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鎌倉かまくら時代ときよ

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こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば

鎌倉かまくら時代ときよ(かまくらじだい、きゅう字体じたいかま󠄁くら時代ときよ12世紀せいきすえ - せいけい2ねん/元弘もとひろ3ねん1333ねん〉)は、幕府ばくふ鎌倉かまくらげん神奈川かながわけん鎌倉かまくら)にかれていたやくいち世紀せいきはん時代じだい日本にっぽん歴史れきし時代じだい区分くぶんである。鎌倉かまくら時代じだいは、京都きょうと朝廷ちょうていならんで相模さがみこく鎌倉かまくらかれた鎌倉かまくら幕府ばくふ全国ぜんこく統治とうち中心ちゅうしんとなり、日本にっぽん史上しじょう本格ほんかくてき武家ぶけ政権せいけんによる統治とうちはじめておこなわれた時代じだいである。鎌倉かまくら時代じだいには、もとこうむ襲来しゅうらい)という未曾有みぞう国難こくなんのほか、地震じしん飢饉ききん疫病えきびょうおお発生はっせいし、50かいもの元号げんごう改元かいげん(そのうちわざわい改元かいげんが30かい)がおこなわれ[1]仏教ぶっきょう鎌倉かまくら仏教ぶっきょう)がひろ庶民しょみん武家ぶけにまでひろまった。

始期しきについては、各種かくしゅ歴史れきし教科書きょうかしょ記述きじゅつされていた3つの諸説しょせつ1192ねんみなもと頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんせつをはじめ諸説しょせつあるが、鎌倉かまくら幕府ばくふ」の成立せいりつとはかならずしも一致いっちはせず、東国とうごく支配しはいけん承認しょうにん1183ねんせつ守護しゅご地頭じとう設置せっちけんみとめられた1185ねんせつ有力ゆうりょく)がある。(詳細しょうさい鎌倉かまくら幕府ばくふ#概要がいよう参照さんしょう。)

概要がいよう[編集へんしゅう]

12世紀せいき末期まっきに、みなもと頼朝よりとも鎌倉かまくら殿どのとして武士ぶし頂点ちょうてんち、中央ちゅうおう御家人ごけにん統率とうそつする「さむらいしょ」、財政ざいせい政務せいむになう「政所まんどころ」、裁判さいばんおこなう「といちゅうしょ」の3つの組織そしきき、全国ぜんこく守護しゅごいて、鎌倉かまくら幕府ばくふひらき1185ねんから1333ねんまでつづいた。京都きょうと朝廷ちょうてい地方ちほう荘園しょうえんおおやけりょうはそのままで、地方ちほう支配しはい地頭じとうひとしかたち支配しはい構造こうぞうができあがった。

にわたるもとこうむ襲来しゅうらい)があり、内乱ないらん地震じしん疫病えきびょう飢饉ききんなどの災害さいがいおお発生はっせいした時代じだいである。148年間ねんかんなかで、50かいもの元号げんごう改元かいげんがあり、地震じしんかかわる改元かいげんが11かいしょうじた[1]。こうした時代じだい背景はいけいとして。庶民しょみん対象たいしょうとした、えきぎょう(いぎょう。きびしい修行しゅぎょうではない)、選択せんたく(せんちゃく。…救済きゅうさい方法ほうほうひとえらぶ)、専修せんしゅう(せんじゅ。…ひたすらにむ)を特徴とくちょうとした鎌倉かまくら仏教ぶっきょうひろまった。

幕府ばくふは「鎌倉かまくら殿どの頼朝よりとも私的してき家政かせい機関きかんとして設立せつりつされており、公的こうてき機関きかんではない。したがって基本きほんてき鎌倉かまくら幕府ばくふ支配しはいいたのは鎌倉かまくら殿どの知行ちぎょうこくおよび主従しゅうじゅう関係かんけいむすんだ武士ぶし御家人ごけにん)であり、守護しゅご設置せっちなどで諸国しょこく治安ちあん維持いじとう担当たんとうしたものの、全国ぜんこく武士ぶし完全かんぜん支配しはいおさめたわけではない。たいら政権せいけん朝廷ちょうていはいみ、朝廷ちょうていつうじて支配しはいこころみたのとは対照たいしょうてきである。もと以降いこう全国ぜんこく武士ぶし軍事ぐんじ動員どういんをかける権限けんげんなどをにすると、全国ぜんこく支配しはい強化きょうかされることになる。

