やく千里せんりさんねんはるさんがつさち屢與ただしあきらそうしおあきらさそえしょうたび東川ひがしがわ鹽入しおいり西川にしかわさち患之,乃於かんしゅうおけさんじょうじゅうせいさいとくぜにななまん緡,しょうたびふく東川ひがしがわから徙趙りょう爲果しおおせしゅうだんねり使,以何瓚爲西川にしかわ節度せつど副使ふくしさちとくせいしょ,匿之,おもてとめりょうもと。乃遣はたかみなり廷魯いたり京師けいしろん請,とうぬしとくやめしたがえこれ瓚行いたり綿谷わたや,懼不敢進,さちいんそう瓚爲行軍こうぐん司馬しばこれさいとう荆南,みことのり以我へいかいさちひだり肅邊指揮しき使もうしげるりつへいさんせん戍夔しゅうやめ而荆みなみだかきょう,其子したがえ誨請いのちさち請罷戍兵,もとさち諷重以兵譟,つぶせ而歸。から以詔しょ劾重さち奏請そうせい劾。よしから大臣だいじんえき以知さちため必反。よんねんはるだいひだるべいぜによんひゃくぶんなつがつから主將しゅしょう有事ゆうじ南郊なんこうきゃくしょう使ひとしのりせめさちじょれいぜにいちひゃくまん緡。さちさとしからはかりごとこまおのれ肯出。久之ひさゆき,請獻じゅうまんさきおうつぎ岌東かえとめ精兵せいびょうせん戍蜀,やすじゅう誨疑さちゆうこころざし,聽言ごとしゃようおのれしょおやしんぶんもり兩川りょうかわ管内かんないもろしゅうまいじょ守將しゅしょうのり以精へいため其牙たいしゃさんせんしょうしゃしたひゃくにん,以備緩急かんきゅういたりから以夏魯奇ため武信たけのぶぐん節度せつど使ふゆじゅうがつからしわり閬、はて二州置保寧軍,以ひとしのりため節度せつど使また以武けんひろしため綿わたしゅう刺史ししじんのりため東川ひがしがわただしあきらしょ詬,あずかこれゆうすき,而虔ひろしふく於重誨爲がいけいひとしのり詗璋はんじょうぞうかざり而奏とうぬしまた使つかい魯奇益治ますじとげしゅうじょう隍,つくろえおさむかぶとへいあきらやめだい懼,道路どうろ傳言でんごんまたはたわり綿めんりゅうためぶし鎮,さちまた懼。さちほんあずかあきらきょう嘗通とえあきら以爲からしょう致討,はじめじんらい求婚きゅうこん以自ゆい,而知さちこころ恨璋,よくもとちょうりょういいむべ合從がっしょうこばめとうさち乃許以其おんなてき璋子あきこちょうきょう元年がんねんはる正月しょうがつただしあきらちくなな寨於けんもんからしちょうりょう如梓しゅう修好しゅうこうがつおつついたちりょうかえ成都せいといいさち曰:“ただしおおやけむさぼざん好勝よしかつこころざしだいはかりごとたんおわりため西川にしかわ患。”ちょうとりこしぐんこうのぶあきらおうこうほん指揮しき使ひとし罕、ちょうともぎょうよくおけえん召知さちさきにちゆうあまつげ二將謀以宴日作亂,やめ而詰じょう,推始げんしゃとくのべあきらくだりほんいんけい焉。つちのえいぬさちどくまいじん罕第就宴,於是しょしょうみなおや而服みずのえさちあずかあきられんひょうげん:“聞朝廷於閬中けんぶし綿めんとげえきへいゆうおそれ,請罷かえところ節度せつど刺史ししとう。”からしゅゆうみことのり慰諭これがつから南郊なんこう加知かちさちけん中書ちゅうしょれいつうかんさくよんがつつちのえいぬいましたがえしょく檮杌。なつよんがつかぶとうまついたちただしあきらおそれたけけんひろし伺其所爲しょいおもて兼行けんこうぐん司馬しばしゅう廷。五月ごがつあきら閲集民兵みんぺいみな剪髮黥面,ふく於劍もんきたおけえいじょうせきぬのれつ烽火ほうかこれがつさちるいひょう請割くもやすとうじゅうさんしおかん隸西がわ,以鹽ちょく贍寧こうたむろへいからしからしゅもとさきさちあずかあきら俱有こころざし,而安じゅう誨信げんごとしゃなおよく倚璋以圖さちいたりあきらさき謀反ぼうほんへいかすめとげ、閬鎮戍。あきなながつあきらあずか宫苑使ひかりぎょうしょ曰:“朝廷ちょうていわりわれささえぐんためぶし鎮,たむろへいさんせんころせわが必矣。なんじ樞要すうようためげん朝廷ちょうていさらはついちいれはすだにわれ必反,あずかなんじ訣矣。”いくとうまた别將荀咸乂將へい戍閬しゅうあきらとげはん九月くがつみずのとうし西川にしかわすすむそうかんすなおはくともさちうん:“朝廷ちょうていしょうはつへい討兩かわ。”さちはかりごと副使ふくしちょうりょうりょう請以東川ひがしがわ先取せんしゅとげ、閬,しかこう併兵もりけんもんのり大軍たいぐん雖來,われない顧之ゆう矣。さちしたがえこれ使つかいやくあきらどう舉兵。あきらうつりげき、閬、とげさん鎮,すう其離あいだ朝廷ちょうてい,引兵げき閬州。これがつおうひじりぶしさち開宴かいえん東北とうほくもち再拜さいはい,俯伏嗚咽おえつ,泣下沾襟,士卒しそつ爲之ためゆき欷歔。明日あした庚午こうごとげ舉兵於成,以都指揮しき使ひとし罕爲ぎょう營都部署ぶしょかんしゅう刺史ししちょう廷隱ふくこれ,簡州刺史ししちょうともぎょうため先鋒せんぽう指揮しき使將兵しょうへいさん萬攻遂州,别將きばない指揮しき使ほうひろし先登せんとう指揮しき使はじめおもえきょう將兵しょうへい四千會璋攻閬州。牓示もろしゅう曰:“ぶた聞皇おう御下おしもおんしん乖而叛離;臣子しんしごとくん猜忌さいきせい而權へんかた不可ふか刮席以忍はじにかわばしら而移おんひらき户牖以啓えびす長根ながね而稔患。以至舉戈問罪もんざいちかいしゅげんせいつくりひさしひとしみんしきもとめぶくさちこくあさ懿戚,受命じゅめいそうむね節制せっせい於西がわぐうかなえうつり於東おひがしらく。