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土方ひじかた歳三としぞう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土方ひじかた 歳三としぞう
はこかん戦争せんそうどき肖像しょうぞう写真しゃしん
田本たもとけんづくり撮影さつえい、1868ねん
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき- 明治めいじ初期しょき
生誕せいたん 天保てんぽう6ねん5月5にち1835ねん5月31にち
死没しぼつ 明治めいじ2ねん5月11にち1869ねん6がつ20日はつか
別名べつめい 土方ひじかたとしぞう(上京じょうきょうまえ)
戒名かいみょう とししんいん殿どのまことやまゆたかだい居士こじ
墓所はかしょ あお北海道ほっかいどう函館はこだて
石田いしだてら東京とうきょう日野ひの
寿ことぶきいさおてらさかいがい墓地ぼち東京とうきょうきた
円通寺えんつうじ東京とうきょう荒川あらかわ
天寧寺てんねいじ福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ) ほか
主君しゅくん 松平まつだいら容保かたもり
氏族しぞく 土方ひじかた
父母ちちはは ちち土方ひじかたよし隼人はやと)、はは恵津えつ
兄弟きょうだい 為次郎ためじろう長兄ちょうけい)、喜六きろく次兄じけい)、佐藤さとうのぶあね)、歳三としぞう6にん
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土方ひじかた 歳三としぞう(ひじかた としぞう、天保てんぽう6ねん5月5にち1835ねん5月31にち〉- 明治めいじ2ねん5月11にち1869ねん6がつ20日はつか〉)は、幕末ばくまつ幕臣ばくしん新選しんせんぐみ副長ふくちょう蝦夷えぞとう政府せいふ陸軍りくぐん奉行ぶぎょうなみいみなよしゆたか(よしとよ)、雅号がごう豊玉とよたま(ほうぎょく)、家紋かもんひだりどもえ

新選しんせんぐみ時代じだいには、局長きょくちょう近藤こんどういさむ右腕うわんとして組織そしきささえ、現代げんだいではおに副長ふくちょう通称つうしょう有名ゆうめいである。戊辰戦争ぼしんせんそうでは旧幕きゅうばくぐんがわ指揮しきかん一人ひとりとして各地かくち転戦てんせんし、またいわゆる「蝦夷えぞとう政府せいふ」では、軍事ぐんじ治安ちあん部門ぶもん責任せきにんしゃにんぜられて指揮しきった。戊辰戦争ぼしんせんそう最後さいご戦場せんじょうになったはこかん五稜郭ごりょうかく防衛ぼうえいせん戦死せんし

生涯しょうがい

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生誕せいたんためしまもる

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天保てんぽう6ねん(1835ねん)、武蔵むさしこく多摩たまぐん石田いしだむら現在げんざい東京とうきょう日野ひの石田いしだ)に農家のうか土方ひじかたよし諄(隼人はやと)と恵津えつあいだまれる。10にん兄弟きょうだいの10番目ばんめであるが、乳幼児にゅうようじ夭逝ようせいしたあにあねのぞいてよんなん二女じじょの6番目ばんめとされることもある[1]土方どかたは「大盡だいじん(おだいじん)」とばれる多摩たま豪農ごうのうであったが、ちちよし諄はとしさんまれる3かげつまえ2がつ5にち[2]結核けっかくくなっており、はは恵津えつとしさんが6さいとき天保てんぽう11ねん7がつ1にち1840ねん7がつ29にち)に[3]結核けっかくくなっている。また、長兄ちょうけい為次郎ためじろう眼疾がんしつのため、次兄じけい喜六きろく家督かとくぎ、隼人はやと襲名しゅうめい、そのつま・なかに養育よういくされた。生家せいかった場所ばしょには、歳三としぞう少年しょうねんころに「わが壮年そうねん武人ぶじんりて、天下てんかじょうげん」とってえたという「ちく」がある。

従来じゅうらい、11さいとき江戸えど上野うえのの「松坂屋まつざかやいとう呉服ごふくみせ」(現在げんざい松坂屋まつざかや上野うえのてん)へ奉公ほうこうがり、すぐに番頭ばんがしら喧嘩けんかをして郷里きょうりもどって[4]つたえられていたが、石田いしだむら人別にんべつちょうひかえにより、かぞどし11さいとき石田いしだむら在住ざいじゅうしており、奉公ほうこうにはていないこと判明はんめいしている[5]欠損けっそんもあるが、この人別にんべつちょうから、歳三としぞう奉公ほうこうていたのはかぞえで14さいから24さいの10年間ねんかんということあきらかになった。また17さいとき松坂屋まつざかや上野うえのてん支店してんである江戸えど伝馬てんままち木綿こわた問屋とんや上野うえのてんづるてんたいし、かめてん(かめだな)としょうされた)に奉公ほうこうがり、其処ではたらいていた年上としうえ女性じょせい妊娠にんしんさせるという問題もんだいこして郷里きょうりもどった俗説ぞくせつもあるが、前述ぜんじゅつ人別にんべつちょう存在そんざいから現在げんざいではその信憑しんぴょうせい疑問ぎもんされており、現在げんざい何処どこ奉公ほうこうしていたかは判然はんぜんとしていない[6]

