にちひめいのち

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にちひめいのち
だい11だい天皇てんのうきさき
皇后こうごう たれじん天皇てんのう15ねん8がつ1にち

崩御ほうぎょ たれじん天皇てんのう32ねん7がつ6にち
父親ちちおや 丹波たんばみちしゅおう
母親ははおや 丹波たんば河上かわかみあさ須郎おんな
配偶はいぐうしゃ たれじん天皇てんのう
入内じゅだい たれじん天皇てんのう15ねん2がつ10日とおか
子女しじょ 五十瓊敷入彦命
けいぎょう天皇てんのう
だい中姫なかひめいのち
やまとひめいのち
ややじょう瓊入彦命
表記ひょうき こおりはねしゅううりいのち比婆ひば須比うりいのち古事記こじき
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にちひめいのち(ひばすひめのみこと、生年せいねんしょう - たれじん天皇てんのう32ねん7がつ6にち)は、たれじん天皇てんのうの2番目ばんめ皇后こうごう

概要がいよう[編集へんしゅう]

ちち丹波たんばみちしゅおうはは丹波たんば河上かわかみあさ須郎おんなたれじん天皇てんのうとのあいだけいぎょう天皇てんのうのほか2皇子おうじ・2皇女おうじょむ。「にちひめ」は『日本書紀にほんしょき』での記述きじゅつである。しょではほかに「にちいのち」、「にちしゅうひめいのち」にもつくり、また『古事記こじき』は「こおりはねしゅううりいのち」、「比婆ひば須比うりいのち」につくる。

日本書紀にほんしょき』によれば、たれじん天皇てんのう皇后こうごうせまひめいのちどう天皇てんのう5ねんじたのち、その遺志いしにより、どう15ねん2がつ甲子きのえね10日とおか)に丹波たんばいまきた近畿きんき)からいもうとたちとともに後宮こうきゅうむかえられた。同年どうねん8がつみずのえうま(1にち)に皇后こうごうてられた。

たれじん天皇てんのう32ねん7がつおのれ(6にち)に薨じた。その葬儀そうぎさいして、それまでおこなわれていた殉死じゅんし悪習あくしゅうと嘆じていた天皇てんのうぐんきょう葬儀そうぎ方法ほうほううと、野見のみ宿禰すくねきた人間にんげんわりに埴輪はにわ埋納まいのうするように進言しんげんしたため、その陵墓りょうぼはじめてひとうま見立みたてた埴輪はにわ埋納まいのうされ、以後いご踏襲とうしゅうされるようになったという[1]。『古事記こじき』では天皇てんのう崩御ほうぎょきており、おそ田道たみちあいだもり)からときじくのこう半分はんぶんったとされ、その(葬儀そうぎの)いししゅくさく(いわきつくり)と土師はじ(はにしべ)をさだめたとされる。

りょう[編集へんしゅう]

りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより奈良ならけん奈良なら山陵さんりょうまちにあるせま寺間てらまりょう(さきのてらまのみささぎ、北緯ほくい3441ふん58.64びょう 東経とうけい13547ふん20.38びょう)に治定じじょうされている[2][3]宮内庁くないちょうじょう形式けいしき前方後円ぜんぽうこうえん遺跡いせきめいは「佐紀さきりょうやま古墳こふん」で、墳丘ふんきゅうちょう207メートルの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんである。

中世ちゅうせいにはその所在しょざいうしなったが、1875ねん明治めいじ8ねん)に治定じじょうて、修治しゅうじくわえられたものである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ちなみに「ひとしれる」という意味いみの「たれじん」というかんふう諡号しごうはこの故事こじちなむものである。
  2. ^ みや内省ないせいしょりょうりょうへん陵墓りょうぼ要覧ようらん(1934ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)9コマ。
  3. ^ 陵墓りょうぼ地形ちけい集成しゅうせい 縮小しゅくしょうばん宮内庁くないちょうしょりょう陵墓りょうぼへん学生がくせいしゃ、2014ねん、p. 401。