且以變則へんそくへんくんゆうくんいんつきぶし而傾まこととげはしごこう入貢にゅうこうねんうちはつうんきょせきすうじゅうまん緡,あらきゅうちゅうあさこれ,此則勵勤勞きんろう於天よくひょうりつ乎諸こう宇内うないみなにんだれいたり於屢かん秩,またちょうこう不幸ふこう間諜かんちょうせんきょう,窺覦あきら於閬ちゅう而立じりつぶし就列,鎮以えきへい,摇動わが軍民ぐんみんひかえ扼我ふえしきはた異議いぎるい上聞じょうぶん,冀少軫於懷柔かいじゅうまれやややす於方めん。而朝廷ちょうてい以爲とくうたてふか其疑,竟乖ぎょすい歡,ぜっ雲龍うんりゅうちぎりさちあずか東川ひがしがわしょうおおやけやめれん姻好,きょう密封みっぷう圻,あさ聞雞けんこえくれせっ笳鼙ひびきさと雖分於兩鎮,人心じんしんなん一家いっかいきおい同舟どうしゅうこと共濟きょうさいいまあずか東川ひがしがわ點檢てんけんぐんじゅうまんにんぶん,往武信利のぶとし、閬、みち、黔、夔等しゅうもん逐制おけゆかりあずかきょうたむろしゅうしゅう。其行法令ほうれい,别載條章じょうしょうつとむえんやすし,必無おかせしいたげきょうおう開國かいこくひさ霸成ひがしそく鐵鎖てっさ於瞿塘,きたそくどろふう於大おだい子孫しそんしつもりしょうしょうはなれしんごうざいしょくふけじんかた忘於霸主,いん衆多しゅうたかんじきゅう,奮武たび以開疆。佇遣四民しみんかくやす其業,しかこうはなはやしあゆみがつにしきすいぎょうはる繁華はんかなんゆずる於往ねん爵禄しゃくろくおもしん於此。”東川ひがしがわへいいたり閬州,からしょしょう多言たげんむべ深溝ふかみぞだかるい以挫ひとしのり曰:“しょくへい懦弱だじゃくやすのうとうわがせいそつ!”とげせんへい交而つぶせただしあきら晝夜ちゅうやおさむこれかのえたつしろおちいころせじんのりめつ其族。へいいぬからあるじせいそぎただしあきら官爵かんしゃくきょうへい討之。さち以收閬州牓示西川にしかわ牓曰:さくしゃ兩川りょうかわ朝廷ちょうてい自生じせいうたぐからだ忠良ただよししん讒賊あいだごと,致諸こうはなれとくはじめのり閬州節度せつど使ひとしのりりょうたてまつ使つかいしき此覘窺,いい於果、閬之あいだ便びんひかえ臨之,妄興はかりごと,濫置ぶし旄。及奸けいとげしんなおかげよこしま而未やめかず聞奏むくい請兵よくゆいかいためえびすくび所以ゆえん東川ひがしがわしょうおおやけおもんばか其稔あく,須議推兇,れんきょう貔武きょうやぶ豺狼さいろうくつ自今じこんがつじゅうきゅうにちとりとく東川ひがしがわしょうおおやけ來書らいしょうん:“じゅうにちよる三更さんこうさんてんおやりょう兩川りょうかわ大軍たいぐん四面しめんかこえ裹,おさむ閬州じょういたり其日平明へいめい打破だは,斫到ひとしのり首級しゅきゅう,并捉到指揮しき使姚洪、うまぐん指揮しき使おうけいぐん指揮しき使あきらとう訖。じょう下見したみらいなげ指揮しき使あたまやめ便びんあずかしょうきゅうやすそんけん本城ほんじょう軍人ぐんじん百姓並不傷動,そとあまりこばめてき黨類とうるい殺戮さつりくあまり。”此則てんさんへいにんかのういさむりょくとげいたり元兇げんきょう斬首ざんしゅどうあく就擒。わがよんごう以環かこえぎゃくるいいちおさむ瓦解がかいとししょかみなり迅,氣山きやまよこおもえあずか士民しみんどうけいかい便乘びんじょうしょう前進ぜんしんおさむおさむとぎしゅうただはんてのひらあいださら俟克てきとしちょうから以知さちけん西南せいなんめんきょう饋使,以天節度せつど使せきけい瑭爲東川ひがしがわこう營都招討使,以夏魯奇爲之ためゆきふくあきら使はじめおもえきょうぶんへいおさむあつまりしゅうおもえきょうけいすすむはいあきらいかかえ成都せいとさちめん其官。戊子ぼしから以敬瑭權東川ひがしがわごとかのえとらまた以右たけまもるじょう將軍しょうぐん王思おうしどうため西都さいと留守るす兼行けんこう營馬おそれこうためしょくぜんほこさきあきからあらためふう瓊華公主こうしゅためぶく慶長けいちょう公主こうしゅいのち秘書ひしょかんりゅうたけしためさつ使くだりいたりおおとりしょう聞知ぶんちさちしょうへい乃旋。ふゆじゅうがつ癸巳きしひとし罕圍とげしゅうなつ魯奇嬰城堅守けんしゅさちいのち押牙だかけいやわらそちしゅう義軍ぎぐんまんにんちく長城ちょうじょうたまき。魯奇うまぐん指揮しき使やすし文通ぶんつうせん文通ぶんつう聞閬しゅうおちいとげ以其しゅくだじん罕。つちのえいぬただしあきら引兵おもむきとぎしゅうぐうかてうんつぎかえ閬州。さち聞之おどろき曰:“やぶ閬中,せいよくみちとぎしゅう,其帥,必望ふう遁去。われ其倉そのくら廩,よりどころ漫天けんきたぐんおわり不能ふのう西にしすくい武信たけのぶいまただしおおやけへきしょ閬州,とお棄劍かくけい也。”ほしへいさんせんじょもりけんもんあきら以有備固辭こじ丁未ていみとうぞく誅董こうぎょうさち以故しょく鎮江節度せつど使ちょうたけしためかいぎょう營招おさむ討伐とうばつ使はた水軍すいぐんおもむき夔州,以左ざお指揮しき使袁彦ちょうふくこれみずのとうし東川ひがしがわへいおちいちょうごうともえほおけはてしゅう十一月じゅういちがつつちのえたつたけいたる渝州,くだ其刺ちょうたまきとげ瀘州,先鋒せんぽうはたしゅ偓分へいおもむき黔、涪。