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島津しまつ斉彬なりあきら

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島津しまつ 斉彬なりあきら
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 文化ぶんか6ねん3月14にち1809ねん4がつ28にち
死没しぼつ 安政あんせい5ねん7がつ16にち1858ねん8がつ24にち
改名かいめい くにまる幼名ようみょう)→ちゅうかたはつ)→斉彬なりあきら
別名べつめい また三郎さぶろう通称つうしょう)、おもんみけい、麟洲(法名ほうみょう
かみごう 照国てるくに大明神だいみょうじん
戒名かいみょう じゅんひじりいん殿どの英徳ひでのり良雄よしおだい居士こじ
墓所はかしょ 鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま池之上いけのうえまち島津しまつ墓地ぼち
鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま照国てるくにまち照国てるくに神社じんじゃ
官位かんい したがえよん侍従じじゅう兵庫ひょうごあたま豊後ぶんごまもるひだり近衛このえけん少将しょうしょう修理しゅうり大夫たいふ薩摩守さつまのかみしたがえよんじょうひだり近衛このえけん中将ちゅうじょうおくしたがえさんけん中納言ちゅうなごんしたがえいちせいいち
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし家定いえさだ
はん 薩摩さつま鹿児島かごしまはんあるじ
氏族しぞく 島津しまつ
父母ちちはは ちち島津しまつひとしきょう
ははわたるひめ池田いけだおさむどうむすめ
兄弟きょうだい 斉彬なりあきら池田いけだひとしさとし久光ひさみつ
つま 正室せいしつつねひめ徳川とくがわひとしあつしむすめ
菊三郎きくさぶろう寛之ひろゆきすけあつこれすけあきらまるきよしひめくにひめ暐姫てんひめやすしひめ
養子ようし忠義ちゅうぎ天璋院てんしょういんさだひめ島津しまつ久長ひさながむすめ
特記とっき
事項じこう
幕末ばくまつよんけんこう一人ひとり
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ダゲレオタイプ撮影さつえいされた島津しまつ斉彬なりあきら1857ねん)。
日本人にっぽんじん撮影さつえいした写真しゃしんとしては最古さいこのものとされる。

島津しまつ 斉彬なりあきらきゅう字体じたい島津しまつ 齊彬なりあきら、しまづ なりあきら)は、江戸えど時代じだい後期こうきから幕末ばくまつ大名だいみょうで、薩摩さつまはん11だい藩主はんしゅ島津しまつ28だい当主とうしゅこん和泉いずみとう津家つげ出身しゅっしん斉彬なりあきら養女ようじょ天璋院てんしょういん江戸えど幕府ばくふ13だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ台所だいどころ

薩摩さつまはんによる富国強兵ふこくきょうへい殖産しょくさん興業こうぎょう着手ちゃくしゅ国政こくせい改革かいかくにも貢献こうけんした幕末ばくまつ名君めいくんである[1][2]西郷さいごう隆盛たかもり幕末ばくまつ活躍かつやくする人材じんざいそだてた。

生涯しょうがい

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ちとおよし騒動そうどう

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文化ぶんか6ねん3月14にち1809ねん4がつ28にち)、10代藩主はんしゅ島津しまつひとしきょう長男ちょうなんとして江戸えど薩摩さつま藩邸はんてい薩摩さつまはん上屋敷かみやしき)でまれる[* 1]ははわたるひめ周子かねこ)は「賢夫人けんぷじん」としてられた人物じんぶつで、この時代じだいにはめずらしく斉彬なりあきらはじめわたるひめ出生しゅっしょうの3にん子供こども乳母うばをつけず、わたるひめ自身じしん養育よういくされた。また、青年せいねんまで存命ぞんめいであった曾祖父そうそふの8だい藩主はんしゅ重豪しげひで影響えいきょうけて洋学ようがく興味きょうみをもつ。これが周囲しゅういらんへきうつったことが、皮肉ひにくにも薩摩さつまはん二分にぶんするこうそう原因げんいんひとつになったとされる。

