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東大寺とうだいじ

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東大寺とうだいじ
東大寺 大仏殿
大仏殿だいぶつでん金堂こんどう
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら雑司ぞうしまち406-1
位置いち 北緯ほくい3441ふん20.3びょう 東経とうけい13550ふん23.4びょう / 北緯ほくい34.688972 東経とうけい135.839833 / 34.688972; 135.839833座標ざひょう: 北緯ほくい3441ふん20.3びょう 東経とうけい13550ふん23.4びょう / 北緯ほくい34.688972 東経とうけい135.839833 / 34.688972; 135.839833
山号さんごう なし
宗派しゅうは 華厳宗けごんしゅう
寺格じかく 大本山だいほんざん
本尊ほんぞん 盧舎那仏るしゃなぶつ奈良なら大仏だいぶつ国宝こくほう
創建そうけんねん 8世紀せいき前半ぜんはん
開山かいさん 良弁りょうべん
開基かいき 聖武天皇しょうむてんのう
別称べっしょう 金光かねみつあきら四天王してんのう護国ごこくてら
札所ふだしょとう 法然ほうねん上人しょうにんじゅうれいあとだい11ばん指図さしずどう
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうだい12ばん真言しんごんいん
南都七大寺なんとしちだいじだい1ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい14ばん奈良ならだい1ばん
文化財ぶんかざい 金堂こんどう大仏殿だいぶつでん)、南大門なんだいもん盧舎那仏るしゃなぶつほか(国宝こくほう
中門ちゅうもん念仏ねんぶつどうだい湯屋ゆや石造せきぞう獅子じしほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 華厳宗けごんしゅう大本山だいほんざん 東大寺とうだいじ公式こうしきホームページ
法人ほうじん番号ばんごう 8150005000295 ウィキデータを編集
東大寺の位置(奈良市内)
東大寺
東大寺とうだいじ
平城宮跡
平城ひらじろみやあと
奈良駅
奈良ならえき
奈良ならにおける位置いち
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東大寺の位置(日本内)
東大寺
東大寺とうだいじ
日本にっぽんかく大仏だいぶつ存立そんりつ期間きかん(とき系列けいれつ)

東大寺とうだいじ(とうだいじ、えい: Todaiji Temple[1])は、奈良ならけん奈良なら雑司ぞうしまちにある、華厳宗けごんしゅう大本山だいほんざんである日本にっぽん仏教ぶっきょう寺院じいん山号さんごうはなし。本尊ほんぞん奈良なら大仏だいぶつとしてられる盧舎那仏るしゃなぶつ(るしゃなぶつ)。開山かいさん初代しょだい別当べっとう)は良弁りょうべんである[ちゅう 1]

正式せいしきには金光かねみつあきら四天王してんのう護国ごこくてら(こんこうみょうしてんのうごこくのてら[ちゅう 2])ともいい、奈良なら時代じだい(8世紀せいき)に聖武天皇しょうむてんのう国力こくりょくくして建立こんりゅうしたてらである。現在げんざい別当べっとうだい224せい)は橋村はしむら公英きみひで[2]

奈良なら時代じだいには中心ちゅうしん堂宇どうう大仏殿だいぶつでん金堂こんどう)のほか、東西とうざい2つのななじゅうとう推定すいていたかやく70メートル以上いじょう)をふくだい伽藍がらん整備せいびされたが、中世ちゅうせい以降いこう、2兵火へいかおおくの建物たてもの焼失しょうしつした。現存げんそんする大仏だいぶつは、度々たびたび修復しゅうふくけており、台座だいざ蓮華れんげ)などの一部いちぶ当初とうしょ部分ぶぶんのこすのみであり、また現存げんそんする大仏殿だいぶつでん江戸えど時代じだい中期ちゅうき宝永ほうえい6ねん1709ねん)に規模きぼ縮小しゅくしょうして再建さいけんされたものである。「大仏だいぶつさん」のてらとして、古代こだいから現代げんだいいたるまでひろ信仰しんこうあつめ、日本にっぽん文化ぶんか多大ただい影響えいきょうあたえてきた寺院じいんであり、聖武天皇しょうむてんのう当時とうじ日本にっぽんの60こく建立こんりゅうさせた国分寺こくぶんじ中心ちゅうしんをなす「そう国分寺こくぶんじ」と位置付いちづけされた。

聖武天皇しょうむてんのうによる東大寺とうだいじ大仏だいぶつ造立ぞうりゅうに、国内こくないでは鎌倉かまくら大仏だいぶつ現存げんそん)、雲居くもいてら大仏だいぶつ現存げんそんせず)、東福寺とうふくじ大仏だいぶつ現存げんそんせず)、方広寺ほうこうじきょう大仏だいぶつ現存げんそんせず)などの大仏だいぶつ造立ぞうりゅうされ、先発せんぱつした東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん造形ぞうけい建築けんちく意匠いしょう構造こうぞうは、それらの大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんたいおおかれすくなかれ影響えいきょうあたえた。ただし江戸えど時代じだい東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん再建さいけんさいには、上記じょうきとはぎゃくに、どう時代じだい京都きょうと存在そんざいしていた方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん手本てほんとして、東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん設計せっけいがなされた[3]後述こうじゅつ)。

江戸えど時代じだいには上記じょうきのうち、東大寺とうだいじ大仏だいぶつぞうだかやく14.7m)、鎌倉かまくら大仏だいぶつぞうだかやく11.39m)、きょう大仏だいぶつぞうだかやく19m)のさんみことが、日本にっぽんさん大仏だいぶつしょうされていた[4]

東大寺とうだいじ1998ねん平成へいせい10ねん)12月に古都こと奈良なら文化財ぶんかざい一部いちぶとして、ユネスコより世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろくされている[5]

歴史れきし

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大仏だいぶつ盧舎那仏るしゃなぶつぞう西側にしがわより

創建そうけん大仏だいぶつ造立ぞうりゅう

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創建そうけん当時とうじ大仏殿だいぶつでん復元ふくげん模型もけい大仏殿だいぶつでんない所在しょざい

8世紀せいき前半ぜんはんには大仏殿だいぶつでん東方とうほう若草山わかくさやまふもと前身ぜんしん寺院じいんてられていたことがかっている。東大寺とうだいじ記録きろくである『東大寺とうだいじ要録ようろく』によれば、天平てんぺい5ねん733ねん)、若草わかくさ山麓さんろく創建そうけんされたきむかねてら(またはきむ鍾寺(こんしゅじ))が東大寺とうだいじ起源きげんであるとされる。一方いっぽう正史せいしぞく日本にっぽん』によれば、かみひさし5ねん728ねん)、聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごうおさなくしてくなった皇子おうじもとおう菩提ぼだいとむらうため、若草山わかくさやまふもとに「やまぼう」をもうけ、9にんそうまわせたことがられる、これがかねがねてら前身ぜんしんられる。かねがねてらには、8世紀せいきなかばには羂索どう千手堂せんじゅどう存在そんざいしたことが記録きろくからられ、このうち羂索どう現在げんざい法華ほっけどう(=さんがつどう本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのん)をすとられる。天平てんぴょう13ねん741ねん)には国分寺こくぶんじ建立こんりゅうみことのりはっせられ、これをけてよく天平てんぴょう14ねん742ねん)、きむかねてら大和やまとこく現在げんざい奈良ならけん)の国分寺こくぶんじけんそう国分寺こくぶんじさだめられ[ちゅう 3]てらめい金光明寺こんこうみょうじあらためられた。

大仏だいぶつ鋳造ちゅうぞうはじまったのは天平てんぴょう19ねん747ねん)で、このころから「東大寺とうだいじ」の寺号じごうもちいられるようになったとおもわれる。なお、東大寺とうだいじ建設けんせつのための役所やくしょである「みやつこ東大寺とうだいじ」が史料しりょうえるのは天平てんぴょう20ねん748ねん)が最初さいしょである。

聖武天皇しょうむてんのう大仏だいぶつ造立ぞうりゅうみことのりはっしたのはそれよりまえ天平てんぴょう15ねん743ねん)10がつ15にちである。当時とうじやまこくきょうひとしきょうげん京都きょうと木津川きづがわ)にうつされていたが、天皇てんのうきょうひとしきょう北東ほくとう位置いちするむらさきかおりらくみやげん滋賀しがけん甲賀こうが信楽しがらきまち)におり、大仏だいぶつ造立ぞうりゅうもここではじめられた。聖武天皇しょうむてんのう短期間たんきかん遷都せんとかえしたが、2ねん天平てんぴょう17ねん745ねん)、平城京へいじょうきょうもどるととも大仏だいぶつ造立ぞうりゅう現在げんざい東大寺とうだいじあらためておこなわれることになった。このだい事業じぎょう推進すいしんするには幅広はばひろ民衆みんしゅう支持しじ必要ひつようであったため、朝廷ちょうていから弾圧だんあつされていた行基ぎょうき大僧正だいそうじょうとしてむかえ、協力きょうりょくた。また、天平てんぴょうかちたから元年がんねん749ねん)には鎮守ちんじゅしゃとして手向とうげさん八幡宮はちまんぐう創建そうけんされている。

なん工事こうじすえ、ようやく大仏だいぶつ鋳造ちゅうぞう終了しゅうりょうし、天竺てんじくインド出身しゅっしんバラモン僧正そうじょう菩提ぼだい僊那導師どうしとして大仏だいぶつ開眼かいがんかい(かいげんえ)が挙行きょこうされたのは天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)のことであった。そして、大仏だいぶつ鋳造ちゅうぞうわってから大仏殿だいぶつでん建設けんせつ工事こうじはじめられ、竣工しゅんこうしたのは天平てんぴょうたから2ねん758ねん)であった。

東大寺とうだいじでは大仏だいぶつ創建そうけんちからのあった良弁りょうべん聖武天皇しょうむてんのう行基ぎょうき菩提ぼだい僊那を「四聖しせい(ししょう)」とんでいる。

東大寺とうだいじ橘奈良麻呂たちばなのならまろ

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大仏だいぶつ造立ぞうりゅう大仏殿だいぶつでん建立こんりゅうのようなだい規模きぼ建設けんせつ工事こうじは、国費こくひ浪費ろうひさせ日本にっぽん財政ざいせい事情じじょう悪化あっかさせるという、聖武天皇しょうむてんのうにその自身じしん思惑おもわくとは程遠ほどとお現実げんじつけた。実際じっさいに、貴族きぞく寺院じいんえる一方いっぽう農民のうみんそう負担ふたん激増げきぞうし、平城京へいじょうきょうないでは浮浪ふろうしゃ餓死がししゃこうたず、租庸調そようちょう税制ぜいせい崩壊ほうかい寸前すんぜんになる地方ちほうるなど、律令りつりょう政治せいじおおきな矛盾むじゅんてんりにした。

天平てんぴょうかちたから8さい756ねん)5がつ2にちひじりたけし太上天皇だじょうてんのう崩御ほうぎょする。そのとしの7がつこったのが、橘奈良麻呂たちばなのならまろらんである。7月4にち逮捕たいほされた橘奈良麻呂たちばなのならまろは、藤原ふじわらひさししゅ聴取ちょうしゅたいして「東大寺とうだいじなどを造営ぞうえい人民じんみん辛苦しんくしている。政治せいじ無道むどうだから反乱はんらんくわだてた」と謀反ぼうほん白状はくじょうした。ここで永手ながては、「そもそも東大寺とうだいじ建立こんりゅうはじまったのは、そなたのちち橘諸兄たちばなのもろえ)の時代じだいである。そのくちでとやかくわれる筋合すじあいはいし、それ以前いぜんにそなたとはなん因果いんがもないはずだ」と反論はんろんしたため、奈良なら麻呂まろ返答へんとうまったという。

奈良なら時代じだい 

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奈良なら時代じだい東大寺とうだいじ伽藍がらん模型もけい北側きたがわよりる。奈良なら市役所しやくしょ所蔵しょぞう平城京へいじょうきょう1/1000模型もけい一部いちぶ

奈良なら時代じだい東大寺とうだいじ伽藍がらんは、南大門なんだいもん中門ちゅうもん金堂こんどう大仏殿だいぶつでん)、講堂こうどう南北なんぼく方向ほうこう一直線いっちょくせんならび、講堂こうどう北側きたがわにはひがしきた西にしに「コ」の字形じけいなら僧房そうぼうそう居所きょしょ)、僧房そうぼうひがしには食堂しょくどう(じきどう)があり、南大門なんだいもん中門ちゅうもんあいだ左右さゆうには東西とうざい2ななじゅうとうたかやく70メートル以上いじょう推定すいていされる)が回廊かいろうかこまれてっていた。天平てんぴょう17ねん745ねん)の起工きこうから、伽藍がらんいちとお完成かんせいするまでには40ねんちか時間じかんようしている。

奈良なら時代じだいのいわゆる南都なんとろくむね華厳宗けごんしゅう法相ほうしょうむねりつむねさんろんむねなりじつむね倶舎むね)は「宗派しゅうは」というよりは「学派がくは」にちかいもので、日本にっぽん仏教ぶっきょうで「宗派しゅうは」という概念がいねん確立かくりつしたのは中世ちゅうせい以後いごのことである。そのため、寺院じいんでは複数ふくすう宗派しゅうは兼学けんがくすることが普通ふつうであった。東大寺とうだいじ場合ばあい近代きんだい以降いこう所属しょぞく宗派しゅうは明示めいじする必要ひつようから華厳宗けごんしゅう名乗なの[ちゅう 4]が、奈良なら時代じだいには「ろくむね兼学けんがくてら」とされ、大仏殿だいぶつでんないにはかくむね経論きょうろんおさめた「ろくむね厨子ずし」があった。

平安へいあん時代じだい

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平安へいあん時代じだいはいると、桓武かんむ天皇てんのう南都なんと仏教ぶっきょう抑圧よくあつさくにより「みやつこ東大寺とうだいじしょ」が廃止はいしされるなどの圧迫あっぱくけたが、とうから帰国きこくした空海くうかい別当べっとうとなり寺内てらうち真言しんごんいんひらかれ、空海くうかいつたえた真言宗しんごんしゅう最澄さいちょうつたえた天台宗てんだいしゅうをもくわえて「八宗兼学はっしゅうけんがくてら」とされた。朝夕ちょうせき看経かんきんには、おもむきけいいままれている。華厳経けごんきょうてき世界せかい象徴しょうちょうである毘盧遮那仏びるしゃなぶつ大仏だいぶつ)のまえおもむきけいまれるのは、空海くうかいのこした痕跡こんせきといってよい。

また、講堂こうどう三面さんめん僧房そうぼう失火しっかで、西にしとう落雷らくらい焼失しょうしつしたり、暴風雨ぼうふうう南大門なんだいもん鐘楼しゅろう倒壊とうかいしたりといった事件じけんこるが、のち皇族こうぞく貴族きぞく崇敬すうけいけて黒田くろだそう代表だいひょうされる多数たすう荘園しょうえん寄進きしんされたり、みずか開発かいはつおこなったりし、伽藍がらん復興ふっこうちかられた。やがて南都なんと有力ゆうりょく権門けんもんとして内外ないがいられるようになると、多数たすう僧兵そうへいかかえ、興福寺こうふくじなどととも度々どど朝廷ちょうてい強訴ごうそおこなっている。

中世ちゅうせい以降いこう

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南都なんと焼討やきうちこう再建さいけんされ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんたたかどき焼失しょうしつした2代目だいめ大仏殿だいぶつでん模型もけい
東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん観相かんそうまど唐破風からはふ
[参考さんこう] 絵図えずえがかれた往時おうじ方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん(「はならく一覧いちらん京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかんデジタルアーカイブ 一部いちぶ改変かいへん)
[参考さんこう] 往時おうじきょう大仏だいぶつの1/10のおおきさのぞうつたわる、現在げんざい方広寺ほうこうじ本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ座像ざぞう[6]
[参考さんこう] エンゲルベルト・ケンペル方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ(きょう大仏だいぶつ)のスケッチ(だいえい博物館はくぶつかん所蔵しょぞう) [7] ケンペルは方広寺ほうこうじ大仏だいぶつについて日記にっきに「これまでたことのないほどおおきさで、全身ぜんしん金色きんいろである」ときしている[8]

東大寺とうだいじ近隣きんりん興福寺こうふくじともうけたまわ4ねん12月28にち1181ねん1がつ15にち)の平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうち兵火へいか壊滅かいめつてき打撃だげきけ、大仏殿だいぶつでんはじめとするおおくの堂塔どうとううしなった。こののち東大寺とうだいじ本格ほんかくてき復興ふっこうおこなわれることとなり、こう白河しらかわ法皇ほうおう当時とうじ61さいそうしゅんじょうぼうじゅうみなもと(ちょうげん)をだい勧進かんじんしょく任命にんめいし、大仏だいぶつしょどう再興さいこうたらせた。じゅうげん精力せいりょくてき活動かつどうおよ平家へいけわり政権せいけんにぎったみなもと頼朝よりとも援助えんじょにより再建さいけん着々ちゃくちゃくすすみ、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)にはこう白河しらかわ法皇ほうおうらの列席れっせきした大仏だいぶつ開眼かいがん法要ほうようが、いでたてひさ元年がんねん1190ねん)には上棟じょうとうしきおこなわれた。けんひさ6ねん1195ねん)には再建さいけん大仏殿だいぶつでん完成かんせいみなもと頼朝よりともらの列席れっせきした落慶らっけい法要ほうよういとなまれた。