これがつから招討使せきけい瑭入せきかいしゅう刺史ししおうひろしにえ、瀘州刺史しし馮暉,あずかぜんほこさきうまあゆみおそれこう王思おうしどうぐん指揮しき使ちょうざいれい引兵じん頭山つむりやまけんもんみなみかえかつけんもんころせ東川ひがしがわへいさんせんにん指揮しき使ひとし彦温,よりどころ而守しょく高祖こうそ實録じつろくうんじゅうはちにちきたぐん自白じはくまもるみねじん頭山つむりやましたがえしょうけんいたりかんみなもとえき出頭しゅっとうたおせにゅうけんもん打破だはせき寨,掩捉ひとし彦温及將ひゃく餘人よにんきのえいぬひろしにえとうやぶつるぎしゅうやめ而唐ぐんつぎ,乃焚いおりしゃかて,仍保けんもんおつからしゅみことのりそぎさち官爵かんしゃくおのれただしあきら使つかいらいつげきゅうさち聞劍もんしつもりだい懼曰:“ただしおおやけはてあやまわが!”かのえたつきばうち指揮しき使はじめ將兵しょうへいせん往赴,戒曰:“しか晝夜ちゅうや兼行けんこうさきよりどころつるぎしゅうきたぐん無能むのうため也。”また使つかいまいとげしゅうれいちょう廷隱しょうまんにんかいたむろつるぎしゅう復命ふくめいしょくひさしひら節度せつど使筠將へいよんせんおもむきりゅうしゅうまもり要害ようがいときあきら閬州みつる兩川りょうかわへいたむろ木馬もくば寨以備唐かいとうおもむきつるぎしゅうためわが指揮しき使龐福まことしゃ鍠所擾,ふく退すさけんもんじゅうにち不出ふしゅつさち聞之曰:“われはじめいいひろしにえとうかつけんもんみちよりどころつるぎしゅう堅守けんしゅ其城,ある引兵ちょくおもむきあずさしゅうただしおおやけ必棄閬州,奔還;ぐんしつ援,また須解とげしゅうかこえ,如此そく内外ないがい受敵,兩川りょうかわ震動しんどういきおいゆう危。こん迺焚毁劍しゅううんかてひがしけんもんとみへいすすむわれ其易あずか矣。”からへいぶんどうおもむきぶんしゅうはたかさねりゅうしゅうていとお指揮しき使はんぶくちょう義勝よしかつあたますなのべ祚擊はいかぶとさるちょうたけしそつ於渝しゅうさちいのち袁彦ちょう代將だいしょう其兵。しゅ偓將いたり涪州,からたけやすし節度せつど使楊漢まろうど棄黔みなみ,奔忠しゅう;偓追いたりゆたかかえ涪州。さちいのち成都せいとささえ使ちぇよしけんたけやすしとめ,仍牓しめせ軍民ぐんみん牓曰:今月こんげつじゅういちにちよりどころかいぎょう討伐とうばつ招收使じょうむくい,黔南節度せつど使今月こんげつじゅう七日將手下元戎兵士抛本州,下水げすい奔竄。ひろ衙隊指揮しき使しゅ偓部りょう左右さゆうざお并諸指揮しき兵士へいしじょうせんせんじゅうせき,往黔みなみやす慰,いたり今月こんげつにちうまかい。其黔みなみ節度せつど使今見いまみざいりょうけいだんてんもとずい兵士へいし及旋添水そうずぐん却有ひゃく餘人よにんはいしょうせんせんこうやすしこうせっおう兵士へいしいた却,よくふく本州ほんしゅう。其朱偓當たつりょうせんせん往渠けいかさね逐,いたりうまあずか賊軍ぞくぐんしょう交戰こうせん,趂下すいやく百餘里至酆都壩頭,ころせ賊軍ぞくぐんいちひゃく餘人よにん黔南内外ないがい指揮しき使かくふとしじょう、吴近おもえちょう瓊等さんじゅう餘人よにんだつとくころもかぶと器械きかいしょうおさむぱいしるしよんふく。其黔みなみ節度せつど使そく擕餘とうじょう小舟こぶね沿流直下ちょっかただしゅう。竊以だい舉舟遠征えんせいかい旗鼓きこ纔聞,其下せらくも檣尋ゆび於上ゆうれんくだぐんじょうつぎおさむ營監,いきおい且捷於破ちくこえゆうるい於爇よもぎこんのりさら閲捷しょ,屢聞かちさくきょうやすしこうぐん以黔みなみためひじひじ,以渝、ごうため饋運衢,わがやめだんかれなにもち矣。ふしそち棄城而竄遁,裨將けんたい而追とりこすう俘馘以既おさむよろいかぶと而亦しゅゆびとろけじょう,以固ふうすみ。凡曰軍民ぐんみん,攸同かい慰。いくただしあきらぜんりょうしゅう刺史ししおうあきら將兵しょうへいさん千會李肇等分屯劍州南山。十二月じゅうにがつみずのえたつせきけい瑭至けんもんおつしんたむろつるぎしゅう北山きたやまちょう廷隱ひね於牙じょう後山あとやまはじめおうあきらひね於河きょうけい瑭引步兵ほへい進擊しんげき廷隱,廷隱ぜんしゃしゃ五百人伏敬瑭歸路,按甲まちほこ矟幾しょう及,乃揚旗鼓きこ譟擊とうぐん退步たいほ,顛墜下山げざん,俘斬ひゃく餘人よにんけい瑭又使騎兵きへい衝河きょうはじめ以彊いしゆみしゃ騎兵きへい不能ふのうしん薄暮はくぼけい瑭引,廷隱引兵躡之,あずか伏兵ふくへいあいげき大敗たいはいけい瑭還たむろけんもんとうぐんわたるけん,以餉どうため艱,潼關以西いせいみんうたて饋,ごといちせき不能ふのういち道路どうろ嗟怨。而敬瑭師こうからおもこれとげきりせめやすじゅう誨。じゅう誨遽請行。みずのとうしはつ洛陽らくようにちはせすうひゃくさとけい瑭本よくきょう,及重誨離とうぬしがわ,乃累ひょうそうろん,以爲兩川りょうかわ不可ふかからしゅ頗然わがへいさき戍夔しゅうしゃせんひゃくにんいたりから悉縱ねんはる正月しょうがつみずのえいぬさちたてまつおもてしゃとう庚午こうごひとし罕陷とげしゅうなつ魯奇自殺じさつみずのととりせきけい瑭復引兵いたりつるぎしゅうたむろ於北やまさちふくろう魯奇くび以示。魯奇二子從敬瑭於軍中,泣請取うけとりちちくびそうけい瑭曰:“さち長者ちょうじゃ,必葬而父,あにいよいよくびしょ乎!”すんで而知さちはておさむそう焉。