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王政復古 (日本) - Wikipedia コンテンツにスキップ

王政おうせい復古ふっこ (日本にっぽん)

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王政おうせい復古ふっこ日本にっぽん)」がはっせられた京都きょうと御所ごしょ学問がくもんしょ現存げんそんしている[1]

日本にっぽんにおける王政おうせい復古ふっこ(おうせいふっこ)は、明治維新めいじいしんにより武家ぶけ政治せいじはい君主政体くんしゅせいたいふくした政治せいじ転換てんかんかたり[2]岩倉いわくら具視ともみ倒幕とうばく公卿くぎょうと、尾張おわりはん越前えちぜんはん土佐とさはん安芸あきはん薩摩さつまはんの5はんによる政変せいへん革命かくめいであり、これにたい幕府ばくふ体制たいせい戊辰戦争ぼしんせんそう展開てんかいした。

江戸えど幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんけて、慶応けいおう3ねん12月9にち1868ねん1がつ3にち)、京都きょうと御所ごしょ学問がくもんしょにて明治天皇めいじてんのうよりみことのりれい王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい[注釈ちゅうしゃく 1]」がはっせられ[3][4]江戸えど幕府ばくふ廃止はいし同時どうじ摂政せっしょう関白かんぱくひとし廃止はいしさんしょく設置せっち諸事しょじ神武じんむ創業そうぎょうのはじめにもとづき、至当しとうおおやけをつくすことが宣言せんげんされ、しん政府せいふ成立せいりつした[5]

大政奉還たいせいほうかん朝廷ちょうてい委任いにんにより当面とうめん庶政しょせいになっていた幕府ばくふはこれによって廃絶はいぜつ宣言せんげんされたが、同時どうじ朝廷ちょうてい摂関せっかん以下いか公家くげしゅう機構きこう)もまた廃絶はいぜつとなり、「天下てんかおおやけ」による政治せいじおこなうため、天皇てんのうした従来じゅうらい朝廷ちょうてい身分みぶん秩序ちつじょえて公家くげもろ大名だいみょうもろ藩士はんしから登用とうようするしん政府せいふ発足ほっそくすることとなった。しかし、そこから排除はいじょされた徳川とくがわきゅう幕府ばくふ勢力せいりょく実体じったい依然いぜん存在そんざいしており、慶喜よしのぶらのしん政府せいふへの参画さんかく支持しじする勢力せいりょくもあったことから、岩倉いわくら具視ともみ薩摩さつまはん西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみち徳川とくがわ排除はいじょ中心ちゅうしんとなって戊辰戦争ぼしんせんそう突入とつにゅうしていった。

背景はいけい

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王政おうせい復古ふっこによるしん体制たいせい樹立じゅりつまでには、幕末ばくまつ開国かいこく以来いらいあらたな世界せかい情勢じょうせい対応たいおうして日本にっぽん近代きんだい国力こくりょく養成ようせいすすめるための政治せいじ体制たいせい構想こうそう模索もさくされてきた経緯けいいがある。「王政おうせい復古ふっこ」「尊王そんのう攘夷じょうい」とは、始皇帝しこうてい以前いぜんしゅうおう最高さいこうとする古典こてん概念がいねんにもとづく。よってすめらぎせい復古ふっこばれない。西洋せいよう絶對ぜったい王政おうせい明治維新めいじいしんまで日本にっぽんかった。

開国かいこくまくけん動揺どうよう

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江戸えど時代じだい後期こうき国学こくがく進展しんてんなどにより知識ちしきじんあいだ尊皇そんのう思想しそうひろがっていった。一方いっぽう幕府ばくふ支配しはい正当せいとうせい根拠こんきょ大政たいせい委任いにんろんもとめる見解けんかいも、江戸えど初期しょき禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっとだい1じょう)よりその萌芽ほうがられたが、幕政ばくせいなおし(寛政かんせい改革かいかく)を主導しゅどうした老中ろうじゅう松平まつだいら定信さだのぶ朱子学しゅしがく推奨すいしょうしたことで、浸透しんとうしたとされる。いずれにしても正当せいとうせい源泉げんせん天皇てんのうみとめるてん共通きょうつうしており、その権威けんいひろ認識にんしきされるようになっていた。

幕末ばくまつ黒船くろふね来航らいこう1853ねん以後いご開国かいこく通商つうしょうをめぐって国論こくろん二分にぶんする。ひゃく年来ねんらい鎖国さこく方針ほうしんだい転換てんかん、それも西洋せいよう軍事ぐんじてき脅威きょういくっした結果けっかられたことで幕府ばくふ威信いしん急落きゅうらくし、幕府ばくふ沸騰ふっとうする攘夷じょういろんおさえて通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつするのに朝廷ちょうてい権威けんいたよらざるをなくなっていた。

当時とうじ病弱びょうじゃく将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ継嗣けいし問題もんだいをめぐり、まくかくしょ大名だいみょうあいだいちきょう南紀なんき対立たいりつしょうじた。老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ島津しまつ斉彬なりあきら薩摩さつまはんおも)、伊達だて宗城むねなり宇和島うわじまはんおも)、徳川とくがわ斉昭なりあきまえ水戸みとはんおも)、徳川とくがわ慶勝よしかつ尾張おわりはんおも)、山内やまうち容堂ようどう土佐とさはんおも)、松平まつだいらはるだけ越前えちぜんはんおも)らいちきょうが、斉昭なりあきさんきょういちきょう当主とうしゅ徳川とくがわ慶喜よしのぶ擁立ようりつはかるのにたいし、井伊いい直弼なおすけ彦根ひこねはんおも)ら南紀なんきは、将軍しょうぐん家定いえさだ従弟じゅうてい徳川とくがわ慶福よしとみ紀州きしゅうはんおも)を支持しじしていた。幕政ばくせい埒外らちがいかれていた親藩しんぱん外様とざま雄藩ゆうはん参画さんかくする挙国一致きょこくいっちしん体制たいせい構築こうちくをめざす勢力せいりょくと、従来じゅうらい幕府ばくふ体制たいせい堅持けんじ志向しこうするまくかく譜代ふだい中心ちゅうしん保守ほしゅ対立たいりつであった。