鎌倉かまくら幕府ばくふがそれ以前いぜん武家ぶけ政権せいけんであるたいら政権せいけんもっとことなるてんは、といちゅうしょばれる訴訟そしょう機関きかん設置せっちしたことで、これまでは地所じしょ支配しはいけんをめぐるあらそいは、当事とうじしゃ同士どうし武力ぶりょく闘争とうそう容易ようい発展はってんしていたが、これにより実質じっしつてき禁止きんしされることになった。武士ぶしの、つまり全国ぜんこく各地かくち騒乱そうらんのほぼすべての原因げんいん土地とち支配しはいかんするものであり、頼朝よりともしん統治とうち理論りろん以降いこうまくはん体制たいせい根幹こんかんすものになった。

みなもと頼朝よりとも死後しご、2だい将軍しょうぐんみなもとよりゆき、3だい将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねともて、北条ほうじょう執権しっけんとして幕府ばくふ実権じっけん掌握しょうあくした(執権しっけん政治せいじ[2]源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつして以降いこうも、幕府ばくふ体制たいせい永続えいぞくするように制度せいど整備せいびがなされ、その裏打うらうちとして成敗せいばい式目しきもく1232ねん)というはつ武家ぶけほう制定せいていされ、その中世ちゅうせい社会しゃかい基本きほん法典ほうてんとなった。また、将軍しょうぐん権力けんりょく形骸けいがいしていく一方いっぽうで、北条ほうじょう惣領そうりょうとくむね権力けんりょく集中しゅうちゅうするとくむね専制せんせい体制たいせいになっていき、それにつかえる御内おんうちじん台頭たいとうするようになった。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうらが政治せいじ実権じっけんもどすためこした承久じょうきゅうらんでは、鎌倉かまくら幕府ばくふ朝廷ちょうてい勝利しょうりし、朝廷ちょうていたいする幕府ばくふ政治せいじてき優位ゆうい確立かくりつした。これにより、おおくの御家人ごけにん西国さいごく恩賞おんしょうて、東国とうごく偏重へんちょうして西国さいこくよわかった幕府ばくふ支配しはいつよおよぶようになった[3]

承久じょうきゅうらん幕府ばくふまもりさだ親王しんのう高倉たかくらいん)をてんきみ擁立ようりつし、その系統けいとう断絶だんぜつするとこう嵯峨天皇さがてんのう即位そくいさせ、あさまく関係かんけい安定あんていはかった。朝廷ちょうてい幕府ばくふ社会しゃかいみずからの政治せいじてき基盤きばん安定あんていはかるために徳政とくせい興行こうぎょう推進すいしんし、てんきみ上皇じょうこう)と執権しっけん評定ひょうじょうしゅ主導しゅどうして、訴訟そしょう解決かいけつはか態勢たいせい構築こうちくされた。これは天皇てんのう将軍しょうぐん直接ちょくせつ裁許さいきょくわわることで敗訴はいそとなったがわ怨恨えんこんけ、とく所領しょりょう問題もんだい場合ばあいには(主君しゅくんによる従者じゅうしゃ保護ほご責務せきむはんしたとして)敗訴はいそとなったがわ主従しゅうじゅう関係かんけい解消かいしょうにつながるような事態じたい回避かいひするために、訴訟そしょう解決かいけつはかりつつも所領しょりょう問題もんだいから天皇てんのう将軍しょうぐんはなすための仕組しくみであったとかんがえられている[4]

経済けいざいてきには、地方ちほう在地ざいち領主りょうしゅである武士ぶし土地とち所有しょゆう法的ほうてき安定あんていしたため、全国ぜんこくてき開墾かいこんがすすみ、質実しつじつ剛健ごうけん鎌倉かまくら文化ぶんかさかえた。文化ぶんか芸術げいじゅつてきにも、このような社会しゃかい情勢じょうせい背景はいけい新風しんぷうこり、それまでの公家くげ社会しゃかい文化ぶんかことなり、仏教ぶっきょう美術びじゅつ武士ぶし庶民しょみんかりやすい、あたらしいものがこのまれた。政局せいきょく安定あんてい西日本にしにほん中心ちゅうしん商品しょうひん経済けいざいひろがりをもたらすと、各地かくち定期ていきてきつようになった。

