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9世紀 せいき のインド北西 ほくせい 部 ぶ 、パーラ朝 あさ で作 つく られた石仏 いしぼとけ ・文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 像 ぞう
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ (もんじゅぼさつ、梵 : mañjuśrī 〈マンジュシュリー〉、梵 : mañjughoṣa [1] 〈マンジュゴーシャ〉、蔵 ぞう : 'jam dpal 〈ジャンペル〉)は、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の崇拝 すうはい の対象 たいしょう である菩薩 ぼさつ の一 いち 尊 みこと 。一般 いっぱん に智慧 ちえ を司 つかさど る仏 ふつ とされる[2] 。その他 た 、非人 ひにん 救済 きゅうさい などの慈善 じぜん 事業 じぎょう を司 つかさど るほか、日本 にっぽん の真言 しんごん 律 りつ 宗 むね では慈母 じぼ 供養 くよう の象徴 しょうちょう としての一 いち 面 めん も重視 じゅうし された。
文殊 もんじゅ は文殊 もんじゅ 師 し 利 り (もんじゅしり)の略称 りゃくしょう 。また妙 みょう 吉祥 きっしょう 菩薩 ぼさつ (みょうきっしょうぼさつ)などともいう。曼殊 まんしゅ 室 しつ 利 り 等 とう とも音 おと 写 うつ し、妙 みょう 徳 とく 菩薩 ぼさつ (みょうとくぼさつ)、妙 みょう 首 くび 菩薩 ぼさつ などとも訳 やく す。文 ぶん 珠 たま 菩薩 ぼさつ とも書 か く。
三昧 ざんまい 耶形 は青 あお 蓮華 れんげ (青 あお い熱帯 ねったい 睡蓮 すいれん の花 はな )、利剣 りけん 、梵篋(椰子 やし の葉 は に書 か かれた経典 きょうてん )など。種 たね 字 じ はマン (मँ maṃ ) 。
西 にし 夏 なつ (1038年 ねん - 1227年 ねん )で描 えが かれた文殊 もんじゅ 像 ぞう 、楡 にれ 林 りん 窟 くつ (中国 ちゅうごく 甘粛 かんせい 省 しょう )
『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 般涅槃経』によると、舎 しゃ 衛 まもる 国 こく の多 た 羅 ら 聚落 しゅうらく の梵徳というバラモン の家 いえ に生 う まれたとされる。また『大智 たいち 度 ど 論 ろん 』によれば、釈迦如来 しゃかにょらい の滅 めつ 度 ど 後 ご に弥勒菩薩 みろくぼさつ と阿 おもね 難 がた と共同 きょうどう して大乗 だいじょう 経典 きょうてん を結集 けっしゅう したとされる[注 ちゅう 1] 。『維摩経 けい 』には、維摩居士 こじ に問答 もんどう でかなう者 もの がいなかった時 とき 、居士 こじ の病床 びょうしょう を釈迦 しゃか の代理 だいり として見舞 みま った文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ のみが対等 たいとう に問答 もんどう を交 まじ えたと記 しる され、智慧 ちえ の菩薩 ぼさつ としての性格 せいかく を際立 きわだ たせている。この教 きょう 説 せつ に基 もと づき、維摩居士 こじ と相対 あいたい した場面 ばめん を表 あらわ した造形 ぞうけい も行 おこな われている。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ が登場 とうじょう するのは初期 しょき の大乗 だいじょう 経典 きょうてん 、特 とく に般若 はんにゃ 経典 きょうてん である。ここでは釈迦 しゃか 仏 ぼとけ に代 かわ って般若 はんにゃ の「空 そら (くう) 」を説 と いている。『華厳経 けごんきょう 』では善 ぜん 財 ざい 童子 どうじ を仏法 ぶっぽう 求道 きゅうどう の旅 たび へ誘 さそ う重要 じゅうよう な役 やく で描 えが かれることなどからもわかるように、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の徳性 とくせい は悟 さと り へ到 いた る重要 じゅうよう な要素 ようそ 、般若 はんにゃ =智慧 ちえ である。尚 なお 、本来 ほんらい 悟 さと りへ到 いた るための智慧 ちえ という側面 そくめん の延長線 えんちょうせん 上 じょう として、一般 いっぱん 的 てき な知恵 ちえ (頭 あたま の良 よ さや知識 ちしき が優 すぐ れること)の象徴 しょうちょう ともなり、これが後 のち に「三 さん 人 にん 寄 よ れば文殊 もんじゅ の智恵 ちえ 」ということわざ を生 う むことになった。
