春日大社かすがたいしゃ

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春日大社かすがたいしゃ

中門ちゅうもんろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 奈良ならけん奈良なら春日野かすがのまち160
位置いち 北緯ほくい3440ふん53びょう 東経とうけい13550ふん54びょう / 北緯ほくい34.68139 東経とうけい135.84833 / 34.68139; 135.84833 (春日大社かすがたいしゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3440ふん53びょう 東経とうけい13550ふん54びょう / 北緯ほくい34.68139 東経とうけい135.84833 / 34.68139; 135.84833 (春日大社かすがたいしゃ)
主祭しゅさいしん 春日しゅんじつしん
たけづちいのちけい主命しゅうめいてん屋根やねいのちうりしん総称そうしょう
神体しんたい ぶたやま神体しんたいやま
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃめい神大しんだい
じゅうしゃうえななしゃ
きゅうかんぬさ大社たいしゃ
みことのりさいしゃ
別表べっぴょう神社じんじゃ
創建そうけん 神護かんごけいくも2ねん768ねん
本殿ほんでん様式ようしき 春日しゅんじつづくり
札所ふだしょとう 神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい15ばん奈良ならだい2ばん
例祭れいさい 3月13にち春日しゅんじつさい
地図ちず
春日大社の位置(奈良市内)
春日大社
春日大社かすがたいしゃ
春日大社の位置(奈良県内)
春日大社
春日大社かすがたいしゃ
春日大社の位置(日本内)
春日大社
春日大社かすがたいしゃ
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いち鳥居とりい
本殿ほんでん背面はいめん手前てまえからだいよん殿どのだいさん殿どのだい殿どのだいいち殿どの

春日大社かすがたいしゃ(かすがたいしゃ、えい: Kasugataisha Shrine[1][注釈ちゅうしゃく 1])は、奈良ならけん奈良なら春日野かすがのまちにある神社じんじゃ式内しきないしゃ名神めいしん大社たいしゃ)、じゅうしゃうえななしゃ)のいちしゃきゅう社格しゃかくかんぬさ大社たいしゃで、現在げんざい神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃ旧称きゅうしょうは「春日しゅんじつしゃ」、かみもんは「がりふじ」。

全国ぜんこくやく1,000しゃある春日しゅんじつ神社じんじゃそう本社ほんしゃである。ユネスコ世界せかい遺産いさんに「古都こと奈良なら文化財ぶんかざい」の1つとして登録とうろくされている。

奈良なら時代じだい神護かんごけいくも2ねん768ねん)に平城京へいじょうきょう守護しゅご国民こくみん繁栄はんえい祈願きがんするために創建そうけんされ、ちゅうしん藤原ふじわら氏神うじがみまつる。主祭しゅさいしんたけづちいのちしろ鹿しかってきたとされることから、鹿しかかみ使とする。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

主祭しゅさいしん以下いかの4はしら総称そうしょうして春日しゅんじつしんばれ、藤原ふじわら氏神うじがみである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

創建そうけん[編集へんしゅう]

かつては藤原ふじわら人間にんげんしかとおれなかった「ふじ鳥居とりい」。後醍醐天皇ごだいごてんのう中宮なかみや珣子内親王ないしんのうおくった和歌わかにもまれた。

奈良なら平城京へいじょうきょう遷都せんとされた和銅わどう3ねん710ねん)、藤原不比等ふじわらのふひと藤原ふじわら氏神うじがみである鹿島かしましんたけづちいのち)を春日しゅんじつぶたやま(みかさやま)にうつしてまつり、春日かすがしんしょうしたのにはじまる[よう出典しゅってん]とするせつもあるが、しゃでんでは、神護かんごけいくも2ねん768ねん)に藤原ふじわらひさししゅ鹿島かしまたけづちいのち香取かとりけい主命しゅうめいと、まいおか神社じんじゃまつられていたてん屋根やねいのちうりかみあわせ、ぶたやまふもとよん殿どの社殿しゃでん造営ぞうえいしたのをもって春日しゅんじつしゃそうまつとしている。ただし、近年きんねん境内けいだい発掘はっくつ調査ちょうさにより、神護かんごけいくも以前いぜんよりこの祭祀さいしおこなわれていた可能かのうせいてきている。

藤原ふじわら隆盛りゅうせいとともに当社とうしゃ隆盛りゅうせいした。平安へいあん時代じだい初期しょきにはかんさいおこなわれるようになった。当社とうしゃ例祭れいさいである春日しゅんじつさいは、賀茂かも神社じんじゃ葵祭あおいまつり石清水八幡宮いわしみずはちまんぐういし清水しみずさいとともにさんみことのりさいひとつとされる。よしみさち3ねん850ねん)にはたけづちいのちけい主命しゅうめいが、てんけい3ねん940ねん)には、朝廷ちょうていからてん屋根やねいのち最高さいこうであるせいいち神階しんかいさずかっている。『延喜えんぎしきかみめいちょう』には「大和やまとこく添上そえかみぐん 春日しゅんじつ祭神さいじんよん」と記載きさいされ、名神めいしん大社たいしゃれっし、月次げつじしん嘗の幣帛へいはくあずかるとしるされている。春日しゅんじつさい当日とうじつ勅使ちょくし藤原ふじわら人間にんげん場合ばあいは、「ふじ鳥居とりい」あるいは「ふじ鳥居とりい」という鳥居とりいをくぐって本殿ほんでんすすんだ。ふじ鳥居とりいは、後醍醐天皇ごだいごてんのうが、元弘もとひろ3ねん1333ねん)12月、中宮なかみや冊立さくりつされた正妃せいひ珣子内親王ないしんのうのためにんだ和歌わかにもうたわれている(『しん千載せんざい和歌集わかしゅう神祇じんぎ・982/『しん和歌集わかしゅう神祇じんぎ・594、珣子内親王ないしんのう#後醍醐ごだいごから珣子へのうた)。

神仏しんぶつ習合しゅうごう[編集へんしゅう]

藤原ふじわら氏神うじがみてら関係かんけいから興福寺こうふくじとの関係かんけいふかく、ひろしひとし4ねん813ねん)に藤原ふじわらふゆ興福寺こうふくじみなみ円堂えんどう建立こんりゅうしたさい、その本尊ほんぞん不空ふくう羂索観音かんのんは、春日かすがしゃだいいち殿どの祭神さいじんたけづちいのち本地ほんじふつであるとされた。神仏しんぶつ習合しゅうごうすすむにつれて春日かすがしゃ興福寺こうふくじ一体いったいのものとなっていくと、春日かすが大明神だいみょうじん法相ほうしょう擁護ようごかみとされ、てんれき元年がんねん947ねん)からは神前しんぜん読経どきょうはじめられた。なお、神前かみまえ読経どきょう当初とうしょ興福寺こうふくじそうだけではなく東大寺とうだいじいん東南とうなんいんそうおこなっていた。かんかず2ねん1100ねん)に白河しらかわ法皇ほうおう神前しんぜんでの一切経いっさいきょう読経どきょうのために一切いっさい経蔵きょうぞう春日しゅんじつしゃ寄進きしんすると同時どうじに、読経どきょうをするのに必要ひつよう経費けいひるための所領しょりょうとして興福こうふく寺子てらこいん大乗だいじょういん越前えちぜんこく坂井さかいぐん河口かこうそう寄進きしんしている。ただし、そう本殿ほんでんがあるうちいんにはれなかった。

