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きのえよう鎮撫ちんぶたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

きのえよう鎮撫ちんぶたい(こうようちんぶたい)は、慶応けいおう4ねん1868ねん)に新選しんせんぐみきゅう幕府ばくふから甲府こうふ鎮撫ちんぶめいぜられたさい名称めいしょうである。

なお、本稿ほんこうではきのえよう鎮撫ちんぶたい編成へんせいについてのみべる。編成へんせいされて以降いこう甲府こうふまでの進軍しんぐん過程かていならびに甲州こうしゅう勝沼かつぬまでのしん政府せいふぐんとの合戦かっせんについては甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたか参照さんしょう

編成へんせいいた背景はいけい

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そもそもの発端ほったんは、鳥羽とば伏見ふしみたたかやぶれて江戸えどもどった新選しんせんぐみ近藤こんどういさむ徳川とくがわ慶喜よしのぶ甲府こうふじょう支配しはい一任いちにんしてもらうようねがたことだった。その時期じきについて永倉ながくら新八しんぱちは「江戸えど到着とうちゃく早々そうそう[1]としており、その意図いとについては「甲州こうしゅうじょう自分じぶんちかられここに慶喜よしのぶうつさうとする計画けいかくててゐた」[2]としている。また、当時とうじ陸軍りくぐん総裁そうさい(1がつ23にちから2がつ25にちまで。同日どうじつ陸軍りくぐん総裁そうさいのおやく御免ごめんもうみとめられるものの、あらたに軍事ぐんじ取扱とりあつかいめいじられているので、つづ軍事ぐんじ部門ぶもん責任せきにんしゃだったことにはわりない)の要職ようしょくにあったかつ海舟かいしゅう明治めいじ17ねんんだ『かいなんろく』で「伏見ふしみへん一敗いっぱいしてみなひがしかえ近藤こんどう土方どかた其徒をりつがえ再戦さいせんを乞ひだいに其徒をしゅうむ」として近藤こんどうらが「再戦さいせん」を目論もくろんでいたとしたうえ甲府こうふ出兵しゅっぺいについても「恭順きょうじゅんあらわかげいちせんふく甲府こうふく」としん政府せいふぐんとの「いちせん」をしてのものだったという見方みかたしめしている[3]

ただし、こうしたかち近藤こんどうらにすべての責任せきにんけるようないいぐさには疑問ぎもんていするきもある。石井いしいたかしは『維新いしん内乱ないらん』で「徳川とくがわ政権せいけん陸軍りくぐん総裁そうさいしょう近藤こんどう土方どかた古屋こや[注釈ちゅうしゃく 1]らの脱走だっそう公認こうにんしたのは、厄介やっかいばらいの政策せいさくからでたものとされているが、兵士へいし兵器へいきまで供給きょうきゅうし、あるいは職名しょくめいあた任地にんちまで指定していしたのは、ねんはいりすぎている。そこでかち脱走だっそう公認こうにん政策せいさくは、たんに消極しょうきょくてき厄介やっかいばらいにとどまるのではなく、かれらをはなってゲリラせんをやらせ、政府せいふぐんとの交渉こうしょう有利ゆうりにみちびこうとする底意そこいがあったのではなかろうか」[4]しるしており、かち近藤こんどうらの意図いと十分じゅうぶんわかったうえであえて甲府こうふへの出兵しゅっぺいみとめたとしている。

編成へんせい

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2がつ28にち徳川とくがわから新選しんせんぐみたい正式せいしきに「甲府こうふ鎮撫ちんぶ」のいのちくだり、大砲たいほう6もんもとこみ小銃しょうじゅう25てこ、ミニエーじゅう200てこなどが支給しきゅうされた(数字すうじは「島田しまだいさお日記にっき[5]る。一方いっぽう、「浪士ろうし文久ぶんきゅう報国ほうこく記事きじ[6]では大砲たいほう8もん元込もとごじゅう300てことなっており、数字すうじちがっている)。また現存げんそんする新選しんせんぐみの「金銀きんぎん出入でいりちょう[7]によれば、29にちには会津あいづはんから1200りょうもと幕府ばくふてん松本まつもとりょうじゅんから3000りょうっている。