その歳三としぞう実家じっか秘伝ひでんの「石田いしだ散薬さんやく」を行商ぎょうしょうしつつ、各地かくち剣術けんじゅつ道場どうじょう試合しあいかさね、修行しゅぎょうんだとわれている。

あねらんあねおとうと従兄弟いとこでもあるにち野宿のじゅく名主なぬし佐藤さとう彦五ろうとついでおり、歳三としぞうも彦五ろうたくにはよく出入でいりしていたとわれる。彦五ろう大火たいかじょうじて祖母そぼまえ殺害さつがいされ、周囲しゅういみずからの危険きけんかんじたこと契機けいき井上いのうえ源三郎げんざぶろうあに井上いのうえ松五郎まつごろうすすめで天然てんねんしんりゅう入門にゅうもんし、自宅じたく一角いっかく道場どうじょうひらいていた。そんなえんから彦五ろうためしまもるかん近藤こんどういさむ義兄弟ぎきょうだいちぎりをむすんでおり、天然てんねんしんりゅう支援しえんした。

歳三としぞうは其稽古けいこじょう指導しどうていた近藤こんどう出会であい、安政あんせい6ねん1859ねん3月9にち天然てんねんしんりゅう正式せいしき入門にゅうもんしている[7]文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)、近藤こんどう天然てんねんしんりゅう4代目だいめ宗家そうけ襲名しゅうめい記念きねん紅白こうはく試合しあいもよおされ、歳三としぞうべにぐみ大将たいしょうまもやく出場しゅつじょうした[8]

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん2がつためしまもる仲間なかまあずかに、江戸えど幕府ばくふだい14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち警護けいごのための浪士ろうしぐみ応募おうぼし、京都きょうとおもむく。其時としさん改称かいしょうする。

新撰しんせんぐみ副長ふくちょう

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文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)にきたはちがつじゅうはちにち政変せいへん壬生みぶ浪士ろうしぐみ(正式せいしき名称めいしょうではない)活躍かつやくみとめられて新選しんせんぐみ発足ほっそく。その新見にいみにしき切腹せっぷく芹沢鴨せりざわかも土方どかたらによるとられる暗殺あんさつ横死おうしし、権力けんりょくにぎった近藤こんどう局長きょくちょうとなった。歳三としぞう副長ふくちょう地位ちいき、近藤こんどう右腕うわんとして京都きょうと治安ちあん維持いじとうにあたった。新選しんせんぐみふく長助ちょうすけつとむ監察かんさつなど職務しょくむごとに系統的けいとうてき組織そしきづくりがなされ、頂点ちょうてん局長きょくちょうであるが、実際じっさい指揮しき命令めいれい副長ふくちょうとしさんからはっしたとされる。

元治もとはる元年がんねん1864ねん6月5にち池田いけだ事件じけんさいは、はんたいひきいて長州ちょうしゅうはん土佐とさはんらが頻繁ひんぱん出入でいりしていたとら四国しこく方面ほうめん探索たんさくしてまわったが、こちらはだれもいなかった。すぐさま池田いけだ応援おうえんけつけたが、ただちに突入とつにゅうせずに池田いけだまわりをかためた。池田いけだ事件じけん恩賞おんしょう破格はかくのものとなり、天下てんか新選しんせんぐみ勇名ゆうめいとどろいた。さらに幕府ばくふから、近藤こんどう与力よりき上席じょうせきたい与力よりきとする内示ないじがあったが、そのとき実現じつげんにはいたらなかった。