斉彬なりあきらつぎ藩主はんしゅとなれば、重豪しげひでのように公金こうきん湯水ゆみずのごとくついやしはん財政ざいせい困窮こんきゅう一層いっそう拍車はくしゃをかけかねないと、とくはん上層じょうそう心配しんぱいされ、ひとしきょう斉彬なりあきらが40さいぎても家督かとくゆずらなかった。また家老がろう調しらべしょ広郷ひろさとひとしきょう側室そくしつよしほうらは、およし斉彬なりあきら異母弟いぼていたる島津しまつ久光ひさみつ擁立ようりつ画策かくさくした。斉彬なりあきら側近そっきん久光ひさみつやおよし暗殺あんさつしようと計画けいかくしたが、情報じょうほう事前じぜんれて首謀しゅぼうしゃ13めい切腹せっぷく、また連座れんざしたやく50めい遠島えんとう謹慎きんしんしょせられた。斉彬なりあきら葛城かつらぎ彦一ひこいちなどの4にん必死ひっし脱藩だっぱんし、ひとしきょう叔父おじにあたる福岡ふくおかはんおも黒田くろだひとし援助えんじょもとめた。ひとし溥の仲介ちゅうかいで、斉彬なりあきらちかしい老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ宇和島うわじまはんおも伊達だて宗城むねなり福井ふくいはんおも松平まつだいら慶永よしながらが事態じたい収拾しゅうしゅうつとめた。こうしてよしみひさし4ねん1851ねん2がつひとしきょう隠居いんきょし、斉彬なりあきらが11だい藩主はんしゅ就任しゅうにんした。この一連いちれんいえ騒動そうどうよし騒動そうどう(あるいは高崎たかさきくずれ)とばれている。

藩主はんしゅ時代じだい

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藩主はんしゅ就任しゅうにんするや、はん富国強兵ふこくきょうへいつとめ、洋式ようしき造船ぞうせん反射はんしゃ溶鉱炉ようこうろ建設けんせつ地雷じらい水雷すいらいガラスガス灯がすとう製造せいぞうなどの集成しゅうせいかん事業じぎょうおこした。よしみなが4ねん7がつ新暦しんれき1851ねん8がつころ[* 2]には、土佐とさはん漂流ひょうりゅうみんアメリカから帰国きこくしたジョン万次郎じょんまんじろう保護ほご藩士はんし造船ぞうせんほうなどをまなばせたほか、安政あんせい元年がんねん1854ねん)、洋式ようしき帆船はんせん「いろはまる」を完成かんせいさせ、帆船はんせんよう帆布ほぬの自製じせいするために木綿こわた紡績ぼうせき事業じぎょうおこした。西洋せいようしき軍艦ぐんかんのぼり平丸ひらまる」を建造けんぞう幕府ばくふ献上けんじょうしている。のぼり平丸ひらまるのち蝦夷えぞ開拓かいたくさい咸臨丸かんりんまるとともにおおきく役立やくだった。黒船くろふね来航らいこう以前いぜんから蒸気じょうき機関きかん国産こくさんこころみ、日本にっぽん最初さいしょ国産こくさん蒸気じょうきせんくもぎょうまる」として結実けつじつさせた。また、下士かし階級かいきゅう出身しゅっしん西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみち登用とうようして朝廷ちょうていでの政局せいきょくかかわる。

斉彬なりあきら松平まつだいら慶永よしなが伊達だて宗城むねなり山内やまうち豊信とよしげ土佐とさ藩主はんしゅ)、徳川とくがわ斉昭なりあき水戸みとはん隠居いんきょ)、徳川とくがわけいじょ尾張おわりはんおも)らと藩主はんしゅ就任しゅうにん以前いぜんから交流こうりゅうをもっていた。斉彬なりあきらかれらとともに幕政ばくせいにも積極せっきょくてきくちはさみ、老中ろうじゅう阿部あべ正弘まさひろ幕政ばくせい改革かいかく安政あんせい幕政ばくせい改革かいかく)をうったえた。とく斉彬なりあきら黒船くろふね来航らいこう以来いらい難局なんきょく打開だかいするには公武こうぶ合体がったい武備ぶび開国かいこくをおいてほかにないと主張しゅちょうした。阿部あべ内諾ないだくけ、薩摩さつまはん支配しはいにある琉球りゅうきゅう王国おうこくかいしたフランスとの交易こうえき画策かくさくし、市来いちき四郎しろう派遣はけんしたが、斉彬なりあきら急死きゅうし頓挫とんざしている。