一方いっぽう江戸えど出発しゅっぱつ時点じてんでの陣容じんようについては「島田しまだいさお日記にっき」にも「近藤こんどういさむ隊長たいちょう土方ひじかた歳三としぞう副長ふくちょう同士どうし凡百ぼんぴゃく有余ゆうよじんヲ以テ甲府こうふじょうこうフ」[5]としかかれておらず、正確せいかく人数にんずう当事とうじしゃ日記にっきによっても判然はんぜんとしない。ただし、諸々もろもろ資料しりょうから新選しんせんぐみやく70にん[8])と若干じゃっかん会津あいづ彦根ひこね藩士はんし、そしてたま内記ないき配下はいかによって編成へんせいされたじゅうたいやく100にん[2])などからなる総勢そうぜい200にんらずの混成こんせいぐんだったとかんがえられる。なお、このさいたま内記ないき配下はいかじゅうたい参加さんかしたことについては子母澤しもざわひろしが『新選しんせんぐみ始末しまつ』にいたことでられるようになったものの、子母澤しもざわいている内容ないよう子母澤しもざわ典拠てんきょとしたとされる「永倉ながくらおうのこだん」とのあいだにはじゅうたい人数にんずうふくめて若干じゃっかん齟齬そごみとめられる。永倉ながくら新八しんぱち大正たいしょう2ねんに『小樽おたる新聞しんぶん』のインタビューでかたった内容ないようつぎのようなものである。

 こゝに江戸えど浅草あさくさ新町しんまちだん左衛門さえもんあらた矢島やじま内記ないきとて特殊とくしゅ部落ぶらくだい頭目とうもくてられる世間せけんそと一大いちだい勢力せいりょくがあつたが、みぞ一言ひとことじつ全国ぜんこくにわたる部落ぶらくじゅうまんにんたしめにるものがある。そこで薩州ではみぞさむらい取立とりたてるとの評判ひょうばんがあつたので、幕臣ばくしん松本まつもとじゅん機先きせんせいし、『旗本はたもと推薦すいせんする』といつて手馴てなれつけた。内記ないきだいよろこんで、『このうえ如何いかなることがあつても幕府ばくふ御用ごよううけたまわる』とやくしたので、松本まつもとただちに手続てつづきうえ御目見得おめみえ以上いじょう召出めしだされ書院しょいんぐみれっせられて時服じふく拝領はいりょうまでおおけられ、破格はかく待遇たいぐうけるとなつたので、内記ないきからは御礼おれいとしてかねいちまんりょうけんずる、つぎ同人どうじんいぬいひゃくにんえらんで仏蘭西ふらんすしき調練ちょうれんけしめた、そこで松本まつもとはこの歩兵ほへい新撰しんせんぐみ付属ふぞくせしめやうと近藤こんどういさむけいつた。
 しかるに近藤こんどう甲州こうしゅうじょう自分じぶんちかられここに慶喜よしのぶうつさうとする計画けいかくててゐたので、いちへいでもしいときであつたから早速さっそくこれを承諾しょうだくした、そしてこの計画けいかく慶喜よしのぶ内諾ないだくけてあるので近藤こんどういちにち新撰しんせんぐみ役付やくづきすなわ副長ふくちょう土方どかたふく長助ちょうすけつとむ沖田おきた永倉ながくら原田はらだ斎藤さいとう尾形おがた調しらべやく大石おおいし川村かわむらひとしよびあつめてみぎ計画けいかく打明うちあけ、首尾しゅびよく甲州こうしゅうじょうひゃくまんせきはいらば、隊長たいちょうじゅうまんせき副長ふくちょうまんせきふく長助ちょうすけつとむさんまんせき調しらべやくいちまんせきつゝ配分はいぶんしやう、ただしこの一事いちじたい運命うんめいつながるところであるから、隊長たいちょう一存いちぞんではけっねるので各位かくい意見いけんうけたまわはりたいといふと、一座いちざ無条件むじょうけん賛成さんせいした[2]

子母澤しもざわひろしは『新選しんせんぐみ始末しまつ』でじゅうたい人数にんずうを200にんとしているものの、こちらでは100にんとされており、単純たんじゅん子母澤しもざわひろし数字すうじを「った」ことになる。一方いっぽう、この永倉ながくら証言しょうげん信憑しんぴょうせいにも疑問ぎもんはある。永倉ながくらかたっているように江戸えどけがれおおあたまであるたま左衛門さえもん御目見得おめみえ以上いじょうされ書院しょいんぐみれっせられたという事実じじつ確認かくにんできず、史実しじつとして裏付うらづけがれるのはたま左衛門さえもん慶応けいおう4ねん1がつ29にちけで「たいらじん」にげられ、たま内記ないきあらためたという事実じじつのみ[9]一方いっぽう松本まつもとりょうじゅんたま左衛門さえもん身分みぶんげに尽力じんりょくしたことは『らん疇自でん』でも裏付うらづけられるため[10]、その松本まつもとりょうじゅん斡旋あっせんたま左衛門さえもんあらただん内記ないき配下はいか新選しんせんぐみ付属ふぞくとなったというてんかんしては一定いってい信憑しんぴょうせいみとめられる。なお、おな永倉ながくら新八しんぱち明治めいじ8ねんごろしるしたとされる「浪士ろうし文久ぶんきゅう報国ほうこく記事きじ」にはこのような記載きさいはない。一方いっぽうで「小荷駄こにだだん真樹まきあらため矢嶋やじま直樹なおきさる道中どうちゅう払方はらいかたこと直樹なおき甲州こうしゅう出生しゅっしょうみぎづけ探索たんさく周旋しゅうせんかたしょうようイ召連ル」[6]とあって、たま内記ないき小荷駄こにだかたとして従軍じゅうぐんしていた事実じじつつたえている[注釈ちゅうしゃく 2]