土地とち相続そうぞくかんしては分割ぶんかつ相続そうぞく採用さいようされていたが、そのため時代じだいくだるごとに御家人ごけにん所領しょりょう零細れいさいされ、生活せいかつ圧迫あっぱくすることになってしまった。また、中期ちゅうきから本格ほんかくてき貨幣かへい経済けいざい浸透しんとうはじめたが、これに順応じゅんのうできない御家人ごけにんおおく、生活せいかつ逼迫ひっぱくした結果けっか土地とち売却ばいきゃくするものもいた。救済きゅうさいさくとして幕府ばくふえいひとし徳政令とくせいれい発布はっぷするなどしたが、かんばしい成果せいかられなかった。

13世紀せいきには、1274ねんぶんながやく1281ねん弘安ひろやすやくにわたるもとがあったが、もと侵攻しんこう撃退げきたいした。これにより「日本にっぽん神国しんこく」という神国しんこく思想しそう発端ほったんとなり、後世こうせい影響えいきょうあたえることとなった。またもと侵攻しんこう阻止そししたものの、いままでの幕府ばくふ戦争せんそうちがい、外国がいこく相手あいてにした防衛ぼうえいせんであったため、このたたかいによって実質じっしつてき獲得かくとくしたものはなにく、そのため出征しゅっせいした武士ぶし御家人ごけにん)への恩賞おんしょう支払しはらいがすくなかったこともあって、「いざ鎌倉かまくら」といった幕府ばくふ御家人ごけにんとのおん奉公ほうこうという信頼しんらい関係かんけいそこねる結果けっかとなった[5]

もと寇を幕府ばくふは、御家人ごけにんふく日本にっぽん全国ぜんこく武士ぶし軍事ぐんじ動員どういんをかける権限けんげんたほか、鎮西ちんぜい探題たんだい長門ながと探題たんだいなどの出先でさき機関きかんき、西国さいこくへの支配しはいつよめた。西国さいこくをはじめ、日本にっぽん国内こくない中央ちゅうおう集権しゅうけんてき統治とうちしようとするとくむね御家人ごけにん排除はいじょし、被官ひかんである御内おんうちじん重用じゅうようするようになった。

生活せいかつ困窮こんきゅうした御家人ごけにん不満ふまん幕府ばくふちからおさえたため、表面ひょうめんじょう幕政ばくせい安定あんていしたものの、霜月しもづき騒動そうどうひら禅門ぜんもんらんなど専制せんせいつよめるとくしゅう御家人ごけにん確執かくしつふかまり、安藤あんどうらんにおいて御内おんうちじん当事とうじしゃ双方そうほうから賄賂わいろてるなどといった事象じしょう幕政ばくせい腐敗ふはいきもあり、次第しだい幕府ばくふから人心じんしんはなれていくようになった。決定的けっていてきとなった鎌倉かまくらだい地震じしんせいよしみ鎌倉かまくら地震じしんなどをはじめとして、鎌倉かまくら幕府ばくふひらいてから度々たびたび災害さいがい疫病えきびょう飢饉ききんなどの混乱こんらんきたことも、のち鎌倉かまくら幕府ばくふ崩壊ほうかいする要因よういんとなった。