その戦国せんごく時代じだいえいろく10ねん1567ねん)10がつ10日とおか三好みよしさんにんしゅ松永まつなが久秀ひさひでによる東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんたたか兵火へいかにより、大仏殿だいぶつでんふく東大寺とうだいじ主要しゅよう堂塔どうとうはまたも焼失しょうしつした。天正てんしょう元年がんねん1573ねん)9がつ織田おだ信長のぶなが東大寺とうだいじ戦乱せんらんむことと乱暴らんぼう狼藉ろうぜきはたらものたいしての厳罰げんばつ通達つうたつする書状しょじょうしている[9]

信長のぶながあと天下てんかじんになった豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、天正てんしょう14ねん1586ねん)に、焼損しょうそんした東大寺とうだいじ大仏だいぶつわるあらたな大仏だいぶつ造立ぞうりゅう発願ほつがん[10]京都きょうと方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)が造立ぞうりゅうされたが、秀吉ひでよし東大寺とうだいじ大仏だいぶつ再建さいけんへの着手ちゃくしゅおこなわなかった。南都なんとちしたたいら政権せいけんたおしたみなもと頼朝よりともが、早急そうきゅう東大寺とうだいじ大仏だいぶつ再建さいけんへの援助えんじょおこなったこととは対照たいしょうてきである。方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ東大寺とうだいじ大仏だいぶつわる大仏だいぶつとして発願ほつがんされたため、豊臣とよとみ秀頼ひでよりだいには、寺号じごうを「東大寺とうだいじ」とする(方広寺ほうこうじ東大寺とうだいじ継承けいしょう寺院じいんとする)ことも企図きとされ、朝廷ちょうていとの協議きょうぎがなされた[11]。このけんは、大坂おおさかじんやぶれた豊臣とよとみ滅亡めつぼうえとなった。

東大寺とうだいじ破損はそんした大仏だいぶつ応急おうきゅう処置しょちとして、けた大仏だいぶつ頭部とうぶあらたに銅板どうばんかりあたま作成さくせいしてけ、かり大仏殿だいぶつでんもなんとかてていたが、慶長けいちょう15ねん1610ねん)に暴風ぼうふうかり大仏殿だいぶつでん倒壊とうかいした。以降いこう大仏だいぶつ露座ろざのまま放置ほうちされることになった。

豊臣とよとみ滅亡めつぼうし、江戸えど幕府ばくふ全国ぜんこく支配しはい確立かくりつしてからも、幕府ばくふによる東大寺とうだいじ大仏だいぶつ再建さいけん企図きとぐにはなされなかった。一方いっぽう方広寺ほうこうじ大仏だいぶつきょう大仏だいぶつ)・大仏殿だいぶつでん修繕しゅうぜん工事こうじには積極せっきょくてき江戸えど幕府ばくふ関与かんよしている。これは朝鮮ちょうせん通信使つうしんし旅程りょてい方広寺ほうこうじまれており、日本にっぽんがわ体面たいめん保持ほじ国威こくい発揚はつよう意図いとがあったものとされる[12](1719ねんだい9かい朝鮮ちょうせん通信使つうしんしが、方広寺ほうこうじ秀吉ひでよし造立ぞうりゅうしたてらであること、また秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいにおける朝鮮ちょうせん戦死せんししゃ耳鼻じび埋葬まいそうしたみみづか門前もんぜんにあることを理由りゆうに、方広寺ほうこうじ訪問ほうもん拒絶きょぜつしトラブルに発展はってんしたことを契機けいきとして、方広寺ほうこうじ朝鮮ちょうせん通信使つうしんし旅程りょていからはずされた)。

寛文ひろふみ2ねん1662ねん)の寛文ひろふみ近江おうみ若狭わかさ地震じしん方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ損壊そんかいしたさいも(地震じしん発生はっせいまえから、経年けいねん劣化れっかなどですで大仏だいぶつ損壊そんかいしていたとするせつもある[13][14])、銅像どうぞうから木像もくぞうあらためられてしまったが、江戸えど幕府ばくふ主導しゅどう早急そうきゅう再建さいけんがなされた[12]

平家へいけ南都なんと焼討やきうちによる東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつさい早急そうきゅう再建さいけんがなされたが、えいろく10ねん(1567ねん)の東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつはその再建さいけん遅々ちちとしてすすまなかった。その原因げんいんについて、江戸えど時代じだいには方広寺ほうこうじ往時おうじ東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん匹敵ひってきする規模きぼのそれがすで造立ぞうりゅうされており、そう民衆みんしゅうあいだ東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん復興ふっこうさせようとする機運きうん世論せろん)がたかまりにくかったというてんがある。しかし1600年代ねんだい後半こうはんに、東大寺とうだいじそうおおやけけいがり、東大寺とうだいじ大仏だいぶつ修理しゅうり大仏殿だいぶつでん復興ふっこうおこなおうと勧進かんじんはじめると、おおくの人々ひとびとからの喜捨きしゃけて、まず大仏だいぶつ修理しゅうりからおこなわれることになった。修理しゅうり元禄げんろく4ねん1691ねん)に完成かんせいし、翌年よくねんには大仏だいぶつ開眼かいがん供養くようおこなわれた。おおやけけいつづいて大仏殿だいぶつでん再建さいけん着手ちゃくしゅしようと江戸えど幕府ばくふだい5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしやそのははかつらあきらいん謁見えっけんし、多額たがく寄進きしんけた。こうしたこともあって大仏殿だいぶつでん宝永ほうえい6ねん1709ねん)につい完成かんせいした。

現存げんそんする3代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんは、たかさと奥行おくゆきは天平てんぴょう時代じだいとほぼおなじだが、間口まぐち天平てんぴょう創建そうけんの11あいだからおよそ3ぶんの2の7あいだ縮小しゅくしょうされている。3代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん従前じゅうぜん大仏殿だいぶつでんとは外観がいかんおおきくことなるてんおおい(どうがいから大仏だいぶつかお拝顔はいがんできるようにする観相かんそうまど採用さいよう観相かんそうまど上部じょうぶ唐破風からはふ設置せっちなど)。どう時代じだい存在そんざいしていた方広寺ほうこうじ2代目だいめ大仏殿だいぶつでん設計せっけい今日きょう現存げんそんしているが、それと現存げんそんする3代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん見比みくらべると、間口まぐち建物たてものよこはば)がげんじられていること以外いがいはほぼ建物たてもの外観がいかんふりふたつであることがかる。これは東大寺とうだいじ2代目だいめ大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつからひゃくすうじゅうねん経過けいかし、それの技法ぎほうならうことはむずかしいが、どう時代じだいには方広寺ほうこうじ2代目だいめ大仏殿だいぶつでん京都きょうと存在そんざいしており、おおやけけいなど東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん再建さいけんたったものたちが、それの意匠いしょう技法ぎほう参考さんこうにしたためではないかとかんがえられている[15]。またその根拠こんきょとして以下いかもある。東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん内部ないぶもうけられている売店ばいてん上方かみがたかべに、江戸えど時代じだい東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん再建さいけんにあたり作成さくせいされた設計せっけい図面ずめんである、巨大きょだいな『東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんけん地割じわりいた』がかざられている。上記じょうき経年けいねん劣化れっかのため図面ずめんめなくなっていたが、赤外線せきがいせん撮影さつえいによる調査ちょうさおこなったところ大仏殿だいぶつでん計画けいかく間口まぐち11あいだから7あいだ縮小しゅくしょうする以前いぜんの、当初とうしょ設計せっけい図面ずめんであることが判明はんめいした。上記じょうき図面ずめん現存げんそん東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん意匠いしょう構造こうぞうよりも、より方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでんのそれに近似きんじしており、建築けんちく学者がくしゃ黒田くろだ龍二りゅうじは「(東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんけん地割じわりいたは)方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん参考さんこう東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん再建さいけんのための雛形ひながたとしてえがかれたとかんがえるのが妥当だとうである」としている[3]。また現在げんざい方広寺ほうこうじ本尊ほんぞん盧舎那仏るしゃなぶつ座像ざぞう往時おうじ大仏だいぶつの1/10のおおきさのぞうとされるが、それの光背こうはい意匠いしょうは、現存げんそん東大寺とうだいじ大仏だいぶつ光背こうはい意匠いしょうきわめて近似きんじしているので、大仏だいぶつ光背こうはい意匠いしょうについても、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつのそれにならったものではないかとするせつもある。

2代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつに「2代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつ初代しょだい方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん造立ぞうりゅう焼失しょうしつ→2代目だいめ方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん造立ぞうりゅう→3代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん造立ぞうりゅう」と年数ねんすうがさほどくことなく、大仏殿だいぶつでん日本にっぽん存在そんざいつづけていたことは、大仏殿だいぶつでん造立ぞうりゅう技法ぎほう継承けいしょうされるじょう好事こうじとなった。またたん技法ぎほう継承けいしょうされるだけでなく、あらたな技法ぎほう確立かくりつ建築けんちく意匠いしょう改良かいりょうもなされ、3代目だいめ東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんはしらざいについて、寄木よせぎざい(鉄輪てつりん固定こていした集成しゅうせいざい)となっているが、この技法ぎほうは2代目だいめ方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん確立かくりつされたものとされ[16]東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんにもれられたとされる。豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる方広寺ほうこうじ初代しょだい大仏殿だいぶつでん造営ぞうえいに、日本にっぽん各地かくちはしらざいてきした巨木きょぼくおお伐採ばっさいしてしまったため、森林しんりん資源しげん枯渇こかつしたようであり、苦肉くにくさくえる[16]

なお今回こんかい復興ふっこうでも講堂こうどう食堂しょくどう東西とうざいななじゅうとうなどは再建さいけんされることはなかった。いまかく建物たてものあと礎石そせきだんのこされているのみである[ちゅう 5]

宝永ほうえい6ねん1709ねん)から寛政かんせい10ねん(1798ねん)までは、奈良なら東大寺とうだいじ)と京都きょうと方広寺ほうこうじ)に、大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんそうたたしていた。江戸えどにおいては方広寺ほうこうじ大仏だいぶつほうが、規模きぼ大仏だいぶつたかさ、大仏殿だいぶつでんたかさ・面積めんせき)で上回うわまわっていた。これは先述せんじゅつのように豊臣とよとみ秀吉ひでよし発願ほつがんしたもので、秀吉ひでよし造立ぞうりゅうした初代しょだい大仏だいぶつ豊臣とよとみ秀頼ひでより造立ぞうりゅうした2代目だいめ大仏だいぶつ江戸えど時代じだい再建さいけんの3代目だいめ大仏だいぶつと、新旧しんきゅう3だい大仏だいぶつられるが、それらは文献ぶんけん記録きろく(『』『名所めいしょ図会ずえとう)によれば、6たけ3しゃくやく19m)とされ、再建さいけんされ現存げんそん東大寺とうだいじ大仏だいぶつたかさ(14.7m)を上回うわまわり、大仏だいぶつとしては日本一にっぽんいちたかさをほこっていた。『東海道とうかいどうちゅう膝栗毛ひざくりげ』では弥次喜多やじきた大仏だいぶつ見物けんぶつして威容いようおどろき「のひらにたたみはちまいける」「はなあなから、かさをさしたひと出入でいりできる」とその巨大きょだいさが描写びょうしゃされる場面ばめんがあるが、そこでえがかれているのは、東大寺とうだいじ大仏だいぶつではなく、方広寺ほうこうじ大仏だいぶつである [17]。なお初版しょはん刊行かんこうの1802ねんには、後述こうじゅつのように大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんすで焼失しょうしつしている [17]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき国学こくがくしゃほんきょ宣長のりながは、双方そうほう大仏だいぶつ実見じっけんしており、東大寺とうだいじ大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんについて「きょうのよりはやや(大仏だいぶつ)殿どのはせまく、(だいふつもすこしちいさくたま[18]」「どう大仏殿だいぶつでん)もきょうのよりはちいさければ、たかくみえてかっこうよし[18][東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでんよりもよこはば間口まぐち)がせまいので、視覚しかく効果こうかたかえて格好かっこういのか?]」「ところのさま(立地りっち周囲しゅうい景色けしき)は、きょう大仏だいぶつよりもはるかにけいよきところ[18]」という感想かんそうを、在京ざいきょう日記にっきのこしている。一方いっぽう方広寺ほうこうじ大仏だいぶつについては「此仏(大仏だいぶつ)のおほき(たいき)なることは、いまさらいふもさらなれど、いつまつりても、めおとろく(おどろく)ばかり也[19]」としるしている。

方広寺ほうこうじの3代目だいめ大仏だいぶつ寛政かんせい10ねん(1798ねん)まで存続そんぞくしていたが、落雷らくらい焼失しょうしつした。

明治めいじ時代じだいとなり神仏しんぶつ分離ぶんりおこなわれると、鎮守ちんじゅしゃ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう東大寺とうだいじから独立どくりつした。

東大寺とうだいじ辞典じてん』によれば現存げんそんする塔頭たっちゅうは18いんであるが、このなかにはてらせきのみあって、独立どくりつした堂宇どううをもたないものもある。真言しんごんいん知足ちそくいんのほか、大仏殿だいぶつでん北東ほくとうりゅうまついん龍蔵りゅうぞういんもちたからいんたからいわおいん大仏殿だいぶつでん東側ひがしがわ宝珠ほうしゅいん中性ちゅうせいいん上之うえのぼう観音かんのんいん南大門なんだいもん西側にしがわ東大寺とうだいじ福祉ふくし療育りょういく病院びょういん隣接りんせつして北林きたのはやしいん地蔵じぞういんせいかんいんがある。惣持そうじいん清涼せいりょういん勧進かんじんしょ所在しょざい上生わぶいんしんぜんいんきむこといんてらせきのみのこっている。

大仏殿だいぶつでん金堂こんどう

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若草山わかくさやまよりのぞ大仏殿だいぶつでん
大仏だいぶつ東側ひがしがわより)
大仏殿だいぶつでんでの放水ほうすい訓練くんれん

国宝こくほう当初とうしょ大仏だいぶつ盧舎那仏るしゃなぶつおよび大仏殿だいぶつでんは、聖武天皇しょうむてんのう発願ほつがんにより、8世紀せいきつくられたものであったが、その2兵火へいかち、現存げんそんする大仏殿だいぶつでん江戸えど時代じだい再建さいけん大仏だいぶつ台座だいざそであしなどの一部いちぶ当初とうしょ部分ぶぶんのこすのみで、からだだい部分ぶぶん中世ちゅうせいさく頭部とうぶ江戸えど時代じだいさくである。

聖武天皇しょうむてんのう天平てんぺい15ねん743ねん)、大仏だいぶつ造立ぞうりゅうみことのりはっした。当初とうしょむらさきかおりらくみやちかくの甲賀こうがてら造立ぞうりゅうはじまった大仏だいぶつは、その現在地げんざいち奈良ならあらためて造立ぞうりゅう開始かいし天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)に開眼かいがん供養くようおこなわれた。うけたまわ4ねん1181ねん)の南都なんと焼討やきうち兵火へいか大仏殿だいぶつでん焼失しょうしつ大仏だいぶつ台座だいざ下半身かはんしん一部いちぶのこしてちた。その大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんじゅうみなもと尽力じんりょくにより再興さいこうされ、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)に大仏だいぶつ開眼かいがん供養くようたてひさ元年がんねん1190ねん)には大仏殿だいぶつでん上棟じょうとうしきたてひさ6ねん1195ねん)には大仏殿だいぶつでん落慶らっけい供養くようおこなわれた。この鎌倉かまくら復興ふっこう大仏だいぶつえいろく10ねん1567ねん)の東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんたたかによってふたた炎上えんじょうした。大仏殿だいぶつでん再建さいけんはすぐには実施じっしされず、大仏だいぶつかり修理しゅうり状態じょうたいのまま、露座ろざすうじゅうねん経過けいかしたが、江戸えど時代じだいになっておおやけけい上人しょうにん尽力じんりょくにより大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでんとも復興ふっこうした。現存げんそんする大仏だいぶつ頭部とうぶ元禄げんろく3ねん1690ねん)に鋳造ちゅうぞうされたもので、元禄げんろく5ねん1692ねん)に開眼かいがん供養くようおこなわれている。大仏殿だいぶつでん宝永ほうえい6ねん1709ねん)に落慶らっけいしたものである。

文化ぶんか3ねん1806ねん)、下層かそう屋根やねがそのおもみにえられず波打なみうってがってきたために屋根やねささえる支柱しちゅうもうけている。1877ねん明治めいじ10ねんごろから修理しゅうり計画けいかく検討けんとうされるがなかなかおこなうことができず、本格ほんかくてき修理しゅうりほどこされたのは1906ねん明治めいじ39ねん)からであった。そのさいだい屋根やねささえるにじイギリスせい鉄骨てっこつトラスまれている。1915ねん大正たいしょう4ねん)、大仏殿だいぶつでん落慶らっけい供養くようおこなわれた。