またたいめいとしては「きのえよう鎮撫ちんぶたい」がひろられているものの、どう時代じだい史料しりょうにはみとめられない。「きのえよう鎮撫ちんぶたい」の初出しょしゅつ明治めいじ32ねん発行はっこうの『きゅう幕府ばくふだい3かんだい7ごう掲載けいさいされた「柏尾かしおせん[13]で、その子母澤しもざわひろしがこれを典拠てんきょに『新選しんせんぐみ始末しまつ』でいてられるようになった。「柏尾かしおせん」はもと新選しんせんぐみたい結城ゆうきさん体験たいけんだん長男ちょうなん結城ゆうき禮一れいいちろう筆記ひっきしたものだが、内容ないようにはおおくの疑問ぎもんてん指摘してきされており、そもそも結城ゆうきさん新選しんせんぐみ在籍ざいせきしていたことすら疑問ぎもんされている(くわしくは「結城ゆうきさん#生涯しょうがい参照さんしょう)。ただ、新選しんせんぐみ後援こうえんしゃ甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたかにも「春日かすがたい」を組織そしきして参加さんかした佐藤さとう彦五ろうしるした「佐藤さとう彦五ろう日記にっき[14]に「鎮撫ちんぶたい」としるされているほかきゅう幕府ばくふぐん進軍しんぐんルートにたる宿場しゅくば役人やくにん書状しょじょう[15]にも「鎮撫ちんぶたい」としるされている。さらに「浪士ろうし文久ぶんきゅう報国ほうこく記事きじ」にも「まき〔ママ〕なでたい」としるされており[16]、これらのことからすくなくとも「鎮撫ちんぶたい」と名乗なのっていたことは裏付うらづけられる。そのうえに「きのえよう」とかんしたのは結城ゆうきさん創作そうさくなのかどうかは不明ふめい。ただし、甲州こうしゅうにゆかりの『きのえようぐんかん』にちなんでけられた可能かのうせいはある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 衝鋒たい組織そしきして北関東きたかんとう越後えちご仙台せんだいはこかん転戦てんせんした古屋こやたすく久左衛門きゅうざえもんのこと。
  2. ^ 幕末ばくまつ差別さべつみん軍事ぐんじ登用とうようされたれいほかにもあり、慶応けいおう2ねんせいちょう戦争せんそう長州ちょうしゅうがわ史観しかんでは「よんさかい戦争せんそう」)にはたま左衛門さえもん配下はいか軍夫ぐんぷとして従軍じゅうぐんしたほか長州ちょうしゅうがわ戦力せんりょくとして登用とうようしている。史料しりょう確認かくにんできる参加さんか部隊ぶたいは「茶筅ちゃせんちゅう」「維新いしんだん」「一新いっしんぐみ」などで[11]、このうち、「維新いしんだん」をめぐっては「且又維新いしんだんはたらけおどろきごと御座ぎょざこう」とその勇猛ゆうもう果敢かかんぶりにおどろぐんかん報告ほうこくしょ[12]られている。