安政あんせい5ねん1858ねん4がつ井伊いい直弼なおすけ大老たいろう就任しゅうにん6がつには徳川とくがわ慶福よしとみ将軍しょうぐん継嗣けいしさだまり、南紀なんき勝利しょうりする。どう時期じきから9月にかけて安政あんせいカ国かこく条約じょうやく調印ちょういんがなった。孝明天皇こうめいてんのう攘夷じょうい意志いし強固きょうこ勅許ちょっきょられぬままの調印ちょういんであったため、攘夷じょういろん尊王そんのうろんむすびつき幕府ばくふ非難ひなんするこえはいっそうはげしく、また開国かいこくろんしゃおおいちきょうからも勅許ちょっきょ調印ちょういんであるてん攻撃こうげきされた。井伊いい安政あんせい大獄たいごく断行だんこうしてこのうごきを弾圧だんあつするが、これに反発はんぱつする水戸みと浪士ろうしらに暗殺あんさつされた(桜田さくらだ門外もんがいへん1860ねん))。

井伊いい死後しご老中ろうじゅう首座しゅざ安藤あんどう信正のぶまさらは、尊王そんのうろんてて幕府ばくふ反発はんぱつする勢力せいりょくしずめるため、公武こうぶ合体がったいによって幕府ばくふ権威けんい回復かいふくすべく、以前いぜんから検討けんとうされていた孝明天皇こうめいてんのういもうと親子おやこ内親王ないしんのう和宮かずのみや)と将軍家しょうぐんけしげる慶福けいふくあらため)の結婚けっこん推進すいしんした。交渉こうしょう難航なんこうしたが、侍従じじゅう岩倉いわくら具視ともみ天皇てんのう諮問しもんたいして破約はやく攘夷じょうい条件じょうけんとする降嫁こうか承認しょうにん進言しんげんし、天皇てんのう将来しょうらい攘夷じょうい実行じっこう期待きたいしてこれを勅許ちょっきょした。和宮かずのみや文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん11月江戸えどくだり、翌年よくねん2がつ婚儀こんぎおこなわれたが、そのあいだ安藤あんどうはこの政略せいりゃく結婚けっこん反発はんぱつした水戸みと脱藩だっぱん浪士ろうしらにおそわれて負傷ふしょうし(坂下さかした門外もんがいへん)、4がつ老中ろうじゅう罷免ひめんされた。

おおやけ政体せいたい模索もさく

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佐久間さくま象山ぞうさん横井よこい小楠しょうなんといった人々ひとびとあいだでは、情緒じょうちょてき短絡たんらくてき鎖国さこく攘夷じょうい通用つうようしないが、かといって幕府ばくふ弥縫びほうてき姿勢しせいによる開国かいこくでは西洋せいよう対等たいとう外交がいこう通商つうしょう関係かんけいのぞめず、先進せんしんてき産業さんぎょう技術ぎじゅつ導入どうにゅうして経済けいざいりょく海軍かいぐんりょくたくわえ、国力こくりょく制度せいど整備せいびする必要ひつようがあると認識にんしきされていた。その実現じつげんのためには譜代ふだい幕臣ばくしん国政こくせい独占どくせんされている従来じゅうらい体制たいせい変革へんかくし、よりひろ人材じんざい意見いけんれる仕組しくみ(おおやけ政体せいたい)をもとめるこえが、しょはん在野ざいや開明かいめいろんしゃいちきょう諸侯しょこうのみならず幕府ばくふないからもがっていた。

長州ちょうしゅうはんでは長井ながい雅楽ががく航海こうかいとおりゃくさくにおいて開国かいこく通商つうしょうによる国力こくりょく養成ようせい海外かいがい雄飛ゆうひ提唱ていしょうし、一時いちじはんろん採用さいようされ、さらに幕府ばくふ老中ろうじゅう安藤あんどう信正のぶまさ久世くぜひろしゅうらもこれを支持しじした。ただ、長井ながい思想しそう体制たいせい変革へんかくとう具体ぐたいてき方策ほうさくにまでおよぶものではなかった。やがて安藤あんどう久世くぜ坂下さかした門外もんがいへん失脚しっきゃく長州ちょうしゅうはんでは久坂くさかげんみず尊攘そんじょういきおいをかえし、その工作こうさくによって朝廷ちょうていからも長井ながいせつ退しりぞけられてしまう。