けい瑭與わがはたちょう廷隱せん不利ふりふくかいけんもんこれがつから主用しゅようけい瑭及しゅ宏昭ひろあきはじめかん瓊言,召安じゅう誨還きょうがつおのれうしついたちけい瑭以とげ、閬既おちいかてうんつぎとげしょう營北わがへいあずか東川ひがしがわへいついいたりとぎしゅうみずのえたつから昭武あきたけ節度せつど使彦琦棄城はしかぶとうまわがへいどう東川ひがしがわへいおちいとぎしゅうさちいのちちょう廷隱ため昭武あきたけぐんとめ。廷隱使つかいみつごと:“ただしあきらあずか同憂どうゆう不可ふかあずかどうらく他日たじつ必爲こう患,請因其至つるぎしゅうろうぐん而圖。”さちもとかのえさち武信たけのぶとめひとし罕爲かいぎょう營招討使,使つかいはた水軍すいぐんひがし畧地。おつちょう廷隱、はじめつるぎしゅう引還,とめへいせん戍利しゅう丙午ひのえうまただしあきらかえ東川ひがしがわとめへいさんせん戍果、閬。ちょうひとし罕陷ただしゅう三月さんがつおのれついたちひとし罕陷まんしゅう庚申こうしんまたおちいくもやすかんじん罕至夔州,からやすしこう節度せつど使あんたかし阮與楊漢まろうどひとしぼう遁去。みずのえいぬひとし罕陷夔州。なつうるうよんがつからころせ其臣やすじゅう誨。からしゅ以爲致我きょうへいしゃゆかりじゅう失策しっさく,及重誨死,五月ごがつおのれ,乃下みことのり以離あいださち及董あきらぜに鏐爲じゅう誨罪。丙午ひのえうまからすすむそうかんすなおすすむたてまつぐんはたもり紹本さとしじゅう誨專いのちきょうへいいまやめふく辜,げんさちおい妷在京師けいししゃみな恙,また東川ひがしがわぐんはたりゅうきよしかえ本道ほんどうさち聞重誨既からまたあつまち其家ぞく,邀璋ほしどう謝罪しゃざいあきら曰:“はじめ公家くげぞくみなそん,而我子孫しそんどくころせなにしゃため?且詔しょざいすなお腹中ふくちゅうりゅうきよしやすあずか聞?”乙未おとみひとし罕自夔州引兵かえ成都せいと十二月じゅうにがつ昭武あきたけとめちょう廷隱ごととぎしゅうぐすく塹已かん,請兵きょうもと及秦、おおとりさちもと。廷隱また以頃ざいつるぎしゅうあずかきばない指揮しき使はじめどうこうねがい以昭たけゆずるさちまた褒諭まことやめ而廷かくれさんゆずるみずのととり,召回成都せいと,以肇だい守利もりとししゅうさんねんはる正月しょうがつさち以朝廷恩ゆうあつ,而董あきらふさが綿わたしゅう聽使しゃにゅうしゃあずか節度せつど副使ふくしちょうりょうとうはかりごとほっはつ使峽江きょうこう上表じょうひょうてのひら書記しょきひろし曰:“おおやけあずか東川ひがしがわはかりごと而獨使つかいのりにちまけやくこれせめざいわが矣。”乃復命ふくめい使あきらしたがえこれがつぶく慶長けいちょう公主こうしゅ薨。がつちょうあずかしょしょう昭武あきたけかんだか彦儔將兵しょうへいおさむかべしゅう,以絶山南さんなんへいてん入山にゅうざんしょしゅうしゃさちはかりごと於僚ひろし曰:“あさ廷遣すなおとう西にしつね報謝ほうしゃこん輙興おかせはぐれおおやけ如舍墳墓ふんぼおい妷,でんげき舉兵ちょくはりよう安用やすもちかべしゅう乎?”さち乃止,りょうよしあくひろしさち三遣使説董璋,いいたてまつおもてしゃとうおそれふく致討;あきらみな聽。三月さんがつからしうしまたれいひろしまいあずさしゅう極論きょくろん利害りがいあきらえきうたぐさちうりおのれいんはついか以語おかせひろしひろしげんあきら不通ふつう謀議ぼうぎ,且有窺西がわこころざしすすむさち備之。なつよんがつあきらはかりごとかさねわが成都せいとあきらしょしょうみなうん必克,どくおうあきら曰:“けんみなみまん成都せいとためだいどきかた盛夏せいか無名むめいこう必不なり。”さち聞之,乃遣ぐん指揮しき使はんひとし嗣將さん千人詣漢州詗之。あきらにゅうさかいやぶ楊林鎮,わが戍將武宏たけひろれいさち頗有憂色ゆうしょくちょうりょうすすむさち以禦あきらちょう廷隱以季りょうげんためしか,且曰:“あきらけい無謀むぼう,舉兵必敗,當爲とういこうとりこ。”からし,以廷かくれためぎょう營馬ぐん都部いちぶしょ將兵しょうへいさんまんこばめあきら五月ごがつみずのえうまついたち,廷隱にゅうかいあきらげきしょいたりまたゆうのこりょう、廷隱及はじめしょ,誣其あずかおのれ通謀つうぼう。廷隱,擲之再拜さいはい而行。さち曰:“こと必濟矣。”はじめ不知ふちしょ,曰:“あきらきょうわがはんみみ。”しゅう其使しゃしかまたようしゅためぜんけいあきらへいいたりかんしゅうひとし嗣與せん於赤すいはいためあきらしょあきらとげおちいかんしゅうみずのとさちとめりょう及高けいやわら守成しゅせいそちへいはちせんにんおもむきかんしゅういたりわたる牟鎮,廷隱ひね於鎮きたかぶとさるおそあきら,廷隱ひね於雞蹤橋。按薛はじめさちでんうんさちしんそち其衆あずかちょう廷隱とうぎゃくせん於金かりきょうあきらぐん大敗たいはいいましたがえどおりかん義勝よしかつていとおみやことも兵馬へいば使ちょうこう鐸陳於其さちとくあきらくだそつころも以錦ほう使つかいしょ招降あきらあきら曰:“ことやめ及此,不可ふか悔也。”ぐんちゅう暑熱しょねつさち巡行じゅんこうなでとえ三軍さんぐん忻然,如熱而濯。いちうん如濯而風。にわか而璋望見ぼうけんわがへい甚盛,退すさひね於武こうびょうあきらちょう驍卒だい譟曰:“にちちゅう曝我なんためなにそくせん!”