阿部あべ死後しご安政あんせい5ねん1858ねん)に大老たいろういた彦根ひこねはんおも井伊いい直弼なおすけ将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいこうから対立たいりつした。将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ病弱びょうじゃく嗣子ししがなかったため、慶永よしなが宗城むねなりほかよんけんこう斉昭なりあきらととも次期じき将軍しょうぐんとして斉昭なりあき徳川とくがわ慶喜よしのぶした。斉彬なりあきらは、あつしひめ家定いえさだ正室せいしつとしてとつがせ、さらに公家くげつうじて慶喜よしのぶ擁立ようりつせよとのうちみことのり降下こうか朝廷ちょうてい請願せいがんした。一方いっぽう井伊いい直弼なおすけ紀州きしゅうはんおも徳川とくがわ慶福よしとみした。直弼なおすけ大老たいろう地位ちい利用りようして強権きょうけん発動はつどうし、反対はんたい弾圧だんあつする安政あんせい大獄たいごく開始かいしする。結果けっか慶福けいふくが14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちとなり、斉彬なりあきららはやぶれた。

最期さいご

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斉彬なりあきらはこれにたいし、はんへい5,000にんひきいて抗議こうぎのため上洛じょうらくすることを計画けいかくした。しかし、そのとし安政あんせい5ねん)の7がつ8にち1858ねん8がつ16にち)、鹿児島かごしまじょうした出兵しゅっぺいのための練兵れんぺい観覧かんらん最中さいちゅう発病はつびょうし、7がつ16にち新暦しんれき8がつ24にち)に死去しきょした。享年きょうねん50(まん49さいぼつ)。死因しいんは、当時とうじ日本にっぽん流行りゅうこうしていたコレラというせつ有力ゆうりょくであるが、そのあまりにきゅうは、嫡子ちゃくしがいずれも夭逝ようせいしていることともあわせ、ちちひとしきょう異母弟いぼてい久光ひさみつまたはその支持しじしゃ陰謀いんぼうであるとのうわさもあった。

島津しまつ斉彬なりあきらはかぶくあきら寺跡てらあと

斉彬なりあきら死後しご、その遺言ゆいごんにより、久光ひさみつ長男ちょうなん茂久しげひさいだ。なお、遺言ゆいごんでは茂久しげひさ斉彬なりあきら長女ちょうじょよめがす条件じょうけんかり養子ようしとし、六男むつおあきらまる後継こうけいしゃ指名しめいしており、あきらまる茂久しげひさとの相続そうぞくあらそいを未然みぜん防止ぼうしする内容ないようになっていたが、あきらまる安政あんせい6ねん1859ねん)に3さい夭折ようせつした。