11世紀せいきまつから興福寺こうふくじ衆徒しゅとらによる強訴ごうそがたびたびおこなわれるようになったが、その手段しゅだんとして、春日かすがしゃ神霊しんれいうつしたさかき神木しんぼく)をほうじて上洛じょうらくする「神木しんぼく動座どうざ」があった。もうこのころには春日しゅんじつしゃ興福寺こうふくじわせて「春日かすが興福寺こうふくじ」としょうせられるようになっていった。

このころになると、だいいち殿どのたけづちいのち本地ほんじふつ不空ふくう羂索観音かんのんだい殿どのけい主命しゅうめい本地ほんじふつ薬師やくし如来にょらいだいさん殿どのてん屋根やねいのち本地ほんじふつ地蔵じぞう菩薩ぼさつだいよん殿どのうりしん本地ほんじふつじゅういちめん観音かんのん若宮わかみやしゃてん押雲いのち本地ほんじふつ文殊もんじゅ菩薩ぼさつとされるようになっていた。

興福寺こうふくじ一体化いったいかした結果けっか永久えいきゅう4ねん1116ねん)3がつ6にち関白かんぱく藤原ふじわら忠実ちゅうじつによって回廊かいろうかこまれた五重塔ごじゅうのとう建立こんりゅうされた。このとう春日西かすがにしとうや「殿下でんかとう(でんかのみとう)」とばれた。いでのべ6ねん1140ねん)10がつ29にちには鳥羽とば上皇じょうこうによって回廊かいろうかこまれたかいきの五重塔ごじゅうのとう建立こんりゅうされた。このとう春日東かすがひがしとうや「いんとう(いんのみとう)」とばれた。こうして興福寺こうふくじとも春日しゅんじつしゃおおいに繁栄はんえいし、隆盛りゅうせいほこった。

しかし、興福寺こうふくじ東大寺とうだいじ平清盛たいらのきよもり対立たいりつするとうけたまわ4ねん1181ねん)12月28にち平重衡たいらのしげひらによって南都なんと焼討やきうちおこなわれた。これにより、春日かすがしゃ隣接りんせつしている興福寺こうふくじ東大寺とうだいじはほぼ全焼ぜんしょうし、壊滅かいめつてき被害ひがいこうむった。その一方いっぽう春日しゅんじつしゃ春日西かすがにしとうひがしとう焼失しょうしつしたほかとうてら春日しゅんじつしゃ摂社せっしゃ現在げんざい大神神社おおみわじんじゃさかいがい摂社せっしゃとなっているりつかわ神社じんじゃ全焼ぜんしょうする被害ひがいたが、主要しゅようはからくも被害ひがいまぬかれた。

また、このころにはだいいち殿どのたけづちいのち本地ほんじほとけ貞慶じょうけいとなえるあらたなせつ準拠じゅんきょとし、不空ふくう羂索観音かんのんから釈迦如来しゃかにょらい変更へんこうしている。

春日東かすがひがしとうたてたもつ5ねん1217ねん)に再建さいけんされ、春日西かすがにしとうたからおさむ年間ねんかん1247ねん - 1249ねんごろまでに再建さいけんされたが、おうひさし18ねん1411ねんうるう10がつ15にち雷火らいかによって興福寺こうふくじの4代目だいめ東金とうがねどう、5代目だいめ五重塔ごじゅうのとうだい湯屋ゆやとも焼失しょうしつし、以後いご再建さいけんされなかった。

春日しゅんじつ信仰しんこう貴族きぞくだけではなく武家ぶけ町人ちょうにんからもあつ信仰しんこうけた。そのさい信者しんじゃ燈籠とうろう寄進きしんしたために春日大社かすがたいしゃ日本にっぽん一番いちばん燈籠どうろうおおくある神社じんじゃとなっている。そのかずいし燈籠どうろうやく2,000つり燈籠どうろうやく1,000である。なかでも全国ぜんこくにある室町むろまち時代ときよいし燈籠どうろうのうちの7わり春日大社かすがたいしゃのものである。

鎌倉かまくら時代ときよ以降いこう鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ大和やまとこくには守護しゅご設置せっちせず、興福寺こうふくじがそのわりをおこなっていた。興福寺こうふくじ大和やまとこく国人くにびと興福寺こうふくじぞくする衆徒しゅと春日かすがしゃぞくする国民こくみんとして統制とうせいし、全国ぜんこくにある広大こうだい荘園しょうえんから収入しゅうにゅうてその勢力せいりょくほこった。しかし、戦国せんごく時代じだいになると全国ぜんこく荘園しょうえん各地かくち武将ぶしょう横領おうりょうされて収入しゅうにゅう激減げきげんし、興福寺こうふくじ衆徒しゅとであった筒井つつい順慶じゅんけいなどが織田おだ信長のぶなが家臣かしんとなるなどし、興福寺こうふくじ春日かすがしゃ威勢いせいはすこぶるおとろえていった。天正てんしょう8ねん1580ねん)には興福寺こうふくじは2まん1,000せき春日かすがしゃは1,400せき石高こくだかしかなくなっていた。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか統一とういつぶんろく4ねん1595ねん)には、春日かすがしゃ秀吉ひでよしにより大和やまとこく添上そえかみぐん大柳生おおやぎゅう東九条とうくじょう中城なかしろ大江おおえに3,206せき所領しょりょうみとめられた。そのうちの1,554せき社家しゃけ所領しょりょうである。

江戸えど時代じだいになると、江戸えど幕府ばくふによって元和がんわ3ねん1617ねん)に興福寺こうふくじ春日かすがしゃ両方りょうほうして2まん1,119せき石高こくだかのみみとめられた。

寛文ひろふみ2ねん1662ねん)には幕府ばくふから興福寺こうふくじ薪能たきぎのうに300せき春日かすがしゃおんさいのうに200せき永代えいたい寄進きしんされている。

神仏しんぶつ分離ぶんり[編集へんしゅう]

慶応けいおう4ねん1868ねん)にされた神仏しんぶつ分離ぶんりれいは、全国ぜんこく廃仏毀釈はいぶつきしゃくこし、春日かすがしゃ一体いったい信仰しんこう神仏しんぶつ習合しゅうごうおこなわれていた興福寺こうふくじおおきな打撃だげきをこうむった。興福寺こうふくじ別当べっとうだった一乗院いちじょういんおよび大乗だいじょういん門主もんしゅ早々そうそう還俗げんぞくし、それぞれ水谷みずたにがわ松園まつぞの名乗なのった(奈良なら華族かぞく)。18かてらあった末寺まつじとは本末ほんまつ関係かんけい解消かいしょうし、83かてらいん、6つのぼうすべ廃止はいしされ、そう全員ぜんいん自主じしゅてき還俗げんぞくし、とりあえず「しんかみ」として春日しゅんじつしゃ使つかえることとなった。また、春日かすがしゃなかにあった興福寺こうふくじ関連かんれん建物たてもの名称めいしょう変更へんこうされて使用しようされたり、やぶ処分しょぶんにされたりし、仏像ぶつぞう仏具ぶつぐ一切いっさい撤去てっきょされ徹底的てっていてき仏教ぶっきょうしょく排除はいじょされていき、完全かんぜん春日しゅんじつしゃ興福寺こうふくじ分離ぶんりされた。

