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殉死じゅんし

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殉死じゅんし(じゅんし)とは、主君しゅくんおっとなどのって臣下しんかつまなどがぬ(じゅんじる)こと。殉死じゅんしさせたうえでほうむることを、殉葬(じゅんそう)という。殉死じゅんししゃ任意にんい自殺じさつする場合ばあいもあれば、強制きょうせいてき殉死じゅんしさせられる場合ばあいもある。

殉死じゅんし法的ほうてききんじられる時代じだいもあったが、それは殉死じゅんしによって優秀ゆうしゅう人材じんざい喪失そうしつするのをける目的もくてきなどがあったものとかんがえられる。

古代こだいエジプトメソポタミア古代こだい中国ちゅうごく古代こだい朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽんなどにおいては殉葬がおこなわれた。

日本にっぽん

古代こだい

考古学こうこがくてき確実かくじつ殉死じゅんしれい確認かくにんできないとされ、普遍ふへんてきおこなわれていたかは不明ふめいであるが、弥生やよい時代じだい墳丘ふんきゅう古墳こふん時代じだいには墳丘ふんきゅう周辺しゅうへん副葬品ふくそうひんられない埋葬まいそう施設しせつがあり、殉葬がおこなわれていた可能かのうせいかんがえられている。また、5世紀せいきには古墳こふん周辺しゅうへんうまほうむられているれいがあり、渡来とらいじん習俗しゅうぞく影響えいきょうかんがえられている。

中国ちゅうごく歴史れきししょ三国志さんごくし』のこころざし倭人わじんでんに「卑彌呼ひみこ以死大作たいさく冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこ死去しきょづかきずいたさいに、やく100にん奴婢ぬひが殉葬されたという。また、『日本書紀にほんしょきたれ仁紀ひとのり28ねんじょうでは、その残酷ざんこくさゆえに禁止きんししたとしるされ、32ねんじょうには、野見のみ宿禰すくねにちひめいのち陵墓りょうぼ殉死じゅんししゃめるわりにつくった人馬じんば埴輪はにわ)をてることを提案ていあんした記事きじ埴輪はにわ起源きげん説話せつわ)がられる。

野見のみ宿禰すくね埴輪はにわ説話せつわかんして、津田つだ左右吉そうきちは、『古事記こじき』との記述きじゅつ差異さいから後世こうせい創作そうさくとし(津田つだ1948ねん)、考古学こうこがくまとにも古墳こふんから殉死じゅんし痕跡こんせき確認かくにんされていないために否定ひていされた(『土曜どよう考古こうこだい27ごう(2003ねん5がつ土曜どよう考古学こうこがく研究けんきゅうかい)p.146)。弥生やよい時代じだい後期こうき吉備きび祭祀さいし使用しようされた「特殊とくしゅだい」の特殊とくしゅ文様もんようあかいろどりされた大型おおがたうつわだい円筒えんとうなどが、初期しょきヤマト王権おうけんはかせいれられ、「埴輪はにわ」に変化へんかしたとのせつ有力ゆうりょくとなっている[1]。しかし、21世紀せいき現在げんざいでも殉死じゅんし研究けんきゅうれいはあり、笹森ささもり健一けんいちの『埴輪はにわ起源きげん説話せつわからみた殉死じゅんし』(前述ぜんじゅつの『土曜どよう考古こうこないp.145から所収しょしゅう)では、せいやすし元年がんねん)の雄略天皇ゆうりゃくてんのう葬儀そうぎ記事きじ着目ちゃくもくし、「雄略天皇ゆうりゃくてんのう近習きんじゅである隼人はやとが、昼夜ちゅうやりょうのそばで大声おおごえをあげてつづけ、食物しょくもつあたえてもべず、あいごうしながら7にちに、役人やくにんりょう北側きたがわはかつくり、れいをもってほうむった」とあり、物語ものがたりとき系列けいれつてきには、殉死じゅんし禁止きんしされたたれ仁紀ひとのり以降いこうでありながら、殉死じゅんしゆるされたのは、たれじん殉死じゅんしが「強制きょうせいてき」であり、そこからせいやすし殉死じゅんしが「自主じしゅてき」なかたちへと変容へんようしたものと仮説かせつて、諸々もろもろ考察こうさつから5世紀せいきごろ国家こっかてき儀礼ぎれい変化へんかがあったことを示唆しさしている(『土曜どよう考古こうこどうごう、p.150)。