大仏殿だいぶつでんよせとうづくりほん瓦葺かわらぶき。2かいてにえるが、構造こうぞうてきにはいちじゅうかい(もこし)きで、正面しょうめん5あいだ側面そくめん5あいだしゃ(もや)の周囲しゅういに1あいだかいまわしている。間口まぐち57メートル、奥行おくゆき50.5メートル、たかさ46.8メートルで、奥行おくゆきたかさは創建そうけんとほぼわりないが、間口まぐちやく3ぶんの2に縮小しゅくしょうされている。建築けんちく様式ようしきは、鎌倉かまくら時代じだいそう建築けんちく様式ようしきれて成立せいりつしただい仏様ほとけさま(だいぶつよう)が基本きほんになっており、水平すいへい方向ほうこうつらぬけ(ぬき)を多用たようするのが特色とくしょくである。豊臣とよとみ秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀頼ひでより父子ふしによる、初代しょだい・2代目だいめ方広寺ほうこうじ大仏殿だいぶつでん相次あいつ造営ぞうえいによって、はしらざいてきした巨木きょぼく多数たすう伐採ばっさいしてしまっており、このころにはすできょざい調達ちょうたつ困難こんなんであったため、はしらしんざい周囲しゅういおけじょうべつざいきつけた集成しゅうせいざいもちいられている。なお、しばしば「世界せかい最大さいだい木造もくぞう建築けんちくぶつ」として言及げんきゅうされるが、20世紀せいき以降いこう近代きんだいてき工法こうほうてられた木造もくぞう建築けんちくには、大仏殿だいぶつでん上回うわまわ規模きぼのものが存在そんざいする(ティラムーク航空こうくう博物館はくぶつかん、メトロポール・パラソルなど)。

大仏だいぶつ左右さゆうにはわきさむらいとして木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのん坐像ざぞう虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ坐像ざぞう安置あんちどうない北西ほくせい北東ほくとうすみには四天王してんのうのうちの広目天こうもくてんぞう多聞天たもんてんぞう安置あんちする。いずれも江戸えど時代じだい復興ふっこうぞうである。四天王してんのうのうちのこりの2たい持国天じこくてん増長天ぞうちょうてん)は完成かんせいわり、両像りょうぞう頭部とうぶのみが大仏殿だいぶつでんないかれている。どうないにはに、大仏だいぶつまえたかさ207cmのどうせいだいはなびんいている8ほんあし揚羽蝶あげはちょう有名ゆうめいで、元禄げんろく5ねん開眼かいがん供養くようかい池坊いけのぼう門弟もんてい猪飼いかい三枝みえ藤掛ふじかけすいりょう一門いちもんより、やく9mの立花りっかくち奉納ほうのうされたが、かい藤掛ふじかけすいからはなびんどうはちすけられふつはなとして寄贈きぞうされた[20]。この8ほんあし揚羽蝶あげはちょうおお話題わだいになるが、東大寺とうだいじでは「てらつくったものではなく、寄贈きぞうひん意味いみからない」とこたえている。また、1909ねん明治めいじ42ねん)のにちえい博覧はくらんかいよう製作せいさくされた、東大寺とうだいじきゅう伽藍がらん模型もけいがある。

大仏だいぶつ盧舎那仏るしゃなぶつぞう
国宝こくほう指定してい名称めいしょうは「どうづくり盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう金堂こんどう安置あんち)1」。ぞうだかは14.7メートルである。大仏だいぶつは『華厳経けごんきょう』に盧舎那仏るしゃなぶつというほとけである。盧舎那仏るしゃなぶつは「蓮華れんげぞう世界せかい」(『華厳経けごんきょう』の世界せかいかん)の中心ちゅうしん位置いちし、だい宇宙うちゅう存在そんざいそのものを象徴しょうちょうするほとけである。
木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのん坐像ざぞう虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
大仏だいぶつ左右さゆうわきさむらいとして安置あんちされる。これらのぞう大仏だいぶつどうづくり)とはことなり木造もくぞうよせ木造もくぞうである。だい勧進かんじん公俊きみとし時代じだい京都きょうと仏師ぶっし山本やまもと順慶じゅんけい一門いちもんと、大坂おおさか仏師ぶっし椿井つばいけんけい一門いちもんらにより、30すうねんをかけて製作せいさくされたもので、江戸えど時代じだい代表だいひょうてき仏教ぶっきょう彫刻ちょうこくである。如意輪観音にょいりんかんのんぞうもとぶん3ねん1738ねん)ごろの完成かんせい虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつぞうおくれてたかられき2ねん1752ねん)の完成かんせい
金銅かなどう八角はっかく燈籠どうろう国宝こくほう
大仏殿だいぶつでん正面しょうめん燈籠とうろう総高そうだか464センチ。たびたび修理しゅうりされているが、基本きほんてきには奈良なら時代じだい創建そうけんのものである。火袋ひぶくろ四方しほうとびらけた八角はっかくがたで、とびらの4めんにはくもちゅうける4とう獅子ししが、の4めんにはそれぞれことなる楽器がっき横笛よこぶえ尺八しゃくはち鈸子しょう)をそうする音声おんせい菩薩ぼさつ(おんじょうぼさつ)が、鉄格子てつごうし唐草からくさ文様もんようかしうえ浮彫うきぼりあらわされている。なお、竿ざお部分ぶぶんにはもえとうほとけ功徳くどくなどをいた経典きょうてん一部いちぶきざまれている[21]。4めん羽目板はめいたのうち西北せいほくめん西南せいなんめん当初とうしょのもので、東北とうほくめんひがし南面なんめんレプリカである。東北とうほくめん羽目板はめいた1962ねん昭和しょうわ37ねん)に盗難とうなんうも直後ちょくご発見はっけんされたが、そのはオリジナルは別途べっと保管ほかんし、燈籠とうろうにはレプリカをけている。東南とうなんめん羽目板はめいたのオリジナルははやくに紛失ふんしつした[22]

南大門なんだいもん国宝こくほう

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南大門なんだいもん
仁王におうぞううんがた
仁王におうぞう阿形あがた

国宝こくほう平安へいあん時代じだいおう2ねん962ねん)8がつ台風たいふう倒壊とうかい鎌倉かまくら時代じだい正治しょうじ元年がんねん1199ねん)に復興ふっこうされたもの。東大寺とうだいじ中興ちゅうこうであるしゅんじょうぼうじゅうげんそうからつたえた建築けんちく様式ようしきといわれるだい仏様ほとけさま(だいぶつよう、天竺てんじくさまともいう)を採用さいようした建築けんちくとして著名ちょめいである。だい仏様ほとけさま特色とくしょくは、ぬきばれる、はしら貫通かんつうする水平すいへいざい多用たようして構造こうぞう堅固けんごにしていること、天井てんじょうらずに構造こうぞうざいをそのまませて装飾そうしょくとしていることなどがげられる。門内かどうち左右さゆうには金剛力士こんごうりきし仁王におうぞう石造せきぞう獅子じし1たい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。上層じょうそう正面しょうめん中央ちゅうおうには「だい華厳けごんてら」とかれた扁額へんがくかかげられている。これはふる記録きろくにそのような扁額へんがくがあったとかれていたことにもとづき、2006ねん平成へいせい18ねん10がつ10日とおかおこなわれた「じゅうげん上人しょうにんはちひゃくねん遠忌えんき法要ほうよう」にわせて新調しんちょうされたものである。

木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう国宝こくほう
たかさ8.4メートルの巨大きょだい木像もくぞうたてひとし3ねん1203ねん)にわずか69にちつくられた。もんかってみぎうんがた(うんぎょう、くちじたぞう)、ひだり阿形あがた(あぎょう、くちひらいたぞう)を安置あんちする。これは一般いっぱんてき仁王におうぞう安置あんち方法ほうほうとは左右さゆうぎゃくである。
東大寺とうだいじ別当べっとう次第しだい』という史料しりょうにより、ほんぞうたてひとし3ねん(1203ねん)、大仏だいぶつ運慶うんけい備中びっちゅう法橋ほっきょう湛慶たんけい)、やす阿弥陀あみだぼとけ快慶かいけい)、越後えちご法橋ほっきょうていさとし)によって造立ぞうりゅうされたことが従来じゅうらいからられており、阿形あがたぞううん形像けいぞう作風さくふうちがいから、前者ぜんしゃ快慶かいけい後者こうしゃ運慶うんけいおもとなって制作せいさくしたとかんがえられていた[23]1988ねん昭和しょうわ63ねん)から1993ねん平成へいせい5ねん)にかけてみやつこぞう以来いらいはじめての解体かいたい修理しゅうり実施じっしされ、ぞうないからは多数たすう納入のうにゅうひん墨書ぼくしょ発見はっけんされた。阿形あがたぞう持物もちもの金剛こんごうきね内面ないめんには、たてひとし3ねん年紀としのりとともに「大仏だいぶつ法眼ほうげん運慶うんけい」「अं〔アン、梵字ぼんじ阿弥陀あみだほとけ」(快慶かいけいのこと)のしるされ、うん形像けいぞうぞうない納入のうにゅうされていた『たから篋印陀羅尼だらにけい』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書おくがきには大仏だいぶつとして「ていさとし」「湛慶たんけい」のしょう仏師ぶっし12めいしるされていた[24]運慶うんけい制作せいさくそう指揮しきたったとするてんでは研究けんきゅうしゃ意見いけん一致いっちしているが、阿形あがたぞううん形像けいぞう現場げんばでの制作せいさく運慶うんけい快慶かいけいていさとし湛慶たんけいがどのように分担ぶんたんしたかについては解釈かいしゃくかれている[25]
石造せきぞう獅子ししぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
南大門なんだいもん北面ほくめん東西とうざいあいだ安置あんちされている。けんひさ7ねん1196ねん)にそうじんろくろう作製さくせいもと大仏殿だいぶつでん中門ちゅうもんかれていたが、室町むろまち時代じだい南大門なんだいもんうつされた。記録きろくでは、日本にっぽん石材せきざいではみやつこぞう困難こんなんであったため、そうより石材せきざい購入こうにゅうした。元々もともと彩色さいしきほどこされていたようで、現在げんざいでもわずかに痕跡こんせきのこっている。台座だいざ牡丹ぼたんぶん蓮華れんげぶん獅子ししなどの浮彫うきぼりには、じゅうげん伊賀いが別所べっしょしん大仏だいぶつてら所在しょざい石造せきぞう台座だいざ共通きょうつうする要素ようそ確認かくにんされる[21]

がつどう

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がつどう

国宝こくほう旧暦きゅうれき2がつに「みず」(修二しゅうじかい)がおこなわれることからこのがある。がつどううけたまわ4ねん(1181ねん)、えいろく10ねん(1567ねん)の2かい大火たいかにものこったとされているが、寛文ひろふみ7ねん1667ねん)、おみずりの最中さいちゅう失火しっか焼失しょうしつし、2ねん再建さいけんされたのが現在げんざい建物たてものである。本尊ほんぞん大観たいかんおん(おおがんのん)、しょう観音かんのん(こがんのん)とばれる2たいじゅういちめん観音かんのんぞうで、どちらも何人なんにんることをゆるされない絶対ぜったい秘仏ひぶつである。建物たてもの2005ねん平成へいせい17ねん)12月、国宝こくほう指定していされた。

建物たてもの西側にしがわ急斜面きゅうしゃめんになっており、懸崖けんがいづくてられている。ひがし山側やまがわには遠敷おにゅう神社じんじゃ(おにゅうじんじゃ)とめしどう神社じんじゃ(いいみちじんじゃ)があり、西側にしがわがけには参籠さんろうしょ(さんろうしょ)、ふつ餉屋(ぶっしょうのや)(ともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、きょうなりしゃ(こうじょうしゃ)がてられている。また、おみずりをおこな井戸いど若狭わかさ(わかさい))のための閼伽重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がある。がつどう周辺しゅうへん上院じょういんともばれる。

法華ほっけどうさんがつどう

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法華ほっけどうさんがつどう
乾漆かんしつ不空ふくう羂索観音かんのん立像りつぞう 法華ほっけどうさんがつどう安置あんち左右さゆう日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつぞうは2011ねん東大寺とうだいじミュージアムに移動いどう

国宝こくほう境内けいだい東方とうほう若草山わかくさやまふもとにある。東大寺とうだいじのこ数少かずすくない奈良なら時代じだい建築けんちくひとつであり、天平てんぺいふつ宝庫ほうことしてられる。創建そうけん当時とうじは羂索どう(けんさくどう)とばれ、東大寺とうだいじ前身ぜんしん寺院じいんであるきむかねてら(こんしゅじ)のどうとしててられたもので、創建そうけん時期じき天平てんぴょう12ねん740ねん)からどう20ねん748ねんごろ推定すいていされている。建物たてもの北側きたがわ参道さんどうがわからかって左側ひだりがわ)の、仏像ぶつぞう安置あんちされているよせとうづくり部分ぶぶん正堂せいどう(しょうどう)、南側みなみがわ入母屋いりもやづくり部分ぶぶんれいどう(らいどう)とぶ。正堂せいどう奈良なら時代じだい建築けんちくれいどう奈良なら時代じだいにも存在そんざいしたが、現在げんざいあるものは鎌倉かまくら時代じだい正治しょうじ元年がんねん1199ねんごろ異説いせつもある)に付加ふかしたものである。どうないには本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのん(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像りつぞう梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう金剛力士こんごうりきしみつ迹力(みっしゃくりきし)立像りつぞう四天王してんのう立像りつぞうけい9たい乾漆かんしつぞう麻布まふうるしがためたじょうぞう)と、塑造の金剛こんごうしん(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像りつぞう安置あんちする(いずれも奈良なら時代じだい)。に塑造の日光にっこう月光げっこう(がっこう)菩薩ぼさつ立像りつぞう吉祥天きちじょうてん弁財天べざいてん立像りつぞうなどのしょふつ安置あんちされていたが、これらは2011ねん平成へいせい23ねん)から東大寺とうだいじミュージアムに移動いどうしている。諸仏しょぶつこまかい製作せいさく年代ねんだい当初とうしょ安置あんちじょうきょうについては諸説しょせつある。

乾漆かんしつ不空ふくう羂索観音かんのん立像りつぞう国宝こくほう
奈良なら時代じだいたかさ3.62メートル。さんはちひじがくたてだい3のがあり、8ほんうでつ)の観音かんのんぞうで、法華ほっけどう本尊ほんぞんとして内陣ないじん中央ちゅうおう須弥壇しゅみだんじょう安置あんちされている。頭上ずじょう宝冠ほうかんは、正面しょうめん銀製ぎんせい阿弥陀如来あみだにょらいぞうかざり、すうおおくの宝石ほうせきかしりでかざった華麗かれいなもので、普段ふだんちかくでることはできないが、奈良なら時代じだい工芸こうげい優品ゆうひんとしてられる。
塑造金剛こんごう神立かんだつぞう国宝こくほう
たかさ1.704メートル。本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのん背後はいご厨子ずしきたきに安置あんちされる。右手みぎて金剛こんごうきね(こんごうしょ、仏敵ぶってきはら武器ぶき)をち、げて威嚇いかくする武神ぶしんぞうである。ながらく秘仏ひぶつであったため、当初とうしょ彩色さいしきがよくのこる。金剛こんごうしんとは、仁王におうぞうを1たいあらわしたもの。ほんぞう東大寺とうだいじ開山かいさん初代しょだい住職じゅうしょく良弁りょうべん念持仏ねんじぶつつたえ、平将門たいらのまさかど伝説でんせつでもられる古来こらい著名ちょめいぞうである。伝説でんせつによれば、平将門たいらのまさかど東国とうごくらんこしたとき、このぞうたぶさ(もとどり、結髪けっぱつ)をむすんでいる元結もとゆいひも(もとゆいひも)のはしはちとなってり、将門まさかどしてくるしめたという(『日本にっぽん霊異れいい』)。たしかに、ほんぞう元結もとゆいひもいま片側かたがわかけしっしている。秘仏ひぶつであり、良弁りょうべん命日めいにちである12月16にちのみ公開こうかいされる。

以下いかの8しょほとけ安置あんちする。

  • 乾漆かんしつ梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう国宝こくほう
  • 乾漆かんしつ金剛力士こんごうりきし立像りつぞう 2国宝こくほう
  • 乾漆かんしつ四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう

伽藍がらん

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東大寺とうだいじ 伽藍がらん
戒壇かいだんいん戒壇かいだんどう
うたてがいもん国宝こくほう
しゅんじょうどう
中門ちゅうもん

東大寺とうだいじ境内けいだい平城京へいじょうきょうそときょうひがしはし区切くぎひがしななぼう大路おおじげん国道こくどう169ごう)を西端せいたんとし、西南せいなん興福寺こうふくじ境内けいだいせっしていた。 南大門なんだいもんはいって参道さんどうすすむと、正面しょうめん中門ちゅうもん南中なんちゅうもん)、そのさき大仏殿だいぶつでん正式せいしきには「金堂こんどう」)がある。大仏殿だいぶつでんまえには東大寺とうだいじ創建そうけん当時とうじ造立ぞうりゅうされた八角はっかく灯籠どうろうがある。中門ちゅうもんからは東西とうざい回廊かいろうび、大仏殿だいぶつでん左右さゆうたっしている。回廊かいろうは、現在げんざい大仏殿だいぶつでん南側みなみがわにしかないが、当初とうしょ北側きたがわにも回廊かいろうがあり、回廊かいろう北面ほくめん中央ちゅうおうには「きた中門ちゅうもん」があった。

南大門なんだいもんから中門ちゅうもんへの参道さんどう東側ひがしがわには東大寺とうだいじほんぼうがあり、反対はんたい西側にしがわには東大寺とうだいじ福祉ふくし療育りょういく病院びょういんなどがある。大仏殿だいぶつでん東方とうほうにはしゅんじょうどう行基ぎょうきどう念仏ねんぶつどう鐘楼しゅろうなどがあり、そのさらに東方とうほう山麓さんろくは「上院じょういん(じょういん)」とばれる地区ちくで、開山かいさんどう三昧ざんまいどうよんがつどう)、がつどう法華ほっけどうさんがつどう)などがあり、そのみなみには鎮守ちんじゅ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう東大寺とうだいじとはべつ法人ほうじん)がある。