文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)4がつ離京りきょうする長井ながいわりに薩摩さつまはん島津しまつ久光ひさみつ藩主はんしゅ茂久しげひさちちぜん藩主はんしゅ斉彬なりあきらおとうと)がはんへいせんめいひきいて上洛じょうらくした。薩摩さつま目指めざしたのは、かつていちきょうこころみた親藩しんぱん先進せんしん外様とざま雄藩ゆうはん国政こくせい参加さんかする体制たいせい、かつ朝廷ちょうてい幕府ばくふげん体制たいせい統合とうごうであった。このころ京都きょうと和宮かずのみや降嫁こうか刺激しげきされた浪士ろうしあつまり長州ちょうしゅうはん活発かっぱつ工作こうさくおこなうなど尊攘そんじょういきおいがして不穏ふおん状況じょうきょうとなっており、朝廷ちょうてい久光ひさみつ浪士ろうし鎮撫ちんぶ勅命ちょくめいくだした。久光ひさみつはこれにおうじ、寺田てらだ騒動そうどうはん尊攘そんじょう過激かげきをも粛清しゅくせいして信頼しんらいると、幕政ばくせい改革かいかくあん朝廷ちょうてい提示ていじする。これにもとづき改革かいかくめいじる勅使ちょくし久光ひさみつとともに江戸えどくだり、幕府ばくふ文久ぶんきゅう改革かいかく実施じっしするにいたった。徳川とくがわ慶喜よしのぶ将軍しょうぐん後見こうけんしょくに、松平まつだいらはるだけ政事せいじ総裁そうさいしょく就任しゅうにんし、従来じゅうらい幕政ばくせい参画さんかくする立場たちばになかった徳川とくがわ一門いちもんりょう首脳しゅのうえる体制たいせいがまず発足ほっそくした。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねんはちがつじゅうはちにち政変せいへんで、薩摩さつまはん京都きょうと守護しゅごしょく会津あいづはん同盟どうめいむすび、長州ちょうしゅうはんおよび三条さんじょう実美みみ尊攘そんじょう公卿くぎょう京都きょうとから一掃いっそうする。朝廷ちょうていは、島津しまつ久光ひさみつ徳川とくがわ慶喜よしのぶ松平まつだいらはるだけ伊達だて宗城むねなり山内やまうち容堂ようどう開明かいめい諸侯しょこう上洛じょうらくめいじ、これをけた諸侯しょこう年末ねんまつにかけて相次あいつ入京にゅうきょう久光ひさみつは、諸侯しょこう合議ごうぎによるおおやけ政体せいたい設立せつりつ協力きょうりょくもとめ、はるだけ宗城むねなり京都きょうと守護しゅごしょく松平まつだいら容保かたもりらもこれに賛同さんどうする。朝廷ちょうていはこれら諸侯しょこう朝廷ちょうていさんあずか任命にんめいし、朝廷ちょうてい会議かいぎ参加さんかさせることとした。また、よく元治もとはる元年がんねん1864ねん2がつ将軍しょうぐん家茂いえもち上洛じょうらくすると、さんあずか諸侯しょこう老中ろうじゅう部屋へやへの参入さんにゅうゆるされた。ここにはじめて、天皇てんのう将軍しょうぐんした一元化いちげんかされ、親藩しんぱん外様とざま雄藩ゆうはん合議ごうぎするおおやけ政体せいたい発足ほっそくした。

さんあずか会議かいぎ頓挫とんざいちかいくわ体制たいせい

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ところが、いちきょう将軍しょうぐん候補こうほであり薩摩さつまはんがその擁立ようりつ心血しんけつそそいできた慶喜よしのぶ自身じしん、この時点じてんではおおやけ政体せいたい志向しこうぬしではなかった。久光ひさみつ主導しゅどうけんこころよおもわない慶喜よしのぶは、将軍しょうぐん朝廷ちょうてい攘夷じょうい実行じっこう誓約せいやくしていることをだて横浜よこはまくさりみなと主張しゅちょうし、さんあずか諸侯しょこうとのあいだ摩擦まさつしょうじる言動げんどうをとりはじめる。諸侯しょこう相次あいついで帰国きこくし、さんあずか会議かいぎはごく短期間たんきかんのうちに瓦解がかいすることとなった。

さんあずか会議かいぎ瓦解がかい同年どうねん3月25にち慶喜よしのぶ禁裏きんり守衛しゅえい総督そうとくけんうみ防禦ぼうぎょ指揮しきにんぜられた。慶喜よしのぶきょうまり、京都きょうと守護しゅごしょく会津あいづはんおよび京都きょうと所司代しょしだい桑名くわなはんしたがえ、またはちがつじゅうはちにち政変せいへん以後いご朝廷ちょうてい首脳しゅのうである関白かんぱく二条にじょうひとしけい中川なかがわみや朝彦親王あさひこしんのうとも提携ていけいし、おおやけ政体せいたいによらないあらたな公武こうぶ合体がったい体制たいせい構築こうちくした(いちかいくわ体制たいせい)。以後いごすうねんあいだ、この体制たいせい京都きょうと政局せいきょく主導しゅどうしていくこととなる。

おおやけ政体せいたいろん展開てんかいから大政奉還たいせいほうかん

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大政奉還たいせいほうかん邨田りょう ふで

文久ぶんきゅう2ねん時点じてんで、当時とうじ外国がいこく奉行ぶぎょうであった幕臣ばくしん大久保おおくぼいちおきな忠寛ただひろ)は、「攘夷じょうい得策とくさくではなく、朝廷ちょうてい開国かいこくみとめず攘夷じょうい実行じっこうせまるならば、徳川とくがわ政権せいけん返上へんじょうして諸侯しょこうれつくだるべきである」という大政奉還たいせいほうかんろん松平まつだいらはるだけべている。まいりあずか会議かいぎ徳川とくがわ将軍しょうぐん権威けんいうえいただ体制たいせいだったのにたいし、いちおきなろん徳川とくがわ諸侯しょこう同列どうれつかたちおおやけ政体せいたいろんであった。これにはるだけやその政治せいじ顧問こもん横井よこい小楠しょうなん幕臣ばくしんかつ海舟かいしゅう義邦よしくに)、海舟かいしゅう門下もんか土佐とさ脱藩だっぱん浪士ろうし坂本さかもと龍馬りょうまなどは感服かんぷくしているが、幕府ばくふ要人ようじん一般いっぱんからは不興ふきょううものであった。