人物じんぶつ逸話いつわ

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斉彬なりあきら所用しょようだいよろい様式ようしき甲冑かっちゅうで、白糸しらいとすそ萌葱もえぎこんたけしよろい かぶとだいそで小具足こぐそくづけ東京富士とうきょうふじ美術館びじゅつかん
  • 斉彬なりあきらにより着手ちゃくしゅされた殖産しょくさん興業こうぎょう一部いちぶなお集成しゅうせいかん鹿児島かごしま)に展示てんじされている。とくに、ガラス製品せいひん製造せいぞうのうちガラス工芸こうげいひん薩摩さつまべにビードロとして珍重ちんちょうされ、大名だいみょうあいだおくものとしてももちいられた[* 4]
  • 日本人にっぽんじんはじめて写真しゃしん撮影さつえいされた人物じんぶつ斉彬なりあきらであるとされ、その日本にっぽん写真しゃしん協会きょうかいにより「写真しゃしん」として制定せいていされている。日本にっぽん写真しゃしん渡来とらいしたのはよしみ永年えいねんあいだとされ、最初さいしょ斉彬なりあきら撮影さつえいしたものが、尚古しょうこ集成しゅうせいかん保存ほぞんされている[3]。また撮影さつえい技術ぎじゅつ自体じたいにも興味きょうみをもち、しろ写真しゃしんみずか撮影さつえいするなど、好奇心こうきしんんだ人物じんぶつであったといわれている。斉彬なりあきら撮影さつえいした写真しゃしんは、当時とうじ技術ぎじゅつでは上出来じょうできであったとつたえられている。
  • 松平まつだいら慶永よしなが山内やまうち豊信とよしげ伊達だて宗城むねなりらとならんで幕末ばくまつよんけんこうしょうされた。
  • 西郷さいごう隆盛たかもり維新いしん志士ししらからしたわれ、西郷さいごうなどは斉彬なりあきら死去しきょると号泣ごうきゅうし、って殉死じゅんししようとしたほどである。斉彬なりあきら功績こうせき明治めいじ時代じだいきずくことになる人材じんざいそだげたこともそのひとつといえる。
  • 斉彬なりあきらはおよし大変たいへんきらっていたが、およしおよびその一派いっぱ粛清しゅくせいまではかんがえていなかったという。異母弟いぼてい久光ひさみつとのなかについてもきらっていないどころかむしろく、家督かとく相続そうぞく重宝ちょうほうすらしていた。
  • 理化学りかがくもとづいた工業こうぎょうりょくこそが西洋せいよう列強れっきょうちから根源こんげんであることを見抜みぬき、自身じしんアルファベットまなぶなどたか世界せかい認識にんしきをもっていた。
  • 島津しまつ斉彬なりあきら言行げんこうろく[4]には「君主くんしゅ愛憎あいぞうひと判断はんだんしてはならない」、「じゅうにんじゅうにんともこの人材じんざい非常ひじょう事態じたい対応たいおうできないので登用とうようしない」など、近代きんだいてき人材じんざい登用とうようさくしめしていたことが覗える記述きじゅつもある。
  • よしみなが6ねん11月(新暦しんれき:1853ねん12がつ[* 5]さき大石寺たいせきじ帰依きえしていた年下としした大叔父おおおじ八戸はちのへはんおも南部なんぶしんじゅんつよすすめにより、養女ようじょであるあつしひめとともに、現在げんざい日蓮にちれん正宗まさむね総本山そうほんざん大石寺たいせきじどおしんじぼう静岡しずおかけん富士宮ふじのみや)の檀越だんおちとなったが、大石寺たいせきじ教義きょうぎ随順ずいじゅんれたかどうかは研究けんきゅう余地よちのこす。
  • 薩摩さつまはんには天保てんぽう改革かいかく調しらべしょ広郷ひろさと事業じぎょうで「にせがねづくり」もあり、この事業じぎょうを「おかねかた」とった。調しらべしょ広郷ひろさときんメッキ・ぎんメッキのいちふんきん二分にぶんぎんつくったが、どれほどはんがいたかは不明ふめい。しかし、斉彬なりあきら幕府ばくふ寛永かんえい通宝つうほう天保てんぽう通宝つうほう改鋳かいちゅうどういち貨幣かへい価値かちが25ばい増加ぞうか)する利益りえき莫大ばくだいさにをつけた。極秘ごくひ江戸えど鋳物いもの西村にしむら道弥みちやまねき、おかねかた事業じぎょう推進すいしん斉彬なりあきら急逝きゅうせい計画けいかく頓挫とんざしたが、薩摩さつまはんは、幕府ばくふから2わり幕府ばくふ献納けんのう条件じょうけんひゃくまんりょう鋳造ちゅうぞう承認しょうにんて、どう事業じぎょう再開さいかいした。124ぶん貨幣かへいで60ぶんはん純益じゅんえきとなり、いちにち2せんめいはたらき3年間ねんかんに290まんりょう鋳造ちゅうぞうした[* 6]