日本書紀にほんしょき大化たいか2ねん646ねん)3がつ22にちじょうによれば、大化たいか改新かいしんのち大化たいか薄葬令はくそうれい規定きていされ、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん造営ぞうえい停止ていしされ古墳こふん小型こがたすすむが、このときに人馬じんば殉死じゅんし殉葬も禁止きんしされている。

武士ぶし殉死じゅんし

近世きんせい初期しょき逸話いつわあつめた書物しょもつ明良あきよしひろしはん』3かんでは、殉死じゅんししん主君しゅくんへの忠義ちゅうぎからた「よしはら」(ぎばら)、だれかが殉死じゅんしするために自分じぶん殉死じゅんししなければならないとする理屈りくつもとづく「ろんはら」(ろんばら)、殉死じゅんしすることで子孫しそん栄達えいたつはかる「しょうはら」(あきないばら)に分類ぶんるいしている[2][3]。しかし、殉死じゅんししゃ家族かぞく加増かぞうけたり栄達えいたつしたりしたケースはほとんどない。さらに、殉死じゅんししゃいえ男子だんし跡継あとつぎがいない場合ばあいでもはは援助えんじょされたり、おとうとおい家督かとくゆずられたりしたこともない。このため「しょうはら」が実行じっこうされたことは兆候ちょうこうさえなく、歴史れきしてき事実じじつではないとされる[4]

主君しゅくんにしたり、敗戦はいせんによりはらったりした場合ばあい家来けらいたちこうってにしたり切腹せっぷくしたりした(『明徳めいとく』)[5]。しかし、主君しゅくん病死びょうしなど自然しぜん場合ばあい殉死じゅんしする習慣しゅうかんは、戦国せんごく時代じだいにはなかった[5][6]。ところが、江戸えど時代じだいはいると戦死せんしする機会きかいすくなくなったことにより主君しゅくんへの忠誠ちゅうせいしめせなくなったため、自然しぜん場合ばあいでも家臣かしん殉死じゅんしをするようになったという[6]1607ねん慶長けいちょう12ねん)に松平まつだいら忠吉ただよし病死びょうししたさい殉死じゅんし最初さいしょであるといわれ、同年どうねん結城ゆうき秀康ひでやす病死びょうしまんせきりの重臣じゅうしんらがこうい、盛行せいこうした[7]徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつさいしては老中ろうじゅう老中ろうじゅう経験けいけんしゃ殉死じゅんししている[6]。こうした行動こうどう背景はいけいにはかぶきしゃ男色なんしょくとの関連かんれんがあるというせつもある[8]家光いえみつじゅんじなかった松平まつだいら信綱のぶつな世間せけん批判ひはんけ、「仕置しおきだてせずとも御代みよはまつひら 爰(ここ)にいづとも死出しできょうせよ」という落首らくしゅされた[9]

なお、1598ねん慶長けいちょう3ねん)の豊臣とよとみ秀吉ひでよしさいして古田ふるた重定しげさだ古田ふるた織部おりべちち)が殉死じゅんししたれい病死びょうしした主君しゅくんへの殉死じゅんしとしては松平まつだいら忠吉ただよしれいよりふる[よう出典しゅってん]

4だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつなから5だい綱吉つなよし治世ちせいには、幕政ばくせい武断ぶだん政治せいじから文治ぶんじ政治せいじへと移行いこうしつつあった。幕府ばくふ先立さきだ寛文ひろふみ元年がんねん(1661ねん)7がつ水戸みとはんあるじ徳川とくがわ光圀みつくに重臣じゅうしんだんからの徳川とくがわ頼房よりふさへの殉死じゅんしねがいをゆるさず、同年どうねんうるう8がつには会津あいづはんあるじ保科ほしな正之まさゆき殉死じゅんし禁止きんしはんほうくわえた[10]当時とうじまくかく指導しどうしていた保科ほしな正之まさゆき指導しどうした寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)5がつ[11]武家ぶけしょ法度はっと公布こうふとともに、幕府ばくふ殉死じゅんしは「不義ふぎ無益むえき」であるとしてその禁止きんしかく大名だいみょう口頭こうとう伝達でんたつされた[6]。1668ねんにはきんはんしたという理由りゆう宇都宮うつのみやはん奥平おくだいらあきらのううたてふう処分しょぶんけている[6]追腹おいばらいちけん)。殉死じゅんし禁止きんしは、家臣かしん主君しゅくんとの情緒じょうちょてき人格じんかくてき関係かんけい否定ひていし、家臣かしんは「主君しゅくんいえ」につかえるべきであるというあらたな主従しゅうじゅう関係かんけい構築こうちく意図いとしたものだとかんがえられる[12]