戊辰戦争ぼしんせんそう

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慶応けいおう3ねん1867ねん6がつ幕臣ばくしんてられる。しかし同年どうねん10月14にち徳川とくがわ慶喜よしのぶ将軍しょうぐんしょくした(大政奉還たいせいほうかん)。12月9にち王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいはっせられるにいたり、江戸えど幕府ばくふ事実じじつじょう終焉しゅうえんした。慶応けいおう4ねん1868ねん1がつ3にち鳥羽とば伏見ふしみたたかはじまる戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつし、歳三としぞう墨染すみぞめ事件じけん負傷ふしょうした近藤こんどうわりに新選しんせんぐみひきいてたたかうが、しん政府せいふぐん攻勢こうせいまえ敗北はいぼくする。その江戸城えどじょう登城とじょうした歳三としぞうは、佐倉さくらはん江戸えど留守居るすいやく依田よだ学海がっかい戦況せんきょうたずねられると、「えびすほうざれば不可ふかぼくけんやりり、いちもちいうるところなし」とかた[9]洋式ようしき軍備ぐんび必要ひつようせいあらためて痛感つうかんしたとされる[10]。もっとも、新選しんせんぐみ鳥羽とば伏見ふしみたたかいで敗北はいぼくする以前いぜん文久ぶんきゅう3ねんにはすで壬生寺みぶでら境内けいだいいてじゅう大砲たいほう洋式ようしき訓練くんれんおこなっており、そのとしはちがつじゅうはちにち政変せいへんでは実際じっさいじゅう使用しようし、果敢かかん長州ちょうしゅうぜいはらったという記述きじゅつ存在そんざいする(會津あいづはんちょう記録きろく)。

鳥羽とば伏見ふしみたたかいでやぶれた幕府ばくふぐん大坂おおさかから江戸えど撤退てったいしたあと、近藤こんどう大久保おおくぼつよし歳三としぞう内藤ないとう隼人はやと偽名ぎめい名乗なのり、新撰しんせんぐみを「きのえよう鎮撫ちんぶたい」に改名かいめいして甲斐かいこくかう。しかし3月6にち甲州こうしゅう勝沼かつぬまたたかにて大敗たいはい歳三としぞう戦争せんそうまえいそ援軍えんぐん要請ようせいかったが成功せいこうしなかった。その流山ながれやま再起さいきはかっていたが、4がつ3にちしん政府せいふぐん包囲ほういされた近藤こんどう大久保おおくぼ大和やまといつわ投降とうこう。このとき、歳三としぞう近藤こんどう切腹せっぷくめて投降とうこうすすめたとわれている。歳三としぞう江戸えどかい、かつ海舟かいしゅうらに直談判じかだんぱん近藤こんどう助命じょめい嘆願たんがんしたが実現じつげんせず、慶応けいおう4ねん(1868ねん4がつ25にち近藤こんどう板橋いたばし刑場けいじょうにて斬首ざんしゅしょせられた。

近藤こんどう投降とうこう助命じょめい嘆願たんがんのかたわら新選しんせんぐみ斎藤さいとういちあらた山口やまぐち次郎じろうたくして会津あいづかわせ、島田しまだいさおすうめいたいのみをれて大鳥おおとり圭介けいすけらがひきいるきゅう幕府ばくふぐん合流ごうりゅう4がつ11にち江戸えど開城かいじょう成立せいりつすると江戸えど脱出だっしゅつし、歳三としぞう秋月あきづき登之としすけひきいる先鋒せんぽうぐん参謀さんぼうつとめた。下館しもだて下妻しもづま宇都うと宮城みやぎたたか勝利しょうり宇都うと宮城みやぎ陥落かんらくさせる。しかし壬生みぶたたかやぶれ、しん政府せいふぐん宇都宮うつのみや再戦さいせんしたさい右足みぎあし負傷ふしょうし、ほんぐん先立さきだって会津あいづ護送ごそうされることとなった。会津あいづやく3かげつあいだ療養りょうよう生活せいかつおくり、このあいだ近藤こんどうはか天寧寺てんねいじうちてた[11]われる。

全快ぜんかいして戦線せんせん復帰ふっきしたあとは、その指揮しき山口やまぐち二郎じろう斎藤さいとうはじめ)にゆだね、山口やまぐち支援しえんをしつつ会津あいづ防戦ぼうせん尽力じんりょくするが、8がつ母成峠ぼなりとうげたたか敗戦はいせんともな会津あいづ戦争せんそう激化げきか歳三としぞう援軍えんぐんもとめて庄内しょうないはんかうが、すでにしん政府せいふぐんへの恭順きょうじゅんてんじていた庄内しょうないはんにおいては入城にゅうじょうさえかなわなかった。歳三としぞう会津あいづから仙台せんだいはんかうことをめた。おなじように戦列せんれつはなれた大鳥おおとりたいして、山口やまぐちらは会津あいづはん忠誠ちゅうせいくすべきだとうったえたということが、はこかん戦争せんそうのち現在げんざい青森あおもりけん記録きろくされた古文書こもんじょにある。土方どかたは、会津あいづはんりょうでは新選しんせんぐみ復帰ふっきしてはいなかった。そして、城下じょうかのこ山口やまぐちらと、仙台せんだい天寧寺てんねいじから離脱りだつしたたいたちとに新選しんせんぐみ分裂ぶんれつする。