あきらそく麾軍せんへいはじめ交,あきらみぎひさしうまあゆみ指揮しき使ちょうまもるしんらいくだげん:“東川ひがしがわへいつき此,ふく後繼こうけいとうきゅうげき。”さち登高とうこう督戰とくせんひだり明義あきよし指揮しき使もうしげるひだり衝山指揮しき使瑭守雞蹤きょうため東川ひがしがわへいしょころせとき廷隱さんせん不利ふりきばない指揮しき副使ふくしほうひろしじつへいまた却,さち懼,以馬箠指ひねちょうおおやけ鐸帥しゅ大呼たいこ而進,東川ひがしがわへい大敗たいはい死者ししゃすうせんにんとりこあきらちゅう指揮しき使もと璝、きばないふく指揮しき使ただし光演こうえんとうはちじゅう餘人よにんだつかぶとひゃくひきあきら拊膺曰:“おやへいみなつきわれなに乎!”あずかすう遁去,しゅななせんにんみなくだとげふくはんひとし嗣。さち引兵ついあきらいたりこうくだ其馬指揮しき使もと瓌。わがへいにゅうかんしゅうだいもとめあきらとく士卒しそつそうあきら軍資ぐんしあきらはしめんちょう廷隱ついいたり赤水あかみずまたくだ其卒さんせんにんゆうさち宿やど雒縣,いのちひろしくさ牓諭東川ひがしがわ吏民,及草しょろうといあきら,且言はた如梓しゅう詢負やくこれよし,請見これざいおつとりさちかい廷隱於赤すいとげ西にしかえいのち廷隱將兵しょうへいおさむあずさしゅうあきらさきいたりあずさしゅうかた輿こし而入,おうあきらむかいとい曰:“ふとしじょうぜんぐん而出,いまかえじゅうにんなに也?”あきら涕泣ていきゅう不能ふのうこたえ。及至だいぽうしょくあきらあずかあきらしたがえきばないおそれこう延浩のぶひろそちへいさんひゃくだい譟而いれあきらきゅう妻子さいし登城とじょうはつあきら奔回,かねかりきょう,麾其こう嗣使くだわが以保家族かぞくひかり嗣哭曰:“いにしえあにゆうちちころせ而求生者しょうじゃ乎!やすしどう就死。”いんあずかあきら俱走,いたり縊死いしあきらいたり北門きたもんろうよびちょう指揮しき使はん稠討みだれ,稠反引十そつ登城とじょうあきらくび及斷こう嗣首以授あきらあきら舉城くだ於廷かくれやく也,凡得あきらあずさ綿めんりゅうけんひろしはて、閬、ほおけみぞきゅうしろ。廷隱いれあずさしゅうふう以待さちはじめ聞璋はいはじめ其使以聞。へいいぬさちにゅう成都せいとちょうふく將兵しょうへいはちせん如梓しゅう,牓示曰:“ぶた聞皇てんおやおもんみとく輔,明神みょうじん昧,みのりあくそくほろび逆賊ぎゃくぞく東川ひがしがわ節度せつど使ただしあきら包藏ほうぞうこころ盟約めいやく,暴興きゅう寇封圻。むかいほこさき而尋ほろびぜんぐんたんうま而竄かえりほん昭武あきたけすべりょう大衆たいしゅうついかさねあまり妖,のりゆうぜんりょうしゅう刺史ししおうあきら覩其はたほろびいんうたてぶくふくろうあきら父子ふしそうけんじ其元,かつぐんじょうまちあまり旌旆。ねん智勇ちゆうあしよしみしょう。且謀於衆じんつみとめ於元あくすんでじょ心腹しんぷく患,ながかた邦國ほうこくもと。”さちいたり新都しんと,廷隱けんじあきらくびおのれうしはつ玄武げんぶ,廷隱そち東川ひがしがわすすむ來迎らいごうみずのえたつさちゆうやまし癸巳きしひとし罕來とげしゅう,廷隱むかえ於板きょうひとし罕不たたえ東川ひがしがわこう,頗加おかせあなど,廷隱だいいか乙未おとみさちやまし瘳。ちょうとりにゅうあずさしゅう,舉子勾龍逢獻としさち嘉納かのう曰:“くちびるろん歲月さいげつちょうあに其率ゆるがせ顛狂。もとえびすみつるりょう三軍さんぐんせんきょぎょう奔衝いちひねほろび。莫訝潼江つよし入寇にゅうこうみやこゆかりにしきうらごうきょうおう武功ぶこう蓋世がいせいこう前後ぜんこうこらえこうあおへん萬古ばんこあげ。”つちのえいぬだい賚將すんでやめさち顧仁罕、廷隱曰:“はただれとう鎮此?”ひとし罕曰:“れいおおやけさいあずかしょくしゅうまたくだりみみ。”廷隱たいさち愕然がくぜん退すさいのちひろしくさ牒,俟二將有所推,のりいのちいち人爲じんいとめひろし曰:“むかしはりそうむねみなけんりょうよん鎮,いまはたゆずるおもんみこうりょう便びんおおやけむべ亟還あずかちょうぼくしゃさら。”さちいんいのちじん罕歸とげしゅうとめ廷隱東川ひがしがわ巡檢じゅんけん,以昊ゆきあずさしゅう軍事ぐんじひろし曰:“とらかたそう受命じゅめいねがいしたがえこうかえ。”乃以押牙おう彦銖ため東川ひがしがわかん押。みずのとさちいたり成都せいと,廷隱ひろまた引兵かえさちいいひろし曰:“われとく東川ひがしがわため患益ふか。”ひろし請其さち曰:“われはつあずさしゅうとくじん罕七じょうみなうんおおやけよろしりょう東川ひがしがわしかしょしょう不服ふふく’。而廷かくれごとほん敢當東川ひがしがわいんじん罕不ゆずるとげゆうそう心耳しんじ’。きみためわがあかつき廷隱,ふく以閬しゅうためやすしぐんえき以果、ほおけみぞひらけよんしゅう,往鎮われりょう東川ひがしがわ,以絶じん罕之もち。”廷隱なお不平ふへい,請與じん罕鬬,勝者しょうしゃため東川ひがしがわひろしふかかい,乃受命じゅめい六月ろくがつ,以廷かくれためやすしぐんとめつちのえうまちょうりょうそちぐんはた吏等請知さちけん鎮東がわもとひとしまた請稱おうけんぎょうせいしょ賞賜しょうし功臣こうしんまことさちとげ并有兩川りょうかわしかあきらさちそつ使つかいしゃとうからくるる密使みっし范延こう曰:“さち雖已やぶあきらしか士卒しそつみな東方とうほうじんおそれ其思ためへんまたほし朝廷ちょうていいきおい以威其衆,こごめ招之,かれまた不能ふのう也。”