大仏殿だいぶつでん西方せいほうには指図さしずどう(さしずどう)、勧進かんじんしょ戒壇かいだんいんなどがある。大仏殿だいぶつでん北方ほっぽう、やや西にしりにはせいくらいん校倉あぜくらづくり宝庫ほうこ鉄筋てっきんコンクリートづくりひがし宝庫ほうこ西宝さいほうがある。なお、せいくらいん建物たてもの宝物ほうもつ国有こくゆう財産ざいさんで、宮内庁くないちょう正倉院事務所しょうそういんじむしょ管理かんりしている。境内けいだい西北せいほくはしには奈良なら時代じだい遺構いこうであるてんがいもん(てがいもん)がある

かつてはこれら以外いがいにもおおくの堂塔どうとう存在そんざいした。大仏殿だいぶつでんきたには講堂こうどう僧坊そうぼうがあり。これらのひがしには食堂しょくどう(じきどう)があった。僧坊そうぼう講堂こうどうきたひがし西にしの3めんにコの字形じけいもうけられたので「三面さんめん僧坊そうぼう」としょうした。大仏殿だいぶつでん手前てまえ東西とうざいにはひがしとう西にしとう(いずれもななじゅうとう)があった。これらのとうは、周囲しゅうい回廊かいろうかこまれ、回廊かいろう東西とうざい南北なんぼく4かしょもんもうけた「とういん」を形成けいせいしており、てられいをみない規模きぼのものであった。西にしひがしななぼう大路おおじめんしては3つのもんひらかれていたが、このうちきたもんのみが現存げんそんする(前述ぜんじゅつてんがいもん)。

毎年まいとし1がつ1にちの0から8までのあいだ中門ちゅうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がひらかれ、金堂こんどう大仏殿だいぶつでん国宝こくほうない無料むりょういれどうできる(通常つうじょういれどうりょう大人おとな500えん小人こども300えん)。参拝さんぱい午前ごぜん7時半じはんからけている。