評価ひょうか

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  • 松平まつだいらはるだけ
    • 大名だいみょうだい一番いちばん御方おかたであり、自分じぶんはもちろんのこと、水戸みとれつこう山内やまうち容堂ようどうおおやけ鍋島なべしま直正なおまさおおやけなどもおよばない」
    • 性質せいしつぬるきょう忠順ただまさ賢明けんめいにして大度たいどゆうしょ水府すいふれつおおやけ容堂ようどうごときとは同日どうじつろんがたし。天下てんか英明えいめいなるは、じつ近世きんせいだいいちなるべし。尊王そんのう勿論もちろん幕府ばくふにもよく恭順きょうじゅんをつくし、一家いっかこと困却こんきゃくしておれり。しかしながら、すうねん朋友ほうゆうとしてまじわれり。しかれどもいかりたる顔色かおいろことなし。じつ英雄えいゆうしょうすべし」[5]
    • 御一新ごいっしん功業こうぎょう引起ひきおこせし原由げんゆは、島津しまつ斉彬なりあきらおおやけにして、このひと朋友ほうゆうとし、とするものなり。なか水戸みとれつおおやけごと御方おかたにはあらず、すこぶるきもだいにして外面がいめん英雄えいゆうらしくえねども、なか才智さいちよりは道徳どうとくおもんぜらるるひとなり。それゆえ温順おんじゅんきょうへりくだにして、しかも学問がくもんあり。手紙てがみぶんなどは俗文ぞくぶんにしていたって簡易かんいなり。手紙てがみ、そのそと建言けんげんしょ文体ぶんたい整頓せいとんするや、他人たにんおよところにあらず。のぼり平丸ひらまるふねはじめてつくり、まぐねどその外洋がいようせい器械きかい薩摩さつまもっ巨魁きょかいとす。もっとも尊王そんのう佐幕さばくなり。みぎゆえに西郷さいごう大久保おおくぼ伊地知いじち、そのそといま官員かんいんみことのり任官にんかんの薩人は、斉彬なりあきらおおやけ丹精たんせいつくるところなり。はこの御一新ごいっしん功業こうぎょうおこりは、じゅんひじりこう斉彬なりあきらこうもっだいいちとす。このおおやけはすこぶる吝嗇りんしょくにして鳥目とりめじゅうぶんよりかねいちえんなどの金子かねこはすこぶるしまれたりと。しかしながらまんえんあるいはせんえん以上いじょう金子かねこ使つかうべきときには、いささかもしくなしともうされたり。しん吝嗇りんしょくにはあらず。つねには節倹せっけんせんらとしたまえど、大金たいきんしげもなく使つかいたり。この一事いちじにても英雄えいゆうるべきなり」[5]
  • 伊達だて宗城むねなりねんななじゅうおよぶまで、東西とうざい内外ないがい上下じょうげ貴賎きせんわず、ひろ天下てんかひとせっせしも、いま斉彬なりあきらごと敬慕けいぼ情深なさけぶか人物じんぶつず。われいまじんたいし、つねいわく、『しむらくはきみやからをしてしたしく斉彬なりあきらこえせきせっせしめざるを。今日きょうおよびて、そのとくおんたたえするのやめなし』といえりと」[6]
  • かつ海舟かいしゅう
    • 斉彬なりあきらおおやけは、えらいひとだったよ。西郷さいごう見抜みぬいてにわばんもちいたところなどはなかなかえらい。おれを西郷さいごう紹介しょうかいしたものはおおやけだよ。それじゅうねん以後いごに、はじめて西郷さいごうったときに、西郷さいごうすでにおれをしんじていたよ。あるときおれはおおやけ藩邸はんていえん散歩さんぽしていたら、おおやけふたつのことおしえてしたすったよ。それはひともちいるには、いそぐものではないということと、ひとつの事業じぎょうは、じゅうねんたねばりとめのかぬものだということと、このふたつだったっけ」[7]
    • こう天資てんし温和おんわ容貌ようぼうせいしゅうのぞみてしたしむべく、そのもちりんよびとしておかすべからず。度量どりょう遠大えんだい一世いっせいこめ罩するのがいあり。方今ほうこんかえり往事おうじ追想ついそうすれば、薩藩に英才えいさい輩出はいしゅつするもの、このこう薫陶くんとう培養ばいよういたすところ、あに凡情をもって忖度そんたくえきすからんや。てんそのとしをかさず偉績いせき半途はんとにしてはいたゆす。皇国こうこく一大いちだい不幸ふこうというべきなり」[8]