出典しゅってん

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  1. ^ 木村きむらみゆきいにしえ新選しんせんぐみ日記にっき永倉ながくら新八しんぱち日記にっき島田しまだいさお日記にっきむ』PHP研究所けんきゅうじょ(Kindleばん)、2003ねん6がつ位置いちNo.2004/4056。
  2. ^ a b c 杉村すぎむら義太郎よしたろう へん新撰しんせんぐみ永倉ながくら新八しんぱち杉村すぎむらよしまもる壮年そうねん時代じだい杉村すぎむら義太郎よしたろう、1927ねん7がつ、147-148ぺーじ 
  3. ^ 勝安かつやすかおる海舟かいしゅう全集ぜんしゅう』 9かん改造かいぞうしゃ、1928ねん11月、362-363ぺーじ 
  4. ^ 石井いしいたかし維新いしん内乱ないらん至誠しせいどう、1968ねん8がつ、81ぺーじ 
  5. ^ a b 木村きむらみゆきいにしえ新選しんせんぐみ日記にっき永倉ながくら新八しんぱち日記にっき島田しまだいさお日記にっきむ』PHP研究所けんきゅうじょ(Kindleばん)、2003ねん6がつ位置いちNo.2822/4056。
  6. ^ a b 木村きむらみゆきいにしえ新選しんせんぐみ日記にっき永倉ながくら新八しんぱち日記にっき島田しまだいさお日記にっきむ』PHP研究所けんきゅうじょ(Kindleばん)、2003ねん6がつ位置いちNo.2027/4056。
  7. ^ 菊地きくちあきら伊東いとう成郎しげお へん新選しんせんぐみ史料しりょう大全たいぜん』KADOKAWA、2014ねん9がつ、259-268ぺーじ 
  8. ^ 山形やまがたひろし新編しんぺん新撰しんせんぐみ流山ながれやま始末しまつ幕末ばくまつ下総しもうさ近藤こんどういさむいちけん』崙書房しょぼう、2004ねん7がつ、67-68ぺーじ 
  9. ^ きゅう幕府ばくふちょう吏弾左衛門さえもんへんしてたいらじんす。たま左衛門さえもんすなわ内記ないき改名かいめいす。”. 維新いしん史料しりょう綱要こうようデータベース. 2023ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  10. ^ 小川おがわかなえさん酒井さかいシヅ へん松本まつもとじゅん自伝じでん長与ながよ専斎せんさい自伝じでん平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ〉、1980ねん9がつ、61-66ぺーじ 
  11. ^ 北川きたがわけん幕末ばくまつ長州ちょうしゅうはん兵隊へいたい部落ぶらくみん軍隊ぐんたい」『山口やまぐちけん文書ぶんしょかん研究けんきゅう紀要きようだい14かん山口やまぐちけん公文書こうぶんしょかん、1987ねん3がつ、33ぺーじ 
  12. ^ 末松すえまつ謙澄けんちょう修訂しゅうていぼうちょう回天かいてん』 8かん末松すえまつ春彦はるひこ、1921ねん3がつ、451-452ぺーじ 
  13. ^ 菊地きくちあきら伊東いとう成郎しげお へん新選しんせんぐみ史料しりょう大全たいぜん』KADOKAWA、2014ねん9がつ、901-905ぺーじ 
  14. ^ 菊地きくちあきら伊東いとう成郎しげお へん新選しんせんぐみ史料しりょう大全たいぜん』KADOKAWA、2014ねん9がつ、445-454ぺーじ 
  15. ^ 調布ちょうふ編集へんしゅう委員いいんかい へん調布ちょうふ近世きんせい史料しりょう じょう調布ちょうふ、1987ねん3がつ、71-72ぺーじ 
  16. ^ 木村きむらみゆきいにしえ新選しんせんぐみ日記にっき永倉ながくら新八しんぱち日記にっき島田しまだいさお日記にっきむ』PHP研究所けんきゅうじょ(Kindleばん)、2003ねん6がつ位置いちNo.2036/4056。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 菊地きくちあきら伊東いとう成郎しげお へん新選しんせんぐみ史料しりょう大全たいぜん』KADOKAWA、2014ねん9がつ 
  • 調布ちょうふ編集へんしゅう委員いいんかい へん調布ちょうふ ちゅうまき調布ちょうふ、1992ねん3がつ 
  • 調布ちょうふ編集へんしゅう委員いいんかい へん調布ちょうふ近世きんせい史料しりょう じょう調布ちょうふ、1987ねん3がつ 
  • 杉村すぎむら義太郎よしたろう へん新撰しんせんぐみ永倉ながくら新八しんぱち杉村すぎむらよしまもる壮年そうねん時代じだい杉村すぎむら義太郎よしたろう、1927ねん7がつ 
  • 木村きむらみゆきいにしえ新選しんせんぐみ日記にっき永倉ながくら新八しんぱち日記にっき島田しまだいさお日記にっきむ』PHP研究所けんきゅうじょ、2003ねん6がつ 
  • 大石おおいしすすむ新選しんせんぐみ:「最後さいご武士ぶし」の実像じつぞう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2004ねん11月。 
  • 山形やまがたひろし新編しんぺん新撰しんせんぐみ流山ながれやま始末しまつ幕末ばくまつ下総しもうさ近藤こんどういさむいちけん』崙書房しょぼう、2004ねん7がつ 

関連かんれん項目こうもく

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