また、承久じょうきゅうらん以後いご朝廷ちょうてい衰退すいたいは、皇位こうい継承けいしょうめぐ自己じこ解決かいけつ能力のうりょくうしなうことになり、結果けっかてき幕府ばくふいやおうしにことになった。幕府ばくふ両統りょうとう迭立原則げんそくによって大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつるりょう皇統こうとうあいだにおけるはないによる皇位こうい継承けいしょうすすめて、深入ふかいりをける方針ほうしんったが、結果けっかてき紛糾ふんきゅう長期ちょうきによる、朝廷ちょうていから幕府ばくふたいするあらたな介入かいにゅう要請ようせいまねき、その幕府ばくふ介入かいにゅう結果けっか不満ふまんいだ反対はんたいによるさらなる介入かいにゅう要請ようせいされるという、結果けっかてき幕府ばくふ方針ほうしん相反あいはんした悪循環あくじゅんかんおちいった。その結果けっか大覚寺だいかくじみつる傍流ぼうりゅう出身しゅっしん後醍醐天皇ごだいごてんのう直系ちょっけいへの皇位こうい継承けいしょうみとめないという結論けつろんたっしたとき、これに反発はんぱつした後醍醐天皇ごだいごてんのうが、これを支持しじする公家くげ幕府ばくふたいして不満ふまんいだ武士ぶしたち連携れんけいうごきがあらわれるのをて、叛乱はんらんこし(正中せいちゅうへん元弘もとひろらん)、もなく鎌倉かまくら幕府ばくふ崩壊ほうかいした。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代じだい政治せいじ[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ当初とうしょ将軍しょうぐん実際じっさいには「鎌倉かまくら殿どの」。征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょく必須ひっすではない)を中心ちゅうしんとしていた。みなもと河内かわうちはじめみなもと頼朝よりともけい直系ちょっけい将軍しょうぐんは3だいえ、将軍しょうぐん公家くげ摂家せっけ将軍しょうぐん)、のちには皇族こうぞく皇族こうぞく将軍しょうぐん)を傀儡かいらいとなり、実権じっけん将軍しょうぐんから、じゅうさんにん合議ごうぎせいうつる。さらに和田わだ合戦かっせんたからおさむ合戦かっせんひら禅門ぜんもんらんなどにより北条ほうじょう以外いがい氏族しぞく幕府ばくふから排除はいじょすると、権力けんりょく北条ほうじょう集中しゅうちゅうさせるうごきもつよまった。そうして実権じっけんは、頼朝よりともつまである北条ほうじょう政子まさこて、執権しっけんであった北条ほうじょううつっていった。さら執権しっけん北条ほうじょうよりゆき執権しっけん引退いんたい執政しっせいおこなったことから、幕府ばくふ権力けんりょく執権しっけん地位ちいよりも北条ほうじょうやすしとする北条ほうじょう本家ほんけとくむねいえ)に集中しゅうちゅう執権しっけん在職ざいしょくしゃ幕府ばくふ最高さいこう権力けんりょくしゃというわけではなく、みや騒動そうどうがつ騒動そうどうなどでとく宗家そうけ反抗はんこうする名越なごし北条ほうじょうなどの傍流ぼうりゅう御家人ごけにん排除はいじょされた(とくむね専制せんせい)。

北条ほうじょう功績こうせきとしては成敗せいばい式目しきもく制定せいていげられる。これはいままでの公家くげほうからの武家ぶけ社会しゃかい離脱りだつであり、法制ほうせいじょう公武こうぶ分離ぶんりしたことをしめす。さき北条ほうじょうによる排斥はいせきともない、諸国しょこく守護しゅごしょくなどは大半たいはん北条ほうじょうめられるようになり、さらに北条ほうじょう家臣かしんである御内おんうちじん厚遇こうぐうされ、御家人ごけにん地方ちほう武士ぶしたちの不満ふまんまねくことになった。執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうだいに2わたもとがあり、鎌倉かまくら幕府ばくふはこれを撃退げきたいしたが、他国たこくとの戦役せんえきでありあらたに領土りょうどたわけではなかったため、十分じゅうぶん恩賞おんしょうあたえることができず、これもまた武士ぶしたちの不満ふまんつよめさせた。北条ほうじょう貞時さだときだいになると御内おんうちじん権力けんりょく増長ぞうちょうし、とくむね権威けんいすらしのぐようになり、貞時さだときひら禅門ぜんもんらん平頼綱たいらのよりつなとくむね権力けんりょくもどそうとするも、末期まっきには政治せいじへの関心かんしんからふたた御内おんうちじん実権じっけんにぎった。