仙台せんだいいたり、榎本えのもと武揚ぶようひきいるきゅう幕府ばくふ海軍かいぐん合流ごうりゅう榎本えのもととともに奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめいぐん参加さんかした。まもなく奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい崩壊ほうかいし、同盟どうめいはん次々つぎつぎしん政府せいふぐん降伏ごうぶくしたあとは、新選しんせんぐみのこたい桑名くわな藩士はんしらをくわえて太江たいえまる乗船じょうせんし、榎本えのもとらとともに10月12にち仙台せんだい折浜おりのはまげん宮城みやぎけん石巻いしのまき折浜おりのはま)を出航しゅっこうし、蝦夷えぞわたった。

はこかん戦争せんそう

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土方ひじかた歳三としぞうぞう函館はこだて五稜郭ごりょうかくない
土方ひじかた歳三としぞう最期さいご函館はこだて若松わかまつまち
土方ひじかたとしさんゆたかこれ日野ひの石田いしだてら

10がつ20日はつか蝦夷えぞ鷲ノ木わしのき上陸じょうりく歳三としぞう間道かんどうぐん総督そうとくとなり五稜郭ごりょうかくかった。新選しんせんぐみ総督そうとく大鳥おおとり圭介けいすけもと本道ほんどうすすんだが、としさんには島田しまだいさおすうめい新選しんせんぐみたいつねしたがっていたという。

はこかん五稜郭ごりょうかく占領せんりょう歳三としぞうがく兵隊へいたいなどをひきいて松前まさき進軍しんぐんして松前まさきしろ陥落かんらくさせ、ざんへい江差えさしまで追撃ついげきした。このとき、榎本えのもと武揚ぶよう土方どかたぐんうみから援護えんごするため、軍艦ぐんかん開陽かいようまる」で江差えさしおきかったが、暴風雨ぼうふうう座礁ざしょう江差えさし上陸じょうりくして開陽かいようまる沈没ちんぼつしていく姿すがた見守みまもっていた榎本えのもと歳三としぞうは、そばにあったまつたたいてなげったとわれ、いまでもその「なげきのまつ」がのこっているが、現存げんそんするのは近年きんねん植樹しょくじゅされたものである。

江差えさし無事ぶじ占領せんりょうした歳三としぞうは、松前まさきじょう一度いちどもどり、12月15にち榎本えのもと各国かっこく領事りょうじ招待しょうたいしてもよおした蝦夷えぞ平定へいてい祝賀しゅくがかいわせて五稜郭ごりょうかく凱旋がいせんした。

その幹部かんぶ決定けっていする選挙せんきょおこなわれ、榎本えのもと総裁そうさいとする「蝦夷えぞ共和きょうわこく」(五稜郭ごりょうかく本陣ほんじん)が成立せいりつし、歳三としぞう幹部かんぶとして陸軍りくぐん奉行ぶぎょうなみとなり、はこかん市中しちゅう取締とりしまり陸海りくかいぐん裁判さいばんきょく頭取とうどりねた。はこかんでも歳三としぞう冷静れいせいだったという。はこかん政府せいふ樹立じゅりつされ、榎本えのもとらが祝杯しゅくはいわしているとき歳三としぞう1人ひとり沈黙ちんもくたもち、「いまさけかれるときではない」とっていたとされる。

1がつから2がつにかけてははこかん五稜郭ごりょうかく整備せいびにあたり、3月にはしん政府せいふぐん襲来しゅうらい情報じょうほうはいったため、歳三としぞうしん政府せいふぐんきのえてつかん奪取だっしゅ目的もくてきとした宮古湾みやこわん海戦かいせん参加さんか。しかし作戦さくせん不運ふうんつづきで失敗しっぱい多数たすう死傷ししょうしゃるも、歳三としぞう生還せいかんする。

明治めいじ2ねん1869ねん4がつ9にちしん政府せいふぐん蝦夷えぞ乙部おとべ上陸じょうりく開始かいし歳三としぞうは、二股ふたまたこうたたかしん政府せいふぐん進撃しんげきたい徹底てってい防戦ぼうせんする。その戦闘せんとうちゅうしん政府せいふぐんすずらし、包囲ほういしたとおもわせる戦術せんじゅつをとった。これに土方どかたぐん将兵しょうへい動揺どうようしたが、歳三としぞうは「本当ほんとう包囲ほういしようとするなら、おとかくづかれないようにする」と冷静れいせい状況じょうきょう判断はんだんし、部下ぶかかせた。また、たたかいの合間あいまに、歳三としぞう部下ぶかたちにみずかさけってまわった。そして「って軍律ぐんりつみだしてもらってはこまるのでみないちはいだけだ」とったため、部下ぶかわらって了承りょうしょうしたという。土方どかたぐん死守ししゅしていた二股ふたまたこう連戦れんせん連勝れんしょうしたが、もう一方いっぽう松前まさきこうやぶられ、包囲ほういされる危険きけんせいがあったため、やむなく撤退てったい五稜郭ごりょうかく帰還きかんした。