王政おうせい復古ふっこ政変せいへん直接ちょくせつ原因げんいんとなったのは慶応けいおう3ねん1867ねん5月よんこう会議かいぎ設置せっちとその崩壊ほうかいである。雄藩ゆうはんがわおおやけ政体せいたいへの国政こくせい移管いかん目指めざしたが、将軍しょうぐん慶喜よしのぶ政治せいじりょくまえ失敗しっぱいし、大久保おおくぼ利通としみち小松こまつきよしれん西郷さいごう隆盛たかもり薩摩さつまはん首脳しゅのう従来じゅうらいおおやけ政体せいたい路線ろせんから武力ぶりょく倒幕とうばく方針ほうしん転換てんかんした。ただし、この段階だんかいでも薩摩さつまはん全体ぜんたい武力ぶりょく倒幕とうばく一致いっちしていたわけではなく、大久保おおくぼらは国許くにもと出兵しゅっぺい反対はんたいろんおさえるため、岩倉いわくら具視ともみつうじて討幕とうばく密勅みっちょく降下こうかもとめた。

しかし将軍しょうぐん慶喜よしのぶは、ここにおいて土佐とさはん建白けんぱくれ、10月14にち大政奉還たいせいほうかん上奏じょうそうし(よく15にち勅許ちょっきょ)、260ねん以上いじょうにわたって幕府ばくふ徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ)が保持ほじしていた政権せいけん朝廷ちょうてい返上へんじょうするむね表明ひょうめいした。慶喜よしのぶ幕府ばくふ体制たいせいまりを自覚じかくし、天皇てんのうした一元化いちげんかされるしん体制たいせいにおいてみずからが主導しゅどうてき役割やくわりたすみち見出みいだそうとしたといわれる。

諸侯しょこう会議かいぎ召集しょうしゅう

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朝廷ちょうてい諸侯しょこう会議かいぎ召集しょうしゅうして合議ごうぎによりしん体制たいせいさだめることとし、徳川とくがわ慶勝よしかつ尾張おわりはん)、松平まつだいらはるだけ越前えちぜんはん)、島津しまつ久光ひさみつ薩摩さつまはん)、山内やまうち容堂ようどう土佐とさはん)、伊達だて宗城むねなり宇和島うわじまはん)、浅野あさのしげるくんげいしゅうはん)、鍋島なべしま直正なおまさ肥前ひぜんはん)、池田いけだしげるせい慶喜よしのぶ実弟じってい備前びぜんはん)らしょはん上洛じょうらくめいじた。しん体制たいせい発足ほっそくまでは幕府ばくふつづ国内こくない統治とうち委任いにんすることとし、幕府ばくふはなおそのあいだ存続そんぞくした。

倒幕とうばく岩倉いわくら具視ともみ薩摩さつまはんは、大政奉還たいせいほうかんによっていったん討幕とうばく名分めいぶんうしなわせられたうえ朝廷ちょうてい従来じゅうらい機構きこう門流もんりゅう支配しはい温存おんぞんおや徳川とくがわ摂政せっしょう二条にじょうひとしけい賀陽かようみや朝彦親王あさひこしんのう中川なかがわみや維新いしん久邇くにみや)に主催しゅさいされたままでは自分じぶんたちの意向いこう反映はんえいされず、たるべき諸侯しょこう会議かいぎ慶喜よしのぶ支持しじする勢力せいりょくおおきければ、結局けっきょくしん体制たいせい慶喜よしのぶ中心ちゅうしんとするものになってしまうという懸念けねんがあった。これを阻止そしするため、明治天皇めいじてんのう皇族こうぞく公家くげようしてじょう摂政せっしょう朝彦親王あさひこしんのうらの朝廷ちょうてい首脳しゅのう排除はいじょし、機構きこう秩序ちつじょ一新いっしんされた(慶喜よしのぶきの)しん体制たいせい樹立じゅりつする政変せいへん計画けいかくった。薩摩さつま長州ちょうしゅうげいしゅう3はんはんろんをまとめ、政変せいへんのための出兵しゅっぺい同盟どうめい締結ていけつする。

しょ大名だいみょう諸侯しょこう会議かいぎの召命をけても形勢けいせい傍観ぼうかんかまえをものおおく、11月なか上洛じょうらくした雄藩ゆうはん薩摩さつまげいしゅう尾張おわり越前えちぜんのみで、12月8にちいたってようやく土佐とさ山内やまうち容堂ようどう入京にゅうきょうした。

経過けいか

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政変せいへん勃発ぼっぱつ

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中心ちゅうしんてき役割やくわりたした岩倉いわくら具視ともみ