上記 じょうき に対 たい する反論 はんろん
まずはじめに、般若 はんにゃ 経 けい と文殊 もんじゅ との関係 かんけい について一言 いちげん しておきたい。一般 いっぱん には、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ は悟 さと りの智慧 ちえ を現 げん わす菩薩 ぼさつ であると見 み られ、般若 はんにゃ 波羅蜜 はらみつ と密接 みっせつ な関係 かんけい があると見 み られているようである。すなわち文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ は般若 はんにゃ 教徒 きょうと によつて信奉 しんぽう せられ、発 はつ 農 のう せしめられたと考 かんが えられやすい。しかし実際 じっさい には、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ は古 ふる い般若 はんにゃ 経 けい とは関係 かんけい が少 すくな いのである。それゆえ般若 はんにゃ 経 けい の中 なか から、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ が現 あらわ れたとは考 かんが え難 がた い。
大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の興起 こうき と文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 平川 ひらかわ 彰 あきら 引用 いんよう
中国 ちゅうごく の唐 とう 代 だい の僧 そう 、基 もと (法相 ほうしょう 宗 むね )と湛 たたえ 然 しか (天台宗 てんだいしゅう )は、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ は本来 ほんらい 、龍 りゅう 種 しゅ 上 じょう 尊王 そんのう 仏 ぼとけ であったとする。[注 ちゅう 2] [注 ちゅう 3]
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ が、優 ゆう 填 はま 王 おう 、仏陀 ぶっだ 波 は 利 り 三蔵 さんぞう 、善 ぜん 財 ざい 童子 どうじ 、大聖 たいせい 老人 ろうじん (あるいは最 さい 勝 かち 老人 ろうじん =婆 ばば 藪 やぶ )の四 よん 尊 みこと ともに描 えが かれた文殊 もんじゅ 五 ご 尊 みこと 図 ず は、中国 ちゅうごく ・日本 にっぽん などでよく描 えが かれた。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の五 ご 使者 ししゃ として、髻 たぶさ 設 しつらえ 尼 あま 、烏 がらす 波 は 髻 たぶさ 設 しつらえ 尼 あま 、質 しつ 多 た 羅 ら 、地 ち 慧 とし 、請召、が挙 あ げられる。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の八 はち 童子 どうじ として、光 ひかり 綱 つな 、地 ち 慧 とし 、無 む 垢光 あかびかり 、不思議 ふしぎ 、請召、髻 たぶさ 設 しつらえ 尼 あま 、救護 きゅうご 慧 とし 、烏 がらす 波 は 髻 たぶさ 設 しつらえ 尼 あま が挙 あ げられる。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の密 みつ 号 ごう は、吉祥 きっしょう 金剛 こんごう 、あるいは般若 はんにゃ 金剛 こんごう とされる。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ を描 えが いた主 おも な経典 きょうてん には、『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 般涅槃経』、『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 問 とい 経 けい 』、『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 浄 きよし 律 りつ 経 けい 』、『伽耶 かや 山頂 さんちょう 経 けい 』などがある。