からしゅ曰:“さちわれ故人こじんほんいん間諜かんちょう,致此危疑。なでわれ故人こじんなにこごめゆう?”さきかつやすしつまはじめさちいもうと也,からそうむねやめころせかつやすしはじめ於知さち,其子そん瓌留ごとからため供奉ぐぶかんとうぬしそくそん瓌來しょうははいんたまものさちみことのり曰:“ただしあきらきつねおおかみ貽族めつきょうおかえん親戚しんせきみな安全あんぜんしょむべ成家なるいえ美名びめいまもり君臣くんしんだいふし。”あきなながつかのえとらそん瓌至成都せいとさちそん瓌,頗傲慢ごうまんやめ而拜泣受みことのり乙未おとみさちそん瓌還,ひょう謝罪しゃざい,且告ぶく慶長けいちょう公主こうしゅふくしょうはんしかえきおご倨矣。按何かん戒録からあかりむねみことのり及孟さちそうじょうあずかどおりかん五代ごだいふみ畧異。ろくうんあきらむね供奉ぐぶかんぼくしゃはせ入川にゅうがわたまものはじめしょく高祖こうそみことのり曰:“ちんきょうちかあずかぎゃくぞくただしあきらしょうあいだ交兵,やめ敕軍まえ,俾其犄角。”高祖こうそ請記むろひろしじょう其章そう,備陳本末ほんまつ,其奏じょう曰:“ふく以故東川ひがしがわ節度せつど使ただしあきらあずかしんため鄰,したがえはつむつみつねあつ誣於ひょう疏,まい深間ふかま朝廷ちょうていよく肆爪きばらい土宇つちう,及審せい聽不ある物論ぶつろんなんしたがえしんあい此時奮擊驍雄,掃除そうじかん宄。ひろぞく陛下へいかみどりはながいちゅうやすしゃまたなにきず克之かつゆきまことおそれえきろうよい旰,いんとま。雖隱忍いんにん以累ねん,且參しょう而終。其後しんやすじゅう誨特うけたまわ君寵くんちょうほしいままろう國權こっけん,窺劍がいゆうもえしめせ寰中かしこしんまた竊料きよしくん,必推ほろび以固そん,其如侍臣じしんげんおそれいかかぶと而難はんしんあずかただしあきら暫以あいごうかず不同ふどう。雖玉帛之交馳,あにしん貌之しょうるいまこと藴蓄,且務包容ほうよう。儻感颺,必當掃殄。其董あきらいたり今年ことしよんがつじゅうはちにち暴興へいかぶと五月ごがついちにち驟入かんしゅうしん其日さき昭武あきたけぐん節度せつど兵馬へいばとめけんひだりひさしぐん指揮しき使ちょう廷隱總領そうりょうさんまんにんはつ次新つぎしんしんすべりょう衙内おやぐんまんにんつぎ,俱列營於わたる牟鎮きたいたりさんにちつめだんゆい其大じん,俟勦元兇げんきょう。其董あきらいたりうま敢領妖徒,とうほこさきするどしんそくおやほこかぶとちょう廷隱しゅ奮鼓はた,一擊而魚潰鳥離,四合而豕分蛇斷,斬首ざんしゅいちまんきゅう俘八せん餘人よにんなまとりこぞくなか指揮しき使もと璝、きばないふく指揮しき使ただし光演こうえん及已指揮しき使あたまはちじゅうあまりいんだつ下馬げばかぶとひゃくひきおさむころもかぶと器械きかいじゅうまん餘事よじ。其餘ぎゃくこれひろれいさがせ捉併つき。其董あきらただあずか親男ちかおきばない指揮しき使ただしこう嗣併したがえにん罄馬而奔,棄甲而遁,なでせき而掩泣,らんわだち以咸あい烏江からすえ死所しにどころ逃,あかかべ慚顔さらあつしんこう以疾かみなりいきおいやぶ其急でんこれしん便びんすべりょう大軍たいぐんあつついかさね。其董あきらいたりよんにち走入はしり東門ひがしもんいたりうまゆうぜんりょうしゅう刺史ししおうあきら窠巢やめかたぶけけんじょう池之いけのもりふくろうただしあきら父子ふし首級しゅきゅうそうむかえけんじ軍門ぐんもんみちしんおさむ下城げじょうるい平定へいてい一方いっぽうこれしゅとめよんにちあいだ。莫不遐仗すめらぎ,戡除鄰患。しんかた以自たがえ君命くんめいひつじたちしんまこととしおと雖審其風はせそう疏未遑其插。あにいい皇帝こうてい陛下へいかざい動静どうせい,遽軫ゆうろう,遄降使臣ししんとく頒明みことのりさとしただしあきらかんざいつとむほろしん以削ひらめ,仍勅ぐんまえ,俾施犄角,なみとく暗合あんごうびょう畧,あきら應神おうじんさらくちびるおそれえい股肱ここうよせ。”こん本文ほんぶんしたがえどおりかんおうだんはちがつ甲子きのえねさちれいひろしためたけやすしとめちょうりょう武信たけのぶとめひとし罕、やすしとめちょう廷隱、やすしこうとめちょうともぎょう昭武あきたけとめはじめとうくさひょう,請以おのれためしょくおうぎょうすみせい,仍自もとめ旌節。ひろし曰:“しゃしょしょうおさむかた鎮,そくゆう其地,いままたもとめ朝廷ちょうていぶし鉞及あかりこうふう爵,しかのり輕重けいちょうこれけんみなざい羣下矣。”さち大悟たいごさられいひろしためおのれくさひょう,請行すみせいとく兩川りょうかわ刺史しし以下いかまたおもて請以りょうとう五留後爲節度使。