前述ぜんじゅつよんこう会議かいぎにおける主要しゅよう政治せいじてき争点そうてんは、幕府ばくふ文久ぶんきゅうおう使節しせつ)がむすんだロンドン覚書おぼえがきもとづく兵庫ひょうご開港かいこう問題もんだいであった。この国際こくさい合意ごういじょう開港かいこう期日きじつグレゴリオれき1868ねん元日がんじつ(慶応けいおう3ねん12月7にち)である。慶応けいおう3ねん10がつ大政奉還たいせいほうかんにより雄藩ゆうはんがわ政治せいじてき正統せいとうせいうしなわれた状態じょうたいで、兵庫ひょうご開港かいこう予定よていどお実行じっこうされることは、慶喜よしのぶ政治せいじてき復権ふっけん内外ないがいつよ印象いんしょうけることになる。雄藩ゆうはんがわとしては、政変せいへんこすのであれば、すくなくとも1868ねん1がつ1にち(慶応けいおう3ねん12月7にち)からとおおくれない時期じきこさなければ、時期じきいっすることになる。そこで、具体ぐたいてき政変せいへん実行じっこうについて、大久保おおくぼらは当初とうしょ開港かいこう翌日よくじつ慶応けいおう3ねん12月8にち(1868ねん1がつ2にち)を予定よていしていた。しかし土佐とさ後藤ごとう象二しょうじろうから2にち延期えんき要請ようせいされ、やむなく1にち延期えんきしてよく慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち)に決行けっこうすることとした。その前夜ぜんや岩倉いわくら具視ともみ自邸じてい薩摩さつま土佐とさ安芸あき尾張おわり越前えちぜんかくはん重臣じゅうしんあつめ、王政おうせい復古ふっこ断行だんこう宣言せんげんし、協力きょうりょくもとめた。こうして、5はん軍事ぐんじりょく背景はいけいとした政変せいへん実行じっこううつされることとなるが、政変せいへん参加さんかしゃあいだにおいて、しん政府せいふからの徳川とくがわ排除はいじょかたまっていたわけではない。越前えちぜんはん尾張おわりはんおおやけ政体せいたい徳川とくがわをあくまで諸侯しょこうれつくだすことを目標もくひょうとして政変せいへん参加さんかしており、実際じっさい親藩しんぱんであるりょうはん周旋しゅうせんにより年末ねんまつには慶喜よしのぶ議定ぎてい就任しゅうにん沙汰ざたされるにいたっている。

また、大久保おおくぼらは政変せいへんにあたって、大政奉還たいせいほうかん自体じたい反発はんぱつしていた会津あいづはんらとの武力ぶりょく衝突しょうとつ不可避ふかひていたが、二条城にじょうじょう徳川とくがわ勢力せいりょく報復ほうふく行動こうどうないと予測よそくしており、実際じっさい慶喜よしのぶ政変せいへん3にちまえ慶応けいおう3ねん12月6にち(1867ねん12月31にち越前えちぜんがわから政変せいへん計画けいかくらされていたものの、これを阻止そしする行動こうどうにはなかった[6]兵力へいりょく行使こうししん政府せいふ樹立じゅりつさせる政変せいへんさいし、付随ふずいしてこることが予想よそうされた不測ふそく事態じたい対処たいしょするためのものであり、徳川とくがわほろぼすためのものではなかった[7]

慶応けいおう3ねん12月8にち(1868ねん1がつ2にち夕方ゆうがたから翌朝よくあさにかけて摂政せっしょうじょうひとしけい主催しゅさいした朝議ちょうぎでは、長州ちょうしゅう藩主はんしゅ毛利もうりたかしおやこうふう父子ふし官位かんい復旧ふっきゅう入京にゅうきょう許可きょか岩倉いわくら勅勘ちょっかん堂上どうじょう公卿くぎょう蟄居ちっきょ赦免しゃめん還俗げんぞく九州きゅうしゅうにある三条さんじょう実美みみきょう赦免しゃめんなどがめられた。これがきゅう体制たいせいにおける最後さいご朝議ちょうぎとなった。

慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち)、朝議ちょうぎわり公家くげしゅ退出たいしゅつしたのち待機たいきしていた5はんへい御所ごしょきゅうもん封鎖ふうさした。御所ごしょへのりははんへいきびしく制限せいげんし、じょう朝彦親王あさひこしんのうしん幕府ばくふてき朝廷ちょうてい首脳しゅのう参内さんだい禁止きんしされた。そうしたなか赦免しゃめんされたばかりの岩倉いわくららは、天皇てんのう出御しゅつぎょのうえ御所ごしょ学問がくもんしょ参内さんだいして「王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい」をはっし、しん政府せいふ樹立じゅりつ決定けっていあらたにかれるさんしょく人事じんじさだめた[1]

王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい」がはっせられた京都きょうと御所ごしょ学問がくもんしょ現存げんそんしている[1]

王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい

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とく川内せんだい大政たいせい返上へんじょう将軍しょうぐん辞職じしょくノ請ヲまこと摂関せっかん幕府ばくふはいかり総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくおけク(みや堂上どうじょう諭告ゆこく
日本国政府国章(準)
日本にっぽん法令ほうれい
通称つうしょう略称りゃくしょう 王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい
法令ほうれい番号ばんごう 慶応けいおう3ねん12月9にち
種類しゅるい 憲法けんぽう
効力こうりょく 失効しっこう
公布こうふ 1868ねん1がつ3にち
おも内容ないよう 将軍しょうぐんしょく辞職じしょく勅許ちょっきょ京都きょうと守護しゅごしょく京都きょうと所司代しょしだい幕府ばくふ摂政せっしょう関白かんぱく廃止はいし総裁そうさい議定ぎてい参与さんよ設置せっち
条文じょうぶんリンク 法令ほうれい全書ぜんしょ慶応けいおう3ねんだい13】
ウィキソース原文げんぶん
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王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい」の内容ないよう以下いかのとおりである。