また、『文殊 もんじゅ 師 し 利発 りはつ 願 ねがい 経 けい 』、『文殊 もんじゅ 悔過経 けい 』、『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 現 げん 宝蔵 ほうぞう 経 けい 』、『仏説 ぶっせつ 文殊 もんじゅ 師 し 利 り 巡行 じゅんこう 記 き 』、『妙 みょう 吉祥 きっしょう 菩薩 ぼさつ 所 しょ 問 とい 大乗 だいじょう 法 ほう 羅 ら 経 けい 』、『千 せん 鉢 はち 文殊 もんじゅ 一 いち 百 ひゃく 八 はち 名 めい 讃 さん 』、『大聖 たいせい 文殊 もんじゅ 師 し 利 り 菩薩 ぼさつ 讃 さん 仏法 ぶっぽう 身 み 礼 れい 』、『聖者 せいじゃ 文殊 もんじゅ 師 し 利発 りはつ 菩提心 ぼだいしん 願文 がんもん 』、『文殊 もんじゅ 師 し 利 り 菩薩 ぼさつ 無 む 相 しょう 十 じゅう 礼 れい 』、『大聖 たいせい 文殊 もんじゅ 師 し 利 り 菩薩 ぼさつ 仏刹 ぶっさつ 功徳 くどく 荘厳 しょうごん 経 けい 』などがある。
八 はち 字 じ 文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 及 およ び八 はち 大 だい 童子 どうじ 像 ぞう (鎌倉 かまくら 時代 じだい 、MOA美術館 びじゅつかん 蔵 ぞう 、重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )
奈良 なら ・西大寺 さいだいじ 文殊 もんじゅ 五 ご 尊像 そんぞう (侍者 じしゃ は向 む かって左 ひだり から優 ゆう 填 はま 王 おう 、最 さい 勝 かち 老人 ろうじん 、仏陀 ぶっだ 波 は 利 り 、善 ぜん 財 ざい 童子 どうじ )
普賢菩薩 ふげんぼさつ とともに釈迦如来 しゃかにょらい の脇 わき 侍 さむらい となる(参照 さんしょう :釈迦三尊 しゃかさんぞん )ほか、単独 たんどく でも広 ひろ く信仰 しんこう されている。
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 像 ぞう の造形 ぞうけい はほぼ一定 いってい している。獅子 しし の背 せ の蓮華 れんげ 座 ざ に結跏趺坐 けっかふざ し、右手 みぎて に智慧 ちえ を象徴 しょうちょう する利剣 りけん (宝剣 ほうけん )、左手 ひだりて に経典 きょうてん を乗 の せた青 あお 蓮華 れんげ を持 も つ。密教 みっきょう では清浄 せいじょう な精神 せいしん を表 あらわ す童子 どうじ 形 がた となり、髻 たぶさ を結 ゆ う。この髻 たぶさ の数 かず は像 ぞう によって一 いち 、五 ご 、六 ろく 、八 はち の四 よん 種類 しゅるい があり、それぞれ一 いち =増益 ぞうえき 、五 ご =敬愛 けいあい 、六 ろく =調伏 ちょうぶく 、八 はち =息災 そくさい の修法 しゅほう の本尊 ほんぞん とされる。
また、騎 き 獅の文殊 もんじゅ 、先導 せんどう 役 やく の善 ぜん 財 ざい 童子 どうじ 、獅子 しし の手綱 たづな を握 にぎ る優 ゆう 填 はま 王 おう 、仏陀 ぶっだ 波 は 利 り 、最 さい 勝 かち 老人 ろうじん を従 したが える文殊 もんじゅ 五 ご 尊像 そんぞう も造形 ぞうけい された。
また禅宗 ぜんしゅう においては、修行 しゅぎょう 僧 そう の完全 かんぜん な姿 すがた を表 あらわ す「聖 せい 僧 そう 」(しょうそう)として僧堂 そうどう に安置 あんち され、剃髪 ていはつ し坐禅 ざぜん を組 く む僧形 そうぎょう となる。この場合 ばあい 、文殊 もんじゅ 大 だい 士 し (だいし)と呼 よ ぶことがある。[要 よう 出典 しゅってん ]
日本 にっぽん における作例 さくれい としては、奈良 なら の興福寺 こうふくじ 東金 とうがね 堂 どう の坐像 ざぞう (定 てい 慶 けい 作 さく 、国宝 こくほう )や安倍 あべ 文殊 もんじゅ 院 いん の五 ご 尊像 そんぞう (快慶 かいけい 作 さく 、国宝 こくほう )、高知 こうち の竹林 たけばやし 寺 てら の五 ご 尊像 そんぞう (重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )などが見 み られる。
文観 もんかん 房 ぼう 弘 ひろ 真 しん (殊 こと 音 おん )画 が 『絹本 けんぽん 著 ちょ 色 しょく 五 ご 字 じ 文殊 もんじゅ 像 ぞう 』(南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい 、奈良 なら 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう 、重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )
中国 ちゅうごく での受容 じゅよう [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく の娯楽 ごらく 小説 しょうせつ 『封 ふう 神 しん 演義 えんぎ 』には普 ひろし 賢 けん 真人 しんじん 、文殊 もんじゅ 広 こう 法 ほう 天 てん 尊 みこと という仙人 せんにん が登場 とうじょう しており、彼等 かれら が後 のち に仏門 ぶつもん に帰依 きえ しそれぞれ普賢菩薩 ふげんぼさつ 、文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ となったという設定 せってい になっているが、これは後世 こうせい の全 まった くの創作 そうさく である。
中国 ちゅうごく においては、山西 さんせい 省 しょう の五台山 ごだいさん が文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の浄土 じょうど として古 ふる くより広 ひろ く信仰 しんこう を集 あつ めており[6] 、円仁 えんにん によって日本 にっぽん にも伝 つた えられている。
また中国 ちゅうごく 天台宗 てんだいしゅう 系 けい の史書 ししょ である『仏祖 ぶっそ 統 すべ 紀 き 』巻 まき 29には、「文殊 もんじゅ は今 いま 、終 おわり 南山 なんざん に住 す み給 きゅう えり。杜 もり 順 じゅん 和上 わじょう はこれなり」と、中国 ちゅうごく 華厳宗 けごんしゅう の祖 そ である杜 もり 順 じゅん を文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の生 う まれ変 か わりであるとしている。
清 きよし の皇帝 こうてい はチベット からは文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の化身 けしん と見 み なされていた(→詳細 しょうさい は文殊 もんじゅ 皇帝 こうてい を参照 さんしょう )。
日本 にっぽん での受容 じゅよう [ 編集 へんしゅう ]
文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 立像 りつぞう 、13世紀 せいき 、鎌倉 かまくら 時代 ときよ 、東京 とうきょう 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう
平安 へいあん 時代 じだい 初期 しょき に、勤 つとむ 操 みさお や泰 たい 善 ぜん らの僧侶 そうりょ が文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ の法要 ほうよう と貧者 ひんじゃ や病者 びょうしゃ のための施 ほどこ しを行 おこな う「文殊 もんじゅ 会 かい 」を始 はじ め、最初 さいしょ は私的 してき な催 もよお しだったものが、朝廷 ちょうてい の援助 えんじょ を得 え るようになり、828年 ねん 7月 がつ 、太政官 だじょうかん 符 ふ によって文殊 もんじゅ 会 かい を行 おこな うようになった。
毎年 まいとし 七 なな 月 がつ 八 はち 日 にち 、朝廷 ちょうてい が一定 いってい の税収 ぜいしゅう から文殊 もんじゅ 会 かい の費用 ひよう を拠出 きょしゅつ し、東寺 とうじ ・西寺 にしてら を中心 ちゅうしん に盛 さか んに行 おこな われ、貧者 ひんじゃ や病者 びょうしゃ に対 たい する布施 ふせ が盛 さか んになされた。
このことは、日本 にっぽん の福祉 ふくし の歴史 れきし においても重要 じゅうよう な一幕 ひとまく と言 い えるが、律令 りつりょう 国家 こっか の没落 ぼつらく とともに文殊 もんじゅ 会 かい も衰退 すいたい し、やがて行 おこな われなくなった。
それを鎌倉 かまくら 時代 じだい に復興 ふっこう したのが、西大寺 さいだいじ の叡尊 えいそん ・忍性 にんしょう らであった。
鎌倉 かまくら 時代 じだい 、真言 しんごん 律 りつ 宗 むね の僧 そう 叡尊 えいぞん (興 きょう 正 せい 菩薩 ぼさつ 、開祖 かいそ )・忍性 にんしょう (忍性 にんしょう 菩薩 ぼさつ 、ハンセン病 はんせんびょう 患者 かんじゃ らの救済 きゅうさい に尽力 じんりょく )・文観 もんかん 房 ぼう 殊 こと 音 おん (文観 もんかん 上人 しょうにん 、後醍醐天皇 ごだいごてんのう の護持 ごじ 僧 そう )らは深 ふか く文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ に帰依 きえ し、1240年 ねん 以後 いご 、各地 かくち で文殊 もんじゅ 供養 くよう と大 だい 規模 きぼ な非人 ひにん 布施 ふせ を行 おこな った。