興福寺こうふくじが、その存続そんぞくさえあやぶまれていた時期じきである1871ねん明治めいじ4ねん)、春日かすがしゃ社名しゃめいを「春日かすが神社じんじゃ」に改称かいしょうするとともかんぬさ大社たいしゃれっし「かんぬさ大社たいしゃ春日かすが神社じんじゃ」となった。結局けっきょく興福寺こうふくじ境内けいだい大半たいはん奈良公園ならこうえんにされたものの、存続そんぞくゆるされた。

1936ねん昭和しょうわ11ねん2がつ21にち河内かわうち大和やまと地震じしん発生はっせいいし灯篭とうろうたおれるなどの被害ひがいしょうじた[2]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)12月、近代きんだい社格しゃかく制度せいど廃止はいしともない、このままではたんに「春日かすが神社じんじゃ」となってしまい、おおくの春日しゅんじつ神社じんじゃ混同こんどうされてしまうので、これをけるために社名しゃめいを「春日大社かすがたいしゃ」に改称かいしょうしている。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)に神社じんじゃ本庁ほんちょう別表べっぴょう神社じんじゃれつされている。

1998ねん平成へいせい10ねん)にユネスコ世界せかい遺産いさん文化ぶんか遺産いさん)に「古都こと奈良なら文化財ぶんかざい」の1つとして登録とうろくされた。

創建そうけん以来いらいほぼ20ねんいち本殿ほんでん位置いちえずにえもしくは修復しゅうふくおこな神宝しんぽう新調しんちょうおこなう「式年しきねんづくりがえ」をおこなってきており、最近さいきんでは2015ねん平成へいせい27ねん)から2016ねん平成へいせい28ねん)にかけてだい60式年しきねんづくりがえおこなわれた[3]

現在げんざい当社とうしゃでは年間ねんかんせんひゃくあまり祭祀さいし日々ひびおこなわれている。

また、明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりおこなわれたとはいえ、現在げんざいでも伝統でんとうとして1がつ2にちおこなわれているきょうはじめしきなみ興福寺こうふくじ貫首かんじゅしゃさんしきでは興福寺こうふくじそうにより神前かみまえ読経どきょうおこなわれている。

境内けいだい[編集へんしゅう]