  • 大仏殿だいぶつでん金堂こんどう国宝こくほう):宝永ほうえい6ねん1709ねん再建さいけん解説かいせつ既出きしゅつ
  • ひがしらくもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい):とおる7ねん1722ねん再建さいけん
  • ひがし回廊かいろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):とおる元年がんねん1716ねん)からもとぶん2ねん1737ねん)に再建さいけん
  • 西にしらくもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい):とおる4ねん1719ねん再建さいけん
  • 西にし回廊かいろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):とおる元年がんねん(1716ねん)からもとぶん2ねん(1737ねん)に再建さいけん
  • 中門ちゅうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい):とおる元年がんねん(1716ねん)9がつ再建さいけん大仏殿だいぶつでん手前てまえにある入母屋いりもやづくり楼門ろうもん(2かいてのもん)。持国天じこくてん多聞天たもんてんまつられているが、多聞天たもんてんかぶとばつ毘沙門天びしゃもんてんとなっており大変たいへんめずらしい形式けいしきである。中門ちゅうもんりょうわきから「コ」の字形じけい回廊かいろうび、金堂こんどう左右さゆういたる。
  • 相輪そうりん1970ねん昭和しょうわ45ねん)に開催かいさいされた日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかいで、古河ふるかわパビリオンにてられた東大寺とうだいじななじゅうとう相輪そうりん部分ぶぶん博覧はくらんかい終了しゅうりょう相輪そうりん東大寺とうだいじ寄進きしんされ、現在地げんざいち移設いせつされた。
  • ひがしとうあとななじゅうとうあとひがしとうあと西にしとうあとどもだんのこるのみで、礎石そせきられてのこっていない。『東大寺とうだいじ要録ようろく』には天平てんぴょうかちたから5ねん753ねん完成かんせいとあるが、天平てんぴょうたから8ねん764ねん)にとう露盤ろばんげたとの記録きろくもあり、このころの完成かんせいとみられる。とううけたまわ4ねん1181ねん)の南都なんと焼討やきうち焼失しょうしつ。その復興ふっこうされ、安貞やすさだ元年がんねん1227ねん)に完成かんせいするが、かんやすし2ねん1362ねん)に落雷らくらいふたたけ、以後いご再建さいけんされなかった。東大寺とうだいじ2010ねん平成へいせい22ねん)4がつひがしとう再建さいけんけてすうねんないとう跡地あとち発掘はっくつ調査ちょうさ開始かいしすると発表はっぴょうした[26]平成へいせい27ねん2015ねん)7がつひがしとう基壇きだんあと発掘はっくつ調査ちょうさはじまり、11月に中間ちゅうかん発表はっぴょうおこなわれた。鎌倉かまくら時代じだい基壇きだんではいちへんが27m四方しほう建物たてもの部分ぶぶんでは17m四方しほうあり当時とうじ国内こくない最大さいだいきゅうであったこと推測すいそくされる。創建そうけん当時とうじ遺構いこう発見はっけんされ、この基壇きだんいちへん24m四方しほうだった[27][28][29]時期じき未定みていであるが、再建さいけんされればやく650ねんぶりにひがしとう姿すがたあらわすこととなる。ひがしとう西にしとうともななじゅうとうで、たかさは『東大寺とうだいじ要録ようろく』『南都七大寺なんとしちだいじ巡礼じゅんれい』には23たけきょう、『朝野ちょうやぐん』『扶桑ふそう略記りゃっき』には33たけきょうとある。このたかさについて、1909ねん明治めいじ42ねん)ににちえい博覧はくらんかい出展しゅってんされた創建そうけん復元ふくげん模型もけい現在げんざい大仏殿だいぶつでんない展示てんじ)を設計せっけいした天沼あまぬま俊一しゅんいちは、『東大寺とうだいじ要録ようろくとうの「ひがしとうが23たけ8すん西にしとうが23たけ6しゃく7すん」に露盤ろばん相輪そうりんだかやく8たけ文献ぶんけんによりこまかい数値すうちことなる)をくわえて31たけあまり(やく94メートル)とした[30]一方いっぽう建築けんちく足立あだちやすしは、最初さいしょ記載きさいするたかさは相輪そうりんふくむのが当時とうじ文献ぶんけん通例つうれいであるとする一方いっぽう、23たけ程度ていどぜんこうのうち8たけ相輪そうりんめるとするとバランスをくという見解けんかいから、一部いちぶ文献ぶんけんられる「33たけ」(やく100メートル)がただしいとした[30]。これらによって、90 - 100メートルとするのが通説つうせつとなっていた。これにたいし、奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ箱崎はこざき和久かずひさ2003ねん平成へいせい15ねん)の論文ろんぶんで、現存げんそんするどう時代じだい仏塔ぶっとうや、だい世界せかい大戦たいせんのち発掘はっくつ調査ちょうさされた大型おおがた仏塔ぶっとう大官大寺だいかんだいじ吉備きび廃寺はいじあとなど)との比較ひかくから、天沼あまぬま復元ふくげんどおりのとう奈良なら時代じだい当時とうじ建築けんちくすることは困難こんなんであるとし、時代じだいちか元興寺がんこうじしょうとうをモデルとして、総高そうだか23たけ7しゃくやく70メートル)、うち相輪そうりん8たけ6しゃくやく26メートル)という復元ふくげん推定すいていしている[30][31]奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょは、箱崎はこざき発表はっぴょうからやく20ねん経過けいかした2024ねん4がつ25にちに、創建そうけん当時とうじひがしとうたかさについてはら資料しりょうられる「大仏殿だいぶつでん碑文ひぶん」の記載きさいを「23たけ」と判断はんだんし、これによりやく70メートルと結論けつろんづけた[30][32]従来じゅうらいの100メートルせつ根拠こんきょとなっていた「33たけ」とする見解けんかいは、文献ぶんけん写本しゃほんなか江戸えど時代じだい発生はっせいした誤記ごきがそのままがれたとした[30][33]。また「23たけ」では相輪そうりんのバランスをくというせつたいしては、とうとの比較ひかくにより創建そうけん当時とうじには不自然ふしぜんではないとした[30][33]東大寺とうだいじがわは「これまでのひがしとう復元ふくげんあんとはことなる姿すがたしめすもので、天平てんぴょうひがしとう姿すがたりたいというおもいに1つのこたえをいただいた」というかたしめし、「復興ふっこうすすめるうえで、考慮こうりょすべき重要じゅうよう研究けんきゅう成果せいかだ」とした[34][35]同時どうじ奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょは、鎌倉かまくら時代じだい再建さいけんされたひがしとうは、当時とうじ文献ぶんけんにあるたかさ32たけ(96メートル)としている[30]日本にっぽん万国博覧会ばんこくはくらんかい(1970ねん)の古河ふるかわパビリオンでたかさ86メートルの東大寺とうだいじななじゅうとう外観がいかん再現さいげんされた。パビリオンは博覧はくらんかい終了しゅうりょうこわされたが、相輪そうりんのみが保存ほぞんされ、大仏殿だいぶつでん回廊かいろう東側ひがしがわてられている。なお、大阪おおさか藤田ふじた美術館びじゅつかんにわ東大とうだい寺東てらひがしとうしんいしずえつたえられる礎石そせきがあるが、ひがしとうのものであるという確証かくしょうはない。
  • 鑰取神社じんじゃ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう末社まっしゃ
  • 白山はくさん神社じんじゃ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう末社まっしゃ
  • 観音かんのんいん塔頭たっちゅう
  • 手向とうげさん八幡宮はちまんぐう:かつての東大寺とうだいじ鎮守ちんじゅしゃ。1871ねん明治めいじ4ねん)の神仏しんぶつ分離ぶんりさい東大寺とうだいじから独立どくりつした。
  • 御髪おぐしとうじゅうじゅう石塔せきとう
  • 法華ほっけどうけい重要じゅうよう文化財ぶんかざい):平安へいあん時代じだい建立こんりゅう
  • 法華ほっけどうさんがつどう国宝こくほう):天平てんぺい12ねん740ねん)から天平てんぴょう20ねん748ねん)に建立こんりゅう解説かいせつ既出きしゅつ
  • 法華ほっけどう手水ちょうず重要じゅうよう文化財ぶんかざい):たてたけし2ねん1335ねん建立こんりゅう
  • 法華ほっけどう北門きたもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい):のべおう2ねん1240ねん建立こんりゅう
  • 不動堂ふどうどう
  • よんがつどう三昧ざんまいどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):のべたから9ねん1681ねん建立こんりゅうよせとうづくりじゅうほんかわらき。ひろし賢堂かしこどうともばれ、さんがつどう西にしっている。もとたからかたちづくりだったが、江戸えど時代じだい改修かいしゅう現在げんざいじゅうよせとうづくりになった。本尊ほんぞんじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、普賢菩薩ふげんぼさつぞうぞうなどを安置あんちする。きゅう本尊ほんぞん千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は東大寺とうだいじミュージアムにうつされている。
  • がつどう国宝こくほう):寛文ひろふみ9ねん1669ねん再建さいけん解説かいせつ既出きしゅつ
  • めしどう神社じんじゃ
  • 西国さいこくさんじゅうさんしょ石仏いしぼとけぐん
  • 遠敷おにゅう神社じんじゃ
  • 山手やまて観音堂かんのんどう
  • きた参籠さんろうしょ
  • 良弁りょうべんすぎ良弁りょうべんあかぼうころトンビにさらわれてしまい、このすぎっかかっていたという。
  • きょうなり神社じんじゃ
  • 閼伽重要じゅうよう文化財ぶんかざい):鎌倉かまくら時代ときよ建立こんりゅう若狭わかさともばれる。みずおこなさい使用しようされる。
  • とうろう
  • がつどう参籠さんろうしょ重要じゅうよう文化財ぶんかざい):建治けんじ3ねん1277ねん)から弘安ひろやす5ねん1282ねん)に建立こんりゅう
  • 鬼子母神きしもじんどう
  • がつどう湯屋ゆや奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):江戸えど時代じだい中期ちゅうき建立こんりゅう塔頭たっちゅうかねたまいんでもある。
  • がつどうふつ餉屋(ぶっしょうのや、供御くごしょ重要じゅうよう文化財ぶんかざい):鎌倉かまくら時代じだい建立こんりゅう
  • 上之うえのぼう塔頭たっちゅう
  • 開山かいさんどう国宝こくほう):開山かいさん初代しょだい住職じゅうしょく良弁りょうべん肖像しょうぞう安置あんちするためのどう内陣ないじん正治しょうじ2ねん1200ねん)、外陣がいじんけんちょう2ねん1250ねん)の建築けんちくで、南大門なんだいもんともに、だい仏様ほとけさま(だいぶつよう)建築けんちく数少かずすくない遺作いさくである。本尊ほんぞん木造もくぞう良弁りょうべん僧正そうじょう坐像ざぞう国宝こくほう)は寛仁かんじん2ねん1018ねん)の良弁りょうべん作製さくせいされた作品さくひんで、ながらく秘仏ひぶつとされてきたため彩色さいしきがよくのこっている。ぞう如意にょい良弁りょうべん遺愛いあいしなといわれている。良弁りょうべんぞう背後はいごには良弁りょうべん高弟こうていじつちゅうぞう安置あんちされている。開山かいさんどう良弁りょうべん命日めいにちの12月16にちのみ公開こうかいされる。
  • 念仏ねんぶつどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):よしみただし3ねん1237ねん建立こんりゅうおなじく鎌倉かまくら時代じだいよしみただし3ねん(1237ねん)に仏師ぶっしかんきよしつくった地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。元々もともと地蔵堂じぞうどうばれた。屋根やね元禄げんろく年間ねんかん1688ねん - 1704ねん)に錣葺改修かいしゅうされている。
  • 英霊えいれい殿どの念仏ねんぶつどう背後はいごにある納骨のうこつどうだい世界せかい大戦たいせんによる奈良ならけん戦没せんぼつしゃ遺骨いこつやく3まんはしら安置あんちし、毎月まいつき5にち法要ほうようと8がつ11にち英霊えいれい盂蘭盆うらぼん法要ほうよう慰霊いれいおこなわれている[36]
  • 行基ぎょうきどう奈良なら時代じだい著名ちょめいそうで、東大寺とうだいじ創建そうけんにも貢献こうけんした行基ぎょうきぞう安置あんちする。もとはしゅんじょうどうであったが、現在げんざいしゅんじょうどう建立こんりゅうされたので、行基ぎょうき坐像ざぞう安置あんちして行基ぎょうきどうしょうするようになった。このぞうは、行基ぎょうきはかがある竹林たけばやしてらにあったぞうしてとおる年間ねんかんつくられたとつたわる。
  • 鐘楼しゅろう国宝こくほう):うけたまわもと年間ねんかん1207ねん - 1211ねん再建さいけん現在げんざい鐘楼しゅろうは、じゅうみなもと上人しょうにんいでだい勧進かんじんしょくいた栄西えいさい禅師ぜんじ再建さいけんしたものである。られている梵鐘ぼんしょう国宝こくほう)は大仏だいぶつ開眼かいがん同年どうねん天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)の製作せいさくで、中世ちゅうせい以前いぜん梵鐘ぼんしょうとしては最大さいだいのもの(こう385センチメートル、口径こうけい271センチメートル)。ぞくにこの梵鐘ぼんしょう擬人ぎじんして「奈良なら次郎じろう」とばれる[37]毎日まいにち午後ごご8かねかれる[36]2002ねん平成へいせい14ねん)12月、NHK下請したう業者ぎょうしゃくぎまれる事件じけんった。「東大寺とうだいじがね」は南都なんと八景はっけいひとつ。鐘楼しゅろう周辺しゅうへんは「鐘楼しゅろうおか」「鐘楼しゅろうおか」とばれる。
  • しゅんじょうどう宝永ほうえい元年がんねん1704ねん建立こんりゅう鎌倉かまくら時代じだい大仏だいぶつ大仏殿だいぶつでん再興さいこうした中興ちゅうこうしゅんじょうぼうじゅうげん(しゅんじょうぼうちょうげん)をまつる。大仏殿だいぶつでんよりひがし一段いちだんがった「鐘楼しゅろうおか」とばれる場所ばしょにあり、かつてこの場所ばしょには、じゅうみなもと復興ふっこう拠点きょてんとした東大寺とうだいじ別所べっしょとその中心ちゅうしん堂宇どうう浄土じょうどどうがあったが、えいろく10ねん(1567ねん)に兵火へいかけ、そのおおやけけい(こうけい)が宝永ほうえい元年がんねんじゅうみなもとひゃくねん遠忌えんき浄土じょうどどう跡地あとちあたらしくしゅんじょうどう建立こんりゅうし、もとのしゅんじょうどうげん行基ぎょうきどう)からしゅんじょう上人しょうにん坐像ざぞう国宝こくほう)をうつして安置あんちした[36]。この坐像ざぞう上人しょうにんが86さいぼっした直後ちょくご製作せいさくおもわれ、鎌倉かまくら時代じだい肖像しょうぞう彫刻ちょうこく傑作けっさくである。このほか、どうないには快慶かいけいさく阿弥陀如来あみだにょらいぞう平安へいあん時代じだい愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞう(ともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)が安置あんちされている。けられている扁額へんがくしゅんじょうどう」はじゅうげんふでであり、じゅうげんはちひゃくねん遠忌えんきにあたる2006ねん平成へいせい18ねん)にもうけられた。毎年まいとし7がつ5にちじゅうげん忌日きじつ)と12月16にちにはどうない特別とくべつ公開こうかいされる[36]
  • だい湯屋ゆや重要じゅうよう文化財ぶんかざい):12世紀せいきまつじゅうげんによって再建さいけんのべおう元年がんねん1239ねん)に改修かいしゅうされ、おうひさし15ねん1408ねん)から翌年よくねんにかけてだい改修かいしゅうがなされている[36]がつどううら参道さんどうにある。正面しょうめん入母屋いりもやづくり背面はいめん切妻きりづまづくりであり、東西とうざいなが建物たてもの内部ないぶは、前面ぜんめん浴室よくしつまえしつ中央ちゅうおう浴室よくしつこうめんかまじょうとなっている。浴室よくしつには唐破風からはふきの風呂ふろ屋形やかたつくり、そのなかに、じゅうげんいのちけんひさ8ねん(1197ねん)につくられた鉄製てつせい湯船ゆぶね重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がえられている。かまじょう屋上おくじょうにはけむりきのがあり、中世ちゅうせい浴室よくしつ様子ようすつたえる貴重きちょう歴史れきしてき遺構いこうである。非公開ひこうかい
  • からしこくしゃ
  • 講堂こうどうあと礎石そせきのこる。かつて、大仏殿だいぶつでんきたには55×29メートルの講堂こうどうと、その東西とうざいきたの3めん外回そとまわりに沿って僧房そうぼうっていた。講堂こうどう天平てんぴょうかちたから8さい756ねんごろ完成かんせいし、千手観音せんじゅかんのん本尊ほんぞんとしていたが、延喜えんぎ17ねん917ねん)に焼失しょうしつする。再建さいけんされたどううけたまわ4ねん1181ねん)の兵火へいか焼失しょうしつ。その復興ふっこうされたが、えいただし5ねん1508ねん)の焼失しょうしつ再建さいけんされなかった。
  • 子安こやす神社じんじゃ
  • 指図さしずどう江戸えど時代じだい後期こうき再建さいけん大仏殿だいぶつでん西にしにある。法然ほうねん画像がぞうまつどう鎌倉かまくら時代じだい大仏だいぶつ復興ふっこうたずさわったじゅうげんは、法然ほうねん推挙すいきょ大仏だいぶつ復興ふっこうだい勧進かんじんしょくとなった。このどう復興ふっこう大仏殿だいぶつでん指図さしず設計せっけい)をおさめたことから指図さしずどういたという。浄土じょうどきょうにも関心かんしんつよかったじゅうげんまねきで法然ほうねんがこの浄土じょうどさんけいこうじたという。もとこのどうにあった木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう鎌倉かまくら時代じだい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)は東大寺とうだいじミュージアムに移動いどうしている。建物たてもの江戸えど時代じだい後期こうきのものであるが、法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょうだい11ばん札所ふだしょであるため、浄土宗じょうどしゅうがわ喜捨きしゃとう再建さいけん協力きょうりょくしている。老朽ろうきゅうによりちか改築かいちく予定よていされている。
  • 勧進かんじんしょ:もとは東大寺とうだいじ中興ちゅうこうであるじゅうげん勧進かんじん焼失しょうしつした東大寺とうだいじ再興さいこうのための寄金ききん募集ぼしゅう)の本拠ほんきょとしたこくである。大仏殿だいぶつでん西側にしがわへいかこまれたいちかくで、表門おもてもんはいると左手ひだりておおやけけいどう、そのさきもんはいると右手みぎて阿弥陀堂あみだどう正面しょうめんおく八幡やはた殿どの八幡やはた殿どのひだりけい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)がある。
    • 庫裏くり
    • おおやけけいどう江戸えど時代じだい大仏殿だいぶつでん再興さいこう貢献こうけんしたおおやけけい上人しょうにんぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。ぞう上人しょうにん死去しきょ翌年よくねんである宝永ほうえい3ねん1706ねん)のさく毎年まいとし4がつ12にちと10がつ5にち公開こうかいされる。
    • 阿弥陀堂あみだどうじゅうみなもとそうから将来しょうらいしたとの伝承でんしょうがあるこう思惟しい阿弥陀あみだ(ごこうしゆいあみだ)ぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする。毎年まいとし10がつ5にちのみ公開こうかいされる。
    • 八幡やはた殿どのたてひとし元年がんねん1201ねん)に快慶かいけいによってつくられた僧形そうぎょう八幡やはたしん(そうぎょうはちまんしん)坐像ざぞう国宝こくほう)を安置あんちする。このぞう東大寺とうだいじ鎮守ちんじゅである手向とうげさん八幡宮はちまんぐう神体しんたいであったもので、明治めいじ神仏しんぶつ分離ぶんりともなって東大寺とうだいじうつされた。製作せいさく当初とうしょ彩色さいしきあざやかにのこ快慶かいけい代表だいひょうさくである。毎年まいとし10がつ5にちのみ公開こうかいされる。
    • 勧進かんじんしょけい重要じゅうよう文化財ぶんかざい):平安へいあん時代じだい建立こんりゅう
    • 鐘楼しゅろう
    • 表門おもてもん赤門あかもん
  • 東大寺とうだいじ学園がくえん幼稚園ようちえん
  • 戒壇かいだんいん出家しゅっけしゃ受戒じゅかい正規せいきそうとなるための戒律かいりつさづけられる)するための施設しせつとして、天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)に鑑真がんじん和上わじょうまねいて創建そうけんされた。
    • 戒壇かいだんどう奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):とおる18ねん1733ねん再建さいけん内部ないぶには中央ちゅうおう法華経ほけきょう宝塔ほうとうひん(けんほうとうほん)だいじゅういち所説しょせつもとづく多宝塔たほうとうがあり、内部ないぶにはたから如来にょらい釈迦如来しゃかにょらいまつられる。その周囲しゅうい国宝こくほう四天王してんのうぞうまもっている。
      • 塑造四天王してんのう立像りつぞう国宝こくほう):法華ほっけどう日光にっこう菩薩ぼさつぞう月光げっこう菩薩ぼさつぞうおよび金剛こんごうしんぞうともに、奈良なら時代じだい塑像そぞう最高さいこう傑作けっさくひとつ。いかりの表情ひょうじょうをあらわにした持国天じこくてん増長天ぞうちょうてんぞうと、まゆをひそめいかりをうちめた広目天こうもくてん多聞天たもんてんぞう対照たいしょう見事みごとである。記録きろくによれば、創建そうけん当初とうしょ戒壇かいだんいん四天王してんのうぞうどうづくりであり、現在げんざい四天王してんのうぞう後世こうせい大仏殿だいぶつでん西にしにあった中門ちゅうもんどうからうつしたものである。
      • どうづくり釈迦しゃかたから如来にょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):どうない中央ちゅうおうにある多宝塔たほうとう内部ないぶ本来ほんらい安置あんちされるたかさ24cmあまりのしょうぞう鑑真がんじんとうから持参じさんしたとつたえられるが、作風さくふうから奈良なら時代じだい日本にっぽんつくられたものとかんがえられる。普段ふだん江戸えど時代じだい木造もくぞう模造もぞうひん安置あんちされ、ほんぞう東大寺とうだいじミュージアムに収蔵しゅうぞうされている。戒壇かいだんいん本来ほんらい役割やくわりである僧侶そうりょへの授戒じゅかいときほんぞう戒壇かいだんいんもどされる。
    • 千手堂せんじゅどう - 戒壇かいだんどう西側にしがわにあるしょうどう現在げんざい建物たてものえいろく10ねん1567ねん)の東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんたたかによって焼失しょうしつし、慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん)に再建さいけんされたものが、1998ねん平成へいせい10ねん)の火災かさいでほぼ全焼ぜんしょうし、2002ねん平成へいせい14ねん)に慶長けいちょう再建さいけん姿すがたふくしたものである。1998ねん平成へいせい10ねん)の火災かさいさい仏像ぶつぞうぐんはすべて救出きゅうしゅつされたが、ゆびれるなどの損傷そんしょうい、どう再建さいけんまでに修復しゅうふくされた。
      • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):千手堂せんじゅどう由来ゆらいであり、本尊ほんぞんおなじく重要じゅうよう文化財ぶんかざい木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞうともに、やはり重要じゅうよう文化財ぶんかざいくろうるしりの厨子ずしおさめられる。ヒノキ寄木よせぎづくり。その作風さくふうから鎌倉かまくら時代じだい後期こうきさくとされる。
      • 厨子ずし重要じゅうよう文化財ぶんかざい):本尊ほんぞんおよび四天王してんのうおさめるくろうるしりの厨子ずし本尊ほんぞんどう時期じきさく推定すいていされる。正面しょうめんおよりょう側面そくめんひらつくりで、とびらめたときの内側うちがわには極彩色ごくさいしょく仏画ぶつがえがかれている。すなわち正面しょうめんとびらには千手観音せんじゅかんのん眷属けんぞくじゅうはちしゅ風神ふうじん雷神らいじんが、右側みぎがわめんとびらには不動明王ふどうみょうおう童子どうじおよび倶利伽羅くりからけんが、左側ひだりがわめんとびらには不動明王ふどうみょうおう以外いがい五大ごだい明王みょうおうが、本尊ほんぞん背面はいめんには補陀落ふだらく浄土じょうどえがかれている。1998ねん平成へいせい10ねん)の火災かさいさいには外部がいぶ救出きゅうしゅつできなかったため、おおきく汚損おそんしたが焼失しょうしつまぬかれた。現在げんざい拝観はいかんできるものは精巧せいこう模写もしゃであるが、オリジナルは2010ねん平成へいせい22ねん)から3ねんかけて修復しゅうふくされ、保管ほかんされている。
      • 木造もくぞう愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):鎌倉かまくら時代じだい後期こうきから南北なんぼくあさ時代じだいさく推定すいていされる。ヒノキ寄木よせぎづく
      • 木造もくぞう鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい):江戸えど時代じだい中期ちゅうきとおる18ねん1733ねん)に唐招提寺とうしょうだいじ有名ゆうめい乾漆かんしつぞう忠実ちゅうじつこくしたもの。
  • 華厳けごんりょう
  • 中御門なかみかどあと別名べつめいやきもんという。慶長けいちょう11ねん1606ねん)に焼失しょうしつし、礎石そせきのこる。
  • せいくらいん宮内庁くないちょう施設しせつとう機関きかんである正倉院事務所しょうそういんじむしょ管理かんりしている。聖武天皇しょうむてんのう光明皇后こうみょうこうごうゆかりのしなをはじめとする、天平てんぺい時代じだい中心ちゅうしんとした多数たすう美術びじゅつ工芸こうげいひん収蔵しゅうぞうする。
    • せいくらいんせいくら校倉あぜくらづくりだい規模きぼ高床たかゆか倉庫そうこ
    • 杉本すぎもと神社じんじゃ
    • 東宝とうほう:1952ねん昭和しょうわ27ねんちく
    • 西にし宝庫ほうこ:1962ねん昭和しょうわ37ねんちく
  • うたてがいもん国宝こくほう):天平てんぴょうたから年間ねんかん757ねん - 765ねん建立こんりゅう境内けいだい西北せいほくせいくらいん西側にしがわにあるはちきゃくもんうけたまわ4ねん(1181ねん)、えいろく10ねん(1567ねん)の2かい大火たいかにものこった寺内てらうち数少かずすくない建物たてものひとつ。鎌倉かまくら時代じだい修理しゅうり改修かいしゅうされているが、基本きほんてきには奈良なら時代じだい創建そうけん姿すがたのこ建物たてものである。名称めいしょう由来ゆらいは、ひがしに碾磑(てんがい、石臼いしうす)があったことにちなむ。別名べつめいとして、平城京へいじょうきょう一条通いちじょうどおり佐保さお)にめんしていたので佐保さおもん(さほじもん)とも、平家ひらか一門いちもんうらみをらすべくみなもと頼朝よりとも暗殺あんさつしようとあく七兵衛しちべえけいきよしかくれていたという伝承でんしょうからけい清門せいもんともばれる[36]2004ねん平成へいせい16ねんごろから野良猫のらねこによる糞尿ふんにょうつめとぎの被害ひがい問題もんだいになっている。明治めいじはじめまで東大寺とうだいじ鎮守ちんじゅしゃだった手向とうげさん八幡宮はちまんぐう御旅所おたびしょでもあった。現在げんざいでも毎年まいとし10がつ5にち手向とうげさん八幡宮はちまんぐう例祭れいさいてんがいかい(てがいえ)」のさいには神輿しんようたてがいもん遷座せんざする。この例祭れいさいは、奈良なら時代じだい宇佐うさ八幡宮はちまんぐうから祭神さいじん勧請かんじょうされたさいうたてがいもんとおった伝承でんしょうにちなみしんむかえの様子ようす再現さいげんした祭礼さいれいである。
  • りゅうまついん塔頭たっちゅう
  • 知足ちそくいん塔頭たっちゅう大仏殿だいぶつでん北方ほっぽうおかうえにある。寛平かんぺい2ねん890ねん)の創建そうけんで、東大寺とうだいじにおける法相ほうしょう教学きょうがく拠点きょてんとなった。奈良ならけん県花けんか奈良ならしょうになっている奈良なら八重桜やえざくら天然記念物てんねんきねんぶつ非公開ひこうかい)や重要じゅうよう文化財ぶんかざい地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞうゆうする。
  • 龍蔵りゅうぞういん塔頭たっちゅう
  • もちたからいん塔頭たっちゅう
  • たからいわおいん塔頭たっちゅう
  • 食堂しょくどうあと礎石そせきひとつだけみちなかのこされている。
  • 宝珠ほうしゅいん塔頭たっちゅう
  • 中性ちゅうせいいん塔頭たっちゅう
  • 日之出ひので大神だいじんさらのぼると天地てんちいん跡地あとちる。
  • 西にしだい門跡もんぜき天正てんしょう11ねん1583ねん)にかぜ倒壊とうかいする。南大門なんだいもんよりおおきく、かつては東大寺とうだいじ最大さいだいもんであった。
  • 西にしとうあとななじゅうとうあと。『東大寺とうだいじ要録ようろく』には天平てんぴょうかちたから5ねん753ねんうるう3がつ完成かんせいとあるが、うるう3がつがあったのは前年ぜんねん天平てんぴょうかちたから4ねん752ねん)であり、実際じっさいひがしとうおなごろ完成かんせいとみられる。とううけたまわひらた4ねん934ねん)に焼失しょうしつ。その復興ふっこう計画けいかくされるが、工事こうじ途上とじょう長保ながほ2ねん1000ねん)にふたた焼失しょうしつする。以後いご再建さいけんされなかった。
  • ひゃく立神たてがみしゃ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう末社まっしゃ
  • 真言しんごんいん塔頭たっちゅう南大門なんだいもんから中門ちゅうもんいた参道さんどう西にしはいったところにある。東大寺とうだいじ別当べっとうつとめた空海くうかいが、ひろしひとし13ねん821ねん)、勅許ちょっきょけて開設かいせつした灌頂道場どうじょうはじまりであり、南都なんとにおける真言しんごん教学きょうがく拠点きょてんとなった。重要じゅうよう文化財ぶんかざい地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう四天王してんのうぞうゆうする。
    • 庫裏くり
    • 灌頂どう奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):慶安けいあん2ねん1649ねん建立こんりゅう
    • 地蔵堂じぞうどう奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):あかりれき元年がんねん1655ねん建立こんりゅう
    • かみまもる殿どの奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):江戸えど時代じだい前期ぜんき建立こんりゅう
    • 閼伽奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):あかりれき3ねん1657ねん建立こんりゅう
    • 表門おもてもん奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):慶安けいあん2ねん(1649ねん建立こんりゅう
    • みなみもん奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい):寛文ひろふみ3ねん1663ねん建立こんりゅう
    • 勧学かんがくいん
  • 東大寺とうだいじ総合そうごう文化ぶんかセンター:2010ねん平成へいせい22ねん)9がつ竣工しゅんこう、2011ねん平成へいせい23ねん)に開館かいかん南大門なんだいもんはいって左手ひだりて東大寺とうだいじ学園中がくえんなか学校がっこう高等こうとう学校がっこう1986ねん郊外こうがい移転いてん)の跡地あとちにあるふくあい文化ぶんか施設しせつ住所じゅうしょ奈良なら水門すいもんまち100)。 センターないには、東大寺とうだいじミュージアム、きむかね会館かいかん、ミュージアムショップ、カフェ、東大寺とうだいじつたわる文書ぶんしょるいぞうする図書館としょかん収蔵しゅうぞう東大寺とうだいじ研究所けんきゅうじょ華厳けごんがく研究所けんきゅうじょかれている[36]
    • 東大寺とうだいじミュージアム:2011ねん平成へいせい23ねん)10がつ開館かいかん東大寺とうだいじ所蔵しょぞうする仏像ぶつぞう宝物ほうもつるい経巻きょうかん文書ぶんしょるい展示てんじする。中央ちゅうおうには、浄土じょうどどうにあったとつたえられる千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい平安へいあん時代じだい)、わきさむらい日光にっこう月光げっこう菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう奈良なら時代じだい)、そのほか弁財天べざいてん立像りつぞう吉祥天きちじょうてん立像りつぞう(ともに重要じゅうよう文化財ぶんかざい奈良なら時代じだい)、誕生たんじょう釈迦しゃかふつ立像りつぞうおよび灌仏ばん金堂こんどう鎮壇(いずれも国宝こくほう奈良なら時代じだい)が安置あんちされている。東大寺とうだいじ文書ぶんしょ国宝こくほう平安へいあん室町むろまち時代じだい)をふくおおくの文書ぶんしょ経巻きょうかん典籍てんせきるいならびに東大寺とうだいじ境内けいだいから出土しゅつどしたかわら土器どきなどの考古こうこ資料しりょう収蔵しゅうぞうされ、一部いちぶ随時ずいじ展示てんじされている[36]
      • 塑造日光にっこう月光げっこう(がっこう)菩薩ぼさつ立像りつぞう国宝こくほう) - 奈良なら時代じだい。もと法華ほっけどう安置あんち法華ほっけ堂本どうもとたかし不空ふくう羂索観音かんのんりょうわきっていた。天平てんぴょう彫刻ちょうこく代表だいひょうさくとして著名ちょめいだが、みやつこぞう経緯けいいとうさだかでなく、本来ほんらいぞうめい不明ふめいである(「日光にっこう月光げっこう菩薩ぼさつ」という名称めいしょう後世こうせいけられたもので、本来ほんらいは、薬師やくし如来にょらいわきさむらいとなる菩薩ぼさつ)。ぞう表面ひょうめん現状げんじょうほとんど白色はくしょくだが、製作せいさく当初とうしょ彩色さいしきぞうであった。本来ほんらいぞうめい梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてんだった、とするせつもある。
      • 塑造吉祥天きちじょうてん弁才天べんざいてん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 奈良なら時代じだい。もと法華ほっけどう安置あんちから三彩さんさい婦人ふじん俑に豊満ほうまん貴婦人きふじんかたちっている。吉祥天きちじょうてんひじ弁才天べんざいてんはちひじ。いずれも破損はそんいちじるしいがかえって塑像そぞう構造こうぞうあきらかにされており、美術びじゅつ史上しじょう貴重きちょう資料しりょうである。
    • 東大寺とうだいじ図書館としょかん
    • きむかね会館かいかん
    • 東大寺とうだいじ研究所けんきゅうじょ
    • 華厳けごんがく研究所けんきゅうじょ
  • 北林きたばやしいん塔頭たっちゅう
  • 地蔵じぞういん塔頭たっちゅう
  • せいかんいん塔頭たっちゅう
  • 東大寺とうだいじ福祉ふくし療育りょういく病院びょういん
  • 鏡池かがみいけ
  • 弁財天べざいてんしゃ鏡池かがみいけなかにあるしまっている。
  • ほんぼうきゅう東南とうなんいん):南大門なんだいもんはいって右側みぎがわにる。さだかん17ねん875ねん)、醍醐寺だいごじ開祖かいそとして著名ちょめいせいたから東大寺とうだいじないてた薬師堂やくしどうもととする。延喜えんぎ4ねん904ねん)、東大寺とうだいじ別当べっとうつとめた道義どうぎ律師りっしは、こうせきいん佐伯さいきいん)というてら建物たてもの東大寺とうだいじ境内けいだい移転いてんさせ、せいたからまねいたのが東南とうなんいんはじまりである。こうせきいん平城京へいじょうきょう左京さきょう五条ごじょうろくぼう元興寺がんこうじ南西なんせい)にあった、佐伯さえきてらであった。以後いご東南とうなんいんさんろんむね真言宗しんごんしゅう兼学けんがく道場どうじょうとなり、みことかちいん[ちゅう 6]とも有力ゆうりょくいんとなって、塔頭たっちゅうなかでも別格べっかく存在そんざいであった。ほんぼう通常つうじょう非公開ひこうかいである。
    • 庫裏くり
    • ほんぼうけい国宝こくほう):奈良なら時代じだい建立こんりゅう校倉あぜくらづくり倉庫そうこ食堂しょくどうあと北方ほっぽう上司じょうし(かみつかさ)とばれる場所ばしょにあったあぶらくら正徳まさのり4ねん1714ねん)、東南とうなんいん移築いちくしたもの。東南とうなんいん廃絶はいぜつほんぼうけいばれている。東大寺とうだいじ関係かんけいではせいくらいん宝庫ほうこふくめ、に5むね校倉あぜくらのこっている。このうち法華ほっけどうけい勧進かんじんしょけいは、せいくらいん西方せいほうにあったくらうつしたもの。手向とうげさん八幡宮はちまんぐう宝庫ほうこほんぼうけいおなじく上司じょうしあぶらくら移築いちくしたもの。せいくらいん構内こうないにあるひじりぞう塔頭たっちゅうみことかちいん校倉あぜくらうつしたものである。
    • 天皇てんのう殿どの - 聖武天皇しょうむてんのうぞう安置あんちする。明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりおこなわれるまでは徳川とくがわ家康いえやすまつ東照宮とうしょうぐうであった。東照宮とうしょうぐう社殿しゃでん祭神さいじん手向とうげさん八幡宮はちまんぐううつされている。
    • 持仏堂じぶつどう - 江戸えど時代じだいさくみなもと大師だいしせいたからぞう安置あんちする。建物たてものはもとだん山神さんじんしゃ妙楽寺たえがくじ本殿ほんでんで、安倍あべ文殊もんじゅいん東大寺とうだいじうつされた。
    • 表門おもてもん
  • 南大門なんだいもん国宝こくほう):正治しょうじ元年がんねん1199ねん再建さいけん解説かいせつ既出きしゅつ。なお、北大門きただいもん北御門きたごもんともいい、現在げんざいこういん付近ふきんにあった。東大寺とうだいじはかつてきたに1つ、西にしに3つ、みなみに3つのもんそなえていたという。