また、貨幣かへい経済けいざい浸透しんとうして、市場いちばがある市場いちばまち誕生たんじょうした。おおくの御家人ごけにん経済けいざいてき没落ぼつらくして、凡下ぼんげ庶民しょみん階級かいきゅう御家人ごけにんそう)の商人しょうにんから借財しゃくざいかさねた。1284ねん弘安ひろやす徳政とくせい、さらに1297ねんえいひとし徳政令とくせいれい実施じっしして没落ぼつらくする御家人ごけにん救済きゅうさいはかったが、恩賞おんしょう不足ふそく商人しょうにん御家人ごけにんへの金銭きんせんしをしぶるなど、かえって御家人ごけにん不満ふまん混乱こんらんまね結果けっかわった。後醍醐天皇ごだいごてんのうによる鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうは、この武士ぶしたちの不満ふまん利用りようするかたちおこなわれることになる。

幕府ばくふ[編集へんしゅう]

歴代れきだい将軍しょうぐん[編集へんしゅう]

歴代れきだい執権しっけん[編集へんしゅう]

経済けいざい社会しゃかい[編集へんしゅう]

守護しゅご地頭じとう[編集へんしゅう]

1185ねんに、みなもと頼朝よりとも大江広元おおえのひろもと献策けんさくれておとうと源義経みなもとのよしつね追討ついとう目的もくてき全国ぜんこく守護しゅご地頭じとう設置せっちする。守護しゅごいちこくいちめいずつ配置はいちされ、謀反むほんじん殺害さつがいなどだいはんさんヶ条かじょう国内こくない御家人ごけにん統率とうそつ役割やくわり役職やくしょく地頭じとうおおやけりょう荘園しょうえんごとに設置せっちされ、年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう土地とち管理かんりなどが役割やくわりであった。鎌倉かまくら幕府ばくふ権威けんい背景はいけい荘園しょうえん侵略しんりゃく豊作ほうさく凶作きょうさくにかかわり一定いっていがく年貢ねんぐ荘園しょうえん管理かんり一切いっさいわせる地頭じとうや、荘園しょうえん地頭じとうぶん領家りょうけぶん強引ごういんにわける下地したじ中分なかぶんなど、一部いちぶ横暴おうぼうおおくあった。

しょう工業こうぎょう[編集へんしゅう]

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよとは区別くべつがはっきりしていない。

対外たいがい関係かんけい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代じだい文化ぶんか[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら文化ぶんか特徴とくちょうは、文化ぶんか中心ちゅうしん平安へいあん時代じだいわらず京都きょうと奈良ならであるが、武士ぶし庶民しょみんあたらしい文化ぶんか以前いぜん貴族きぞく文化ぶんか拮抗きっこうしたてんで、文化ぶんか二元にげんせいてきたところにある。

作風さくふうは、一般いっぱん素朴そぼく質実しつじつ写実しゃじつてきわれる。中国ちゅうごくそうげん)からのぜん文化ぶんか影響えいきょう色濃いろこい。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

歌集かしゅう[編集へんしゅう]

随筆ずいひつ[編集へんしゅう]

日記にっき紀行きこう文学ぶんがく[編集へんしゅう]

軍記物語ぐんきものがたり[編集へんしゅう]

説話せつわしゅう[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょう説話せつわしゅう[編集へんしゅう]

歴史れきししょ[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょう革新かくしん運動うんどう[編集へんしゅう]

12世紀せいきなかごろから13世紀せいきにかけて、新興しんこう武士ぶし農民のうみんたちのもとめにおうじて、日本にっぽん仏教ぶっきょう変革へんかくする運動うんどうとして鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう宗派しゅうは興隆こうりゅうすると、南都なんと仏教ぶっきょうきゅう仏教ぶっきょう)の革新かくしん運動うんどうがすすんだ。おおきな特徴とくちょうは、平安へいあん時代じだいまでの鎮護ちんご国家こっかからはなれた大衆たいしゅう救済きゅうさいへの志向しこうであり、国家こっかから自立じりつした活動かつどうおこなわれた。

これはもとらん平治へいじらんからうけたまわ寿ことぶきひさしらんつづ戦乱せんらん時代じだいにより厭世えんせいかん末法まっぽう思想しそう)がつよまり、たましい救済きゅうさいもとめられるようになったためである。また、仏教ぶっきょう一般いっぱん大衆たいしゅう推進すいしんされた。