  • 本殿ほんでん - 本殿ほんでん春日しゅんじつづくりで4むねならんでっている。拝殿はいでんはなく、一般いっぱん参拝さんぱいしゃぬさ殿どのから参拝さんぱいおこなう。初穂はつほりょうおさめて特別とくべつ拝観はいかんもうんだ場合ばあい本殿ほんでんまえ中門ちゅうもんから参拝さんぱいすることになる。だいいち殿どのだい殿どのあいだにはいわのこされている。かつては本殿ほんでん大宮おおみやばれていた。
  • 中門ちゅうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 楼門ろうもん慶長けいちょう18ねん1613ねん再建さいけん正面しょうめんにある唐破風からはふ明治めいじ時代じだいけられたもの。
  • 力雄りきお飛来ひらい天神てんじんしゃ参拝さんぱいしょ - 中門ちゅうもんなかにある手力てじからゆう神社じんじゃ飛来ひらい天神てんじんしゃ参拝さんぱいしょ
  • 西にしろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう18ねん(1613ねん再建さいけんかくろうかく回廊かいろうには奉納ほうのうされたやく1,000にもおよつり燈籠どうろうならぶ。まん燈籠どうろうさいにはこれも奉納ほうのうされたやく2,000ものいし燈籠どうろうをもわせてすべての燈籠とうろうあかりがともされる。明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりまでは唯識ゆいしきこうろうばれていた。
  • ひがしろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう18ねん(1613ねん再建さいけん明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりまでは一切経いっさいきょうろうばれていた。
  • きたろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう18ねん(1613ねん再建さいけん明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりまではじょうこうろうばれていた。
  • いたぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい9ねん1632ねん再建さいけん。そもそもは平安へいあん時代じだいかんかず2ねん1100ねん)に白河しらかわ法皇ほうおうによって寄進きしんされた一切いっさい経蔵きょうぞうである。室町むろまち時代ときよから明治めいじ時代じだい神仏しんぶつ分離ぶんりまでは八講はっこうくらばれていた。
  • 備殿(そなえどの、こう殿しんがり) - 本殿ほんでんのすぐうらにある。
  • 藤波ふじなみこれ - 内部ないぶくらくされており、105もの燈籠とうろうによってまん燈籠どうろう再現さいげんされている。もとは神職しんしょく詰所つめしょである。
  • ねじろう(ねじろう、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 宝永ほうえい4ねん - 6ねん1707ねん - 1709ねん再建さいけん。かつてはとうろう(とうろう)とばれていた。ひだり甚五郎じんごろうてたとされている。
  • 林檎りんごにわ - にわ一角いっかく林檎りんごっているが、そもそもの林檎りんご高倉天皇たかくらてんのうのお手植てうえである。
  • ぬさ殿どのまい殿どの(へいでん・ぶでん、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶安けいあん3ねん - 5ねん1650ねん - 1652ねん再建さいけん東側ひがしがわ2あいだぬさ殿どの西側にしがわ3あいだまい殿どのとなっている。
  • 直会なおらい殿どの(なおらいでん、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶安けいあん3ねん - 5ねん(1650ねん - 1652ねん再建さいけん。かつては八講はっこうこれ(はっこうのや)ともばれた。平安へいあん時代じだい以降いこう、ここで法華ほっけはちこうおこなわれていた。
  • 社頭しゃとう大杉おおすぎ - だいすぎ樹齢じゅれいは1,000ねん大杉おおすぎ根元ねもとからは樹齢じゅれい500ねんかしわまき伊吹いぶきともいう)がえており、直会なおらい殿どの屋根やね一部いちぶやぶってびている。
  • 内侍ないし殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - うつり殿でん(うつしどの)とばれる。至徳しとく2ねん - よしみけい2ねん1385ねん - 1388ねん再建さいけん。20ねんいちみやつこがえさい本殿ほんでん若宮わかみやかみうつところ
  • 宝庫ほうこ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - えいいさお2ねん - 至徳しとく2ねん1382ねん - 1385ねん再建さいけんいた校倉あぜくらづくり。かつては宝蔵ほうぞうばれていた。
  • ひがし回廊かいろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん1596ねん - 1615ねん再建さいけん
  • 影向ようごうもん
  • みなみもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - えいいさお2ねん - 至徳しとく2ねん(1382ねん - 1385ねん再建さいけん
  • みなみ回廊かいろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん再建さいけん
  • 慶賀けいがもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - えいいさお2ねん - 至徳しとく2ねん(1382ねん - 1385ねん再建さいけん天井てんじょう格天井ごうてんじょうとなっている。
  • 西にし回廊かいろう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう年間ねんかん(1596ねん - 1615ねん再建さいけん
  • 清浄せいじょうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - えいいさお2ねん - 至徳しとく2ねん(1382ねん - 1385ねん再建さいけん。かつては僧正そうじょうもんばれていた。
  • 内侍ないしもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - えいいさお2ねん - 至徳しとく2ねん(1382ねん - 1385ねん再建さいけん
  • 額塚すくもづか - かつてみなみもんにはかみがく鹿嶋かしま大明神だいみょうじん」がかかげられていたが、落雷らくらいくだけてここにち、それをめた場所ばしょ
  • ぶたやま浮雲うきぐもほう遙拝ようはいしょ
  • 本宮もとみや神社じんじゃ遙拝ようはいしょ
  • 間道かんどう(おあいみち) - 若宮わかみや神社じんじゃへの参道さんどう参道さんどうわきには奉納ほうのうされた沢山たくさんいし灯籠どうろうならぶ。
  • だいくすのき - さんほんくすのきひとつにわさったもの。神功じんぐう皇后こうごうのお手植てうえとされる。
  • 竹柏なぎなぎくに指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 護摩壇ごまだん - 空海くうかいがここで護摩ごまいて祈願きがんしたという。
  • 伊勢いせ遥拝ようはいせき
  • いたる殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - おうひさし20ねん1413ねん再建さいけん
  • ふじ鳥居とりい
  • 築地つきじへい - ふじ鳥居とりいはさんで南北なんぼくにある。創建そうけん当初とうしょからのものだという。
  • かまど殿どの(へついどの、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - よしみけい2ねん(1388ねん再建さいけん
  • さけ殿どの(さかどの、重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい9ねん(1632ねん再建さいけんさだかん元年がんねん859ねん)に創建そうけんされたとされているが、天平てんぴょうかちたから2ねん750ねん)にはすでにてられていたともいう。
  • 社務しゃむしょ - 1984ねん昭和しょうわ59ねん)11月6にちちく
  • けいくも殿どの - 1984ねん昭和しょうわ59ねん)11月6にちちく
  • 貴賓きひんかん奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - ときかん。もとは1926ねん大正たいしょう15ねん)11月14にちてられた社務しゃむしょじゅうもりさんれいさくによる中庭なかにわきたにわがある。
  • 祖先そせん祭場さいじょう - もとは大炊おおい殿でんで、明治めいじ時代じだいからは御供ごくうしょとなっていた。その改築かいちくして茶室ちゃしつ寿ことぶきがつかん」にあらためられていた。1998ねん平成へいせい10ねん)からは祖先そせん祭場さいじょうとなっている。
  • かつらあきら殿どの奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 徳川とくがわ綱吉つなよしははかつらあきらいんによる建立こんりゅう
    • よんきゃくもん奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい) - 春日かすがしゃ所在しょざいした興福寺こうふくじ参籠さんろうしょのひとつかみ(かみのや)のもんを、明治めいじ時代じだい移築いちくしたものとされる一方いっぽうで、安居あんきょ勅額ちょくがくもんであったともされる。
  • 新建しんたけ(しんだて) - もとは1893ねん明治めいじ26ねん)にてられたみなみとう1912ねん明治めいじ45ねん)にてられたきたとうからなる社務しゃむしょ。1926ねん大正たいしょう15ねん)にあたらしい社務しゃむしょげん貴賓きひんかん)がてられると結婚式けっこんしきじょうとされた。1955ねん昭和しょうわ30ねん)からはお茶席ちゃせき研修けんしゅうじょうとなった。
  • 祈祷きとうしょ - もとは安居あんきょあと1935ねん昭和しょうわ10ねん)4がつ1にちてられた宝物ほうもつかん1996ねん平成へいせい8ねん)5がつから祈祷きとうしょとなった。
  • ふく鹿しか手水ちょうずしょ - せている鹿しかぞうした手水ちょうずがある。
  • くるましゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい9ねん(1632ねん建立こんりゅう
  • 国宝こくほう殿どの - もとは谷口たにぐち吉郎よしろう設計せっけい1973ねん昭和しょうわ48ねん)5がつ19にち開館かいかんした宝物殿ほうもつでん2016ねん平成へいせい28ねん)10がつ1にちにリニューアルされて国宝こくほう殿どのとなった。352てん国宝こくほうはじ様々さまざま物品ぶっぴん収蔵しゅうぞうされている。
  • 感謝かんしゃ共生きょうせいかん - 2005ねん平成へいせい17ねん)4がつちく多目的たもくてきホール。
  • 萬葉まんよう植物しょくぶつえん - 1873ねん明治めいじ6ねん)につくられた鹿しかえん移転いてんしたのでそのつくられた。1932ねん昭和しょうわ7ねん)10がつ1にち開園かいえんふじえんには20種類しゅるいやく200ほんものふじえられている。
  • うまとめきょう - ろくきょう(ろくいのはし)や、鹿しかどうきょう(ろくどうのはし)ともばれる。鎌倉かまくら時代ときよには春日野かすがのしたには地獄じごく春日かすが地獄じごくがあるとのかんがえがまれたが、このはしはその春日しゅんじつ地獄じごく入口いりくちとされた。
  • 鹿しかえん - 1929ねん昭和しょうわ4ねん)6がつ5にち開園かいえん。1873ねん明治めいじ6ねん)につくられた鹿しかえん移転いてんし、あらたにつくられたもの。
  • 火野ひの - この周辺しゅうへん1890ねん明治めいじ23ねん)から1925ねん大正たいしょう14ねん)まで皇室こうしつりょう春日野かすがの御料地ごりょうちとされていた。天皇てんのう離宮りきゅうてられる予定よていであったがてられることはなかった。
  • 雪消ゆきげさわ(ゆきげのさわ)
  • 若宮わかみや御旅所おたびしょ
  • 春日西かすがにしとうあと - 回廊かいろうかこまれた五重塔ごじゅうのとうあと殿下でんかとう(でんかのみとう)とばれた。礎石そせきのこる。永久えいきゅう4ねん1116ねん)3がつ6にち関白かんぱく藤原ふじわら忠実ちゅうじつによって建立こんりゅうされたが、うけたまわ4ねん1180ねん)に平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうち焼失しょうしつした。たからおさむ年間ねんかん1247ねん - 1249ねんごろまでに再建さいけんされたが、おうひさし18ねん1411ねんうるう10がつ15にち雷火らいかによって興福寺こうふくじの4代目だいめ東金とうがねどう、5代目だいめ五重塔ごじゅうのとうだい湯屋ゆやとも焼失しょうしつした。
  • 春日東かすがひがしとうあと - 回廊かいろうかこまれたかいきの五重塔ごじゅうのとうあといんとう(いんのみとう)とばれた。礎石そせきのこる。のべ6ねん1140ねん)10がつ29にち鳥羽とば上皇じょうこうによって建立こんりゅうされたが、うけたまわ4ねん(1180ねん)に平重衡たいらのしげひらによる南都なんと焼討やきうち焼失しょうしつした。たてたもつ5ねん1217ねん)に再建さいけんされたが、おうなが18ねん(1411ねんうるう10がつ15にち雷火らいかによって興福寺こうふくじの4代目だいめ東金とうがねどう、5代目だいめ五重塔ごじゅうのとうだい湯屋ゆやとも焼失しょうしつした。
  • 馬出まいだしきょう(まだしのはし) - 競馬けいば流鏑馬やぶさめ始点してんである。
  • 影向ようごうまつ - のう舞台ぶたい鏡板かがみいたえがかれているまつはこのまつがモデルである。
  • 一之かずゆき鳥居とりい重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい11ねん1638ねん再建さいけんたかさ7.75m。気比けひ神宮じんぐう厳島いつくしま神社じんじゃ大鳥居おおとりいならぶ「日本にっぽんさん大鳥居おおとりい」のひとつ。
  • だい宿所しゅくしょ - 春日かすが若宮わかみやおんさいのための建物たてもの餅飯殿もちいどのまちにある。