  • 市来いちき四郎しろう斉彬なりあきらおおやけ学問がくもん格別かくべつひろいということはござりませぬが、いたって記憶きおくつよひとで、講釈こうしゃくでもいちへんけばわすれぬというひとであったもうすことでござります。わかとき本当ほんとうほどしゅがくまなばれた様子ようすでござります。記憶きおくつよく、元来がんらい頴敏なうまきでござります。はんないではいちいてじゅうさとひとだともうしております。仏学ぶつがくでも、儒学じゅがくでも、うたでも、でも、かなりいちとおりは出来できひとでござります。夜分やぶんとぎやくなどがまして、くだらぬはなしいたようことはなかったとうけたまわります。さけまぬひとで、とぎやくなどは、かなら学者がくしゃつかまつって、はなしひとで、寺島てらしまそうのり)が侍医じいときは、医道いどうではつかえませず、とぎやく使つかうてござります。小姓こしょうおんななんぞに按摩あんまでもらせながら、寺島てらしまはソコにおいて、外国がいこく歴史れきしとか、地理ちりしょとかなんとかをんで、その講釈こうしゃくをさせてかれたようです。それはわたしどもはよくっております。らなはなしなどはさせぬひとであった様子ようすで、記憶きおくつよし、それを記憶きおくしてかんがえ、実地じっちおこなうことが長所ちょうしょであったろうとかんがえます」[9]
  • 寺島てらしまはじめのり斉彬なりあきらおおやけのうふたつあったかとおもう。はなしをするうちに、小姓こしょう小納戸こなんどやくなどがてきて、なにはこういたしました、これよりどういたしましょうともうますると、それはこうこうして、それはこうせよなど、下知げじいたようなことで、そういうときに、はなしめるがきらいであって、めずにかたらなければならぬことであった。そういうひとであったから、いまかんがえるとのうふたつあったろうとおもう」[9]
  • 伊藤いとう博文ひろぶみ
    • かれ御方おかた非常ひじょう豪傑ごうけつ卓絶たくぜつしたひとであった。いまからかんがえてると感服かんぷくすることおおい。徳川とくがわ幕府ばくふ紀州きしゅうから将軍しょうぐんむかえたとき紀州きしゅう家老がろう安藤あんどうだったか、水野みずのだったか、りょうけいこと申込もうしこんだ。むこうが和泉いずみまもるさまえば、此方こちら修理しゅうり大夫たいふさまうのがりょうけいだ。そうすると西郷さいごう鹿児島かごしまにわばんなにかしてるときであったらしい、斉彬なりあきらおおやけいさめて『かれはどうも奸物かんぶつです。かれ奸物かんぶつりょうけい申込もうしこみになるのはよろしくない』とうた。そうすると斉彬なりあきらおおやけは『馬鹿ばかうな。それは貴様きさま知恵ちえぢゃなかろう。水戸みと藤田ふじた東湖とうこからでもならうてたのであろう』とわれたことがある。なか非凡ひぼんひとである」[10]
    • あるとき長崎ながさきからかずらんじんへいしたことがある。そうすると鹿児島かごしまひといしげてこまる。いま大山おおやま侯爵こうしゃくなどもそのげた仲間なかまだったそうだ。そこで斉彬なりあきらこうってむかえにきたられ、『いしげるならおのれれにも輿こしげろ」とわれた。凡庸ぼんよう大名だいみょう出来できことぢゃない。家来けらいげんいて、それに籠絡ろうらくされるようひとではない」[10]
    • 寺島てらしまだったかだれはなしだったかわすれたが、おおやけが『翻訳ほんやくしろ」とわれたので、そのほんると綿めんこといてあった。『築城ちくじょうとか兵学へいがく関係かんけいするものだとおもいましたから、はどうも綿めんことであります』と訳者やくしゃうたら、『ろんことだ。それを翻訳ほんやくしろ。にち日本にっぽんこまらせるものはだ』とわれた。日本にっぽん綿糸めんし輸入ゆにゅうすることをその時分じぶんから着眼ちゃくがんせられてったとえる。しいことには病気びょうきはやられた」[10]