  1. 慶応けいおう3ねん10月24にち徳川とくがわ慶喜よしのぶもうた)将軍しょうぐんしょく辞職じしょく勅許ちょっきょ
  2. 京都きょうと守護しゅごしょく京都きょうと所司代しょしだい廃止はいし
  3. 幕府ばくふ廃止はいし
  4. 摂政せっしょう関白かんぱく廃止はいし
  5. あらたに総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくをおく。
德川とくがわ內府[注釈ちゅうしゃく 2]從前じゅうぜん󠄁委任いにん大政たいせいかえし󠄁うえ將軍しょうぐんしょく辭退じたい󠄁りょうじょう今般こんぱん斷然だんぜん 聞食󠄁こうそもそもみずのとうし [注釈ちゅうしゃく 3]以來いらい未曾有みぞう國難こくなん󠄀 先帝せんてい󠄁しき󠄀とし惱 宸襟しんきんこう御次おつぎ󠄁だいしゅう󠄁庶之しょ󠄁こうこれけつ 叡慮えいりょ、 王政おうせい復古ふっこ國威こくい挽囘ノもとためりつこうあいだ󠄁、自今じこん攝關せっかん幕府ばくふとう[注釈ちゅうしゃく 4]廢絕はいぜつ卽今そっこんさきかり總裁そうさい議定ぎてい參與さんよさんしょくおけまんためぎょうしょ󠄀こと かみ󠄀たけ創業そうぎょうはじめげんキ、縉紳しんしん武弁ぶべん堂上どうじょう地下ちかべつ至當しとうおおやけ󠄁竭シ、天下てんか休戚きゅうせきどうゆう󠄁 叡慮えいりょづけかくつとむ󠄀勵、舊來きゅうらいおご惰之けがれ習󠄁ヲあらいヒ、盡忠じんちゅう報國ほうこくまこと󠄁ヲ以テ𦤶たてまつ おおやけ󠄁こうごと
いち 內覽 敕問人數にんずう國事こくじ御用ごようかけそう武家ぶけ傳奏てんそう守護しゅごしょくところ󠄁司代しだいそうはいこうごと
いち さん職人しょくにんからだ
  總裁そうさい
   有栖川ありすがわそちみや
中略ちゅうりゃく
いち 太政官だじょうかんはじめおいためきょうこうあいだ󠄁其旨心得こころえ居候いそうろうごと
いち あさ󠄁廷󠄁禮式れいしきおい󠄁々改正かいせいためざいこうとくどもさき籙門りゅうせつろくもんりゅう[注釈ちゅうしゃく 5]これとめこうごと
いち 舊弊きゅうへい󠄁いちあらいづけ言語げんごみち󠄁ほらひらきこうあいだ󠄁、見込みこみ󠄁こうかかわ賤、忌憚きたん𦤶獻言けんげん。且人材じんざい登庸とうようだいいちきゅう󠄁つとむこうしんとうじんゆうこう早々そうそうゆう言上ごんじょうこうごと
いち きん󠄁とし物價ぶっか格別かくべつあが󠄁如何いかども不可ふかためいきおい富者ふしゃ󠄁ハえき󠄁とみるいネ、ひん󠄁しゃ󠄁ハえき󠄁窘急󠄁ニいたりこうおもむき畢竟ひっきょう政令せいれい不正ふせいヨリしょ󠄁𦤶みん王者おうじゃ󠄁大寶たいほう百事ひゃくじ御一新ごいっしんおりがら󠄁つくり惱 宸衷こう智謀ちぼうとお󠄁識救へい󠄁これさくゆうこうしゃ󠄁誰彼だれかれ申出もうしでこうごと
いち 和宮かずのみや御方おかた先年せんねん關東かんとうくだ󠄁よめためざいこうとくども、其後將軍しょうぐん薨去こうきょ且 先帝せんてい󠄁攘夷じょういなり󠄁こう あきらねがいヨリためもとこうしょ始終しじゅう󠄁奸吏󠄁ノいつわりはかりごと出御しゅつぎょかいうえつくりいちにちはやかえ󠄁きょうため促度きん󠄁にちむかい󠄁おおやけ󠄁きょう差立さしたてこうごと
みぎこれどおり󠄁確定かくてい以一 おおせこうごと — 王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい[8]部分ぶぶん)、慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち

この宣言せんげんは、12月14にちしょ大名だいみょうに、16にち庶民しょみん布告ふこくされた。慶喜よしのぶ将軍しょうぐん辞職じしょく勅許ちょっきょし、いちかいくわ体制たいせいささえてきた会津あいづはん桑名くわなはんうことで、慶喜よしのぶしん体制たいせいへの参入さんにゅうはいしつつ、一方いっぽうでは従来じゅうらいからの摂政せっしょう関白かんぱく以下いか朝廷ちょうてい機構きこう政治せいじ権力けんりょく復活ふっかつさせるのでもなく、五摂家ごせっけ頂点ちょうてんとした公家くげ社会しゃかい門流もんりゅう支配しはいをも解体かいたいし、天皇てんのう親政しんせいおおやけ政治せいじ名分めいぶんした一部いちぶ公家くげと5はん長州ちょうしゅうはんくわえた有力ゆうりょくしゃ主導しゅどうするしん政府せいふ樹立じゅりつするものであった。

さんしょく

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このときさんしょく任命にんめいされたのは以下いか人物じんぶつである(このさんしょく制度せいどよく慶応けいおう4ねんうるう4がつ政体せいたいしょによって廃止はいしされ、太政官だじょうかん制度せいど移行いこうした)。

総裁そうさい
有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう
議定ぎてい
仁和寺にんなじみやよしみあきら親王しんのう山階やましなみやあきら親王しんのう中山なかやま忠能ただやす正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあい中御門なかみかどけい島津しまつ茂久しげひさ薩摩さつまはん)、徳川とくがわ慶勝よしかつ尾張おわりはん)、浅野あさのしげるくんげいしゅうはん)、松平まつだいらはるだけ越前えちぜんはん)、山内やまうち容堂ようどう土佐とさはん
参与さんよ
岩倉いわくら具視ともみ大原おおはら重徳しげのり万里小路まりこうじはくぼう長谷ながたに信篤のぶあつ橋本はしもとみのるはり尾張おわり藩士はんしさんにん丹羽にわけん田中たなか不二麿ふじまろ荒川あらかわ甚作)、越前えちぜん藩士はんしさんにん中根なかね雪江ゆきえ酒井さかいじゅうすすむもう受洪)、げいしゅう藩士はんしさんにんつじすすむ桜井さくらい与四郎よしろう久保田くぼた平司へいじ)、土佐とさ藩士はんしさんにん後藤ごとう象二しょうじろう神山かみやまひだりまもる福岡ふくおか孝弟こうてい)、薩摩さつま藩士はんしさんにん西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちいわ下方かほうひらた