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

摂社せっしゃ[編集へんしゅう]

  • 若宮わかみや神社じんじゃ - かつては若宮わかみやしゃばれていた。現在げんざい摂社せっしゃであるが、かつては本殿ほんでんじゅんじるものとされていた。
    • 本殿ほんでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 祭神さいじんてん押雲いのちうりしん御子みこしんである。文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん再建さいけん春日かすが若宮わかみやおんさい有名ゆうめいである。
    • はいしゃ重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん再建さいけん
    • 神楽かぐら殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう10ねん1605ねん再建さいけんきた3あいだほそ殿でんなかの1あいだろうみなみ6あいだ神楽かぐら殿どのとなっている。
    • 手水ちょうず重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 寛永かんえい9ねん - 10ねん(1632ねん - 1633ねん再建さいけんおおきな建物たてもの現在げんざい社務しゃむしょとなっている。また、内部ないぶには夫婦ふうふ大国たいこくしゃまつられている。
  • 本宮もとみや神社じんじゃ - 祭神さいじんたけづちいのちけい主命しゅうめいてん屋根やねいのち式内しきないしゃぶたやま山頂さんちょうにある最初さいしょたけづちいのちまつられていた場所ばしょっている。
  • 榎本えのもと神社じんじゃ - 祭神さいじんさる田彦たびこ大神だいじん式内しきないしゃ祭神さいじん当地とうち地主じぬししんであり、元々もともとこのまつられていたかみであるとされる。中世ちゅうせいまでは祭神さいじん巨勢こせひめ明神みょうじんとされていた。
  • 水谷みずたに神社じんじゃ - 祭神さいじん戔嗚いのちだいおのれ貴命きめい稲田いなだひめいのち。かつては牛頭ごず天王てんのうとしてまつられていた。本殿ほんでんしたにはいわのこされている。
  • 紀伊きい神社じんじゃ - かつては木宮きのみやしゃばれていた。また、おくいんともばれていた。

末社まっしゃ[編集へんしゅう]

  • 手力てじからゆう神社じんじゃ - 祭神さいじんてんしゅ力雄りきおかみ
  • 飛来ひらい天神てんじんしゃ - 祭神さいじんてん御中おんちゅう主神しゅしん
  • はち雷神らいじんしゃ八龍神はちりゅうじんしゃ) - 祭神さいじんだい雷神らいじんそとなな雷神らいじん
  • 栗柄くりから神社じんじゃ - 祭神さいじんせりいのち
  • 海本かいもと神社じんじゃ - 祭神さいじん大物おおもの主神しゅしん
  • 杉本すぎもと神社じんじゃ - 祭神さいじん大山おおやま咋神
  • ぐん神社じんじゃ - 祭神さいじん布津ふつれい
  • あおさかき神社じんじゃ - 祭神さいじんあおかずぬさ
  • からしさかき神社じんじゃ - 祭神さいじん白和しらわぬさ
  • あなぐり神社じんじゃ - 祭神さいじんあなしん
  • 井栗いぐり神社じんじゃ - 祭神さいじんこう御産おさん霊神れいじん
  • 岩本いわもと神社じんじゃ - 祭神さいじんひょうとうおとこいのちちゅうとうおとこいのちそことうおとこいのち。かつては住吉すみよししゃばれていた。明治めいじ時代じだい初期しょきになって、べつ末社まっしゃ住吉すみよし神社じんじゃがあるので混同こんどうけるため名称めいしょう変更へんこうした。
  • 多賀たが神社じんじゃ - 祭神さいじん弉諾いのちじゅうみなもと上人しょうにん東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん再建さいけんするさい長寿ちょうじゅ祈願きがんしたという。
  • 椿つばきほん神社じんじゃ - 祭神さいじん角振つのふりしん祭神さいじん別名べつめいはやぶさ明神みょうじん」ともばれる。
  • かぜみや神社じんじゃ - 祭神さいじん級長きゅうちょう彦神、級長きゅうちょうひめしん
  • つうあい神社じんじゃ - 祭神さいじんちゅうしんゆうぼう朝臣あそん若宮わかみや神社じんじゃきたにある。
  • 手力てじからゆう神社じんじゃ - 祭神さいじんてん手力てじからゆうしん若宮わかみや神社じんじゃみなみにある。
  • さんりん神社じんじゃいちわらわ神社じんじゃ) - 祭神さいじんしょう彦名ひこないのち
  • へい主神しゅしんしゃ - 祭神さいじんだいおのれ貴命きめい
  • 南宮なんぐう神社じんじゃ - 祭神さいじん金山かなやま彦神
  • 広瀬ひろせ神社じんじゃ - 祭神さいじんくらいねたましいしん
  • 葛城かつらぎ神社じんじゃ掛橋かけはし神社じんじゃ) - 祭神さいじん一言ひとことぬしかみ
  • さんじゅうはちしょ神社じんじゃ - 祭神さいじん弉諾いのち弉冊いのちかみ日本にっぽんいわあまり彦命。かつては若宮わかみや神社じんじゃ中社なかやしろ摂社せっしゃ)であった。
  • 佐良さら神社じんじゃ - 祭神さいじん蛭子えびすかみ
  • 夫婦ふうふ大国たいこくしゃ大国たいこく神社じんじゃ) - 祭神さいじんだい国主こくしゅいのち須瀬ひめいのち日本にっぽん唯一ゆいいつ大国たいこく主夫しゅふつままつっているしゃ若宮わかみや神社じんじゃ手水ちょうずなかにある。
  • きむりゅう神社じんじゃ - 祭神さいじん金龍きんりゅう大神だいじん後醍醐天皇ごだいごてんのうゆかりの神社じんじゃであり、「禁裡きんり殿どの」ともばれる。
  • 宗像むなかた神社じんじゃ - 祭神さいじん市杵島いきしまひめいのち神仏しんぶつ分離ぶんりまでは弁才天べんざいてんしゃばれていた。空海くうかいてんかわ弁財天べざいてん勧請かんじょうしたものという。
  • 住吉すみよし神社じんじゃ - 祭神さいじんひょうとうおとこいのちちゅうとうおとこいのちそことうおとこいのち
  • いちめぐみ毘須神社じんじゃ - 祭神さいじん事代ことしろぬしいのち
  • 船戸ふなと神社じんじゃ - 祭神さいじん衝立ついたて船戸ふなとしん
  • そうみや神社じんじゃ - 祭神さいじん伊勢いせしん春日しゅんじつしん八幡はちまん大神おおがみ。もとは興福寺こうふくじ五重塔ごじゅうのとう鎮守ちんじゅしゃとしてかみひさし3ねん726ねん)に五重塔ごじゅうのとうのそばに創建そうけんされたが、1875ねん明治めいじ8ねん)に現在地げんざいち移築いちく。この場所ばしょには興福寺こうふくじ安居あんきょがあった。
  • 一言ひとこと主神しゅしんしゃ - 祭神さいじん一言ひとことぬしかみ。もとは興福こうふく寺南てらみなみ円堂えんどう鎮守ちんじゅしゃとして平安へいあん時代じだい初期しょきみなみ円堂えんどうのそばに創建そうけんされたが、1875ねん明治めいじ8ねん)に現在地げんざいち移築いちく
  • 龍王りゅうおうしゃ - 祭神さいじん龍王りゅうおう大神だいじん2018ねん平成へいせい30ねん)にやく140ねんぶりに再興さいこうされた。
  • つぼしん神社じんじゃ - 祭神さいじんさけわたるまめ男神おかみさけわたるまめうりしん
  • はらい戸神とかみしゃ - 祭神さいじんひめかみ二之にの鳥居とりいよこにある。参拝さんぱいしゃはここでまずきよめてから参拝さんぱいするのがならわしとなっている。『南安曇みなみあずみぐん』の記述きじゅつなどから、本殿ほんでんだいよん殿どのまつられているうりしんとは、もともとはひめのことであったとするせつもある。江戸えど時代じだいまでは摂社せっしゃであった。
  • かまど殿どの神社じんじゃ - 祭神さいじん興津おきつ彦神、興津おきつひめしんかまど殿どのまつられている。
  • 酒殿さかど神社じんじゃ - 祭神さいじんさけわたるまめ男神おかみさけわたるまめうりしんさけ殿どのまつられている。
  • 愛宕あたご神社じんじゃ - 祭神さいじんさん霊神れいじん。もとは興福寺こうふくじいん四恩しおんいんまつられていたもの。
  • ひじりあきら神社じんじゃ - 祭神さいじんせい明神みょうじん。もとは興福寺こうふくじいん四恩しおんいんまつられていたもの。
  • 浮雲うきぐも神社じんじゃ - 祭神さいじんてん屋根やねいのち。もとは興福寺こうふくじいん四恩しおんいんまつられていたもので、四恩しおんいん木造もくぞうじゅうさんじゅうとう鎮守ちんじゅしゃであった。そばにあるしがらみこうがわ奈良なら春日野かすがの国際こくさいフォーラム いらか〜I・RA・KA〜敷地しきちとなっているが、ここに四恩しおんいんがあった。現在げんざいいらか庭園ていえんみなみにはじゅうさんじゅうとうあと礎石そせきのこる。祭神さいじん本宮ほんぐう神社じんじゃ祭神さいじん同体どうたいであるという。
  • 天神てんじんしゃ - 祭神さいじんてんつねたてみこと。もとは興福寺こうふくじいん四恩しおんいんまつられていたもの。かつての北野きたのしゃ祭神さいじん勧請かんじょうしたものという。
  • 拍子ひょうし神社じんじゃ - 祭神さいじん拍子ひょうししん創建そうけんえいたもつ元年がんねん1081ねん)。