文化財ぶんかざい

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南大門なんだいもんだい仏様ほとけさま建築けんちく
木造もくぞう金剛力士こんごうりきしぞう

国宝こくほう

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建造けんぞうぶつ
  • 金堂こんどう大仏殿だいぶつでん)(むねさつ1まい
  • 南大門なんだいもん
  • ほんぼうけい
  • 開山かいさんどう須弥壇しゅみだんおよ厨子ずし
  • 鐘楼しゅろう
  • 法華ほっけどうさんがつどう)(むねさつ1まい
  • がつどう
  • うたてがいもん
美術びじゅつ工芸こうげいひん
  • 絹本けんぽんちょしょく倶舎曼荼羅まんだら
  • かみほんちょしょく華厳けごんじゅうしょ絵巻えまき
  • どうづくり盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう大仏だいぶつ金堂こんどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ不空ふくう羂索観音かんのん立像りつぞう法華ほっけどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ梵天ぼんてん帝釈天たいしゃくてん立像りつぞう法華ほっけどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ金剛力士こんごうりきし立像りつぞう 2法華ほっけどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ四天王してんのう立像りつぞう法華ほっけどう安置あんち
  • 塑造日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ立像りつぞう所在しょざい東大寺とうだいじミュージアム、もと法華ほっけどう安置あんち
  • 塑造金剛こんごう神立かんだつぞう法華ほっけどう安置あんち
  • 塑造四天王してんのう立像りつぞう所在しょざい戒壇かいだんどう
  • どうづくり誕生たんじょう釈迦しゃかほとけ立像りつぞうどうづくり灌仏ばん
  • 木造もくぞう金剛力士こんごうりきし立像りつぞう 2 ぞうない納入のうにゅうひん所在しょざい南大門なんだいもん)(ぞうない納入のうにゅうひん明細めいさいこう
  • 木造きづくりしゅんじょう上人しょうにん坐像ざぞうしゅんじょうどう安置あんち
  • 木造もくぞう僧形そうぎょう八幡やはたしん坐像ざぞう 快慶かいけいさく八幡やはた殿どの安置あんち
  • 木造もくぞう良弁りょうべん僧正そうじょう坐像ざぞう開山かいさんどう安置あんち
  • 木造もくぞう弥勒みろくほとけ坐像ざぞう[38]
  • 花鳥かちょう彩絵さえあぶらしょくばこ(ゆしょくばこ)
  • 金銅かなどう八角はっかく燈籠どうろう大仏殿だいぶつでんぜん所在しょざい
  • 葡萄ぶどう唐草からくさぶんしみ韋(そめかわ)
  • 梵鐘ぼんしょう
  • 賢愚けんぐけい まきだいじゅうよんひゃくろくじゅうななぎょう
  • 東大寺とうだいじ文書ぶんしょ100かん(979つう)、8,516つう
  • 東大寺とうだいじ金堂こんどう鎮壇 一括いっかつ明細めいさいこう

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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どうづくり誕生たんじょう釈迦しゃかふつ立像りつぞうおよび灌仏ばん国宝こくほう
塑造月光げっこう菩薩ぼさつ立像りつぞう もと法華ほっけどう安置あんち国宝こくほう
塑造四天王してんのう立像りつぞうのうち多聞天たもんてん 戒壇かいだんいん安置あんち国宝こくほう
塑造金剛こんごう神立かんだつぞう 法華ほっけどうさんがつどう安置あんち国宝こくほう
木造もくぞう良弁りょうべん僧正そうじょう坐像ざぞう 開山かいさんどう安置あんち国宝こくほう
建造けんぞうぶつ
  • 中門ちゅうもん
  • 東西とうざい回廊かいろう 2むね
  • 東西とうざいらくもん(がくもん)2むね
  • 念仏ねんぶつどう
  • 法華ほっけどうけい
  • 法華ほっけどう手水ちょうず
  • 法華ほっけどう北門きたもん
  • がつどう閼伽若狭わかさ
  • がつどう参籠さんろうしょ
  • がつどうふつ餉屋(御供所ごくしょ
  • 三昧ざんまいどうよんがつどう
  • だい湯屋ゆや
  • 勧進かんじんしょけい
  • 石造せきぞう五輪ごりんとう奈良なら川上かわかみまち所在しょざい
絵画かいが
  • 絹本けんぽんちょしょくよしみさち大師だいしぞう絹本けんぽんちょしょくきよしかげ大師だいしぞう(かじょうだいしぞう・じょうようだいしぞう)
  • 絹本けんぽんちょしょく華厳けごんうみかいぜん知識ちしき曼荼羅まんだら(けごんかいえぜんちしきまんだらず)
  • 絹本けんぽんちょしょく華厳けごんじゅうしょ 10めん
  • 絹本けんぽんちょしょくこうぞう大師だいしぞう
  • 絹本けんぽんちょしょくじゅう一面観いちめんかん音像おんぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく四聖しせい御影みかげ(ししょうのみえい)けんちょうほん永和えいわほん
  • かみほんちょしょく東大寺とうだいじ大仏だいぶつ縁起えんぎ しば琳賢ひつ 3かん
  • 絹本けんぽんちょしょく東大寺とうだいじ縁起えんぎ 2ぶく[39][40]
彫刻ちょうこく
  • 木造もくぞう如意輪観音にょいりんかんのん虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ坐像ざぞう 順慶じゅんけいけんけいりょうけいいんけいとうさく金堂こんどう安置あんち
  • 石造せきぞう獅子じし一双いっそう所在しょざい南大門なんだいもん
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう 快慶かいけいさくしゅんじょうどう安置あんち
  • 木造もくぞう愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞうしゅんじょうどう安置あんち
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう念仏ねんぶつどう安置あんち
  • 塑造弁才天べんざいてん吉祥天きちじょうてん立像りつぞう東大寺とうだいじミュージアム所在しょざいきゅう所在しょざい法華ほっけどう
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう童子どうじぞう東大寺とうだいじミュージアム所在しょざいきゅう所在しょざい法華ほっけどう
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう東大寺とうだいじミュージアム所在しょざいきゅう所在しょざい法華ほっけどう
  • 木造もくぞう天蓋てんがい3めん所在しょざい法華ほっけどう[41]
  • 木造もくぞう訶梨みかどはは坐像ざぞうがつどう参籠さんろうしょ食堂しょくどう安置あんち
  • 木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん立像りつぞう東大寺とうだいじミュージアム所在しょざいきゅう所在しょざい三昧ざんまいどう
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう三昧ざんまいどう安置あんち
  • 木造もくぞうこうけい上人しょうにん坐像ざぞうおおやけけいどう安置あんち
  • 木造もくぞうこう思惟しい阿弥陀あみだ坐像ざぞう勧進かんじんしょ阿弥陀堂あみだどう安置あんち
  • どうづくり釈迦しゃかたから如来にょらい坐像ざぞう戒壇かいだんいん[42]
  • 厨子ずしにゅう木造もくぞう千手観音せんじゅかんのん四天王してんのう立像りつぞう戒壇かいだんいん千手堂せんじゅどう安置あんち[43]
    • きゅう厨子ずしいた及扉 7めん
  • 木造もくぞう鑑真がんじん和上わじょう坐像ざぞう戒壇かいだんいん千手堂せんじゅどう安置あんち
  • 木造もくぞう愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞう戒壇かいだんいん千手堂せんじゅどう安置あんち
  • 木造もくぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう中性ちゅうせいいん所在しょざい
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう真言しんごんいん所在しょざい
  • 木造もくぞう四天王してんのう立像りつぞうしんぜんいん伝来でんらい)(真言しんごんいん所在しょざい
    • ぞうない納入のうにゅうひん明細めいさい(「重要じゅうよう文化財ぶんかざい明細めいさい参照さんしょう))
  • 厨子ずしにゅう木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう知足ちそくいん所在しょざい[44]
  • 木造もくぞう釈迦如来しゃかにょらい坐像ざぞう ぜんえんさくきゅう所在しょざい指図さしずどう
    • ぞうない納入のうにゅうひんかみほんすみ釈迦如来しゃかにょらい造立ぞうりゅう願文がんもんさとしきよしひつ)1かんかみほん墨書ぼくしょたから篋印陀羅尼だらにとう 1かんかみほん墨書ぼくしょ華厳経けごんきょう まきよんじゅう 1かん舎利しゃり香木こうぼく 1つつみ
  • 木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞうきゅう所在しょざい勧進かんじんしょ
  • 木造もくぞう聖観音しょうかんのん立像りつぞう
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう三昧ざんまいどう安置あんち
  • 木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう快慶かいけいさくきゅう所在しょざいこうけいどう
  • 木造もくぞう持国天じこくてん立像りつぞう
    • ぞうない納入のうにゅうひん木札きふだ 1まい版本はんぽん金剛こんごう般若はんにゃ波羅蜜はらみつけい 1かん版本はんぽん仁王におう護国ごこく般若はんにゃ波羅蜜はらみつけい 2かん
  • 木造もくぞう多聞天たもんてん立像りつぞう
  • 木造もくぞうじゅう二神にかみすすむ立像りつぞうきゅう所在しょざい天皇てんのう殿どの
  • どうづくり舟形ふながた光背こうはいがつ堂本どうもとたかし光背こうはい
  • 木造もくぞうあおめん金剛こんごう立像りつぞう
  • 木造もくぞう閻魔えんまおう坐像ざぞう さとしえんさく木造もくぞう泰山たいざんくん坐像ざぞう[45][46]
  • どうづくり如意輪観音にょいりんかんのんはん跏像(菩薩ぼさつはん跏像)
  • 木造もくぞう伎楽ぎがくめん29めん乾漆かんしつ伎楽ぎがくめん1めん木造もくぞう伎楽ぎがくめん残欠ざんけつ5へん(4めんぶん)、乾漆かんしつ伎楽ぎがくめん残欠ざんけつ7へん(3めんぶん))
  • 木造もくぞう舞楽ぶがくめん9めんすめらぎじんみかど4、貴徳たかのりりょうおうおさめ2)
  • 木造もくぞう伎楽ぎがくめん2めん
  • 木造もくぞう行道ぎょうどうめんはえはらい)2めん
  • 木造もくぞう菩薩ぼさつめん3めん 残欠ざんけつ4へん
  • 木造もくぞう獅子頭ししがしら
工芸こうげいひん
  • 金銅かなどうはち 2くち
  • 孔雀くじゃくぶんかおる
  • 鉦鼓しょうこ ながうけたまわさんねんめい
  • 鉦鼓しょうこ けんひさきゅうねんめいじ すず平文へいぶんかね撞木しゅもく蓮実はすみかたち柄杓ひしゃく菩提ぼだい念珠ねんじゅ
  • てつつり燈籠どうろう 2法華ほっけどう所在しょざい
  • てつ湯船ゆぶねだい湯屋ゆや所在しょざいたてひさねんめい
  • てつ鑰(てつやく)かぎづけ:てつかぎ4ほん
  • どうすず(どうつかされい) 弘安ひろやすはちねんめい
  • どう香水こうすいしゃく 4えだ おっとけんちょうねんけんちょうななねんぶんひさしよんねん、□□元年がんねんめい
  • どう水瓶みずがめ 2くち うち1くちよしみもとさんねんめい
  • どうばち金銅かなどう受台づけ)・金銅かなどう受台
  • 鰐口わにぐち
  • 梵鐘ぼんしょう真言しんごんいんぶんなが元年がんねんめい
  • 梵鐘ぼんしょうがつどう食堂しょくどう所用しょよう徳治とくじさんねんめい
  • くもおおとり戧金けいひつ(うんぽうそうきんきょうびつ)
  • しゅうるしぬの薩盥(ふさつたらい) 3くち うち2くちおうひさしさんじゅうよんねんめい
  • くろうるしどう 2くち
  • くろうるし螺鈿らでんたく(しょく)
  • 彩絵さえどう
  • 彩絵さえどう ひろしよんねん修理しゅうりめい
  • 獅子しし如意にょいつてせいたから所持しょじ
  • 玳瑁たいまい如意にょい(たいまいにょい)
  • 二月堂練行衆盤 11まい うち10まいえいひとしろくねんめい
  • 木製もくせいくろうるしつぼ 2くち もととくねんめい
  • 木造もくぞう西にし大門おおもん勅額ちょくがく
  • いし燈籠どうろう法華ほっけどうぜん所在しょざいけんちょうろくねんめい
書跡しょせき典籍てんせき
  • 東大寺とうだいじ聖教せいきょう(しょうぎょう) 1,806てん[47]
  • 華厳経けごんきょう まきだいいちだいよんだいだいろくだいきゅうだいじゅういち 6かん まきだいいち貞元さだもとじゅうよんねんやくじょうれつあり(から時代じだい
  • 願文がんもんしゅう ひろしもとさんねんむねせいばつ
  • 虚空蔵こくぞうけい まきだいいちいたりまきだいはち8かん どうけい まきだいろくくびかけ)1かん
  • 金光かねみつあきらさいかちおうけい註釈ちゅうしゃく まきだいだいきゅう
  • きむつよし般若はんにゃけいさんじゅつ まきじょうしろてんほんうけたまわじゅういちねんのべげん書写しょしゃ
  • 高僧こうそうでんろくしゅ むねせいふで日本にっぽん高僧こうそうでんようぶんしょう3さつ日本にっぽん高僧こうそうでん指示しじしょう1さつだいそう高僧こうそうでんようぶんしょう2さつだいそう高僧こうそうでん指示しじしょう1さつ名僧めいそうでんようぶんしょう1さつ名僧めいそうでん指示しじしょう1さつ
  • こううららはん華厳経けごんきょうずい演義えんぎ鈔 40かん
  • こん金字こんじ華厳経けごんきょう 80かん
  • こんぎん華厳経けごんきょうざんまきがつどう焼経やけぎょう)20かん
  • 細字さいじ金光かねみつあきらさいかちおうけい まきだいろくいたりまきだいじゅう 1かん
  • ぞく華厳けごんりゃくけい疏刊じょう まきだいだいきゅう上下じょうげだいじゅうさん上下じょうげ 5かん
  • だい威徳いとく陀羅尼だらにけい まきだいいちいたりまきだいじゅう天平てんぴょうじゅうねんがついちにち光明皇后こうみょうこうごうねがいけい)10かん けいちつ 1まい
  • だい般涅槃経 まきだいいちいたりまきだいよんじゅう 40かん
  • だい毘婆すなろん まきだい廿にじゅうさん天平てんぴょうじゅうねんがついちにち光明皇后こうみょうこうごうねがいけい
  • 大方おおがたとうだいしゅう菩薩ぼさつ念仏三昧ねんぶつざんまいけい まきだいいちいたりまきだいじゅう 10かん けいちつ1まいけいくじ1箇)
  • 百法顕幽抄 かんだいいちまつしゅてんほんかいあきらさんねん書写しょしゃ
  • 法華ほっけみつるりゃく まきじょう
  • わたるすなふさが羯磨ほん(みしゃそくこんまぼん)
  • 瑜伽ゆがろん まきだいじゅうだいじゅうさんだいじゅうよんだいじゅうなな天平てんぴょうじゅうねんがついちにち光明皇后こうみょうこうごうねがいけい)4かん
  • 羯磨(こんま)2かん
  • しんおさむ浄土じょうど往生おうじょうでん まき もとさんねんべんあきら書写しょしゃ奥書おくがき
  • まどかあきら上人しょうにん行状ぎょうじょう 凝然ぎょうぜんふで 3かん 正安まさやすよんねん奥書おくがき
  • 東大寺とうだいじ凝然ぎょうぜん撰述せんじゅつしょう疏類 自筆じひつほんきゅうしゅ)146かん
  • 東大寺とうだいじむねせいふで聖教せいきょう并抄ろくほんひゃくじゅうよんしゅ)99かん、347さつ
  • 東大寺とうだいじ要録ようろく 10さつ
  • 東大寺とうだいじ要録ようろくぞくろく 9さつ
  • けんこうけいかみほん墨書ぼくしょ巻物まきもの所在しょざい不明ふめい[ちゅう 7]
古文書こもんじょ歴史れきし資料しりょう
  • 栄西えいさい自筆じひつ唐墨とうぼくひつ献上けんじょうじょう たてひさしねんろくがつ廿にじゅういちにち
  • 越前えちぜんこく使かい桑原くわばらしょうけんだいだいさん)2かん 天平てんぴょうかちたからはちきゅうねん
  • 元久もとひさねんじゅうげん上人しょうにん勧進かんじんじょう
  • 阿弥陀あみだ悔過りょう資財しざいちょう 神護かんごけいくも元年がんねんはちがつ
  • 周防すおうこく阿弥陀寺あみだじりょう田畠たばた注文ちゅうもん 正治しょうじねんじゅういちがつじゅうみなもとばん
  • 宣旨せんじ のべれきじゅうよんねんきゅうがつじゅうよんにち菅野かんの眞道まみち自署じしょ太政官だじょうかん宣旨せんじ のべれきじゅうよんねんがつじゅうにち菅野かんの眞道まみち自署じしょ
  • そうぼう逆修ぎゃくしゅねがい文案ぶんあん 貞慶じょうけいふで けんひさきゅうねんよんがつじゅうにち
  • 東大寺とうだいじだい勧進かんじんそうくだりいさむ自筆じひつ書状しょじょう きゅうがつじゅうろくにち ねんあずかあて
  • 東大寺とうだいじ奴婢ぬひらいとばり 天平てんぴょうかちたからさんねん
  • 二月堂修二会記録文書 293さつ、2,107つう しゅつぎばこ 3ごう
  • 東大寺とうだいじ戒壇かいだんいん指図さしず