しょう御所ごしょ会議かいぎ

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しょう御所ごしょ会議かいぎひらかれた当時とうじしょう御所ごしょは、昭和しょうわ29ねん鴨川かもがわ花火はなびによって焼失しょうしつ現在げんざい昭和しょうわ33ねん再建さいけんされたもの(写真しゃしん)を拝観はいかんできる

12月9にち18ごろから、御所内ごしょうちしょう御所ごしょにて明治天皇めいじてんのう臨席りんせきのもと、最初さいしょさんしょく会議かいぎひらかれた。山内やまうち容堂ようどうおおやけ政体せいたいは、慶喜よしのぶ出席しゅっせきゆるされていないことを非難ひなんし、慶喜よしのぶ議長ぎちょうとする諸侯しょこう会議かいぎ政体せいたい主張しゅちょうした。これにたい岩倉いわくら大原おおはららははじめされていたが、容堂ようどうが「そもそも今日きょうこと一体いったいなにであるか。さん公家くげようおきなる天子てんしようして陰謀いんぼうくわだてたものではないか」と詰問きつもんすると、岩倉いわくらが「今日きょうきょはことごとく天子てんしさまのおかんがえのしたおこなわれている。おさな天子てんしとは何事なにごとか」と失言しつげんめたため、容堂ようどう沈黙ちんもくしたという。この時点じてんかん納地のうち慶喜よしのぶ内大臣ないだいじん辞任じにん幕府ばくふりょう全納ぜんのう)はまってはいなかったが、岩倉いわくららは徳川とくがわ政権せいけん失政しっせいならべ「かん納地のうちをして誠意せいいせることが先決せんけつである」と主張しゅちょうする。

容堂ようどうらは慶喜よしのぶ出席しゅっせきつよ主張しゅちょうして両者りょうしゃゆずらず、つい中山なかやま忠能ただやす休憩きゅうけい宣言せんげんした。どう会議かいぎ出席しゅっせきしていたいわ下方かほうたいらは、西郷さいごう隆盛たかもり助言じょげんもとめた。西郷さいごうは「ただ、ひと匕首ひしゅ(あいくち=短刀たんとう)あるのみ」とべ、岩倉いわくら勇気付ゆうきづける。このことはげいしゅうはんかいして土佐とさはんつたえられ、再開さいかいされた会議かいぎでは反対はんたいするものがなく、岩倉いわくららの主導しゅどう会議かいぎすすめられかん納地のうちけっした(ただし400まんせき全納ぜんのうから松平まつだいらはるだけらの努力どりょくで200まんせきはんおさめになった)。

なお、容堂ようどう慶喜よしのぶ即時そくじ招致しょうちもとめてはげしい議論ぎろんおこなったことは、どう時代じだい史料しりょう一致いっちして記載きさいしている事柄ことがらであるが、これに反論はんろんして岩倉いわくら一喝いっかつしたという著名ちょめい挿話そうわについては、どう時代じだい史料しりょう記載きさいがなく、1906ねん完成かんせいした『岩倉いわくらこう実記じっき』においてはじめて登場とうじょうする。このため、「岩倉いわくら一喝いっかつ」についてはその存在そんざい否定ひていする見解けんかいがある[9]

へん展開てんかい

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12月10にち慶喜よしのぶみずからのあらたな呼称こしょうを「上様うえさま」とすると宣言せんげんして、征夷大将軍せいいたいしょうぐん廃止はいしされても「上様うえさま」が幕府ばくふ機構きこうかしてそのまま全国ぜんこく支配しはい継続けいぞくする意向いこうほのめかした。また、薩長さっちょうらの強硬きょうこううごきに在京ざいきょうしょはん代表だいひょう動揺どうようひろがった。そこへ土佐とさはんおおやけ政体せいたいかえしをはかり、12にちには肥後ひごはん筑前ちくぜんはん阿波あわはんなどの代表だいひょう御所ごしょからの軍隊ぐんたい引揚を薩長さっちょうがわ要求ようきゅうするうごきをせた。そこで13にちには岩倉いわくら西郷さいごう妥協だきょうあんとしてかん納地のうち慶喜よしのぶおうじれば、慶喜よしのぶ議定ぎてい任命にんめいするとともに「ぜん内大臣ないだいじん」としての待遇たいぐうみとめるとする提案ていあんおこなわざるをなくなった。これによってかん納地のうち有名ゆうめい無実むじつされる寸前すんぜんになり、16にちには慶喜よしのぶアメリカイギリスフランスオランダイタリアプロイセンの6ヶ国かこく公使こうしだい坂城さかき会談かいだんおこない、内政ないせい不干渉ふかんしょう外交がいこうけん幕府ばくふ保持ほじ承認しょうにんさせ、さら19にちには朝廷ちょうていたいして王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれい撤回てっかい公然こうぜん要求ようきゅうするまでになった。