さかいがい末社まっしゃ[編集へんしゅう]

  • 雷神らいじんしゃ - 祭神さいじん天水てんすいぶんしん式内しきないしゃ春日山かすがやまにある。そばにはどんな渇水かっすいでもみずれないという龍王りゅうおうがある。
  • 神野かみの神社じんじゃ - 祭神さいじんそくしんそくしん崇道盡敬皇帝すどうじんけいこうてい春日山かすがやまにある。
  • 上水じょうすい谷神やちかみしゃ - 祭神さいじん春日しゅんじつよん若宮わかみや水谷みずたにかみ猿田さるた彦神、はらい戸神とかみ春日山かすがやまにある。
  • 大神神社おおみわじんじゃ - 祭神さいじん大物おおもの主神しゅしん春日山かすがやまにある。
  • 高山たかやま神社じんじゃ - 祭神さいじん春日しゅんじつよん若宮わかみやはらい戸神とかみ水谷みずたにかみ春日山かすがやまにある。
  • あかちち神社じんじゃ - 祭神さいじんやや咩神
  • しろちち神社じんじゃ - 祭神さいじん志那しなべんしん
  • 手力てじからゆう神社じんじゃ - 祭神さいじんてん手力てじからゆうしん。もとは興福寺こうふくじ三重みえとう鎮守ちんじゅしゃだとおもわれる。
  • 采女うねめ神社じんじゃ - 祭神さいじん采女うねめいのち猿沢さるさわよこにある。
  • 野上のかみ神社じんじゃ - 祭神さいじん草野くさのひめいのち
  • いし荒神こうじんしゃ - 祭神さいじんさん霊神れいじん
  • 南市みなみいちめぐみ毘須神社じんじゃ - 祭神さいじん事代ことしろ主命しゅうめい
  • 高天こうてんめぐみ毘須神社じんじゃ - 祭神さいじん事代ことしろ主命しゅうめい
  • はつみや神社じんじゃ - 祭神さいじん宮中きゅうちゅう八神やがみ殿どの伊勢いせしん春日かすがしん住吉すみよしかみ平城ひらじろみやにあった神祇官じんぎかん八神やがみ殿どの後身こうしんで、藤原ふじわら道長みちながによって再興さいこうされた。
  • 大福だいふく稲荷いなり神社じんじゃ - 祭神さいじん大福だいふく稲荷いなり大神だいじん - 1948ねん昭和しょうわ23ねん)に餅飯殿もちいどのまちにあるだい宿所しゅくしょよこ移築いちく

祭事さいじ[編集へんしゅう]

年間ねんかん祭事さいじ一覧いちらん
節分せつぶんまんとうこめ ろう
春日しゅんじつさい ひらき

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

春日大社かすがたいしゃ平安へいあん時代じだい奉納ほうのうされた貴重きちょう刀剣とうけん甲冑かっちゅう美術びじゅつ工芸こうげいひんなどの国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいふくんだ多数たすう文化財ぶんかざい所蔵しょぞうすることから「平安へいあんせいくらいん」と呼称こしょうされている[4]。これらの文化財ぶんかざい一部いちぶは2016ねん10がつ新装しんそう開館かいかんした「春日大社かすがたいしゃこく宝殿ほうでん」(旧称きゅうしょう春日大社かすがたいしゃ宝物殿ほうもつでん)で鑑賞かんしょうすることができる[5][6]

2016ねん平成へいせい28ねんから、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に宝庫ほうこ天井てんじょううらから発見はっけんされた12りの太刀たち順次じゅんじなおはじめた結果けっか複数ふくすう太刀たち国宝こくほう重文じゅうぶんきゅう貴重きちょう文化財ぶんかざいであることが判明はんめいしており、なおされた貴重きちょう太刀たち報道ほうどう発表はっぴょうつづいて国宝こくほう殿どの順次じゅんじ公開こうかいされている。2016ねん12月には、延寿えんじゅ国吉くによしさくの1りと北条ほうじょうむら[よう曖昧あいまい回避かいひ]奉納ほうのうしたとみられる平安へいあんまつから鎌倉かまくら初期しょき無銘むめいの「備前びぜんぶつ」2りが報道陣ほうどうじん公開こうかいされた[7][8]。2018ねん平成へいせい30ねん)1がつには、4番目ばんめなおされたくろ漆山うるしやま金作きんさく太刀だち(くろうるしやまがねづくりたち)が報道陣ほうどうじん公開こうかいされた。この太刀たちは1942ねん重要じゅうよう美術びじゅつひん認定にんていされていたもので[9]研磨けんま結果けっか平安へいあん時代じだい後期こうきの「伯耆ほうき」(こほうき、現在げんざい鳥取とっとりけん製作せいさくされた刀剣とうけん)とみられ、刀身とうしんりのある日本にっぽんがたなとしては最古さいこきゅうあんつなさく可能かのうせいもあるという[10][11]