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までの指定してい物件ぶっけんについては、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000ねん)による。

くに指定してい史跡しせき

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  • 東大寺とうだいじきゅう境内けいだい - げん境内けいだいふくやく12ヘクタールおよ広範囲こうはんい土地とちくに史跡しせき指定していされている。
  • 東大寺とうだいじ東南とうなんいんきゅう境内けいだい

くに指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

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奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 東大寺とうだいじ真言しんごんいん 6むね 
    • 灌頂どう
    • 表門おもてもん
    • 地蔵堂じぞうどう
    • かみまもる殿どの
    • 閼伽
    • みなみもん
  • 戒壇かいだんいん戒壇かいだんどう
  • 東大寺とうだいじがつどう湯屋ゆや
  • がつどう曼荼羅まんだら
  • 木造もくぞう不動明王ふどうみょうおう坐像ざぞう
  • 金銅かなどう宝塔ほうとう
  • 東大寺とうだいじ戒壇かいだんいん所用しょよう厨房ちゅうぼう用具ようぐ 3くち

奈良ならけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ

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  • 東大寺とうだいじ鏡池かがみいけ棲息せいそくワタカ

奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 絹本けんぽんちょしょく釈迦三尊しゃかさんぞんじゅうろく羅漢らかんぞう 1ぶく

年中ねんじゅう行事ぎょうじ

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東大寺とうだいじがつどう修二しゅうじかい(お松明たいまつ
  • 1がつ1にち 除夜じょやかね鐘楼しゅろう
  • 1がつ1にち – 3にち 正月しょうがつさんにち大仏殿だいぶつでんがつどう
  • 1がつ7にち 修正しゅうせいかい大仏殿だいぶつでん) 悔過法要ほうようおこなわれる。
  • 2がつ3にち 節分せつぶん星祭ほしまつがつどうにちちゅう、「かえみや(げんぐう)」と「節分せつぶんまめまき」がおこなわれる。かえみやとはふるくなったおさつやおまもとうにあげる儀式ぎしきのこと。節分せつぶんまめまきは、午後ごご2ごろ、がつどう舞台ぶたいうえからおこなわれる。「星祭ほしまつり」は、ほしに「じょわざわい与楽ようらく」をいの法会ほうえ夕刻ゆうこくがつ堂本どうもとどうまん灯明とうみょうともし、「ほし曼荼羅まんだら」をかかげてこの法会ほうえつとめる。
  • 3月1にち – 14にち 修二しゅうじかいみずがつどう詳細しょうさいは「修二しゅうじかい」のこう参照さんしょう奈良なら時代じだいじつちゅう和尚おしょうによってはじめられた東大寺とうだいじ代表だいひょうてき行事ぎょうじ。11にんねりぎょうしゅばれる僧侶そうりょ精進潔斎しょうじんけっさいして合宿がっしゅく生活せいかつおくり、がつどう本尊ほんぞんじゅう一面観いちめんかんおんつみ懺悔ざんげし、国家こっか安泰あんたい万民ばんみん豊楽ほうらくとうねがう。内陣ないじんなかでは過去かこちょう読誦とくしょうはしりの行法ぎょうほう韃靼だったん行法ぎょうほうなどの行事ぎょうじおこなわれる。がつどううえ松明たいまつまわす「お松明たいまつ」は3がつ1にち以降いこう連日れんじつおこなわれる。若狭わかさからみず本尊ほんぞんそなえる「おみずり」は3月12にち深夜しんや(13にち未明みめい)におこなわれる。
  • 3月15にち 涅槃ねはんこう 釈迦しゃかにゅう涅槃ねはん記念きねんする法要ほうよう
  • 4がつ8にち ふつせいかい大仏殿だいぶつでん釈迦しゃか誕生たんじょういわう。
  • 4がつ24にち 華厳けごん知識ちしききょう開山かいさんどう一山ひとやま僧侶そうりょ開山かいさんどう参集さんしゅうし、良弁りょうべん僧正そうじょう厨子ずしまえ華厳けごんじゅうせい善智識ぜんちしき曼荼羅まんだらをかけ、華厳経けごんきょうこうじ、法会ほうえおこなう。
  • 5月2にち – 3にち 聖武天皇しょうむてんのうさい 聖武天皇しょうむてんのう御忌ごき法要ほうよう
    • 5月2にち 天皇てんのう殿どの論議ろんぎ法要ほうようしきしゅ稚児ちご行列ぎょうれつ市中しちゅうから大仏殿だいぶつでんかう。到着とうちゃく大仏殿だいぶつでん聖武天皇しょうむてんのうけいさん法要ほうよう舞楽ぶがく奉納ほうのうされる。
    • 5月3にち 山陵さんりょうさい大仏殿だいぶつでん佐保さほ御陵ごりょう大仏殿だいぶつでん出発しゅっぱつし、東大寺とうだいじ一山ひとやま僧侶そうりょ聖武天皇しょうむてんのうをまつる佐保さお御陵ごりょう参拝さんぱいする。帰着きちゃく大仏殿だいぶつでんけんじちゃしき
  • 7がつ5にち しゅんじょうしゅんじょうどう鎌倉かまくら時代じだい大仏だいぶつ復興ふっこうしたじゅうげん法要ほうよう法要ほうよう終了しゅうりょう(11ごろ)から午後ごご4ごろまでごろ非公開ひこうかい秘仏ひぶつじゅうげん上人しょうにん坐像ざぞう国宝こくほう)が一般いっぱん公開こうかいされる。
  • 7がつ28にち 解除かいじょかい(けじょえ、げじょえ)大仏殿だいぶつでん901ねん延喜えんぎ元年がんねん)にはじまる、夏越なごしはらいふか関係かんけいのある法会ほうえ法要ほうようくぐりおこなわれる[48][49]
  • 8がつ7にち 大仏だいぶつぬぐ大仏殿だいぶつでん) 200にんほど僧侶そうりょ関係かんけいしゃが、早朝そうちょうよりがつどう湯屋ゆやきよめ、白装束しろしょうぞくわら草履ぞうり姿すがた大仏殿だいぶつでん集合しゅうごうし、午前ごぜん7よりばち作法さほうおこなわれたのち全員ぜんいんでおけいとなえ、としに1大仏だいぶつさまの「おぬぐい」をおこなう。
  • 8がつ9にち およくがつどう) この参詣さんけいすると46,000かい参詣さんけいしたのとおな功徳くどくられるとつたえられている。
  • 8がつ15にち まんとう供養くようかい大仏殿だいぶつでん盂蘭盆うらぼん(うらぼん)の最終さいしゅう、8がつ15にちよる大仏だいぶつおおくの灯籠とうろうをおそなえする。おぼん帰省きせいできない方々かたがたにもせめて先祖せんぞ供養くようをしていただけるようにという趣旨しゅしで、1985ねんはじめられた。
  • 9月17にち じゅうなながつどう観世音菩薩かんぜおんぼさつ縁日えんにちで、法要ほうようのほかがつ堂前どうまえ広場ひろば盆踊ぼんおどおこなわれる。
  • 10月5にち うたてがいかい 東大寺とうだいじ鎮守ちんじゅ手向とうげさん八幡宮はちまんぐう祭礼さいれい
  • 10月15にち 大仏だいぶつさまあきまつ大仏殿だいぶつでん
  • 12月14にち ふつめいかいがつどうさんせんほとけ画像がぞうふつめいとなえて礼拝れいはいし、年内ねんない罪障ざいしょう消滅しょうめつ祈願きがん
  • 12月16にち 良弁りょうべん開山かいさんどう東大寺とうだいじ開山かいさん良弁りょうべん僧正そうじょう法要ほうよう秘仏ひぶつ良弁りょうべん僧正そうじょう坐像ざぞう金剛こんごう神立かんだつぞう公開こうかいされる。
  • 12月16にち ほうひろかい法華ほっけどう研学けんがくたてよし(けんがくりゅうぎ)とばれる口頭こうとう試問しもんおこなわれる。寺内てらうち華厳けごんさんろんまなぶものが学僧がくそうとしてみとめられるためにはこれに合格ごうかくしなければならない。現在げんざい形式けいしきしている。
  • 12月18にち 香水こうすいわたみずりでまれた若狭わかさみず信者しんじゃあたえられる。

このほか、2002ねん以来いらい毎年まいとし12がつザ・グレイトブッダ・シンポジウムひらかれている。仏教ぶっきょうかんするしょ問題もんだいひろ視野しやちながら厳密げんみつ学問がくもんてき方法ほうほうをもって分析ぶんせき検討けんとうし、その意義いぎあきらかにすることを目的もくてきとする。

著名ちょめい別当べっとう

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前後ぜんご札所ふだしょ

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法然ほうねん上人しょうにんじゅうれいあと
10 法然ほうねんてら - 11 東大寺とうだいじ指図さしずどう - 12 欣浄てら
大和やまと北部ほくぶはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょう
11 えんしょうてら - 12 東大寺とうだいじ真言しんごんいん - 13 たかしとくてら
南都七大寺なんとしちだいじ
1 東大寺とうだいじ - 2 興福寺こうふくじ
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
13 金剛峯寺こんごうぶじ - 14 東大寺とうだいじ - 15 春日大社かすがたいしゃ