明治めいじ2ねん(1869ねん5月11にちしん政府せいふぐんはこかんそう攻撃こうげき開始かいしされ、島田しまだらが守備しゅびしていた弁天べんてん台場だいばしん政府せいふぐん包囲ほういされ孤立こりつ歳三としぞう救出きゅうしゅつのためわずかなへいひきいて出陣しゅつじんはこかんみなとにて「わだかまりゅうまる」がしん政府せいふ軍艦ぐんかん朝陽あさひまる」を撃沈げきちんしたのをて「このしっするべからず」と大喝だいかつはこかん一本木いっぽんぎ関門かんもんにて陸軍りくぐん奉行ぶぎょう添役大野おおのみぎなかめいじて敗走はいそうしてくる味方みかたし、「わがこのしがらみにありて、退しりぞものらん」と宣告せんこくした。歳三としぞう一本木いっぽんぎ関門かんもん守備しゅびし、七重浜ななえはまよりしん政府せいふぐん応戦おうせん馬上まけ指揮しきった。

最期さいごについては諸説しょせつあるが、歳三としぞう乱戦らんせん最中さいちゅう腹部ふくぶ被弾ひだん落馬らくばしたとされる。かれ命令めいれいによって台場だいば方面ほうめん進軍しんぐんしていた大野おおのひきいる兵士へいしらは、一時いちじ勢力せいりょくかえしていたが、必死ひっし指揮しきむなしく総崩そうくずれとなった。大野おおのむをかえしたところおなじく陸軍りくぐん奉行ぶぎょう添役の安富やすとみざいすけからとしさんたれたことらされたとう。大野おおのいそいでけつけたが、歳三としぞうすで絶命ぜつめいしていたとされる。

享年きょうねん34(かぞえ35)。しくも盟友めいゆう近藤こんどうおな享年きょうねんであった。榎本えのもとぐん降伏ごうぶくしたのはその6にちことだった。

  1. よしや蝦夷えぞしまちぬともたましいひがし(あずま)のきみやまもらむ
  2. たとひ蝦夷えぞ島根しまねちるともたましいひがしきみやまもらん
  3. ほことりてがつるごとにおもふ哉あすはかばねうえあきらかと[12] — [よう出典しゅってん]

辞世じせいとされるものは上記じょうき辞世じせいうたんだ日時にちじ推定すいていむずかしいが、霊山りょうぜん歴史れきしかん木村きむらみゆきいにしえは、島田しまだがまとめたとされる和歌集わかしゅう巻頭かんとうすなわち上記じょうきの3が、土方どかた最後さいごうた可能かのうせいたかいとべている[12]

墓所はかしょ石碑せきひ

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としさん遺体いたい小芝こしば長之助ちょうのすけらにはこばれ、ほかの戦死せんししゃとともに五稜郭ごりょうかくない一本松いっぽんまつ土饅頭どまんじゅう)に埋葬まいそうされたとのせつがあるが、べつ場所ばしょせつもありいまだに埋葬まいそう場所ばしょ確定かくていしていない。

東京とうきょうきた滝野たきのがわ板橋いたばしえき東口ひがしぐちまえ寿ことぶきいさおてらさかいがい墓地ぼち)に供養くようとうがあり、土方どかた菩提寺ぼだいじである東京とうきょう日野ひの石田いしだ石田いしだてら墓碑ぼひがある。

福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ東山ひがしやままち天寧寺てんねいじ境内けいだい慰霊いれいがある。この天寧寺てんねいじには近藤こんどういさむ墓碑ぼひがあり、としさん石碑せきひはそのわきにある[13]。もともとは木製もくせいのものが建立こんりゅうされていた。2020ねん会津若松あいづわかまつライオンズクラブが60周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう近藤こんどういさむ墓碑ぼひとなり土方ひじかた歳三としぞう慰霊いれいあらたに建立こんりゅうした[13]

また、北海道ほっかいどう函館はこだて船見ふなみまち称名寺しょうみょうじ境内けいだいにも慰霊いれいがあり、北海道ほっかいどう函館はこだて若松わかまつまち若松わかまつ緑地公園りょくちこうえんないに「土方ひじかた歳三としぞう最期さいご」がある。公園こうえん本木もとき関門かんもんあと近隣きんりん歳三としぞう銃弾じゅうだんたおれたとつたわる。