国宝こくほう[編集へんしゅう]

あかいとよろい竹虎たけとらすずめ金物かなもの
くろ韋威矢筈やはずさつ胴丸どうまる
くろ韋威胴丸どうまる
かごしゅ
建造けんぞうぶつ
  • 本社ほんしゃ 本殿ほんでん 4むねとおるへいうち鳥居とりい瑞垣みずがき
美術びじゅつ工芸こうげいひん
  • 金地きんじ螺鈿らでん毛抜けぬきがた太刀だち
  • 沃懸(いかけじ)獅子ししぶん毛抜けぬきがた太刀だち 中身なかみ無銘むめい
  • 沃懸酢漿かたばみ平文へいぶん(いかけじかたばみひょうもん)兵庫ひょうごくさり太刀だち 中身なかみ無銘むめい
  • 沃懸酢漿かたばみもん兵庫ひょうごくさり太刀だち 中身なかみ無銘むめい
  • きむそうはな押散兵庫ひょうごくさり太刀だち 中身なかみ無銘むめい
  • ひしさくがたな 中身なかみ無銘むめい すぎばこ
  • あかいとよろい かぶとだい袖付そでつけうめうぐいす金物かなもの
  • あかいとよろい かぶとだい袖付そでつけ竹虎たけとらすずめ金物かなもの
  • くろ韋威矢筈やはずさつ胴丸どうまる(くろかわおどしやはずざねどうまる) かぶとだい袖付そでつけ[12]
  • くろ韋威胴丸どうまる かぶとだい袖付そでつけ[13]
  • かごしゅ
  • 本宮もとみや御料ごりょう神宝しんぽうるい明細めいさいこう
  • 若宮わかみや御料ごりょう神宝しんぽうるい明細めいさいこう
  • 鼉太(だだいこ)いちたい[14][15][16]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ
  • 本社ほんしゃ 23むね
    • 中門ちゅうもん稲垣いながき
    • ひがしろう
    • 西にしおよきたろう
    • ねじろう
    • ぬさ殿どの
    • 直会なおらい殿どの
    • うつり殿でん
    • 宝庫ほうこ
    • 廻廊かいろう 5むねみなみ門東もんとうみなみもん慶賀けいがもんあいだ慶賀けいがもん清浄せいじょうもんあいだ清浄せいじょうもん内侍ないしもんあいだ内侍ないしもんきた
    • みなみもん
    • 慶賀けいがもん
    • 清浄せいじょうもん
    • 内侍ないしもん
    • くるましゃ
    • いた殿しんがり
    • かまど殿どの
    • 酒殿さかど
    • いたぞう
    • いち鳥居とりい
  • 摂社せっしゃ若宮わかみや神社じんじゃ 4むね
    • 摂社せっしゃ若宮わかみや神社じんじゃ本殿ほんでん鳥居とりい瑞垣みずがき
    • 摂社せっしゃ若宮わかみや神社じんじゃはいしゃ
    • 摂社せっしゃ若宮わかみや神社じんじゃほそ殿しんがりおよ神楽かぐら殿どの
    • 摂社せっしゃ若宮わかみや神社じんじゃ手水ちょうず
  • きゅう春日大社かすがたいしゃ板倉いたくらえんまど)(奈良ならけん所有しょゆう奈良公園ならこうえんない所在しょざい
美術びじゅつ工芸こうげいひん
  • 木造もくぞう舞楽ぶがくめん 5めんすめらぎひとししんとりひさしおさめ曾利、こん崙八せん(ころばせ))
  • 木造もくぞう舞楽ぶがくめん 7めんおさめ曾利、しんとり3、貴徳たかのり鯉口こいぐちくわろう
  • 亀甲きっこう蒔絵まきえ手箱てばこ
  • 秋草あきくさ蒔絵まきえ手箱てばこ
  • 禽獣きんじゅう葡萄ぶどうきょう 春日かすが金竜きんりゅうしゃ伝来でんらい
  • 神宝しんぽう銅鏡どうきょう くろうるしはちりょうがたきょうばこ)16めん素文そぶんきょう2めん寛弘かんこうはちねんめい)、藤花ふじはなまつくえづるきょう3めんうち1めん一部いちぶ欠損けっそん)、みずはなそうおおとりはちりょうきょう1めん一部いちぶ欠損けっそん)、からはな鴛鴦えんおうはちりょうきょう1めん牡丹ぼたん唐草からくさ尾長鳥おながどりはちりょうきょう8めんうち3めん一部いちぶ欠損けっそん)、たからしょうはな唐草からくさはちりょうきょう残片ざんぺん1めん
  • 竹虎たけとらそうすずめかたきょう
  • 藤花ふじはなまつくえづるきょう
  • きくづくり短刀たんとう
  • 梅花ばいかがわ(かいらぎ)腰刀こしがたな
  • 柏木かしわぎうさぎ(かしわみみずく)短刀たんとう
  • 太刀たち めい備州長船おさふねじゅうじょ えいとおるはちねんがつ
  • にしきつつみ太刀だち 中身なかみめいすけぎょう
  • 金銅かなどうかしわぶん兵庫ひょうごくさり太刀だち 中身なかみめいつぎ
  • 三鈷柄籐巻剣
  • 赤銅しゃくどうづくり太刀だち 友成ともなりさく
  • てつさんじゅうろくあいだ四方しほうしろ(しほうじろ)ほしかぶとはち及鎧金具かなぐうた金物かなもの[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]
  • てつじゅう八間二方白星兜鉢及鎧金具[17]
  • てつじゅう八間四方白星兜鉢及鎧金具(牡丹ぼたん金物かなもの[18]
  • いし燈籠どうろうあいだがた燈籠どうろうげんとおるさんねんめい
  • いし燈籠どうろう柚木ゆうぎ燈籠どうろう
  • らくしょ補任ほにん 2かん
  • らくしょ 5かん高麗こうらいきょくだい詠唱えいしょうがいらく舞楽ぶがく古記こき舞楽ぶがく手記しゅきらく
  • 春日しゅんじつ神社じんじゃ文書ぶんしょ 40かん
  • 大東だいとう文書ぶんしょ(324つう)27かん、240つう[19]
  • すめらぎ年代ねんだい[19]
  • 春日大社かすがたいしゃ神事しんじ日記にっき(512つう)6かん、506さつ[15][20]
柏木かしわぎうさぎ短刀たんとう全体ぜんたい
 
柏木かしわぎうさぎ短刀たんとう

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までに指定してい国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい名称めいしょうは、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

くに指定してい重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

くに特別とくべつ天然記念物てんねんきねんぶつ[編集へんしゅう]

くに天然記念物てんねんきねんぶつ[編集へんしゅう]

  • 春日しゅんじつ神社じんじゃ境内けいだいナギ樹林じゅりん

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 春日大社かすがたいしゃ境内けいだい

くに選択せんたく無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 春日かすが若宮わかみやおんさい芸能げいのう春日かすが古楽こがく保存ほぞんかい

