出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 通房(ふじわら の みちふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原頼通の長男。官位は正二位・権大納言。
万寿2年(1025年)関白・藤原頼通の庶長子として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため嫡男とされた。また、頼通の正室への配慮と摂関家を継ぐという重要性から、摂関家の事実上の長である祖父・道長の土御門殿で養育される。後に隆姫の弟である源師房の娘を正室に迎えて、頼通は正室・隆姫と嫡男・通房を通じて村上源氏との間に強い血縁関係を成立させる。
後一条朝末の長元8年(1035年)元服すると直ちに正五位下に叙せられ、同年中に侍従次いで左近衛少将に任官する。翌長元9年(1036年)には正月に従四位下、7月に従四位上、11月に正四位下と三階もの昇叙を受け、12月に右近衛中将に任ぜられている。
長暦元年(1037年)には13歳にして従三位に叙され公卿に列すと、翌長暦2年(1038年)にも6月に正三位、8月に従二位と二階の加階に与り二位中将となる。長暦3年(1039年)正月に15歳で権中納言に任じられ、同年閏12月に正二位に昇叙された。長久3年(1042年)権大納言に昇進し、長久4年(1043年)には筆頭の権大納言であった藤原頼宗を差し置いて、右近衛大将を兼ねている。
しかし、後朱雀朝末の長久5年(1044年)正月より蔓延し始めた疫病に罹患し、発病してからわずか7日後の4月27日に薨去[1][2]。享年20。通房が早逝したため、他家に養子に出される予定であった異母弟・師実が後継者として摂関家を継承する事になった。
勅撰歌人として、和歌作品が『後拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に1首ずつ入集している。
『公卿補任』による。
- ^ a b 『扶桑略記』長久5年
- ^ 『栄花物語』巻第35 くものふるまひ
- ^ 『近衛府補任』