こののちのべたから8ねん堀田ほった正信まさのぶ家綱いえつな死去しきょほういて自害じがいしているが、一般いっぱんにはこれが江戸えど時代じだい最後さいご殉死じゅんしとされている。天和てんわ3ねんには末期まっき養子ようし禁止きんし緩和かんわとともに殉死じゅんしきん武家ぶけしょ法度はっとまれ、本格ほんかくてき禁令きんれいがなされた。

きん現代げんだい

1912ねん大正たいしょう元年がんねん)、明治天皇めいじてんのう崩御ほうぎょさい陸軍りくぐん軍人ぐんじん乃木のぎ希典まれすけつま静子しずことともに殉死じゅんしして社会しゃかいてき議論ぎろんび、もり鴎外おうがい殉死じゅんしをテーマにした「阿部あべ一族いちぞく」などを執筆しっぴつしている。

1989ねん昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょさいにも確認かくにんされているだけですうめい殉死じゅんししゃている。崩御ほうぎょ同日どうじつ和歌山わかやまけんで87さい男性だんせい自殺じさつ[13]茨城いばらきけんでももと海軍かいぐん少尉しょういの76さい男性だんせいが「陛下へいか一人ひとり兵士へいしとしておともをいたします」と遺書いしょのこして[14]それぞれ自殺じさつした。数日すうじつには福岡ふくおかけんで38さい男性だんせい割腹かっぷく自殺じさつ[15]、およそ2かげつにも東京とうきょうもと陸軍りくぐん中尉ちゅういの66さい男性だんせい自殺じさつしている[16]

殉死じゅんしあつかった作品さくひん

参考さんこう文献ぶんけん

  • 山本やまもと博文ひろぶみ殉死じゅんし構造こうぞう弘文こうぶんどう叢書そうしょ 文化ぶんか〉、1993ねんISBN 978-4335250521 2008ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ
  • 横田よこたふゆ彦『日本にっぽん歴史れきし16 天下てんか泰平たいへい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2009ねんISBN 978-4-06-291916-6 
  • 百瀬ももせ明治あきはる名君めいくんけんしん 江戸えど時代じだい政治せいじ改革かいかく講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1996ねんISBN 4-06-149313-2 

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脚注きゃくちゅう

  1. ^ 2011ねん奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ附属ふぞく博物館はくぶつかん特別とくべつ陳列ちんれつ開催かいさい要項ようこう埴輪はにわのはじまり-大和やまと特殊とくしゅだいとその背景はいけい開催かいさい要項ようこう(2019ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 山本やまもと 1993, p. 81.
  3. ^ 百瀬ももせ 1996, p. 52.
  4. ^ 山本やまもと 1993, p. 82.
  5. ^ a b 山本やまもと 1993, p. 39.
  6. ^ a b c d e 横田よこた 2009, p. 286.
  7. ^ 百瀬ももせ 1996, p. 51.
  8. ^ 横田よこた 2009, pp. 286–287.
  9. ^ 百瀬ももせ 1996, p. 51-52.
  10. ^ 百瀬ももせ 1996, p. 55-56.
  11. ^ このとし1がつ丹後たんごこく田辺たなべ藩主はんしゅ京極きょうごく高直たかなお死去しきょし、家臣かしんめい殉死じゅんししている。
  12. ^ 横田よこた 2009, pp. 287.
  13. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』1989ねん1がつ8にち昭和しょうわ天皇てんのう崩御ほうぎょ 『おとも』と87さい男性だんせい後追あとお自殺じさつ/和歌山わかやま
  14. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん』1989ねん1がつ9にち「『いち兵士へいしとしておとも』と昭和しょうわ天皇てんのう後追あとお自殺じさつ-茨城いばらき
  15. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』1989ねん1がつ13にち「また昭和しょうわ天皇てんのう後追あとお自殺じさつ 38さい男性だんせい割腹かっぷくし/福岡ふくおか博多はかた
  16. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1989ねん3がつ4にち昭和しょうわ天皇てんのう後追あとお自殺じさつ 東京とうきょう大塚おおつか短銃たんじゅう使つかきゅう軍人ぐんじん

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