かんれき

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島津しまつ斉彬なりあきらぞう照国てるくに神社じんじゃ
明治めいじ5ねん12月2にち新暦しんれき換算かんさん:1872ねん12月31にち)までの日付ひづけは、いち資料しりょうもとづく旧暦きゅうれき主体しゅたいで、新暦しんれき換算かんさん結果けっかである。その日付ひづけ新暦しんれき主体しゅたいとする。

系譜けいふ

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斉彬なりあきらむすめたちの写真しゃしんひだりからてんひめ暐姫やすしひめ

多数たすう子女しじょのうち成人せいじんしたのは須磨すまとのあいだむすめ3にんのみで、全員ぜんいんおとうと久光ひさみつ息子むすこつまとなった。さらに、養嗣子ようしし忠義ちゅうぎとついだむすめ2にんはいずれも難産なんざん死去しきょし、無事ぶじ成人せいじんまでそだ自身じしんいのちながらえたのはてんひめただいちにんであった。斉彬なりあきら血筋ちすじろくなんあきらまるが3さい夭折ようせつしたことにより男系だんけい子孫しそん途絶とだえ、てんひめつうじて女系じょけい島津しまつしょ分家ぶんけなどでつづいた。斉彬なりあきらははわたるひめ周子かねこ)は鳥取とっとりはんおも池田いけだおさむどう仙台せんだいはんおも伊達だて重村しげむらむすめなまひめとのであり、織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす伊達だてまさしむね毛利もうり元就もとなりいている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 同年どうねん6がつ旧暦きゅうれき)にひとしきょうだい10代藩主はんしゅとなる。
  2. ^ 旧暦きゅうれきよしみなが4ねん7がつ1にちと7がつ30にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、新暦しんれきグレゴリオれき)では1851ねん7がつ28にちと8がつ26にちにあたる。
  3. ^ 鹿児島かごしま照国てるくにまち鎮座ちんざする照国てるくに神社じんじゃ祭神さいじんでもある。
  4. ^ 維新いしんその技術ぎじゅつ断絶だんぜつし、当時とうじのものは希少きしょう骨董こっとうとしてたか価値かちつ。近来きんらいになり復元ふくげん復興ふっこう成功せいこうし、薩摩さつま切子きりこ生産せいさんされている。
  5. ^ 旧暦きゅうれきよしみなが6ねん11月1にちと11月29にち同月どうげつ最終さいしゅう)は、新暦しんれき(グレゴリオれき)では1853ねん12月1にちと12月29にちにあたる。
  6. ^ 267まんりょうがにせ天保てんぽう通宝つうほう

出典しゅってん

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  1. ^ 島津しまつ斉彬なりあきらコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC-18466 
  2. ^ 集成しゅうせいかんコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8-77094 
  3. ^ 日本にっぽん写真しゃしん協会きょうかい:6月1にち写真しゃしん」について”. 日本にっぽん写真しゃしん協会きょうかい. 2019ねん6がつ1にち閲覧えつらん
  4. ^ 岩波いわなみ文庫ぶんこ復刊ふっかん1995ねん序文じょぶん牧野まきのしんあきら
  5. ^ a b 逸事いつじ
  6. ^ 西郷さいごう隆盛たかもり言行げんこうろく
  7. ^ 海舟かいしゅう全集ぜんしゅう だいじゅうかん
  8. ^ ほろびともろく
  9. ^ a b 逸話いつわ文庫ぶんこ 通俗つうぞく教育きょういく 志士ししまき
  10. ^ a b c 伊藤いとうこう,井上いのうえはく,山県やまがたこう元勲げんくんだん近代きんだいデジタルライブラリー
  11. ^ a b 島津しまつ正統せいとう系図けいず」(島津しまづ資料しりょう刊行かんこうかい

参考さんこう文献ぶんけん

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登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ
NHK大河たいがドラマ
小説しょうせつ
漫画まんが
  • 中島なかじま健志たけし『コミックばん日本にっぽん歴史れきし 幕末ばくまつ維新いしん人物じんぶつでん 島津しまつ斉彬なりあきら』(2018ねんポプラ社ぽぷらしゃ原作げんさく水谷みずたに俊樹としき
映画えいが

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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