これにたいして12月22にち朝廷ちょうていは、

德川とくがわ內府宇內形勢けいせいさっ政權せいけんかえまつこうき、あさ󠄁廷󠄁においまん裁決さいけつこうづけては、ひろし󠄁く天下てんかおおやけ󠄁をとりへん󠄁とうわたしなきをもっしゅう󠄁しんきゅうどうふし、德川とくがわ󠄁さき制度せいど美事びじ良法りょうほうは其儘差置さしおき、變更へんこう󠄁これくのこうあいだ󠄁、列藩れっぱん此聖󠄁󠄁をたいし、心付こころづけこうはばか忌諱きき極言きょくげんだかろんしてすくいなわ補正ほせいちからつくし、うえつとむ󠄁おう實效じっこうあらわしたみんじんしんしつなはず、皇國こうこくをしていち地球ちきゅうちゅうかんむりせしむるさま淬勵𦤶すべきむね御沙汰ごさたこうごと

という告諭こくゆした。これは事実じじつじょう徳川とくがわまくはん体制たいせいによる大政たいせい委任いにん継続けいぞく承認しょうにんしたとえるもので、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいされなかったものの、慶喜よしのぶ主張しゅちょう完全かんぜんみとめられたものにならなかった。

だが、この事態じたい危機ききかんいた薩摩さつまはん暗躍あんやくきゅう幕府ばくふがわ強硬きょうこうせられ、慶応けいおう4ねん1がつ3にち鳥羽とば伏見ふしみたたか戊辰戦争ぼしんせんそう)に突入とつにゅうすることになる。このたたかいできゅう幕府ばくふぐん薩長さっちょうぐん敗退はいたいし、きゅう幕府ばくふかた敗勢はいせいった朝廷ちょうてい仁和寺にんなじみやよしみあきら親王しんのう征討せいとう大将軍だいしょうぐん任命にんめいするとともに、にしきはたふしがたなあたえ、しん政府せいふぐん官軍かんぐんとした。窮地きゅうちにあったしん政府せいふいきかえし、一方いっぽうきゅう幕府ばくふがわは「朝敵ちょうてき」として窮地きゅうちおちいこととなった。

このとき、容堂ようどう岩倉いわくらに「このせん薩長さっちょうこした不当ふとうせんである!」と抗議こうぎしたが、岩倉いわくらより「わかった。ならば土佐とさはん慶喜よしのぶがわにつきなさい」と一喝いっかつされて、沈黙ちんもくしてしまったという。その容堂ようどう土佐とさはん軍勢ぐんぜいいぬい退助たいすけゆだね、薩長さっちょうがわ同一どういつ歩調ほちょうるようになった。

ただ、いまだに関東かんとう中心ちゅうしんきゅう幕府ばくふ勢力せいりょくけんひろがっているなかで、朝廷ちょうていしん意味いみ倒幕とうばく実現じつげんさせるまでにはなお時間じかんようした。4がつ11にちしん政府せいふぐん江戸えどそう攻撃こうげき中止ちゅうしするわりに、きゅう幕府ばくふ本拠地ほんきょち江戸城えどじょうわたさせ、幕府ばくふ機構きこう解体かいたいおおきく前進ぜんしんさせた。きゅう幕臣ばくしん福地ふくち源一郎げんいちろうは、著書ちょしょ幕府ばくふ衰亡すいぼうろん』のなかで「江戸えど開城かいじょうもっ江戸えど幕府ばくふ滅亡めつぼうした」としている。

その

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  • 当時とうじ岩倉いわくらひとし頻繁ひんぱん往来おうらいして謀議ぼうぎおこなったが、ちょうどこのころええじゃないか発生はっせいしていて、幕府ばくふがわ準備じゅんび察知さっちされることがなかった。なお維新いしんでは、「王政おうせい復古ふっこ計画けいかく極秘ごくひようするをもって、品川しながわ弥二郎やじろうかみ降下こうか奇瑞きずい発案はつあんし、そのやかまし囂にじょうじて計画けいかくすすめようとした」とある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 2022年度ねんどからはじまる歴史れきし総合そうごう一部いちぶ教科書きょうかしょでは王政おうせい復古ふっこのクーデターとしているものもある。
  2. ^ 徳川とくがわ内大臣ないだいじん徳川とくがわ慶喜よしのぶ
  3. ^ 1853ねんよしみなが6ねん)=黒船くろふね来航らいこう
  4. ^ 摂政せっしょう関白かんぱく幕府ばくふなど
  5. ^ 摂関せっかんのこと

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 京都きょうと御所ごしょ離宮りきゅうしおりじゅうなな~ - 宮内庁くないちょう”. 《京都きょうと御所ごしょ離宮りきゅうしおり - 宮内庁くないちょう. 2021ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん
  3. ^ 京都きょうと御所ごしょあきたのしむ 明治めいじ150ねんゆかりの順路じゅんろ - 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. 2018ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ 京都きょうと御所ごしょ離宮りきゅうしおりじゅうなな~ - 宮内庁くないちょう”. 《京都きょうと御所ごしょ離宮りきゅうしおり - 宮内庁くないちょう. 2021ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  5. ^ 百科ひゃっか事典じてんマイペディア『王政おうせい復古ふっこ日本にっぽん』 - コトバンク(河内かわうち八郎はちろう執筆しっぴつ)
  6. ^ いえきん2004、pp.203-205。
  7. ^ 青山あおやま2011、p.248。
  8. ^ とく川内せんだい大政たいせい返上へんじょう将軍しょうぐん辞職じしょくノ請ヲまこと摂関せっかん幕府ばくふはいかり総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくおけク(みや堂上どうじょう諭告ゆこく、『法令ほうれい全書ぜんしょ慶応けいおう3ねん慶応けいおう3ねん12月9にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリー。
  9. ^ 高橋たかはし2002、pp.61-64。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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