逸話いつわ

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人物じんぶつひょう

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  • 江川えがわ太郎左衛門たろうざえもんごう邁不こごめきも非常ひじょうおとこ[14]
  • ちゅうかい土方ひじかた下僕げぼく)「知勇ちゆう兼備けんび名将めいしょうとは、土方ひじかた殿どのいなるべし。このひとをして徳川とくがわ全盛ぜんせいときにあらしめば、かならすうじゅうまんせき大名だいみょうとなるべきに、しむらくは幕末ばくまつまれ、かかる名将めいしょうもその知勇ちゆう発揮はっきするあたわず」[15]
  • 藤田ふじた和三郎わさぶろう土方ひじかたしゃちゅう賢才けんさいゆうこうとくどもたん期成きせい気質きしつ[16]
  • 中島なかじまのぼるとしちょうスルしたがえ温和おんわニシテじんスルごと赤子あかごははヲ慕フカ如シ」[17]
  • 榎本えのもと武揚ぶよう入室にゅうしつ伹清ふう

剣術けんじゅつ実力じつりょく

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天然てんねんしんりゅうためしまもるかん入門にゅうもんした翌年よくねん万延まんえん元年がんねん1860ねん)に刊行かんこうされた『武術ぶじゅつ英名えいめいろく』(江戸えどのぞ関東かんとう地方ちほう剣術けんじゅつ名鑑めいかん)に土方ひじかた歳三としぞう掲載けいさいされており[18]すで一定いってい実力じつりょくたっしていたことがうかがえる。ただし、天然てんねんしんりゅう道場どうじょうでは歳三としぞうちゅうきょく目録もくろくまでの記録きろくのみが現存げんそんしている。

真紅しんくめんひもしゅりのかわどうなど洒落しゃれ防具ぼうぐ使用しようしていたという[19]高幡不動たかはたふどう境内けいだいをよく稽古けいこ場所ばしょとして使つかっていたともいわれる。新選しんせんぐみ屯所とんしょとしていた八木はちぼくてい八木やぎ為三郎ためさぶろう述懐じゅっかいによれば、新選しんせんぐみ剣術けんじゅつ稽古けいこで、近藤こんどういさむ芹沢鴨せりざわかもたかいところにすわってていることがおおかったが、歳三としぞうはいつもどうけてあせながしながら指導しどうしていたという[10]