九月くがつさち以子じんさん行軍こうぐん司馬しばけん總轄そうかつ兩川りょうかわきば内馬うちうま軍事ぐんじこれがつそうぶく慶長けいちょう公主こうしゅ於星宿やどさんふゆじゅうがつおのれとりついたちからふくそん瓌來成都せいとみことのりけんみなみ節度せつど使刺史しし以下いかかん,聽知さちしょ奏聞そうもん朝廷ちょうていさらじょじんまたごうもん使りゅうまさしおんためせんさとし使らいぶく慶長けいちょう公主こうしゅ賻,且爲はつあいさつおくすすむこく雍順ちょう公主こうしゅさきいわお誅之からじょ刺史しし,輙以あずま兵衞ひょうえおくこれなつ魯奇、ひとしのりたけけんひろしかくゆうきばたいすうせんにん,及我へいかつとげ、閬、、夔、黔、あずさろく鎮,とくひがしへい無慮むりょさんまんにんさちあつきゅう其衣しょく,并表請家ぞくいたりとうぬしみことのりさとしもとしかまたふく徵兵ちょうへいかえいくせいおん復命ふくめいさちはたしゅひろしちょうとうよんねんはるがつつちのえさるさち以墨せいしょちょうひとしため節度せつど使みずのとからいのちさち以檢こうふとしじょうけん中書ちゅうしょれいぎょう成都せいといんけん南東なんとう西にし兩川りょうかわ節度せつど管内かんない觀察かんさつ處置しょちみつる押近かいしょ蠻、けん西山にしやまはちこく雲南うんなんやすなでせいおけとう使ふうしょくおうこれがつおうかんおさむしょくぬしおうけんはかきんきこり三月さんがつうたげ僚於おうせんはなえんいい左右さゆう曰:“使つかい衍不あら於政,ゆうけんしん輔之,つぎ岌小あにのう遽至此邪!”ちょうりょう曰:“またてん也。ゆうしょはいくんなん以興?”おう大喜だいぎおつとりからはじめせいじょちょうひとしため節度せつど使あきなながつから以工尚書しょうしょ文紀ふみのりれいろうちゅう吕珂ためさつれい使たまものおういちひんあさふくさつぶん曰:“ちん祇受てん眷,けんみかどじき大信たいしん而仰ほうひろし穹,秉至こう而俯臨億兆おくちょうあきらぜん癉惡,必分涇渭ながれたかしとくほうこう,敢忘山河さんがちかい。其有さかえれん戚里,にんじゅうこうはん白水しろみず中興ちゅうこうためすめらぎ而盡ぶし,雖旁えん詿誤,而竟ちゅうさだ。疏鑿つうしおうみ波瀾はらん蹔阻;既定きてい,拱辰光耀こうよう如初。おもてあきらみなけん於推まこと,琛賮とおおさむ於述しょくとくあらわ其丹あか,懋以旌酬,えきあつしさかなすい歡,えいちぎり君臣くんしんみち。爰求吉日きちじつ,乃降徽章きしょうしかはじめさちぬきてん三山さんやま鎮地,ななねん乃辨,ためはりとうざい十德じっとく俱全,しん琮璜うつわさき皇帝こうてい經綸けいりんはちきょくすみかつちょうにんとおるくびじゅつ其緯しょ,鄧禹つねさん於霸ぎょう同心どうしんどうとく,竟扶あさ矜,罔恃濯龍ちょう。洎朕纂承おおとりおさむ,繄爾鎮守ちんじゅりゅうじょう鐵石てっせきわたるけん,菁茅匱。山川やまかわけんぜっまいけん向日むこうしんだま帛駿奔,じょ郊天れいゆうしんわか此,當代とうだいなんただしあきら久作きゅうさく厲階,おわりもえぎゃくふしすんで辜恩於覆よくよめ於勳けんたたみ以封あきら,疏其鄰道,けんりゅうわがなま聚,離間りかんわが忠良ただよしなんじがいしめせかのうどうせんふところ憤激ふんげき,衷罄げん而誘さとしかれすんでかい;伺良便びん以誅すき,乃期ゆき。以至敢驅叛黨,みち逼仁ふうじ,吹虺どく以傷じん,奮豺きば而暴ぶつなんじそくみょうほどこせなり筭,竟出ぜん,鼙鼓纔鳴,旋聞落爪;窠巢つぶせやめ噬臍ぜいせいあずさしゅう妖氣ようきふう,涪州きょうかがみきよしかいわれよい旰,よりゆきなんじ韜鈐。かた當銘とうめざいけいがねあにとめこう於信きょうふく備輸こん款,えきけんかたぶけけんじょ魯館夤緣,じゅつ沛中こときゅうふかこころあきらふしあきらゆう疾風しっぷう,焉知勁草。倘無異數いすう,曷報たかしいさおよしなみちくしょうだんあらわ陞王爵,けんりょうはんおく壤,けいいちふう。仍循えきつうぶんまわし,别改旌功懿號。たまもの旌鉞,さつ以輅しゃ。雖加とうちょうこうしかみなかたじけなざいむつみおやぶんまた慚。於戲!てん鑒甚あきらためぜんしゃくだこれ福祉ふくし君恩くんおんとうたて勛者あつ以奬むくいおもんみけいまき始終しじゅう延長えんちょう富貴ふうきつとむうけたまわ兑澤,らい鎮坤維。授依ぜん檢校けんぎょうふとしじょうけん中書ちゅうしょれいぎょう成都せいといんけん南東なんとう西にし兩川りょうかわ節度せつど使管内かんない營田觀察かんさつ處置しょちみつる押近かいしょ蠻、けん西山にしやまはちこく雲南うんなんやすなでせいおけとう使,仍封しょくおうしょく邑一せんひゃく户,じつふうひゃく户,あらためたまものちゅうさだただし國保こくほだい功臣こうしんかんくん如故。仍令所司しょし備禮さついのちおもしゃ施行しこう。”はちがつおつついたち文紀ふみのりとういたり成都せいとさきおう自作じさくきゅう旒冕、きゅうしょうころもくるまふく旌旗せいきみななずらえ王者おうじゃつちのえさるおうとげふく衮冕,備儀まもるまいえきくだかい北面ほくめん受册,ますだま輅至もんじょう輦而おうきょう境内けいだい曰:“たけしてい霸,乃公こうけんへんこれかた;捨爵さくくん,乃皇おうじょむくいてん。其或へいたむろまんたび廣三こうぞうがわしゅうたまき列國れっこく山河さんが,奄有ぜんしょくふうじ。儻不したがえけん而狥しゅのり稽録こう以報こうこん禀命於中あさとく專制せんせい而行しょうただしねんうけたまわ餘慶よけい,受旌鉞之ことさかえりょう成都せいと,於兹はんきゅうおごごく侈,かただん不爲ふためこうたけきょうみんざいやす而有さく往歲おうさいかたつとむじゅつしょくつとむ保永やすなが不幸ふこうしょはん,搆成ふかすき。此際ぬしへい將帥しょうすいそうひねはいなんこううんさくまろうど僚,咸展畧。よしきょうたけたびふんとろけ渠魁きょかいるい破竹はちく以焚枯,れんひらけ疆而つぶせ。其次しょつかさ奉職ほうしょく,庶吏推誠,咸著くんろうあに忘奬こたえまたさく聖上せいじょう以顯ぶんちゅう佞,とげさつふうじ,礪岳たいかわめい大君おおきみちょう;輅車たま冕,おもて列國れっこくことさかえ。仍示ゆうたかし,俾行すみせいうえはんかたにんしも及州けんかん,凡黜のぼる幽明ゆうめいもと先行せんこう而後そう僭不濫之てんしょうりつこうりつごとひと。必無患於ひとし,庶有覬於まこととう布告ふこく遐邇,咸使聞知ぶんち。”きゅうがつたてさんびょうふゆじゅういちがつからしゅ殂。十二月じゅうにがつおう聞訃,制服せいふくだい臨,いい僚佐曰:“そうおう幼弱ようじゃく爲政者いせいしゃみな胥吏小人こども,其亂坐視ざし也。”蠻人ばんじんだか曩閣ぞう楊夾しつ朶兒ただりつしゅおけ碉門はじむみやびちょう河西かさいぎょどおりやすしとおろく軍民ぐんみんやすなでたまものかくぞうくん世襲せしゅうやすなで