奈良ならけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 春日大社かすがたいしゃ貴賓きひんかんきゅう社務しゃむしょ
  • かみほんちょしょく競馬けいば ろくきょく屏風びょうぶ 1そう
  • 絹本けんぽんちょしょく鹿島かしま立神たてがみかげ 1ぶく
  • 瑠璃るりつり灯籠どうろう 1

奈良なら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • かつらあきら殿どの
  • よんきゃくもん 土塀どべい2むね
  • 絹本けんぽんちょしょく鹿島かしま立神たてがみかげ
  • 春日しゅんじつ権現ごんげんけんだい 6きょく1せき
  • 絵馬えまばん 収納箱しゅうのうばこ 5めん
  • 一刀彫いっとうぼりしろ鹿しか 台座だいざおよたま1個いっこ

奈良なら指定してい有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 春日かすが大宮おおみや若宮わかみや祭礼さいれい板木はんぎ 木製もくせい収納箱しゅうのうばこ
  • 春日かすが若宮わかみや祭礼さいれい松下まつした板木はんぎ

奈良なら天然記念物てんねんきねんぶつ[編集へんしゅう]

  • 春日大社かすがたいしゃ境内けいだいイチイガシ巨樹きょじゅぐん 33かぶ
  • 春日大社かすがたいしゃ境内けいだいのウドカズラ自生じせい 1かしょ
  • 春日大社かすがたいしゃ境内けいだいのナギ巨樹きょじゅ 1かぶ

現地げんち情報じょうほう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

周辺しゅうへん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 春日大社かすがたいしゃ公式こうしきサイト(英語えいごばん)も"Kasugataisha Shrine"と表記ひょうき
  2. ^ 寛政かんせい3ねん(1791ねん)の火災かさいけた甲冑かっちゅう金属きんぞく部分ぶぶんのみがのこったもの。以下いか2けん同様どうよう
  3. ^ かぶと名称めいしょうは、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうでは「てつさんじゅうろくあいだ四方しほう白星しろぼしかぶとばち」であるが、2017ねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「特別とくべつてん 春日大社かすがたいしゃ せんねん至宝しほう」では、「てつじゅうよんあいだ四方しほう白星しろぼしかぶとばち」の名称めいしょう展示てんじされていた。「○○あいだ」とは、かぶと表面ひょうめんの「すじ」(すじ)のかずをかぞえたものであり、「四方しほうしろ」とは、かぶと前後ぜんご左右さゆう4方向ほうこう鍍金めっきぎんいたせたもののである。鍍金めっきぎんいたおおわれた部分ぶぶんの「すじ」のかずをかぞえるかかによって、あいだすうしょうじる。以下いか2けんかぶとについても同様どうようである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず表現ひょうげん検討けんとうかい (2016ねん1がつ6にち公表こうひょう) (PDF). 地名ちめい英語えいご表記ひょうきおよ外国がいこくじんにわかりやすい地図ちず記号きごうについて. 国土こくど地理ちりいん. p. 17. https://www.gsi.go.jp/common/000111876.pdf#page=17 
  2. ^ 家屋かおく倒壊とうかい続出ぞくしゅつ恐怖きょうふつつまれた大阪おおさか大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ11ねん2がつ22にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp204-205 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  3. ^ 春日大社かすがたいしゃ だいろくじゅう 式年しきねんづくりがえ記念きねん 奉祝ほうしゅく行事ぎょうじ実行じっこう委員いいんかい
  4. ^ 春日大社かすがたいしゃ公式こうしきサイトには「国宝こくほう354てん重要じゅうよう文化財ぶんかざい1,482てん」を収蔵しゅうぞうするむね記載きさいがあるが、これは「神宝しんぽうるいとう一括いっかつ指定してい物件ぶっけんいちてんいちてんかぞえた場合ばあい数字すうじである。春日大社かすがたいしゃ所有しょゆう国宝こくほうは、指定していの「件数けんすう」としては建造けんぞうぶつ1けん(4むね)、美術びじゅつ工芸こうげいひん14けんであり(2020ねん現在げんざい)、ほん記事きじの「文化財ぶんかざいふしには春日大社かすがたいしゃ所有しょゆう国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいぜんけんれなく記載きさいされている。
  5. ^ 春日大社かすがたいしゃ こく宝殿ほうでん
  6. ^ 平安へいあんせいくらいん」が国宝こくほう殿どの公開こうかい 奈良なら春日大社かすがたいしゃ 朝日新聞あさひしんぶん 2016ねん9がつ29にち
  7. ^ 春日大社かすがたいしゃ鎌倉かまくら名刀めいとう 延寿えんじゅ国吉くによしさく、さびとし判明はんめい 奈良なら 産経さんけいニュース 2016ねん12月31にち
  8. ^ 春日大社かすがたいしゃ 名刀めいとう3ほんあらたに確認かくにん こく宝殿ほうでん一般いっぱん公開こうかい 奈良なら/奈良なら 毎日新聞まいにちしんぶん 2016ねん12月30にち
  9. ^ 昭和しょうわ17ねん5がつ30にち文部省もんぶしょう告示こくじだい499ごう参照さんしょう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  10. ^ 最古さいこきゅう日本にっぽんがたな、なぜ天井てんじょううらに?春日大社かすがたいしゃ、80ねんまえ発見はっけん 朝日新聞あさひしんぶん 2018ねん1がつ22にち
  11. ^ 春日大社かすがたいしゃ 最古さいこきゅう日本にっぽんがたな伯耆ほうきぶつ平安へいあん時代じだい末期まっき 毎日新聞まいにちしんぶん 2018ねん1がつ23にち
  12. ^ 2013ねん修理しゅうり完了かんりょうした。(参照さんしょう春日大社かすがたいしゃ:楠木くすのき正成まさしげ甲冑かっちゅう修理しゅうりわり公開こうかい毎日新聞まいにちしんぶん2013ねん3がつ29にち
  13. ^ 平成へいせい28ねん8がつ17にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい111ごう
  14. ^ 「鼉」(だ)は、「くち」をよこに2つならべ、そのしたに「」「いち」「黽」。
  15. ^ a b 文化ぶんか審議しんぎかい答申とうしん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の指定していおよ登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい美術びじゅつ工芸こうげいひん)の登録とうろくについて~”. 文化庁ぶんかちょう. 2020ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん
  16. ^ れい2ねん9がつ30にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい116ごう
  17. ^ かぶと名称めいしょうは、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうでは「てつじゅうはちあいだぽう白星しろぼしかぶとばち」であるが、2017ねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「特別とくべつてん 春日大社かすがたいしゃ せんねん至宝しほう」では、「てつじゅうろくあいだぽう白星しろぼしかぶとばち」の名称めいしょう展示てんじされていた。これらの名称めいしょう差異さいについては前項ぜんこう脚注きゃくちゅう参照さんしょう
  18. ^ かぶと名称めいしょうは、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうでは「てつじゅうはちあいだ四方しほう白星しろぼしかぶとばち」であるが、2017ねん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん開催かいさいされた「特別とくべつてん 春日大社かすがたいしゃ せんねん至宝しほう」では、「てつじゅうよんあいだ四方しほう白星しろぼしかぶとばち」の名称めいしょう展示てんじされていた。これらの名称めいしょう差異さいについてはまえこう脚注きゃくちゅう参照さんしょう
  19. ^ a b 平成へいせい28ねん8がつ17にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい116ごう
  20. ^ れい2ねん9がつ30にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい118ごう

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]