拝観はいかん

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  • 国宝こくほう金堂こんどう大仏殿だいぶつでん中門ちゅうもん回廊かいろうより内側うちがわ)・国宝こくほう法華ほっけどうさんがつどう)のどうない戒壇かいだんいん戒壇かいだんどう東大寺とうだいじミュージアムは、通年つうねん有料ゆうりょう拝観はいかんできる。
    • なお、戒壇かいだんいん戒壇かいだんどうは2020ねん7がつからやく3年間ねんかん修理しゅうりおよび耐震たいしん工事こうじはいり、拝観はいかん停止ていしとなっている。内部ないぶ安置あんちされている国宝こくほう四天王してんのうぞう東大寺とうだいじミュージアムにうつされる。また、そのあいだ戒壇かいだんいん千手堂せんじゅどうわりに有料ゆうりょう特別とくべつ公開こうかいされる。
    • 拝観はいかんりょうは2018ねん1がつから、17ねんぶりに値上ねあげ(有料ゆうりょう拝観はいかん箇所かしょ1ヶ所かしょあたり大人おとな500えん→600えん)された。外国がいこくじん観光かんこうきゃく増加ぞうか参拝さんぱい見学けんがくしゃ年間ねんかん300まんにんえるようになったことにともな防犯ぼうはん防火ぼうか対策たいさく伽藍がらん修繕しゅうぜん史跡しせき整備せいび費用ひようてるためとしている[50][51]。また、2024ねん4がつからふたた値上ねあげ(有料ゆうりょう拝観はいかん箇所かしょ1ヶ所かしょあたり大人おとな600えん→800えん)された。
    • 大仏殿だいぶつでん東大寺とうだいじミュージアムの2箇所かしょのみ共通きょうつう割引わりびきけんがある(大人おとな1,200えん)。なお、シーズンちゅう大仏殿だいぶつでん拝観はいかんけん長蛇ちょうだれつができることがある。このようなとき東大寺とうだいじミュージアムで共通きょうつうけん購入こうにゅうみのひと優先ゆうせん入場にゅうじょうができる。
    • 東大寺とうだいじともかい」に入会にゅうかいすると、年会ねんかい5000えんで4がつ開始かいしの1年間ねんかん後述こうじゅつ秘仏ひぶつ有料ゆうりょう拝観はいかんふくめて、すべての有料ゆうりょう拝観はいかん箇所かしょなんかいでも入場にゅうじょうできるので、1年度ねんどあいだに7かい以上いじょう入場にゅうじょうするなら有利ゆうりとなる。また、大仏殿だいぶつでん入場にゅうじょうこう混雑こんざつ優先ゆうせん入場にゅうじょうができる。公式こうしきHPから申込もうしこみ可能かのうである。年度ねんど途中とちゅう入会にゅうかいしても有効ゆうこう期限きげんは3がつ31にちまでであることに注意ちゅうい
    • 大仏殿だいぶつでん毎年まいとし1がつ1にち深夜しんや0から午前ごぜん8までは普段ふだんじている中門ちゅうもんひらかれ、無料むりょう拝観はいかんできる。このあいだ普段ふだんじている大仏殿だいぶつでん唐破風からはふ観相かんそうまどひらかれ、中門ちゅうもんから大仏だいぶつかおおがむことができる。
    • 8がつ15にちまんとう供養くようかいよるは19から22あいだ有料ゆうりょう大仏殿だいぶつでん拝観はいかんができ、この大仏殿だいぶつでん唐破風からはふ観相かんそうまどひらかれる。
    • 大仏殿だいぶつでん日本にっぽん寺院じいんではめずらしく、どうない自由じゆう大仏だいぶつはじめとする仏像ぶつぞう撮影さつえいができる。ただし、三脚さんきゃく使用しようは、禁止きんしされている。[52]
    • 国宝こくほう法華ほっけどうさんがつどう背面はいめん安置あんちされている国宝こくほう金剛こんごうしんひらきとびらとし1かい(12/16)である。法華ほっけどう拝観はいかんりょう大人おとな600えん)で参拝さんぱいできる。この普段ふだんことができない内陣ないじん裏側うらがわはいることができるので、普段ふだんから拝観はいかんできる仏像ぶつぞうぐんちが角度かくどからることができる。
  • 国宝こくほうがつどうは、修二しゅうじかいのおみず行事ぎょうじなどがおこなわれているときのぞき、1ねんちゅう無料むりょうで24あいだ舞台ぶたいづくりどううえがることができる。
  • しゅんじょうどう普段ふだんは閉扉しているが、7がつ5にちしゅんじょう、12月16にち良弁りょうべんには、国宝こくほうしゅんじょう上人しょうにんじゅうげん上人しょうにん坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞうなどを有料ゆうりょう大人おとな600えん)で参拝さんぱいすることができる。
  • 国宝こくほう開山かいさんどう通常つうじょうなかへはれないが、12月16にち良弁りょうべんには国宝こくほう良弁りょうべん僧正そうじょう坐像ざぞうなどを有料ゆうりょう大人おとな600えん)で拝観はいかんすることができる。
  • 勧進かんじんしょ通常つうじょうなかへはれないが、10月5にちてんがいかいには勧進かんじんしょ八幡やはた殿どの安置あんちされている国宝こくほう僧形そうぎょう八幡やはた神像しんぞうひらけとびらされ、勧進かんじんしょ阿弥陀堂あみだどう安置あんち重要じゅうよう文化財ぶんかざい思惟しい阿弥陀如来あみだにょらいぞう勧進かんじんしょおおやけけいどう安置あんち重要じゅうよう文化財ぶんかざいおおやけけい上人しょうにんぞうともに、有料ゆうりょう大人おとな600えん)で拝観はいかんすることができる。
    • 勧進かんじんしょおおやけけいどうは2010ねんから公開こうかいされるようになった。以来いらい4がつ12にちにはおおやけけいどうのみ、10月5にちには前述ぜんじゅつの3どう公開こうかいされていたが、2019ねんから10がつ5にちのみの公開こうかいとなった。また、2020ねん10がつ5にちおおやけけいどうのみ修理しゅうりのため拝観はいかん停止ていしとなり、のこる2どうのみの拝観はいかんとなった。
  • 重要じゅうよう文化財ぶんかざい三昧ざんまいどうよんがつどう)は無料むりょうどうない拝観はいかんできるため、重要じゅうよう文化財ぶんかざい阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざいじゅういちめん観音かんのん立像りつぞうなどを自由じゆう拝観はいかんできる。
  • 重要じゅうよう文化財ぶんかざい念仏ねんぶつどう無料むりょうどうない拝観はいかんできるため、重要じゅうよう文化財ぶんかざい地蔵じぞう菩薩ぼさつ坐像ざぞう拝観はいかんできるが、どうないはいるためにはとなり寺務じむしょ係員かかりいん許可きょか必要ひつようがある。
  • がつどう裏手うらてにある不動堂ふどうどう無料むりょうどうない拝観はいかんできるため、不動明王ふどうみょうおうぞうをはじめとする五大ごだい明王みょうおうぞう拝観はいかんできるが、どうないはいるためにはとなり寺務じむしょ係員かかりいん許可きょか必要ひつようがある。毎月まいつき10にち午前ごぜん10、18にち午後ごご1、28にち午前ごぜん10からどうない護摩ごまぎょうおこなわれており、だれでも参列さんれつできる。
  • 指図さしずどう法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょう札所ふだしょとなっているため、おも休日きゅうじつ無料むりょうどうない拝観はいかんでき、法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう隣接りんせつする写経しゃきょうじょう庭園ていえんなどを拝観はいかんできるほか、朱印しゅいん押印おういんにも対応たいおうしている。10月5にちてんがいかいや、おみず期間きかんとうおおきな行事ぎょうじのあるときひらく。ぎゃく年末年始ねんまつねんしは閉堂する。閉堂法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょう朱印しゅいん押印おういんほんぼう事務所じむしょおこなう。
  • ほんぼう普段ふだん指図さしずどう閉堂法然ほうねん上人しょうにんじゅう霊場れいじょう朱印しゅいん押印おういん各種かくしゅ質問しつもんのために事務所じむしょること以外いがい一般いっぱん公開こうかいはされていないが、毎年まいとし5がつ2にち聖武天皇しょうむてんのうさい命日めいにち法要ほうよう)のさいは8ごろから14ごろまで国宝こくほうほんぼうけい外観がいかん天皇てんのう殿どの外観がいかん庭園ていえんなどが無料むりょう公開こうかいされる。これとはべつ不定期ふていきとし1かい春季しゅんきおおい)3にちほど有料ゆうりょうふすま公開こうかいされ、このとき一部いちぶ建物たてものないはいることができる。
  • 重要じゅうよう文化財ぶんかざいだい湯屋ゆや完全かんぜん非公開ひこうかいだったが、2017ねんはつ特別とくべつ公開こうかいおこなわれ、内部ないぶ重要じゅうよう文化財ぶんかざいてつ湯船ゆぶねなども公開こうかいされた。
  • 塔頭たっちゅう知足ちそくいん本堂ほんどう普段ふだんとびらまっており、本尊ほんぞんである重要じゅうよう文化財ぶんかざい木造もくぞう地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞう非公開ひこうかいであるが、毎年まいとし7がつ24にち地蔵じぞうかいときだけはごく短時間たんじかんであるが無料むりょう公開こうかいされる。あさ8ごろから法要ほうようおこなわれ、はなれたところからぞうのぞむことができ、1あいだあまりの法要ほうよう終了しゅうりょうやく30ふんほどは間近まぢか拝観はいかんできる。拝観はいかんしゃすくなくなったタイミングで閉扉される。
  • 境内けいだい通路つうろは24あいだ自由じゆう通行つうこうできる。したがって、国宝こくほう南大門なんだいもん国宝こくほう金剛力士こんごうりきしぞう国宝こくほう法華ほっけどうさんがつどう)の外観がいかん国宝こくほう鐘楼しゅろう国宝こくほう梵鐘ぼんしょう中門ちゅうもん外観がいかん国宝こくほうてんがいもんなどはいつでも自由じゆう拝観はいかんできる。
  • 国宝こくほう梵鐘ぼんしょう普段ふだんいていないが、除夜じょやかねときのみく。2230ふんごろから配布はいふする整理せいりけんれた一般いっぱん参拝さんぱいしゃが、除夜じょやかねきに参加さんかできる。1かいにつき8にん同時どうじしょうつないてくので、108×8=864にんひと参加さんかできる。
  • 毎年まいとし7がつ中頃なかごろから9がつまつごろまで大仏殿だいぶつでん南大門なんだいもんライトアップおこなわれる。12月31にちよるから元日がんじつ夜明よあけまでもなつほどの規模きぼではないが、大仏殿だいぶつでん南大門なんだいもんのライトアップがおこなわれる。
  • 東大寺とうだいじミュージアムないには、無料むりょうれるミュージアムショップと喫茶店きっさてんがある。

大仏だいぶつによる水銀すいぎん公害こうがいせつ

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もと長崎大学ながさきだいがく教授きょうじゅ白須賀しらすか公平こうへいが『大学だいがくとう環境かんきょう安全あんぜん協議きょうぎかい会報かいほう』に寄稿きこうした論文ろんぶん水銀すいぎん蒸気じょうきじゅうまん推定すいてい都市とし潰滅かいめつ」のなかで、東大寺とうだいじ大仏だいぶつ盧舎那仏るしゃなぶつ建立こんりゅう当時とうじほどこされたきむめっきによる水銀すいぎん公害こうがい平城京へいじょうきょう潰滅かいめつしたとの仮説かせつてている[ちゅう 8]

東大寺とうだいじ要録ようろく』の記録きろくによると、当時とうじほどこされたきむめっきにはかね10,436りょうやく375キログラム)と水銀すいぎん58,620りょうやく2,110キログラム)が使用しようされているが、当時とうじきんメッキ技術ぎじゅつは、かね水銀すいぎん合金ごうきんであるアマルガムをめっき対象たいしょうぶつり、そのほのおによって水銀すいぎん気化きかさせきんだけをのこすという手法しゅほうられていた。白須賀しらすか仮説かせつでは、このさい発生はっせいした大量たいりょう水銀すいぎん蒸気じょうき平城京へいじょうきょうおおい、水銀すいぎん中毒ちゅうどく症状しょうじょう蔓延まんえんしてたたりとおそれられたため、平城京へいじょうきょうはわずか74ねんてられ、長岡京ながおかきょう遷都せんとしたのだとしている。

2006ねん2がつ26にち放送ほうそうされたテレビ朝日てれびあさひ素敵すてき宇宙船うちゅうせん地球ちきゅうごう』のだい418かい水銀すいぎん不思議ふしぎ」は、この仮説かせつもとづいて番組ばんぐみ編成へんせいおこなわれた[53]

社会しゃかい事業じぎょう

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東大寺とうだいじは、光明皇后こうみょうこうごう悲田院ひでんいん施薬せやくいんもうけ、日本にっぽん社会しゃかい事業じぎょうのさきがけとなった寺院じいんであるため、現代げんだい各種かくしゅ社会しゃかい事業じぎょうおこなわれている。

東大寺とうだいじ福祉ふくし療育りょういく病院びょういん
肢体したい不自由ふじゆう施設しせつ東大寺とうだいじせいえん」、重症じゅうしょう心身しんしん障害しょうがい施設しせつ東大寺とうだいじ光明こうみょうえん」、および重症じゅうしょう心身しんしん障害しょうがいしゃ通所つうしょ施設しせつはなあかり」からなり、障害しょうがい子供こどもたちの療育りょういくおこなっている。一般いっぱん整形せいけい外科げかとう外来がいらい入院にゅういん手術しゅじゅつ、リハビリテーションなどもおこなっている。東大寺とうだいじ総合そうごう文化ぶんかセンターの西にしとなり所在しょざいする。
学校がっこう法人ほうじん東大寺とうだいじ学園がくえん
中高なかだか一貫いっかん男子だんし教育きょういくおこなっている。初代しょだい校長こうちょう別当べっとうつとめた清水しみずこうあきら南大門なんだいもん西にしとなりにあったが、現在げんざい山陵さんりょうまち移転いてんしている。
2歳児さいじからの保育ほいく戒壇かいだんどうきたとなり所在しょざいする。
東大寺とうだいじ図書館としょかん
しゅとして仏教ぶっきょう関係かんけい図書としょ仏教ぶっきょう美術びじゅつ古書こしょ古文書こもんじょ考古こうこ資料しりょうとう蒐集しゅうしゅう保存ほぞんし、一般いっぱん閲覧えつらんきょうしている。南都なんとしょてらつたわる文物ぶんぶつ明治めいじ廃仏毀釈はいぶつきしゃく運動うんどう散逸さんいつ消失しょうしつされることをふせぐためもうけられ、現在げんざい東大寺とうだいじ総合そうごう文化ぶんかセンターない所在しょざいする。

周辺しゅうへん施設しせつ名所めいしょ

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アクセス

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鉄道てつどう

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自動車じどうしゃ

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 足立あだち巻一けんいち清水しみずこうあきらしる井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう古寺ふるでら巡礼じゅんれい奈良なら14 東大寺とうだいじあわ交社、1980ねん
  • 川村かわむら知行ともゆき日本にっぽん古寺ふるでら美術びじゅつ6 東大寺とうだいじI(古代こだい)』保育ほいくしゃ、1986ねん
  • 浅井あさい和春かずはる浅井あさい京子きょうこ日本にっぽん古寺ふるでら美術びじゅつ7 東大寺とうだいじII(中世ちゅうせい以降いこう)』保育ほいくしゃ、1986ねん
  • 東大寺とうだいじ監修かんしゅう東大寺とうだいじ南大門なんだいもん仁王におう尊像そんぞう保存ほぞん修理しゅうり委員いいんかいへん仁王におうぞうだい修理しゅうり朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997ねん
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』51 - 53ごう東大寺とうだいじ1 - 3、手向とうげさん神社じんじゃ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん
  • 奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかん東大寺とうだいじ朝日新聞社あさひしんぶんしゃへん東大寺とうだいじのすべて』(特別とくべつてん図録ずろく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2002ねん
  • 東大寺とうだいじへん東大寺とうだいじ学生がくせいしゃ、1999ねん ISBN 4311408072

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 東大寺とうだいじ記録きろくには良弁りょうべん以来いらい歴代れきだい別当べっとう記録きろくされているが、奈良なら時代じだい重要じゅうよう決定けってい文書ぶんしょ別当べっとうではなく三綱さんこう名義めいぎされていることなど矛盾むじゅんおおく、良弁りょうべん東大寺とうだいじ初代しょだい住持じゅうじであったのは事実じじつであるが、実際じっさいかれ就任しゅうにんしたのは「みやつこ東大寺とうだいじ」の別当べっとうであり、東大寺とうだいじ代表だいひょうしゃとしての別当べっとうしょく成立せいりつは「みやつこ東大寺とうだいじ」がはいされた平安へいあん時代じだい初期しょきごろと推定すいていされている。
  2. ^ 仏教ぶっきょうの「金光かねみつあきら」は呉音ごおんで「こんこうみょう」とむことがおおいが、東大寺とうだいじでは公式こうしきサイトで「きんこうみょう - 」を正式せいしきみとしている(参照さんしょう東大寺とうだいじ歴史れきし東大寺とうだいじ公式こうしきサイト)。
  3. ^ 大和やまと国分寺こくぶんじ一般いっぱんそう国分寺こくぶんじ東大寺とうだいじとされるが、『大和やまとこころざし』では橿原かしはら国分寺こくぶんじ比定ひていする(「国分寺こくぶんじ」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 30 奈良ならけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1981ねん)。
  4. ^ もっとも、華厳宗けごんしゅう開山かいさん良弁りょうべんゆかりの宗派しゅうはとして重要じゅうようされ、近代きんだい以前いぜんにおいても日本にっぽんにおける華厳宗けごんしゅう研究けんきゅう中心ちゅうしんとして、多数たすうすぐれた学僧がくそう輩出はいしゅつしていた。
  5. ^ 東西とうざいななじゅうとうかんしては、一時いちじ再建さいけん検討けんとうされたが、木造もくぞうによる完全かんぜん復元ふくげん建築けんちく基準きじゅんほう抵触ていしょくするため、再建さいけん見送みおくられた。
  6. ^ みことかちいん東大寺とうだいじ別当べっとうつとめたひかりさとしてんれき9ねん955ねん)に創建そうけんしたもので、寺内てらうちにおける華厳けごん教学きょうがく拠点きょてんであり、東南とうなんいんなら有力ゆうりょくいんであった。てんがいもん東北とうほくにあったが、室町むろまち時代ときよ廃絶はいぜつし、跡地あとち惣持そうじいんとなった。現在げんざい奈良なら市立しりつばん(つざか)小学校しょうがっこう跡地あとちである。
  7. ^ けんこうけい」は1897ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざいきゅう国宝こくほう)に指定していされているが所在しょざい不明ふめい写真しゃしんのこっていない。
  8. ^ 仏教ぶっきょう美術びじゅつ史家しか杉山すぎやま二郎じろうも『大仏だいぶつ以後いご』(学生がくせいしゃ)で同様どうよう提起ていきしている。続編ぞくへんに『大仏だいぶつ再興さいこう』。

出典しゅってん

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  1. ^ 外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず表現ひょうげん検討けんとうかい (2016ねん1がつ6にち公表こうひょう) (PDF). 地名ちめい英語えいご表記ひょうきおよ外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず記号きごうについて. 国土こくど地理ちりいん. p. 17. https://www.gsi.go.jp/common/000111876.pdf#page=17 
  2. ^ “(ひと)橋村はしむら公英きみひでさん 4がつ奈良なら東大寺とうだいじだい224せい別当べっとういた”. 朝日新聞あさひしんぶん. (2022ねん5がつ31にち). https://www.asahi.com/articles/DA3S15310328.html 2022ねん8がつ5にち閲覧えつらん 
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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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