あきら德元とくもと年春としはる正月しょうがつ龍見たつみ犍爲,しろかささぎしゅうだまきょく白龜しらかめゆう於宣はなえんたけやすし節度せつど使ちょうりょう上表じょうひょうひねみずりつ文武ぶんぶ百官ひゃっかん勸進かんじんおう曰:“とくうす不足ふそくはずかしめ天命てんめい,以蜀おう而老,於孤あし矣。”りょう曰:“將士しょうし大夫たいふつきぶしこうちゅう於殿みなもちよじうろこつばさいま正大せいだいすべ以副軍民ぐんみん推戴すいたいしん。”閏月じゅんげつおのれしょく檮杌うんじゅうはちにちおう乃卽皇帝こうてい於成國號こくごうしょく大風おおふうひる暝。がつみずのととり,以趙ためつかさそらけん門下もんかさむらいろうどうたいらあきらごとりょうたけやすし節度せつど使如故;中門ちゅうもん使おうしょかいためくるる密使みっしひとし罕爲まもるきよししょ軍馬ぐんばぐん指揮しき使,仍領武信たけのぶ節度せつど使ちょう廷隱ためひだりただしひじりあゆみぐん指揮しき使,仍領やすし節度せつど使はりぎょうためみぎただしひじりあゆみぐん指揮しき使,仍領やすしこう節度せつど使ちょうこう鐸爲ささげきよしひかえつる指揮しき使ほうひろしじつためたてまつ鑾肅まもる指揮しき副使ふくしてのひら書記しょき毋昭裔爲ちゅうすすむてのひら書記しょきひろし觀察かんさつ判官ほうがんじょひかり溥爲翰林かんりん學士がくし三月さんがつついみこと曾祖そうそ佚爲こうもと皇帝こうていびょうごうふとし察爲こうけい皇帝こうていびょうごうこうどうしょく檮杌さく巘,おうしょくゆううんさちちちどういましたがえこれためこうたけ皇帝こうていびょうごう顯宗けんそう使つかいしょいたりらくたたえだいしょく皇帝こうていから潞王したがえ珂舉へいおおとりしょうからおも西京にしぎょう留守るす王思おうしどう討之。護國ごこく安彦やすひこあずか山南さんなん西道さいどうちょうけん釗、たけじょうまごかん韶、あきらよしちょうしたがえまろうどせいなんやすしぶく五節度使合兵攻鳳翔,官軍かんぐんはいつぶせなつよんがつ庚午こうごついたち地震じしんちょうけん釗、まごかん韶以きょうもとたけじょうりょう鎮來くだみかどいのちたてまつ鑾肅まもるうまあゆみ指揮しき使昭武あきたけ節度せつど使はじめ將兵しょうへいせんかえとぎしゅうみぎただしせいうまあゆみ指揮しき使やすしこう節度せつど使はりぎょう將兵しょうへい一萬屯大漫天以迎之。からし,受玉さつだまたからとくけんもん大赦たいしゃ改元かいげん明德めいとく錦里きんり耆舊でんうんあらためとうちょうきょうねんため明德めいとく元年がんねんついさつすすむこく雍順ちょう公主こうしゅため皇后こうごうさつ夫人ふじんためとうとからおきしゅう刺史ししりゅうとげきよしつきさんいずみ西にしけんきむうしくわりん戍兵以歸洛きらくわがへいいん進取しんしゅせき以南いなんじょう鎮。かぶとさるちょうぎょう將兵しょうへいにゅうきょうもとようしゅう五月ごがつ丁未ていみとうかいしゅう刺史ししちょうきよしおのれとりけん釗、かん韶舉ぞく遷成みずのえいぬからなるしゅうさきちょう廷隱けんじ山南さんなんけいみかど以兵やめみんこまもといたりこれじょうぜいしん逼,漸次ぜんじ畧地山南さんなん六月ろくがつこう大慈寺だいじじ避暑ひしょかんからあかりすめらぎ、僖宗よううたげ羣臣於華嚴けごんかくからぶん州都しゅうと指揮しき使なりのべかめ舉州らいこれがつみかどえんろうちょうけん釗等,けん釗奉觴爲ことぶきみかど手緩てぬる不能ふのう舉觴。はつみかどどくふうやまし逾年,いたりとげびょうあきなながつおけながたいらぐん於雅しゅう,以孫かん韶爲節度せつど使ふく以虔釗爲山南さんなん西道さいどう節度せつど使どうたいらあきらごとけん固辭こじくだりおつみかど以七夕宴丹霞樓,かん宫人乞巧,やまいとげぞうげき甲子きのえねたて皇子おうじ東川ひがしがわ節度せつど使どうたいらあきらごと親衞しんえいうまあゆみ指揮しき使じんさんため太子たいし,仍監こく,召司むなしどうたいらあきらごとちょうあずかひとし罕、ちょう廷隱、おうしょかいちょうこう鐸、ほうひろしじつどう受遺みことのり輔政。ゆう殂,じゅうろくにちとしろくじゅういちおくりな文武ぶんぶ聖德せいとくえいれつあきらこう皇帝こうていびょうごう高祖こうそりょう曰和りょうさきゆうそういちさく道者どうしゃごうあたまいちとう檠,しょいたりしょたくよび曰“とくとうとう便びんたおせ”。及帝登極とうきょくすうがつそくえんにん以爲けんまたみかどはついれしょくゆう輓車しゃもん曰:“しか所載しょさいしゃ幾何きか?”たい曰:“盡力じんりょくりょうふくろ。”みかどふかあくこれこうはてでんりょううん