平安へいあん時代じだいつうじて鎮護ちんご国家こっかにな山門さんもん比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ勢力せいりょく教義きょうぎおしえや体系たいけいてき学問がくもんはげ一方いっぽう加持かじ祈祷きとう僧兵そうへい武力ぶりょくつうじて、政治せいじ権力けんりょくつようになった。その一方いっぽうで、円仁えんにん比叡山ひえいざんつたえた念仏三昧ねんぶつざんまいほうから源信みなもとのまこと天台てんだい浄土じょうどきょう良忍りょうにん融通ゆうずう念仏宗ねんぶつしゅうなど浄土じょうどきょう興隆こうりゅうがあった。また、天台宗てんだいしゅうはすべての衆生しゅじょう成仏じょうぶつできるという法華ほっけいちじょう立場たちばっていた。鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう開祖かいそたち(一遍いっぺんのぞく)は比叡山ひえいざんまなんでおり、比叡山ひえいざん一切衆生いっさいしゅじょう救済きゅうさい鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう母胎ぼたいであった。

南都なんと仏教ぶっきょう復興ふっこう運動うんどう[編集へんしゅう]

しん仏教ぶっきょう台頭たいとう対抗たいこうきゅう仏教ぶっきょうがわ念仏ねんぶつ批判ひはんをすると、戒律かいりつおもんじて、腐敗ふはいしているきゅう仏教ぶっきょう内部ないぶ革新かくしんすすめた。また、一切衆生いっさいしゅじょう救済きゅうさいつよ志向しこうすると、ハンセン病はんせんびょう救済きゅうさい事業じぎょうや、非人ひにん救済きゅうさいはし架橋かきょうおこなうなど社会しゃかい事業じぎょう熱心ねっしんすすめた。

わたりした禅僧ぜんそう[編集へんしゅう]

もと侵攻しんこうによるみなみそう圧迫あっぱく滅亡めつぼうから、禅宗ぜんしゅう知識ちしきじん日本にっぽんわたってくることがあった。いずれも幕府ばくふ指導しどうしゃ影響えいきょうあたえた。

はん本地垂迹ほんじすいじゃくせつ[編集へんしゅう]

もと勝利しょうりによって民族みんぞくてき自覚じかくつよまり、日本にっぽん神国しんこくであるという「神国しんこく思想しそう」がまれた。かみほんほとけしたがえ習合しゅうごう思想しそう成立せいりつした。

彫刻ちょうこく[編集へんしゅう]

建築けんちく[編集へんしゅう]

絵画かいが[編集へんしゅう]

書道しょどう[編集へんしゅう]

工芸こうげい[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 感染かんせんしょう災害さいがい飢饉ききんもと寇にくるしんだ武家ぶけ政権せいけん鎌倉かまくら時代じだいぶくかず伸夫のぶお) - エキスパート”. Yahoo!ニュース. 2024ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  2. ^ 執権しっけん政治せいじ. コトバンクより2023ねん9がつ27にち閲覧えつらん
  3. ^ oohara”. www.tamagawa.ac.jp. 2024ねん4がつ14にち閲覧えつらん
  4. ^ 近藤こんどうしげるいち鎌倉かまくら幕府ばくふ公家くげ政権せいけん」(初出しょしゅつ宮地みやじ正人まさと へん新体しんたいけい日本にっぽん1 国家こっか』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ2006ねん平成へいせい18ねん))/所収しょしゅう:近藤こんどう鎌倉かまくら時代じだい政治せいじ構造こうぞう研究けんきゅう』(校倉あぜくら書房しょぼう2016ねん平成へいせい28ねん)) ISBN 978-4-7517-4650-9
  5. ^ 鎌倉かまくら幕府ばくふはなぜ滅亡めつぼうしたのか?|中世ちゅうせい(鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代じだい)|中学生ちゅうがくせいからの勉強べんきょう質問しつもん社会しゃかいすすむけんゼミ中学ちゅうがく講座こうざ”. chu.benesse.co.jp. 2024ねん4がつ14にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]