その

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  • 幼少ようしょうには風呂ふろからがると、よくはだかのままいえはしら相撲すもう稽古けいこをしていたという。そのはしら土方ひじかた歳三としぞう資料しりょうかん現在げんざいでものこっている[20]
  • 幼少ようしょう菩提寺ぼだいじである高幡不動たかはたふどうみこと山門さんもんから通行人つうこうにん野鳥やちょうたまごげつけてあそひとし、やんちゃな子供こどもであった。
  • おい佐藤さとう彦五ろう三男さんなん・彦吉)が庭先にわさきころんでがくったときにはすぐさまけつけて「おとこかいきずだ。めでたいめでたい」とわらってあやしたという[21]
  • のちの洋装ようそう写真しゃしんなどから、歳三としぞう合理ごうり主義しゅぎしゃ便利べんりなものは便利べんり柔軟じゅうなんさをっており、舶来はくらい懐中時計かいちゅうどけいなどもっていたという。また戊辰戦争ぼしんせんそうにおいて、宇都うと宮城みやぎ一時いちじながら陥落かんらくさせ、二股ふたまたこう守備しゅびしたときには味方みかた敗走はいそうつづけるなかで勝利しょうりかさねるなど、西洋せいよう軍学ぐんがくにも理解りかいしめして実践じっせんし、成果せいかげている。
  • 容姿ようし女性じょせい人気にんきだったために、京都きょうとにて新選しんせんぐみ副長ふくちょうとして活動かつどうしていたときなどは、日野ひの親戚しんせきけて多数たすう女性じょせいからの恋文こいぶみをまとめてばこれ「つまらぬもの」ときし、おくって自慢じまんするほどであった。
    • 上洛じょうらくあいだもないころ、小島こじま鹿之助しかのすけへ(一説いっせつ近藤こんどう道場どうじょう弟子でしたちにともわれる)てにおおきな荷物にもつとどく。きょう土産みやげでもおくってきたかとけてみると、かれした芸者げいしゃ舞妓まいこからの恋文こいぶみがびっしりめられており、「報国ほうこくしんころわするゝ婦人ふじん哉」という発句ほっく手紙てがみえられていたという[22]
  • 宇都宮うつのみやたたかいであし負傷ふしょうしていた歳三としぞうは、慶応けいおう4ねん(1868ねんうるう4がつごろから7がつごろ(異説いせつあり)まで、会津あいづ若松わかまつしろした宿やど病床びょうしょうしていた。あるおな宿やどにいた幕臣ばくしん文官ぶんかん望月もちづき光蔵みつぞうたずねてきたが、歳三としぞうころんだまま「おれたちとともにたたかえ」とった。その傲慢ごうまん態度たいどにムッときた望月もちづきは「自分じぶん文官ぶんかんだからたたかうことはできない」と拒否きょひ。すると歳三としぞうは「じゃあおまえなにをしにこんなとおくまでたんだ。臆病者おくびょうものめ」といいはなった。望月もちづきだまっておれず「さいわいにもあなたたちは宇都うと宮城みやぎうばったが、それをすぐにうばわれたではないか。ふたたうばうことはもうむずかしいだろう。じつしいことだ。あなたもまた臆病者おくびょうものわざるをない」といいかえした。歳三としぞうは「うるさい、おれ病床びょうしょうさわる。もうきたくない。け」とさけんだため、望月もちづき部屋へやった。このとき歳三としぞういかりのあまり望月もちづきまくらげつけたという[23]
  • 江戸えど定宿じょうやどとしていたのが幕府ばくふ御用達ごようたし釜屋かまや品川しながわ宿やどなかでも大変たいへんにぎわっていた茶屋ちゃやで「慶応けいおうさんねんじゅうがつ廿にじゅういちにちとううえ新撰しんせんぐみ土方ひじかた歳三としぞう家族かぞく 門人もんじんども上下じょうげさんじゅう一人ひとりきゅう釜屋かまやはんみぎ衛門えもん きゅうかんさんひゃくぶん」という記録きろくのこっている。現在げんざい釜屋かまや跡地あとち現在げんざい品川しながわにある青物あおもの横丁よこちょうえきちかく)には新選しんせんぐみ記念きねんてられている。
  • 直前ちょくぜん小姓こしょうつとめていた市村いちむら鉄之助てつのすけ遺髪いはつ写真しゃしんわたし、「日野ひの家族かぞくもととどけてくれ」とめいじる。それにたい市村いちむらは「わたしはこのにする覚悟かくごでやってきました。だれべつものめいじてください」と拒否きょひする。それをいた歳三としぞうは「ことわるとあらば、いまこのたす」とするど眼光がんこうけていいはなった。そのとしさん気迫きはくされて市村いちむらくびたてった。日野ひの旅立たびだつとき、市村いちむらまど人影ひとかげうつっていることにづく。「だれかはわかりませんでしたが、おそらく(土方どかた先生せんせいだったろうおもいます」とかたのこしている。その市村いちむらにち野宿のじゅく佐藤さとう彦五ろうもと遺髪いはつ写真しゃしん無事ぶじとどけている。
  • 土方ひじかた歳三としぞう資料しりょうかん現存げんそんするとしさん佩刀はかせ和泉いずみまもる兼定かねさだ刀身とうしん2しゃく3すん1ふん(70.3cm)がのこされている[24]。この現存げんそんする兼定かねさだだれがいつ日野ひのとどけたのかは不明ふめい明確めいかく史料しりょういま発見はっけんされていない。しかし、上記じょうき手紙てがみかれたのは文久ぶんきゅう3ねんの10がつであるため、このときはまだ会津あいづじゅういちだい兼定かねさだ和泉いずみまもる受領じゅりょうしていない。そのため、上記じょうき手紙てがみかれている兼定かねさだせきだい和泉いずみまもる兼定かねさだではないかというせつもある。また、現在げんざい所在しょざい不明ふめいであるがちょう2しゃく8すん和泉いずみまもる兼定かねさださくかたな所持しょじしていた[24]
  • としさんかたなはほかにも佐藤さとう彦五ろう資料しりょうかんあおいもん越前えちぜんやすしつぎ現存げんそんする。甲州こうしゅう勝沼かつぬませんとしさんから佐藤さとう源之助げんのすけ(彦五ろう長男ちょうなん)へおくられた[25]
  • 和歌わか俳諧はいかいたしなむなど、風流ふうりゅうじんめんもあった。めたみずからまとめており、『豊玉とよたまはつ句集くしゅう』としてのこされている。
  • 歳三としぞうはこかん戦争せんそうびたという生存せいぞんせつがある。「はこかん降伏ごうぶく」には、6にちまえんだはずの歳三としぞう降伏ごうぶくは5月17にち)の姿すがたえがかれている。には、ロシアまでびたというせつまである[26]
  • 沢庵たくあんだい好物こうぶつだったとされており、とく小野路おのじむら剣道けんどうじょうひらいていた小島こじま鹿之助しかのすけとなり親戚しんせき橋本はしもと沢庵たくあんがおりで、食事しょくじさいには山盛やまもりの沢庵たくあんをおいしそうにべ、あまりにもったため、そのままたるごとかついでかえったとわれている。

土方ひじかた歳三としぞう題材だいざいとした作品さくひん

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小説しょうせつ
楽曲がっきょく
漫画まんが
テレビドラマ
アニメ
ゲーム
デジタルコンテンツ
舞台ぶたい
  • 宝塚歌劇団たからづかかげきだんまこと群像ぐんぞう
  • ミュージカルうすさくらおに
  • TEAM NACSだい10かい公演こうえん LOOSER~うしなつづけてしまうアルバム』(2004ねんえんじ大泉おおいずみひろし