1976年 ねん 、上田 うえだ さち子 こ によって、真言 しんごん 律 りつ 宗 むね の文殊 もんじゅ 信仰 しんこう には、非人 ひにん 布施 ふせ だけではなく、追善 ついぜん 供養 くよう の側面 そくめん があることが指摘 してき された。1987年 ねん に、金子 かねこ 啓明 ひろあき は、忍性 にんしょう の亡 ほろび 母 はは 供養 くよう と文殊 もんじゅ 信仰 しんこう に師 し である叡尊 えいぞん の側 がわ が動 うご かされて亡 ほろび 母 はは 供養 くよう としての文殊 もんじゅ 受容 じゅよう が広 ひろ まったことを指摘 してき し、その後 ご 、河原 かわはら 由雄 よしお もこれを追認 ついにん した。これらを受 う けて、悲母 ひぼ 供養 くよう としての文殊 もんじゅ 信仰 しんこう に最 もっと も詳細 しょうさい な研究 けんきゅう を行 おこな ったのが内田 うちだ 啓一 けいいち で、『金 きむ 剛 つよし 仏子 ぶっし 叡尊 えいぞん 感 かん 身 み 学 がく 正記 まさき 』(叡尊 えいぞん の自伝 じでん )・「般若寺 はんにゃじ 文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 造立 ぞうりゅう 願文 がんもん 」などの文献 ぶんけん を精査 せいさ し、さらにその理論 りろん 的 てき 核心 かくしん に『大 だい 乗本 のりもと 生 せい 心地 ここち 観 かん 経 けい 』の報恩 ほうおん 思想 しそう があることを指摘 してき した。
真言 しんごん 律 りつ 宗 むね の文殊 もんじゅ 信仰 しんこう に基 もと づき、叡尊 えいそん ・忍性 にんしょう ・文観 もんかん らの監修 かんしゅう によって多 おお くの文殊 もんじゅ 菩薩 ぼさつ 作品 さくひん が作 つく られた。文観 もんかん はまた画 が 僧 そう としても複数 ふくすう の文殊 もんじゅ 画像 がぞう の自筆 じひつ の作例 さくれい を残 のこ したが、それらには亡 ほろび 母 はは への追善 ついぜん の意図 いと があることが明記 めいき されており、前節 ぜんせつ の報恩 ほうおん 思想 しそう に基 もと づく亡 ほろび 母 はは 供養 くよう の流 なが れを組 く むことが、内田 うちだ によって指摘 してき されている。文観 もんかん の文殊 もんじゅ 画像 がぞう の代表 だいひょう 作 さく には、『絹本 けんぽん 著 ちょ 色 しょく 五 ご 字 じ 文殊 もんじゅ 像 ぞう 』(奈良 なら 国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう 、重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )などがある。
オン・アラハシャノウ[12]
oṃ arapacana [dhīḥ]
^ 「復 ふく 次 じ ,有人 ゆうじん 言 ごと :如摩訶迦葉 ば 將 はた 諸 しょ 比丘 びく 在 ざい 耆闍崛山中 さんちゅう 集 しゅう 三藏 さんぞう ,佛滅 ぶつめつ 度 ど 後 ご ,文殊 もんじゅ 尸 しかばね 利 り 、彌勒 みろく 諸 しょ 大 だい 菩薩 ぼさつ 亦 また 將 はた 阿 おもね 難 なん 集 しゅう 是 ぜ 摩 ま 訶衍。」[3]
^ 「経 けい 云 うん 文殊 もんじゅ 師 し 利 り 法 ほう 王子 おうじ 阿 おもね 逸 いっ 多 た 菩薩 ぼさつ 賛 さん 曰(…)又 また 云 うん 過去 かこ 為 ため 龍 りゅう 種 しゅ 上 じょう 尊王 そんのう 佛 ふつ 華嚴經 けごんきょう 説 せつ 在 ざい 此淸涼 せいりょう 五臺山與一萬菩薩倶法王子者」(『阿弥陀 あみだ 経 けい 通 どおり 賛 さん 疏』巻 まき 上 のぼる )[5]
^ 「文殊 もんじゅ 本 ほん 是 ぜ 龍 りゅう 種 しゅ 上 じょう 尊王 そんのう 佛 ぼとけ 。」(『法華 ほっけ 文句 もんく 記 き 』)
基本 きほん 教義 きょうぎ 人物 じんぶつ 世界 せかい 観 かん 重要 じゅうよう な概念 がいねん 解脱 げだつ への道 みち 信仰 しんこう 対象 たいしょう 分類 ぶんるい /宗派 しゅうは 地域 ちいき 別 べつ 仏教 ぶっきょう 聖典 せいてん 聖地 せいち 歴史 れきし 美術 びじゅつ ・音楽 おんがく