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 菊地きくち 2011a, p. 12
  2. ^ 菊地きくち 2011a, pp. 9–10
  3. ^ 菊地きくち 2011a, p. 13
  4. ^ 佐藤さとう 1972, p. 170
  5. ^ 菊地きくち 2011a, pp. 23–35
  6. ^ 日野ひの市立しりつ新選しんせんぐみのふるさと歴史れきしかん叢書そうしょだいいち輯『特別とくべつてん 新選しんせんぐみ誕生たんじょう』(日野ひの
  7. ^ 菊地きくち 2011a, p. 37
  8. ^ 菊地きくち 2011a, pp. 61–62
  9. ^ 菊地きくち 2011b, p. 252
  10. ^ a b しん歴史れきしぐんぞうシリーズ13『土方ひじかた歳三としぞう』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  11. ^ 菊地きくち 2011b, pp. 345–346
  12. ^ a b 土方ひじかた歳三としぞう辞世じせい新説しんせつほことりてがつるごとに…」”. 読売新聞よみうりしんぶん (2011ねん6がつ15にち). 2011ねん6がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  13. ^ a b 新選しんせんぐみ局長きょくちょう近藤こんどういさむ慰霊いれい 若松わかまつ天寧寺てんねいじ幕末ばくまつおもいはせ焼香しょうこう”. 福島ふくしまみんとも (2022ねん4がつ26にち). 2022ねん4がつ26にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん5がつ4にち閲覧えつらん
  14. ^ かつ文字もじあかり26.1
  15. ^ 近世きんせい偉人いじんひゃく至誠しせいどう、1909ねん、148-149ぺーじ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777624/82
  16. ^ 新選しんせんぐみ金談きんだんいちけん
  17. ^ 戦友せんゆう姿すがた
  18. ^ 菊地きくち 2011a, pp. 45–47
  19. ^ 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃへんけん達人たつじん111にんデータファイル』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねん
  20. ^ 土方ひじかたあい子孫しそんかた土方ひじかた歳三としぞう』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2005ねん5がつ1にち)
  21. ^ 佐藤さとう 1972, p. 75
  22. ^ 小島こじま政孝まさたか新選しんせんぐみ余話よわ』(小島こじま資料しりょうかん、1990ねん12月20にち)
  23. ^ 望月もちづき光蔵みつぞうゆめ乃うわごと』および望月もちづきはじめ告白こくはく告発こくはつ
  24. ^ a b 土方ひじかた歳三としぞうかたな - 刀剣とうけんワールド 2020ねん1がつ11にち 閲覧えつらん
  25. ^ 新選しんせんぐみ佐藤さとう彦五郎新選組資料館所蔵資料 土方ひじかた歳三としぞうあいがたな越前えちぜんやすしつぎ”. 多摩たまデジタル新選しんせんぐみ資料しりょうかん新選しんせんぐみ関連かんれん資料しりょう. 2023ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  26. ^ 実話じつわナックルズウルトラ編集へんしゅう 2021, p. 71.
  27. ^ めい探偵たんていコナン 100まんドルの五稜ごりょうぼし最新さいしん予告よこく映像えいぞう公開こうかい 星稜せいりょうがたなにした土方ひじかた歳三としぞう登場とうじょう 声優せいゆう津田つだ健次郎けんじろう. MANTANWEB (MANTAN). (2023ねん12月26にち). https://mantan-web.jp/article/20231226dog00m200002000c.html 2023ねん12月26にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 佐藤さとう昱『きがき新選しんせんぐみ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1972ねん https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12229012 新装しんそうばん2003ねん
  • 菊地きくちあきら土方ひじかた歳三としぞう日記にっき うえ: ち、上京じょうきょう新選しんせんぐみ結成けっせい、そして池田いけだ事件じけん筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2011ねんISBN 9784480093837 
  • 菊地きくちあきら土方ひじかた歳三としぞう日記にっき した: 新選しんせんぐみ副長ふくちょう鳥羽とば伏見ふしみせんはこかん戦争せんそう、そして散華さんげ筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2011ねんISBN 9784480094094 
  • しん歴史れきしぐんぞうシリーズ13 土方ひじかた歳三としぞう』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  • 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃへんけん達人たつじん111にんデータファイル』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねん
  • 実話じつわナックルズウルトラ編集へんしゅう実話じつわナックルズウルトラストロングvol.2【ライトばんミリオン出版しゅっぱん大洋図書たいようとしょ、2021ねん、70-73ぺーじISBN 9784813042129https://books.google.co.jp/books?id=gwEVEAAAQBAJ&pg=PA71#v=onepage&q&f=false 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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